2024年12月31日火曜日

「小学校~それは小さな社会~」

監督:山崎エマ      2024年日本・アメリカ・フィンランド・フランス 

☆☆☆

東京の公立小学校を1年間密着取材したドキュメンタリーです。興味のあるテーマであり、海外で注目されているというので、観に行きました。年末の平日ですが、大混雑でした。小学校の先生たちが多く来ているような気がしました。映画は、1年生と6年生、その担任の先生たちにフォーカスしています。子供たちの成長や先生たちのご苦労は、見ていて飽きないものがありました。そういう意味では確かな腕前を持った監督なのだと思います。ただ、せっかく面白いところに目を付けたにも関わらず、ジャーナリスティックな視点が弱く、インパクトに欠ける印象を持ちました。

”それは小さな社会”というサブ・タイトルが示すとおり、日本の小学校教育は、良き社会の一員を育てることが目的化されています。日本の社会の特徴である組織主義が背景にあるものと思われます。監督は、そのことに違和感、あるいは疑問を持っているのでしょうが、映画としては中立的な視点を保とうとしているように見えます。そこがこの映画の甘さにつながっています。欧米の観客にとって、日本の小学校の日常は、その徹底された組織主義ゆえに奇異なものとして映るかもしれません。しかし、日本人にとっては、ありふれた光景にしか見えません。海外での公開が主なねらいだったのかもしれません。日本での上映に限って言えば、フランスの小学校と対比させるなどしたら、かなり面白くなったのではないかと思います。

世界中の小学校は、子供たちが社会で独立していくための初期的な教育を行っているものと考えます。海外の小学校事情を知っているわけではありませんが、アメリカの小学校に関しては、娘が通ったので多少の見聞を持っています。日本の小学校は、擬似的な社会を体験させることで、社会の一員としての訓練を施しているように見えます。対して、アメリカの場合、競争の場である社会で生き抜くための知恵を伝授しているように思えます。その基本的な教育スタンスは、個人、あるいは個性を鍛えることにあるのではないかと思います。つまり、組織ありきか個人ありきかの違いなのでしょう。もっとも日本の教育基本法においても、各個人の有する能力を伸ばすことが教育目的として掲げられてはいます。

日米、いずれの小学校教育が優れているかという問いは無意味だと思います。寄って立つところの社会のあり方が異なるからです。日本式の型にはめるような教育スタイルは、社会がゆるぎない体制を維持している場合、あるいは社会の目指すものが明確な場合には極めて有効だったと思います。富国強兵、軍国主義、そして戦後復興、高度成長といった時代には、大いに効果的だったと言えます。ただ、変化が大きい時代を迎えると、対応力に欠けるという弱点が露呈することになります。バブル崩壊後の空白の30年は、政治の責任が大きかったものと考えますが、教育システムの弱さも影響しているのかもしれません。もっとも、日本の社会の目指すところが明らかではないことこそが最大の問題なのではありますが。

余談ですが、小学校6年生のおり、函館への一泊二日の修学旅行に行きました。函館のバスガイドさんが、どこの学校かと聞くので、皆で元気よく校名を伝えました。すると、ガイドさんは、ああ、青森の学習院と呼ばれているあの有名校ね、と言っていました。そうか、我が校は青森の学習院なのか、と喜んでしまいました。しかし、ほどなく、あのガイドさんは、どこの学校にも同じように言っているのだろうと気づきました。残念ながら、学習院ではなかったものの、学区が官舎や社宅の多い住宅街だったので、クラスの3割くらいは東京や仙台からの転校生が占めていました。今思えば、東京の言葉を話す生徒たちの存在は、とても良い刺激になっていたものと思います。型にはめるばかりが学校教育ではないということです。(写真出典:eiga.com)

2024年12月29日日曜日

仙臺四郎

高校三年の夏休みは、大学受験に向け、予備校の夏期セミナーに参加することがブームになりました。これは東京で遊べる絶好のチャンスだと思い、真面目な顔でセミナーに行かせてくれと親に頼みました。子供のねらいを見抜いたのか、父親は、仙台の伯母の家に下宿して通うなら、という条件付で許可してくれました。ということで監視付ながら、一夏を仙台で過ごしました。予備校の授業など一切受講せず、毎日、友人とジャズ喫茶を巡り、一番町でランチを食べ歩きました。町をふらふらしながらも、毎日1冊の文庫本を読んだので、なかなかに充実した1ヶ月になりました。その際、仙台の商店や飲食店に実に奇妙な人物の絵や人形があることに気がつきました。

福の神・仙臺四郎です。仙臺四郎は、不明な点も多いものの、江戸末期から明治期の仙台に実在した人です。鉄砲鍛冶の家に生まれた四郎は、生まれつき、あるいは幼少期の事故に起因するとも言われる知的障害があり、ほとんど話すことができなかったようです。仙臺四郎という名前で知られるようになったのは死後のことであり、生前はシロバカ(四郎馬鹿)と呼ばれていたようです。障害があるとはいえ、いつもニコニコとして穏やかな性格の四郎は、町の人々に愛されていたようです。毎日、町をふらふらしていたようですが、不思議なことに四郎が寄った店は必ず繁盛するという噂が立ち始めます。中国の故事に言う市虎三伝そのものです。町に虎が出たと一人が言っても信じてもらえず、三人が言えば真実として伝わるというわけです。

東北本線が開通すると、鉄道が気に入った四郎は、よく乗車していたものだそうです。お金を持っていませんから、切符代は人に恵んでもらうか、駅員が無賃乗車させていたようです。四郎は、47歳のおり、須賀川で亡くなったとされますが、詳細は不明であり、墓の所在も不明なままです。恐らく鉄道好きの四郎は、他人に買ってもらった切符で須賀川まで乗車し、そこで行き倒れたのではないでしょうか。これが仙台の町でのことなら死ぬこともなかったのでしょうが、四郎を知る人のいない町ではやむを得なかったのかもしれません。死後も、目撃談は絶えず、釜山で暮らしているという新聞記事まで出たそうです。四郎が、いかに仙台の人々に愛されていたかという話でもあります。

四郎の写真が一枚だけ写真館に残っており、大正期に”明治福の神仙臺四郎君”として絵葉書になると大変な人気を博したようです。第一次大戦終結後の不況期、藁にもすがる思いで町の福の神が担ぎ出されたのでしょう。この絵葉書が、今に続く福の神仙臺四郎伝説が広まるきっかけになったものと思われます。思うに、商売繁盛は四郎の特殊能力というよりも、四郎を温かく受け入れるような店は、他の客にも同様の応接をしていたからこそ繁昌したということなのでしょう。四郎は、福の神というよりはエンジェルがごとく、仙台の人々の優しさを引き出していった存在だったのではないかと思われます。いずれにしても、障害がゆえに町にやさしい奇跡をもたらした人だったと言えるのでしょう。

岡本かの子の短編「みちのく」には、四郎馬鹿と彼が恋した呉服屋の娘が描かれています。もちろんフィクションです。とても短い作品ですが、えもいわれぬ情感を残す名作だと思います。短編の名手にかかると、仙臺四郎が眼前に浮かび上がるかのようです。呉服屋の娘は、恐らく仙台の町の人々のメタファーなのだろうと思います。不況期になると、仙台では必ず仙臺四郎ブームが起こると聞きます。商売繁盛をもたらす福の神としては当然のことなのでしょう。しかし、身勝手な神頼みよりも、仙台の人たちには、四郎の純粋さや心根の優しさを誇ってもらいたいものだと思います。ひょっとすると、岡本かの子も同じように思ったのかもしれません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年12月27日金曜日

