2024年5月10日金曜日

廓(くるわ)

東京芸大美術館の「大吉原展」を見てきました。二つ、失敗してしまいました。一つは、いつもなら空いている休日の閉館前をねらって行ったのですが、大混雑だったこと。そして、小ぶりな美術館ゆえ1時間もあればお釣りがくるだろうと思っていたのですが、時間が足りなくなったことです。かなり気合いの入った展覧会でした。まずは、国内外からいい作品を集めていました。そして、それ以上に、単なる絵画展を超えて、吉原の全貌を伝えようとする企画になっていました。吉原をテーマとする展覧会は多くあっても、ここまで徹底した企画はなかったと思います。ただ、それだけに、展示の窮屈さと混雑の両面から、芸大美術館という箱の小ぶりさが仇になった印象は拭えません。

展示は、浮世絵が中心ですが、書籍、図版、道具類、再現人形、街のミニチュア、絵画を拡大した映像、CGと、実に立体的に吉原を浮かび上がらせようとしていました。第三会場は、キュレーターの仕事というよりも東京江戸博物館の展示のように見えました。吉原という浮世離れした街、独特な文化的成熟を遂げた街ならではの展示です。売春は最も古い商売の一つと言われます。売春婦には、公的な営業認可を受けた公娼とそれ以外の私娼があります。吉原は、江戸幕府公認のもとに商売を行う公娼街です。公娼の歴史も古く、古代ギリシャには既に存在していたようです。日本における公娼は、文献上、鎌倉時代が初出とされます。秀吉が公娼制度を広めたとも言われます。当時、全国に300以上の公娼街があったようです。

吉原遊廓は、江戸初期、日本橋葺屋町、現在の人形町あたりに幕府公認の遊廓として誕生します。そもそもは駿府城下にあった公娼街を移転したものでした。江戸の街の拡大とともに、浅草寺の北、日本堤に移転させられ、塀や濠と門で囲われます。東京ドームの1.5倍の敷地に大小の店が並び、数千人の遊女がいたとされます。江戸最大の歓楽街であり、中央にある仲の町では、様々な催しも開かれ、春には期間限定で桜の木を移植したといいます。まさにテーマ・パークです。当初の客は武士層でしたが、台頭してきた商人層にとって替わられたようです。ちなみに、最上級の遊女ともなれば、一晩遊ぶ費用の総額は数百万円を超えたと言われます。

高級遊女たちは映画スター並みに扱われます。その衣装や教養は、江戸の文化や流行の発信源でもあったようです。浮世絵に描かれたのは、まさに彼女たちでした。歌麿、写楽などの浮世絵で知られる蔦屋重三郎はじめ、版元たちが吉原のマーケティングを担っていたとも言えます。名を残すほどの遊女たちもいました。なかでも、高尾太夫という名跡は吉原の最高峰とされ、落籍されて大名の側室になったものや、物語や落語の題材になったものもいます。吉原の遊女たちは、江戸の庶民文化のミューズであり続けたわけです。西欧から見れば、日本の性に対するおおらかさは、不可思議に見えたようです。不平等条約解消に向けて西欧化を急いだ明治政府によって、その特色はキリスト教的道徳観にとって替わられることになりました。

廓という漢字は土塁を表すようです。吉原は、道徳的観点から隔離されたのではありません。遊女たちの逃亡を妨げることが目的でした。人身売買の犠牲となり、奴隷的な性労働を強要された遊女たちは、逃亡を図るために、しばしば放火まで行っています。現代の世界においては売春の合法化が進んでおり、明確な禁止法を持っているのは日本とアメリカくらいだと言われます。その両国にあっても、積極的な取締は行われていません。しかし、人身売買、奴隷労働は、まったく別な話であり、世界中のどこであっても重大な犯罪です。明治5年、不平等条約撤廃を目指す明治政府は、西欧的価値観に沿って人身売買を禁じました。ただ、吉原の実体は、昭和33年の売春禁止法まで大きく変わることはなかったようです。(写真:高橋由一「花魁」出典:bunka.nii.ac.jp)

マクア渓谷