「夜の王たち」

監督:フィリップ・ラコート  2020年コートジボワール・フランス・カナダ・セネガル

☆☆☆+

アフリカ有数の国際都市アビジャンを擁するコートジボワールは、大西洋に面したアフリカの国です。映画は、コートジボワールの刑務所における一夜を描いたファンタジーです。刑務所には絶対的なボスが存在しますが、体が弱ったら自ら命を絶つという厳しいルールがあります。また、ロマンという語り部に指名された囚人は、赤い月が昇った夜、朝まで物語を語り続けなければ殺されるというルールもあります。ボスが自殺を決意するまでの葛藤、そしてロマンが語るザマ・キングという名のギャングの生涯、この二人の王に関わるストーリーが赤い月のもとで同時進行します。

アラビアン・ナイト的で魅力的なプロットだと思います。基本的にドラマは、刑務所の中庭だけで展開されますが、ザマ・キングの物語は海岸やゲットーで展開され、映画に広がりを与えています。ロマンの物語に聞き入る囚人たちは時に歌い踊りだすというミュージカル的な演出も行われます。挿入される短い歌と踊りは実にアフリカ的で、かつ自然に展開され、映画を魅力的なものにしています。また、ザマ・キングの物語に登場する女王、そして女王とその弟の戦いのシーンは、エキゾチックなだけでなく、コートジボワールの歴史も感じさせ、興味深い映像となっています。総じて言えば、監督は、映画の文法に精通しているだけでなく、コートジボワール映画としてのアピール・ポイントもよく心得ているように思います。

コートジボワールとは、フランス語で象牙の海岸を意味します。かつて日本では、国名を象牙海岸と表記していましたが、コートジボワール政府の要請に基づき改称しています。15世紀には、欧州の商船が、象牙と奴隷を求めて来港しています。17世紀には、フランスの進出が始まり、結果、フランスの植民地となります。1960年には、独立を果たし、安定的な政治情勢のもと、カカオ、石油、木材の輸出をもとに驚異的とも言える経済成長を遂げています。ただ、国名も公用語も、いまだにフランス語になっているのは、多民族、多言語国家ゆえと思われます。本作も、フランス語とジュラ語で制作されています。ジュラ語は、西アフリカの商人言葉が起源であり、コートジボワールでは6割の人が話すようです。

ウフェ=ボワニ大統領のもと安定的だった政治は、大統領の死とともに混乱期に入っています。1999年の軍事クーデターに始まり、内戦が続き、旧宗主国フランスの介入も招きます。現在は、ワタラ大統領のもと、安定的な状態を保っているようです。こうした歴史が、二人の王には反映されているのでしょう。ボスの後釜をねらって起こった喧嘩のなかで、ボスの座をねらう囚人は看守によって射殺されます。これは内乱に対するフランスの介入を暗示しているものと思われます。一方、ザマ・キングは、女王の側近の子であったことを背景にのし上がりますが、大衆の怒りをかい、大衆に殺されます。夜が明ける前に殺されそうになったロマンは、ザマ・キングは捨て子だったという話を語ることで生き延びます。

刑務所のボスに関わるストーリーは政治の上部構造を語り、ザマ・キングの話は国民大衆を象徴しているのでしょう。ザマ・キングが捨て子だったというオチは示唆的です。コートジボワールの政治状況を理解していない我々にとって、深く理解することは困難なのかもしれません。ただ、民主主義、あるいは民族主義を象徴していのではないかと思われます。いずれにしても、良く出来たプロット、エキゾティックなテイスト、巧みな演出が印象に残る映画でした。アフリカでは、ナイジェリアが映画大国として知られ、その映画産業はノリウッドと呼ばれます。ノリウッドは、近隣の西アフリカ諸国にも大きな影響を及ぼしているということかもしれません。(写真出典:imdb.com)

2024年12月25日水曜日

ローストビーフ

箱根が好きで、年に2回くらいは貸別荘を借りて出かけています。箱根は、富士山を初めとする景観の美しさ、体が温まる温泉、別荘地ならではの美術館や美味いものとお楽しみが満載です。東名高速を使って車で行くと、御殿場から入ることになります。JAのファーマーズ御殿場の農産品、御殿場ハムの焼豚、鈴廣の御殿場店などで買い物して、貸別荘へ向かいます。帰りにはアウトレットにも寄ります。ここのところ、小涌谷周辺の貸別荘を借りることが多く、宮ノ下の富士屋ホテルのピコットに寄って美味しいパンも調達します。しかし、箱根での最大級のお楽しみの一つは、仙石原の相原精肉店のロースト・ビーフということになります。

とりわけ、国産牛を使った”紋次郎”は最強のロースト・ビーフだと思っています。なぜ相原精肉店のロースト・ビーフが美味しいのかはよく分かりません。最上級の肉を使っているのでしょうが、それであれば他の高級ロースト・ビーフでも同じはずです。ところが、明らかに他とは異なる美味しさがあります。塩やにんにくの揉み込みがいい塩梅なのか、火の入れ方が絶妙なのか、あるいは熟成に何か秘訣があるのか、よく分かりません。今年の春、改装してこざっぱりとした店になりましたが、以前は下世話な町の精肉店そのものでした。相原精肉店のロースト・ビーフは、仙石原の別荘文化が生み出した傑作ということなのでしょう。

英国生まれのロースト・ビーフは、不味いと言われがちな英国料理のなかで、ほぼ唯一輝いている名品と言えます。英国では、サンデーローストと呼ばれ、日曜日の午後に食べる習慣があるようです。塩・胡椒をすり込み表面を焼いた牛肉の塊を、オーブンでじっくり焼き上げます。寝かせて肉汁を落ち着かせてから、薄くスライスして食べます。簡単と言えば簡単な料理ですが、時間がかかること、火入れが難しいことでも知られます。近年、日本の家庭では湯煎して作るレシピが一般的になっています。使う牛肉は、もも肉や肩肉の塊が多いようです。英国の伝統的な付け合わせとしては、ヨークシャー・プディング、ホース・ラディッシュ、グレイビー・ソースがよく知られています。

アメリカのビーフ・ステーキと言えば、サーロインとフィレ、両方の肉が楽しめるTボーン・ステーキが最上とされます。個人的に大好きなのはロースト・プライム・リブです。残念ながら、東京で真っ当なロースト・プライム・リブを食べられる店は、LA本店のロウリーズくらいのものです。よくロースト・ビーフとの違いを聞かれますが、基本的には使う肉の違い、そして厚切りで食べることだと思います。プライム・リブとは、あばら肉の中央部分を指します。脂肪分が多いので、ローストすると旨味としっとりとした食感が楽しめます。ロウリーズでは、ワゴン・サービスで好みの焼き加減とサイズを選べますが、1パウンド、少なくとも300g以上の塊で食べてこそ、ロースト・プライム・リブだと思います。

実は、NYで、ロースト・プライム・リブを知ってからは、どうも英国式のロースト・ビーフは物足りない感じがして、好んでは食べていませんでした。ただ、相原精肉店のロースト・ビーフだけは別物です。ところで、アメリカ伝統のフワフワとしたポップオーバーも大好物です。ポップオーバーは、ジャムや蜂蜜をかけて食べます。家でも何度か挑戦しましたが、なかなかうまく膨らみませんでした。ポップオーバーのルーツは、英国のヨークシャー・プディングなのだそうです。ロウリーズでは、サイド・ディッシュとして、ポップオーバーではなく、英国式にヨークシャー・プディングが供され、米国式のさらりとしたグレイビー・ソース、オージュをかけて食べます。(写真出典:hacooda.com)

2024年12月23日月曜日

本能寺

明智光秀
歴史系の雑誌やサイトが、日本史における最大の謎は何か、というアンケートを行うと、第1位は、必ず本能寺の変になるのだそうです。戦国時代が終わるきっかけとなった大事件ではありますが、未だに明智光秀が信長を本能寺に襲った理由が分かっていないことが最大の謎だということなのでしょう。しかし、本能寺の変が票を集める最大の理由は、信長人気にあるようにも思えます。ところで、研究も仮説も多い光秀の動機ですが、学界においては、さほど重視されていないようです。歴史学的には、秀吉の日本再統一こそが重要であり、そのきっかけの一つとなった本能寺の変、とりわけ光秀の動機など些事に過ぎないということなのでしょう。

光秀の動機としては、信長に替わり天下を取りたかったという野望説、信長の度重なるいじめにキレたという私憤説、長宗我部を巡る信長の横暴を許しがたかったという義憤説が一般的です。他にも、黒幕が存在したという説、本能寺を襲ったのは光秀ではないという説まで存在します。いずれも歴史的裏付けがなく、仮説・空説の域を出るものではありません。多くは、出版と大衆芸能が盛んになった江戸期の創作によるものとされています。光秀の動機が不明のままである最大の要因は、光秀の早すぎる死だったのでしょう。直前まで自らの将兵にすら本能寺襲撃を秘匿し、信長討伐後の体制作りに着手することもなく、わずか10日あまりで死んでいます。いわゆる三日天下だったわけです。結果、唐突感だけが残りました。

唐突な行動に見えるので、私憤説が有力視されるのでしょう。しかし、本能寺襲撃が絶妙なタイミングであったことも含め、光秀の頭の中には綿密な計画があったのかも知れません。しかし、計画があったとしても、少なくとも2つの大きな誤算が生じ、シナリオが狂うわけです。まず一つ目は、光秀が信長の首を確保できなかったことです。信長の首どころか遺体も発見されない状況では、信長の死が疑われて当然です。光秀勢への参加を求められても、大名たちは躊躇することになります。完全に焼失した本能寺とともに信長の遺体も燃え尽きたのでしょうが、信長の墓のある阿弥陀寺縁起によれば、敵に遺体を渡さぬよう荼毘に付せと命じたのは信長本人だったようです。信長の政治センスの高さとも思えますが、戦国武将の常識だったのかもしれません。

今一つの誤算は、秀吉の中国大返しです。備中高松城を水攻め中だった秀吉が、本能寺の変を知ったのが翌日の6月3日夜だったようです。光秀が毛利に送った使者を捕まえて密書を入手したため、あるいは日頃から秀吉が関西に配置していた間者の知らせとも言われます。秀吉は、信長の死を陣内にも毛利方にも隠したまま、和議交渉をまとめ、6日には姫路への撤退を開始したようです。12日には、摂津富田(現高槻市)に2万の兵をもって布陣しています。その驚異的な行軍速度以上に注目すべきは、秀吉が展開した情報戦だと思います。まずは、信長は生きていると発信することで、大名たちが光秀側につくことを阻止し、その後、弔い合戦を呼びかけ、かつその先頭に立つことで、ポスト信長体制における優位な立場を確保していきます。

織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川、という江戸期の戯れ歌があります。名古屋では、愛知県出身の信長、秀吉、家康の3人を三英傑と呼び、毎年、三英傑祭りも行われています。ちなみに三英傑という言葉は、名古屋に赴任して初めて知りました。そのことを名古屋の人に伝えると、あり得ないと憤慨されました。三英傑の共通点は、軍事の才能というよりも、図抜けた政治力、あるいは政治的センスの良さなのだと思います。政治力とは、人の心を読んで操る技と言うこともできると思います。光秀は、極めて頭脳明晰で優秀な人だったとされます。信長配下で登り詰めたことからしても理解できる話です。しかし、光秀の政治力が三英傑にははるかに及ばなかったことも間違いないように思えます。(写真出典:yomiuri.co.jp)

2024年12月21日土曜日

「ピアルギ」

監督: イヴォ・トライコフ   2022年スロバキア・北マケドニア・チェコ

☆☆+

様々なスパイスを入れすぎて味がぼやけてしまったスープのような映画でした。第二次世界大戦前夜、スロバキアの寒村、横暴な家父長に振り回される家族と、素材的には魅力的なものがあります。にも関わらず、フェミニズムに加え、宗教、オカルト、人種差別、政治あるいは民族の状況といった要素を中途半端に入れ込んだ結果、フォーカスもメッセージ性も大いに失われています。制作を主導すべき人間が多すぎたのか、あるいはプロットや演出を長時間温めすぎたのでしょうか。例えば、タル・ベーラ風に、覚悟を決め、腰を据えてじっくりと撮れば、かなり面白い映画になっていたのではないかと思います。実に残念な映画でした。

主人公となる女性のキャラクター設定も理解できない面があります。主人公の家族は評判が悪く、父母は不在、姉は娼婦という背景から、義父の性的暴力の対象になりやすかったという流れは理解できます。ただ、主人公の顔立ちや行動に近代性をにじませている点が理解不能でした。主人公の内面や抵抗の意志を象徴したかったのだとすれば、まったく中途半端な表現になっていると言えます。この点が、フェミニズム映画としての完成度を著しく阻害しているように思えました。また、主人公と義父との関係、コミュニティとの関係を正面に据えて、じっくり深掘りしてドラマを構成する自信がなかったので、政治やオカルトや雪崩を繰り出したのではないか、とも思えてきます。

アンチ・キリストの誕生を訴えた主人公の友人の扱い、そして教会の対応は、恐らく当時のスロバキアの政治状況を暗示しているのでしょう。通りにはナチ親衛隊もどきが闊歩し、いたるところにヨゼフ・ティソのポスターが貼られています。ヨゼフ・ティソは、聖職者ながら、首相・大統領として親ナチス政治を展開した人です。1939~1945年まで存在したスロバキア共和国は、ナチスの傀儡国家として、第二次大戦を戦い、ホロコーストに手を貸し、戦後は国家として無効という宣告をされています。興味深い歴史ではありますが、メイン・プロットとの関わりが薄く、これまた意味不明と言わざるを得ません。もし、ナチに支配された歴史、あるいはハンガリーに支配されてきた民族の歴史がテーマだとすれば、実に中途半端な脚本だと言えます。

本作が、初めて観たスロバキア映画でした。スロバキアとは”スラブ人の土地”という意味だそうです。永らくハンガリー王国、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあり、チェコと合併する形で独立したのは第1次世界大戦後のことでした。我々にとってチェコスロバキアは、聞き慣れた国名でした。第2次世界大戦後、ソヴィエトの衛星国家となりますが、1989年のビロード革命で民主化、そして1993年、チェコと分離独立しています。比較的新しい東欧の小国であり、あまり馴染みがない国と言えます。540万人という人口は兵庫県と同じくらいになります。映画制作が産業として成り立つためには、かなり厳しい規模だと言えます。それだけに、1本1本の映画の制作に込める思いは強いのだろうと思います。本作は、それが強すぎたのではないかと思います。(写真出典:imdb.com)

2024年12月19日木曜日

高菜めし

阿蘇でのドライブ旅行の際、昼食として高菜めしを初めて食べました。元祖高菜めしという看板を掲げた「あそ路」という有名店でした。高菜めしに、だご汁やホルモンの味噌煮込みまで付いた定食を食べました。量が多すぎると思ったのですが、高菜めしが美味しくて止まらなくなりました。高菜も高菜漬けも阿蘇の名物であり、今回も辛子高菜をお土産に買うことを楽しみにしていました。高菜好きではありますが、高菜めしは初めてでした。高菜の古漬けを炒めて、温かいご飯に混ぜただけのものですが、高菜のうま味や酸味がいい具合にご飯に染みて食が進みました。福岡の友人によれば、九州の家庭では高菜めし、あるいは高菜チャーハンを食べない週はないとのこと。まさにソウル・フードというわけです。

高菜は中央アジア原産のアブラナ科の植物です。日本には中国から入ってきましたが、既に平安時代の文献にも登場しているようです。本格的な栽培が始まったのは明治以降のことで、主に福岡、山形、和歌山で栽培されていたようです。今回、初めて知ったのですが、山形の青菜(せいさい)漬けも、和歌山のめはり寿司に使う葉も高菜の塩漬けなのだそうです。いずれも明治になってから栽培が始まり、今や全国に知られる名産になっているわけですから、高菜の美味しさは大したものだと言えます。日本三大漬菜と呼ばれるのは、高菜、広島菜、そして野沢菜です。広島菜も野沢菜も高菜かと思いきや、広島菜は京菜を品種改良したもの、野沢菜はカブの変種のようです。

実は、京菜もカブも、高菜と同じアブラナ目アブラナ科アブラナ属です。アブラナ属には、大根、キャベツ、ブロッコリー、ミズナ、コマツナ、ハクサイ、チンゲンサイ等、実に幅広い野菜が含まれるとのこと。食卓の野菜のかなりの部分を占める大派閥です。ここまで勢力を拡大したのは、自家受粉しないために虫による交雑が起きることに加え、アブラナ目がカラシ油配糖体を持っているためだと思われます。分泌されるカラシ油が、害虫や疫病に強い体質を生み、比較的育てやすい野菜になっているわけです。同時に、それは人間にも苦味を感じさせることになります。基本的には毒なのでしょうが、適量であれば風味として好まれることになります。また、アブラナ科に含まれるスルフォラファンの抗がん、血圧降下効果が喧伝されたこともありました。

高菜やその仲間たちが、多く漬物として活用されていることも面白いと思います。あくまでも素人考えですが、カラシ油配糖体が、発酵によってうま味やほどよい酸味に変化しやすいからなのではないでしょうか。高菜の漬物には、古漬けと新漬けがあります。新漬けは、緑色を保っており、めはり寿司や青菜漬け、あるいは香の物として利用されます。一方、古漬けは、発酵が進み、べっ甲色になります。香の物やとんこつラーメンのトッピングにも使われますが、高菜めしや高菜チャーハンでは必須となります。最近発見したことですが、永谷園の松茸のお吸い物に辛子高菜を入れると、酸辣を特徴とする湖南料理の雰囲気が出ます。中華だしのスープに辛子高菜、辛味、米粉麺を入れて食べれば、簡単に湖南ミーフェンもどきが味わえます。

熊本県出身の友人に、阿蘇で”元祖たかなめし”を食べたと話したところ、たかなめしを看板に掲げている店は、だいたい元祖と書いてあるものですよ、と一蹴されました。しかし、調べて見ると、「あそ路」は本当にたかなめし発祥の店でした。2代目の祖母である井芹サキ氏が、12人の子どもたちに満腹感を与えるために作っていた高菜のまぜごはんが発祥のようです。豊肥本線の視察に訪れた鉄道大臣に出したところ評判がよく、昭和40年代に阿蘇の新しい名物として売り出したのだそうです。店は、今も豊肥本線の市ノ川駅のすぐ前にあります。我々は店の閉店時間である15時間際に飛び込んだのですが、広い店内では、まだ多くの人が高菜めしを頬張っていました。恐らく昼時には行列ができているのでしょう。(写真出典:asoji.com)

2024年12月17日火曜日

八幡太郎

名古屋市章
名古屋の”丸八会”は、財界・官界の人々が自由に意見交換を行う場として永い歴史を持っています。戦後すぐの頃、名古屋を離任する役人を東大の同級生たちが送別したことが始まりと聞きます。私が参加していた15年前には、会員数は約450名、毎月の例会に加え、同好の士が集まるクラブ活動も盛んでした。また、準会員と呼ばれるナイトクラブが13軒あり、例会には店の女性たちがコンパニオン的に参加していました。例会の夜、準会員の店では、丸八会員は半額になりますが、一方で店をはしごしてお金を落とすというしきたりになっていました。経済団体やロータリー・クラブ等は他の街にもありますが、丸八会のような仕組みは、全国的にも極めて希だと思います。丸八会によって、名古屋財界は緊密な関係を保ってきたと言えます。

”丸八”とは名古屋市の市章です。そのいわれは諸説あるのですが、最も有力な説は、尾張徳川家の紋章に由来するというものです。尾張徳川家の丸八は、領地が八郡あったからとも、先祖とされる八幡太郎義家にちなんだとも言われます。しかし、史実として、徳川家は河内源氏とはつながっていないようです。家康が勢力を拡大していくなか、官位を得るための箔付けとしてねつ造されたという見方が一般的です。家系のねつ造は、戦国の頃の武士社会では、ごく一般的に行われていたことのようです。それにしても、八幡太郎義家の人気は、実績に比べて異様なほどに高く、何故なのかと不思議に思ってしまいます。ちなみに、源義家は、石清水八幡宮で元服した長男であたことから、八幡太郎と呼ばれました。

父・頼義に従って前九年の役(1050年)を戦い、出羽・清原氏の加勢を得て勝利します。その後、白河天皇の警護役として活躍します。陸奥守になった義家は、清原氏の内紛に介入します。後三年の役(1083年)です。これが朝廷から私闘とされ、恩賞がないばかりか、4年に渡った戦の間に陸奥守としての官物の貢納が滞り、義家の負債となります。それから十年後、負債を完済した義家は、白河法王の意向によって昇殿が許されています。義家には荘園の寄進が多く、また荘園を巡る争いも絶えなかったようです。荘園主たちは、当代随一の武士として名高い八幡太郎義家に荘園を寄進し、自分たちは荘園の管理者として残ります。その仕組みは、誤解を恐れずに言えば、みかじめ料のようなものだったのでしょう。

大化の改新以降、日本の土地制度は公地公民を基本としていましたが、公職遂行の財源としての田畑、あるいは開墾した土地の私有が認められ、私有荘園が広がっていきます。荘園は皇族や公家が所有していましたが、義家の時代になると、下級官吏に過ぎなかった武家が所有する荘園も広がりを見せます。つまり、武家が、明らかに貴族に対抗する勢力として形を成した時代と言えます。また、平将門の頃までの武士は、あくまでも個人単位であったものが、義家の頃には、一族郎党を率いる集団となり、その集団が重層化していったようです。つまり、将門は武士の台頭を象徴し、義家は貴族に対抗する勢力となった武家の存在を象徴していると言えます。その代表格が河内源氏であり、その領袖としての義家は、いわば武家の祖とも言える存在だったわけです。義家の子孫は、鎌倉幕府、そして室町幕府を開くことになります。

家康は、武力と政治力で幕府を開きましたが、やはり正統性にもこだわり、八幡太郎義家の系譜が欲しかったわけです。一般的には、武士の始まりは藤原秀郷とされています。将門を討ち、高官となった秀郷は、都と坂東に大きな勢力を持ち、実に多くの後裔氏族を生んでいます。しかし、秀郷が武士の始まりとは腑に落ちない話です。武士の起源には、自衛する農民説、朝廷警護の下級官吏説等があり、秀郷以前から存在していたはずです。その後、武士は武家を構成していくわけですが、その始まりは八幡太郎義家ということになります。ところが、羽曳野市にある河内源氏三代の墓は、いささか寂しいものです。家康はともかくとしても、鎌倉幕府や室町幕府が墓を整備し、立派なものにしていても不思議はないと思うのですが。(写真出典:nagoya-info.jp)

2024年12月15日日曜日

クリスマス・カラー

我々は、赤と緑の組合せを目にすると、クリスマスを連想するようすり込まれています。これに、白や金色を加えて、クリスマス・カラーと呼ばれます。サンタクロースの衣装は赤と白、クリスマス・ツリーは緑に赤、白、ゴールド等のオーナメントが飾られます。赤はキリストの血で愛、緑は常緑樹で生命力、白は雪で純潔や平和を象徴しているのだそうです。だとすれば、クリスマス・カラーは古くから存在していたのだろうと思いますが、その始まりは、1931年のコカ・コーラの広告だという説があります。コカ・コーラは、その年のクリスマス向け広告に、イラストレーターのハッドン・サンドブロムが描いた赤い服の太ったサンタ・クロースを登場させます。

サンタの赤い服はサンドブロム以前からも描かれていましたが、この広告が現在に至るサンタ・クロースのイメージを決定づけたとされます。しかし、クリスマス・カラーに関しては、はっきりしないところがあります。おおよそマス・イメージは、商業的な広告・宣伝によって形成される傾向があるので、コカ・コーラ説もあり得ます。しかし、その起源は、19世紀のアメリカで一般化した習慣にあるのではないかと考えます。19世紀前半、アメリカでは、クリスマスにツリーとポインセチアを飾る習慣が広まりました。北米のクリスマス・ツリーは、18世紀後半、ヘッセン兵が持ち込んだとされます。アメリカ独立戦争の際、英国の要請に基づきケベックに駐留していたヘッセン軍の将軍夫妻がクリスマス・パーティにモミの木を飾ったことが始まりとされます。

そもそもクリスマス・ツリーを飾る習慣は、キリスト教徒のものではありませんでした。常緑樹を生命の象徴とする文化は、古代から世界中にあったようですが、古代ゲルマン人は樫の木を信仰していたようです。3~5世紀、宣教師たちによって、ゲルマンの改宗が進められます。その際、宣教師たちは、信仰の対象であった樫の木を切り倒していきます。するとモミの木が生えてきたので、これをキリスト教の象徴とします。これがクリスマス・ツリーの起源だとされます。15世紀には、フライブルグで、クリスマスにモミの木が飾られるようになり、以降、ドイツ全域に広がり、その後、欧州各地へと伝播していったようです。クリスマス・ツリーはゲルマンの信仰をベースにドイツから始まったということになります。

一方、メキシコ原産のポインセチアは、1823年、駐メキシコ特使だったジョエル・ロバーツ・ポインセットがアメリカに持ち込んでいます。ポインセットは、後に陸軍長官にもなっています。ポインセチアは俗称ですが、彼の名前にちなんでいます。メキシコでは、クリスマスの季節にポインセチアを飾る文化があったようです。上の葉が赤くなるは冬場であり、ちょうどクリスマスに重なったわけです。ちなみに、アメリカでポインセチアが広く知られるようになったのはドイツからの移民だった育種家エッケ家の功績とされています。20世紀初頭から栽培を始め、1960年代には、お馴染みの鉢植えのポインセチアを一般化させた一族です。マーケティングの一環として、クリスマスの季節になるとTV局に無料で鉢植えを送り、認知を広げていったようです。

人間は、知覚の83%を視覚から得ているといわれます。しかも、視覚のうち80%が色彩から得る情報だと聞きます。ブランド戦略において、ブランド・カラー、コーポレート・カラーが重視される理由でもあります。世界で最も成功したブランド・ロゴとも言われるコカ・コーラのロゴには、独特の字体とともにコーク・レッドと呼ばれる赤が使われています。創業当時、コカ・コーラは、原液を木樽に入れて輸送していましたが、酒類と間違われないよう赤く塗っていたようです。これがコーク・レッドになったわけです。思うに、コカ・コーラの最も成功したブランド戦略の一つは、サンタ・クロースのイメージとブランド・カラーを紐付けたことなのではないかと思います。(写真出典:today.com)

2024年12月13日金曜日

梁盤秘抄#34 Tapestry

アルバム名:Tapestry(1971)                                                  アーティスト:キャロル・キング

Tapestry'(邦題:つづれ織り)は、歴史的大ヒットを記録したキャロル・キング2枚目のソロ・アルバムです。ビルボードで15週連続トップ、その後306週、6年間に渡りトップ100に入り続けたという怪物アルバムです。このアルバムが世界を席巻していた頃、私はジャズに狂っていて、ローレル・キャニオン系のフォーク・ロックなど、一切、見向きもしませんでした。ただ、大学の寮で同室になった先輩が好きでよく聴いており、なにげに耳にしているうちに大発見をしました。Tapestryを聞きながら昼寝をすると、やたら心地良く眠れるのです。今でも、キャロル・キングの曲調や声は、アルファ波を発生させやすい何かがあるのではないかと思っています。

キャロル・キングは、1942年、NYのブルックリンで生まれています。絶対音感を持つ少女だったようです。高校在学中の16歳で歌手デビューしますが、短命に終わり、彼女はクイーンズ・カレッジへと進学します。そこで出会ったジェリー・ゴフィンと17歳で結婚し、二人で曲作りを始めます。1960年、全米No.1ヒットになったシュレルスの「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」を書いた時、キャロル・キングはまだ18歳でした。以降、コンビは次々とヒットを飛ばしていきます。リトル・エヴァの「ロコモーション」、ボビー・ヴィーの「Take Good Care of My Baby(浮気なあの娘)」、彼女自身が歌った「It Might as Well Rain Until September」、アレサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」なども含まれています。早熟の天才だったわけです。

1968年には、ゴフィンと袂を分かち、フォーク・ロックのメッカとなっていたLAのローレル・キャニオンへと居を移します。シンガー・ソングライターとしてのソロ活動を開始し、その2作目となったのがこのTapestryです。シングル・カットされた「It's Too Late」は驚異的なヒットとなり、20世紀を代表する曲の一つとされています。また、同じ年にジェームス・テイラーがカバーした「You've Got a Friend」も全米No.1になりました。Tapestryの大成功は、プロデューサーであるルー・アドラーに依るところも大きいとされます。アドラーは、ママス&パパス等のプロデューサーとして名を馳せ、ロック・フェスの原点とされるモンタレー・ポップ・フェスティバルのプロデュースも行っています。Tapestryには、時代が詰まっていたという面もあるのでしょう。

キャロル・キングは、アメリカン・ポップのモーツァルトだと思っています。彼女は、画期的な新しい音楽を創造したわけではありません。彼女の音楽には、アメリカのポップ・ミュージックのエッセンスの全てが無理なく凝縮されているように思えます。だからこそ、彼女の曲は、優しく力強く、かつ、どこかなじみ深いところがあり、人々の心にすんなりと入り込むのだと思います。加えて、彼女の声には独特な魅力が備わっていると思います。決して美声ではありませんし、やたら歌がうまいというほどでもありません。むしろ、その歌声は、泥臭い野太さがあり、人々に親近感や安心感を与えるのだと思います。キャロル・キングを聞きながら眠ると心地良いという理由は、ここにあるのだと思います。

ただ、そうした彼女の声が持つ魅力はマンネリ化しやすいとも言えるのでしょう。それが、Tapestryの成功にルー・アドラーが必要だった理由でもあり、また、カバーされた曲の方がヒットしてきた背景でもあるように思います。ジェームス・テイラー、アレサ・フランクリン、ビートルズ、モンキーズ、カーペンターズ、バーブラ・ストライサンド、セリーヌ・ディオン、マライア・キャリー、リンダ・ロンシュタット等々、彼女の曲をレコーディングしたアーティストの名前を並べるだけで、20世紀後半のポップスの歴史を語れるほどだと思います。キャロル・キングは、グラミー賞はじめ、多くの賞を総ナメにしてきましたが、それでも十分ではないほど偉大なミュージシャンなのだと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年12月11日水曜日

「ゴンドラ」

監督:ファイト・ヘルマー    2023年ドイツ・ジョージア 

☆☆☆

舞台はジョージアの山中で行き交う古風なゴンドラ。台詞は一切なく音楽と環境音だけ。ゴンドラ乗務員の女性二人の恋が、コミカルに描かれます。テイストは、ウェス・アンダーソンを無声映画にした感じです。何も加工を加えていない映像が美しい山々を映し出し、実に綺麗なものでした。見終わったあとには、”現代版おとぎ話”という言葉しか思い浮かびませんでした。ファイト・ヘルマーは、過去にも台詞のない映画を撮って一定の評価を得た人です。監督は、コロナ禍にあって、映画の撮影が困難となったドイツを離れ、ジョージアの山中で、少数のキャスト・スタッフだけを使い、しかも台詞のない映画を撮ることにしたようです。コロナが生んだ映画ということもできそうです。

台詞がないことには、一切の違和感を感じませんでした。恐らく、コミカルなおとぎ話仕立てだったからなのでしょう。ただ、トーキー映画しか知らない我々にとって、台詞の無い映画は新鮮であり、あらためて映画における台詞の意味を考えさせられました。もちろん、現代の映画は、映像、台詞も含めた役者の演技、音楽、効果音などの全てを総合的に使って構成されます。しかし、映画とは、劇映画であれ、ドキュメンタリーであれ、本質的には映像を使った表現形態だと言えます。とすれば、台詞は映像表現をサポートするものに過ぎず、台詞のない映画は究極の映像表現とも言えそうです。少なくとも、通常のトーキー映画とは全く異なる脚本、映像、演出、演技が必要とされるのでしょう。

映画は、1895年、フランスのリュミエール兄弟によって発明されたとされます。兄弟が発明したシネマトグラフは1本の撮影時間が50秒でした。兄弟は、約1500本の映画を撮影し、これを有料公開しています。映画「リュミエール」(2016)は、兄弟が撮った1500本の中から108本を4Kデジタル化したドキュメンタリーでした。当時の手回しカメラは固定されたままで、ズームもありませんでした。しかし、兄弟は、映像の力を最大限引き出すべく、実に様々なことに挑戦しています。初期の有名な作品に「ラ・シオタ駅への列車の到着」があります。蒸気機関車が画面奥から駅に入線する様子を斜めの構図で撮っただけの映像ですが、これを見た観客たちは、列車が飛び込んでくると思って逃げたと聞きます。構図の勝利だったわけです。

兄弟は、単に動くものを撮るだけでなく、登場人物に演出を加えた映画も撮っています。世界最初の劇映画とされる「水をかけられた散水夫」です。史上初の劇映画がコメディであった点は興味深いと思います。映画は、第七の芸術とも言われますが、誕生した瞬間から娯楽という本質を持っていたわけです。ファイト・ヘルマー監督は、そうした映画の本質も踏まえて本作を撮っているように思います。無声映画を撮りたかったのでもなく、また、いわゆるミニマル映画を撮りたかったのでもなく、台詞をなくすることによって、映像が持つ本来的な力を追求したかったのではないかと思えます。「ゴンドラ」はコロナ禍の意図せぬ副産物だったかも知れませんが、実に興味深い作品が出来たものだと思います。

2020年に公開されたファイト・ヘルマー監督の前作「ブラ!ブラ!ブラ! 胸いっぱいの愛を」は、アゼルバイジャンを舞台に撮られた心温まるコメディでした。これも台詞が一切ないということで話題になりました。役者たちの演技が見事でしたが、それぞれ母国語の異なる熟達の役者たちが欧州各国から集められたとのことでした。台詞がないからこそ成立した映画とも言えます。台詞のない映画こそ、映画の王道なのではないか、とさえ思ってしまいます。余談になりますが、撮影に使われたゴンドラは味のあるものでした。スペインのモンセラットで円に近い多角形の古いゴンドラに乗ったことがあります。日本のゴンドラと言えば、ほぼ四角っぽいものばかりですが、欧州には、まだまだ面白いゴンドラがあるのだろうと思います。(写真出典:moviola.jp)

2024年12月9日月曜日

かりんとう

渦巻きかりんとう
かりんとうは、水や砂糖等で溶いた小麦粉を、イースト発酵後に揚げ、黒糖や水飴などの蜜をからめた駄菓子です。その起源は判然としないものの、奈良時代、遣唐使によってもたらされた唐菓子だとする説が有力とされます。当時は、捻頭(むぎかた)と呼ばれ、貴族の菓子でしたが、徐々に、一般にも広がり、19世紀、天保年間になると、江戸で大流行が起きます。深川六間堀(現在の森下界隈)の山口屋吉兵衛が「深川名物・可里んたふ」の名で売り出し大ヒット。約200人のかりんとう売りが江戸中で売り歩いたとされます。明治になると浅草仲見世の飯田屋が安価な黒糖をまぶしたかりんとうを売出し、浅草名物になります。現在の定番かりんとうの誕生です。大正期には、天竜堂が機械製造を始め、かりんとうは全国に広まったとされています。

かりんとうの起源に関しては、唐菓子説の他に南蛮菓子説もあります。その代表格が播州かりんとうです。危機に陥った姫路藩の財政を立て直したことで知られる家老・河合道臣(寸翁)は、特産品作りのために菓子職人を長崎に送り込みます。職人が、オランダ商館で学んだ製法をもとに播州かりんとうが生み出されたと言われます。スペインのアンダルシアには、ペスティーニョと呼ばれるクリスマスの定番菓子があり、かりんとうとよく似ているようです。ペスティーニョは、アラブ由来とも言われます。九州には、今でもかりんとうをオランダと呼ぶ地域があると聞きます。南蛮菓子由来説も説得力があると思いますが、世の東西を問わず、こねた小麦粉を揚げるというレシピは、古くからあったのではないでしょう。

播州かんりんとうは、関東のものに比べ、固くて甘さ控えめだとされます。固さは、讃岐うどんのように生地をしっかりとこねることから生まれます。かつて、姫路城下には30軒を超すかりんとう屋があり、かりんとうは播州名物となっていたようです。播州かりんとうがあるにも関わらず、かりんとうの消費はに西日本よりも関東以北が多くなっています。世帯当たりの消費額は、北海道、東北、関東の順になっています。かつては、寒冷な気候になるほど小麦の生産が多かったことが関係しているのかも知れません。世帯消費日本一の北海道のかりんとうと言えば、なんといっても二色の渦巻きタイプが主流です。しかし、渦巻きかりんとうの発祥は北海道ではなく、岩手県ではないかと言われているようです。

岩手県では、お盆のお菓子として渦巻きかりんとうが定着しており、なかでも田老かりんとうは有名です。田老の老舗・田中屋によれば、初代が、明治の頃、宮古の駄菓子屋「玉泉堂」で製法を学んだと伝えられているとのこと。玉泉堂なる店は、今は存在せず、それ以上さかのぼることはできません。宮古は、南部藩の外港として栄えた町です。今でも、宮古の人たちは、ありがとうを「おおきに」と言うなど、関西文化の影響が残ります。岩手県のかんりんとうは、江戸ではなく、関西から入ってきた可能性もあります。播州かりんとうの老舗・常磐堂も渦巻き型かりんとうを売っています。播州における渦巻き型の歴史はよく分かりませんが、ひょっとすると、播州駄菓子こそ岩手県の渦巻きかりんとうのルーツなのかもしれません。

東京三大かりんとうと言えば、湯島の「ゆしま花月」、浅草の「小桜」、銀座の「たちばな」とされます。いずれも、メインの商品は、白糖系の蜜をまぶした上品なかりんとうであり、駄菓子と呼ぶことがためらわれる高級品です。十年ちょっと前には、日本橋錦豊琳が東京駅に出店し、かりんとうブームを巻き起こしました。小ぶりで様々なフレイバーが用意されている錦豊琳のかりんとうは、モダンなかりんとうのスタンダードになりました。かりんとうではありませんが、宇都宮の高林堂のかりんとう饅頭、いわゆる”かりまん”も好物です。今やかりまんは全国に存在するようですが、その発祥は明確です。福島県田村市の老舗和菓子店「あくつ屋」が、2001年に発売したのがかりまんの始まりなのだそうです。かりまんも黒糖ベースです。やはり、かりんとうは黒糖味が基本だということです。(写真出典:shop.sweetsvillage.com)

2024年12月7日土曜日

万里の長城

かつて”世界三大バカ”という言葉がありました。万里の長城、ピラミッド、戦艦大和を指します。膨大な労力と資金をつぎ込んだ割にはあまり意味のなかった巨大構造物や建造物という意味です。もちろん、意味がないとは暴論です。太平洋戦争末期に帝国海軍士官の一部で、建造時、既に時代遅れとなっていた巨艦大和を揶揄するために生まれた言葉だと聞きます。引き合いに出されたピラミッドと万里の長城にとってはいい迷惑だったわけです。ピラミッドとは、ギザのクフ王のピラミッドを指しているのでしょうが、王の墳墓ならば、意味の有る無しではなく、価値観の問題です。万里の長城は、北方民族の侵入を完全には防げなかったことをもって無意味と言っていたのでしょうが、本当にそうなのでしょうか。 

万里の長城が、史上最大の建造物であることは間違いありません。宇宙から肉眼で見える唯一の建造物とも言われていましたが、実際のところ、宇宙船からは目視出来なかったようです。万里の長城は、紀元前3世紀、秦の始皇帝が築いたとされますが、長城という形式自体は、そのはるか以前、紀元前8~5世紀の春秋時代には生まれていたようです。戦国時代になると、燕、趙、秦あたりで、遊牧民族対策としての長城構築が始まります。それらをつなげて万里の長城として成立させたのが始皇帝でした。万里の長城の長さは、河北省の山海関から甘粛省の嘉峪関までの21,196 kmとされます。日本列島の7倍というべらぼうな長さですが、秦や漢の時代には楽浪郡、現在の平壌あたりまで伸びていたという文献もあるようです。

確かに、万里の長城は、幾たびか北方民族の侵入を許しています。元朝を建国するモンゴル族、清朝を築く女真族、後の満州族の侵入が代表ということになります。長城には、いくつか途切れている箇所もありますし、長城の隅から隅まで多数の兵を配置することもできません。その気になれば、大軍団が壁を越すことなど容易いのでしょう。では、やはり無意味なのか、と言えば、そうでもありません。壁や烽台の存在はもとより、兵が速やかに移動できる長城は、安易な侵入を防ぐだけではなく、国境としての意味も含め、心理的な抑止効果が大きかったものと考えます。防衛上の必要性が薄れた時期には放置されていた期間もあるようですが、抑止効果が認められるからこそ、2千年もの間、修復や増築が行われてきたわけです。

長城と言えば、イングランドとスコットランドの国境にあるハドリアヌスの長城も有名です。古代ローマは、1世紀半ばにはブリタニアに進出していますが、ケルト人の侵入に悩まされます。2世紀初頭、ハドリアヌス帝は、長城の建設を命じます。後に石で補強されることになる4~6mの土塁の上には2mを超す塀もあったようです。もちろん、ケルト人対策として構築された長城ですが、同時に、拡大の一途をたどってきた古代ローマが、自らの意志で初めて前進を止めたということも大いに注目されています。万里の長城にも、同じ意味があるのでしょう。つまり、中華に起こった強大な国々は、北方への領土拡大に意欲に持っていなかったわけです。農耕によって国を成立させた漢民族は、農耕に適さない土地には興味をもたなかったのでしょう。

現在の万里の長城の姿は、明朝による大補修の結果だとされます。しかし、その明朝が満州族に侵入されて滅亡したことから、近世中国では万里の長城に対する批判が多かったようです。それが一変するのは、1911年の辛亥革命だったとされます。清朝を倒し、アジア初の共和国が樹立されると、万里の長城は中国人民が成しえた大偉業と喧伝されます。現在も、そのスタンスは継続されています。北京中心部から70kmほどにある八達嶺は、長城見物のメッカです。30年ほど前に行きましたが、さほど混んではいませんでした。近年は、国慶節等の旅行シーズンになると危険なほどに混んでいるようです。背景には、毛沢東の詩の一節「長城に到らずんば好漢に非ず」があると聞きます。万里の長城は、漢民族の国土防衛の象徴であり、国境でした。現在、長城の外にまで領土を広げた中国が、長城を国の象徴にするとは、なんとも皮肉なものだと思います。(写真出典:veltra.com)

2024年12月5日木曜日

「ヴァラエティ」

監督:ベット・ゴードン     1983年アメリカ

☆☆☆+

映画大国アメリカの産業面を主導しているのは間違いなくハリウッドですが、芸術面を担っているのはインディペンデント系です。インディペンデントとは、ハリウッドの6大スタジオに属さない制作会社を指します。低予算で制作される意欲的な作品が多く、そこで生まれたヒット作がハリウッドに取り込まれ、世界的なトレンドを作ることもしばしばあります。ベット・ゴードンは、アメリカのインディペンデント映画界を代表する女流監督と言われ、現在はコロンビア大の教授もしていますが、日本での知名度はあまりありません。近年の4Kデジタル・リマスター版ブームのおかげで、彼女の伝説的な作品を見ることができました。

ポルノ映画館「ヴァラエティ」のチケット売場で働くことになった女性が、恋人からマフィアに関する話を聞いていたこともあり、マフィアらしき常連客に興味を持ちます。常連客の誘いがあって野球観戦に行きますが、彼は急用で球場を去ります。女性は、彼を密かに尾行するうちに、自らがポルノの世界にハマっていきます。女性は性労働者ではありませんが、男性に搾取されるポルノ界を見聞するうちに、自らが主導権を握り、男性を支配する立場へと変化していくかのように暗示されています。結末も含めて、曖昧な展開ではあるものの、恐らく風変わりなフェミニスト映画だと言えるのでしょう。この時期、シャンタル・アケルマンらに先導される形でフェミニスト映画が大きな流れを作り始めていました。

しかし、アケルマンのスロームービー等とは全く異なる独特のタッチこそ、ベット・ゴードンの、そして、この映画の魅力だと思います。人物や街の描写は、息づかいや匂いまで感じられるほどに繊細でリアルだと思います。NYを舞台とする映画は多く存在しますが、NYという街を描けている映画は多くありません。代表格は、マーティン・スコセッシの「タクシー・ドライバー」だと思いますが、本作は、それに劣らないほどクオリティが高いと思います。通常、映画は、街のイメージを主体的に再構築したうえで提示するものです。ベット・ゴードンが描くNYは、単に自然主義的というよりも対象を突き放すほどに客体化されているように思います。そして、その積み重ねのうえに、謎のラストシーンがあるように思います。

映画が撮られた1983年、アメリカは不景気の底にありました。ロナルド・レーガンが大統領になり、景気は回復していくわけですが、産業構造の転換という試練は続きます。私がNYに赴任したのは1987年ですが、アメリカの製造業は、日本やドイツに追上げられて、自信を失っていました。NY市の財政難は、警察官と清掃員の不足を招き、街はゴミだらけ、治安は最悪でした。映画の舞台となっているブロードウェイは、さすがにミュージカル・シアターは残っていましたが、ポルノ街になっていました。観劇客を相手にする老舗レストランがある一方で、$5~6でステーキ・ディナーを提供するようないい加減な店が多くありました。一言で言えば薄汚れた街でしたが、そこで生まれた音楽ムーブメントにパンクがあります。

カウンター・カルチャーの時代には、伝統的なバッハ形式を用いて政府や旧世代を批判する歌が作られましたが、パンク、ことに”No Wave”はバッハ音楽そのものを否定していきます。映像の分野でもNo Waveは大きな動きであり、ベット・ゴードンもそうした流れの中にあったのでしょう。伝統的な映画手法を否定した先人たちとしては、フランスのヌーベル・バーグやNYのインディペンデント系監督たちがいました。彼女は、明らかに先人たちの影響下にあるものの、そのセンスはよりニヒリスティックになっていると思います。しかし、彼女の映画は、No Wave的ではあっても、その根底には、かなりしっかりとした映画文法があるように思います。是非とも、他の作品も観てみたいと思いました。(写真出典:en.wikipedia.com)

2024年12月3日火曜日

味の素

1985年、特許庁が「日本の十大発明家」を選定し、顕彰しています。豊田佐吉、御木本幸吉らとともに、うま味成分とL-グルタミン酸ナトリウムの発見者として池田菊苗の名前もあります。東京帝国大学教授だった池田は、人間の味覚には、甘味、酸味、塩味、苦味の他にうま味があることを証明し、その素になっているL-グルタミン酸ナトリウムを発見しました。1907年のことです。幼少期から昆布だしに興味を持っていた池田は、昆布の煮汁からL-グルタミン酸ナトリウムを抽出することに成功しています。この発明に目を付けたのが、ヨードの製造で名をなしていた葉山の実業家・鈴木三郎助でした。1909年には、世界初のうま味調味料として「味の素」を発売します。

しかし、発売当初はまったく売れなかったようです。また、品質も安定しておらず、製造コストも高かったようです。鈴木は、製造過程で出るデンプンを紡績会社に売ったり、他の化成品を製造したり、あるいは電力事業に参入するなどして事業を継続したとされます。味の素の躍進のきっかけとなったのは、出汁の文化を持つ大阪で受け入れられたことだったようです。また、大正期末期、ジャーナリストの宮本外骨が、味の素の原料は蛇だというネガティブ・キャンペーンを張ります。鈴木は新聞広告をもってこれに対抗します。これが味の素の知名度向上に寄与しました。また、当初から積極的に海外展開も行い、1917年にはNY事務所を開設しています。米国で、ハインツ、キャンベルから大量受注したこともはずみになったようです。

戦後、穴付容器が登場すると、味の素は爆発的に普及していきます。ただ、一方では、しばしば風評被害も受けています。かつて味の素は製造過程において石油由来の化成品を使っていたため、その安全性が議論されたこともありました。私の父親は、それを気にしたため、実家ではほとんど味の素を使っていませんでした。しかし、他の家では、卓上に味の素のビンが置かれ、何にでもバンバンかけていたものです。友人の家では、ホウレンソウのお浸しが白くなるほど味の素をかけていました。まるで日本中が味の素中毒に陥ったような状態でした。経済復興や高度成長を背景に、国民が美味しさを求めるようになったということなのでしょう。しかし、1970年代になると、日本の食卓から味の素が消えていくことになります。

その最大の要因とされるのが、1968年、アメリカで起こった中華料理店症候群という問題です。中華料理を食べたアメリカ人のなかで、頭痛や発熱といった症状が起こり、その原因がグルタミン酸ナトリウムだとされました。当時、アメリカの中華料理店等では、味の素によるグルタミン酸ナトリウムの使用が定着していました。現在では、その因果関係は完全に否定されていますが、当時は、化学肥料や食品添加物の悪影響を懸念する動きが起こっており、味の素も標的にされたわけです。しかし、国内に限って言えば、家庭内の味の素は、卓上から消えただけであって、1970年発売の顆粒状の”ほんだし”へと置き換わっていったということなのでしょう。言ってみれば、白い粉の化成品が鰹風味の出汁へと変化したわけです。

現在、味の素の主戦場はアジア各国に移り、国内での精製も行われていないようです。ただ、国内でも業務用としてのニーズは高いようです。例えば、博多名物のとんこつラーメンが、とんこつスープと大量の味の素でできていることは、福岡県民の常識だと聞きます。近年、同じ福岡の「茅乃舎だし」に始まる出汁ブームが続いています。背景には、健康指向や本物志向があるとされます。しかし、出汁ブームといっても、昆布と鰹節から出汁をとるのではなく、あくまでも合わせだしのパックを使うということです。つまり、ほんだしが生み出した簡便で安価に出汁をとるスタイルこそがブームのきっかけだったと言えます。いずれにしても、今も昔も、味の素は日本の食文化をしっかり担っているわけです。(写真出典:ajinomoto.co.jp)

2024年12月1日日曜日

平忠常の乱

しゃもじ塚
10世紀に起きた承平天慶の乱、つまり同時期に起こった平将門の乱と藤原純友の乱は、平安朝を揺るがす大事件でした。武家の時代の起点となったとも言われますが、とりわけ平将門の後代への影響は大きいものがあります。朝敵ではありますが、関東での人気は、今でも高いと言えます。しかし、将門の乱も純友の乱も、よく知られている割には比較的短期間で制圧されています。それに比べ、約100年後の1028年、上総国、下総国、安房国を舞台に起きた平忠常の乱は、朝廷が制圧するまでに3年を要しています。将門の乱よりはるかに大きな騒乱であり、その後の東国の歴史に大きな影響を残した平忠常の乱が、さほど知られていないことは不思議だと思います。

結論から言えば、承平天慶の乱は、地方で実力を蓄えた武家が、はじめて朝廷に逆らった事件だったこと、つまり律令体制の衰退と武家の台頭を象徴していることから、とりわけ重視されるのでしょう。乱の規模や期間の長短は問題ではないということです。とは言え、3年に及んだ平忠常の乱は、房総三カ国を荒廃させ、上総国では2万2千町あった田んぼが18町にまで減り、下総守の妻子まで餓死したと伝わります。空前絶後とも言える荒廃ぶりですが、戦場になったからというよりは、当初、追討使に任ぜられた平直方率いる朝廷軍の仕業だったようです。敵軍の兵糧を絶つことは常道ではありますが、農耕地を荒しまくったとすれば尋常ならざることに思えます。その背景には、坂東平氏の内紛があったとされています。

平氏は、系統が複雑で分かりにくい面があり、平忠常の乱の知名度が低い理由の一つはここにあると思います。いわゆる”源平藤橘”の四姓は、7~9世紀初頭に成立した古い氏族であり、多く枝分かれして裾野を広げています。四姓のなかで、平氏だけが氏長者と呼ばれる族長が存在しなかったとされます。それが平氏を分かりにくくしている面があると思います。平氏には、4つの系統があり、最も栄えたのが桓武天皇の子孫である桓武平氏ということになります。桓武平氏のうち、桓武天皇の三男・葛原親王の長男に発する高棟流、三男に始まる高望流、高望流から分かれた伊勢平氏の三氏が最も有名です。高棟流は、都で公家として生きます。高望流は関東で武家貴族として根を張り坂東平氏として勢力を拡大します。伊勢平氏は、後に平清盛を輩出します。

平高望の三男・良将の嫡男である平将門が女性問題を機に叔父である平高望の嫡男・国香を焼死させたことから将門の乱が起きます。最終的に将門を討ったのは、国香の嫡男・平貞盛であり、常陸平氏として大きな勢力を持つに至ります。一方、関東南部では、平高望の側室の子であった平良文が下総・上総の両国で権勢を振い、常陸平氏と敵対する関係になります。その孫である平忠常は、房総三カ国のうち残る一カ国であった安房に攻め込みます。平忠常の乱の始まりです。関白・藤原頼通は、平直方を追討使に任じます。直方は国香のひ孫にあたり、常陸平氏の直系ながら都で藤原頼通に長く使えていました。追討使任命は、直方の働きかけだったとされます。常陸平氏は、朝廷を後ろ盾に宿敵・平良文流を叩く機会を得たわけです。

直方は房総三カ国を荒らしますが、忠常を討つことができず追討使を解任され、後任には道長四天王の一人で河内源氏の祖・源頼信が任命されます。すると、忠常は戦わずして降伏します。かつて頼信と主従関係にあり、かつ、領地の荒廃も含めて戦力を失っていたためとされます。恐らく、平氏の内紛は後に引けないとしても、朝廷に徹底抗戦する気はなかったのでしょう。忠常は都へ移送される道中、関ヶ原で病死しています。農民がしゃもじに乗せた飯を差し出すと、それを頬張り亡くなったとされ、墓はしゃもじ塚と呼ばれます。頼信の嫡男・頼義は、直方の娘と結婚し、嫡男として源頼朝が生まれます。頼義は、坂東平氏を傘下に置き、その領地も手に入れます。そのなかには鎌倉も含まれていました。以降、河内源氏は東国の覇者としての地位を確立し、陸奥へと勢力を拡大していきます。将門の乱は武家の台頭を象徴しますが、忠常の乱は鎌倉幕府の起点になったと言えるのではないでしょうか。(写真出典:sekigahara1600.com)

マクア渓谷