2024年12月9日月曜日

かりんとう

渦巻きかりんとう
かりんとうは、水や砂糖等で溶いた小麦粉を、イースト発酵後に揚げ、黒糖や水飴などの蜜をからめた駄菓子です。その起源は判然としないものの、奈良時代、遣唐使によってもたらされた唐菓子だとする説が有力とされます。当時は、捻頭(むぎかた)と呼ばれ、貴族の菓子でしたが、徐々に、一般にも広がり、19世紀、天保年間になると、江戸で大流行が起きます。深川六間堀(現在の森下界隈)の山口屋吉兵衛が「深川名物・可里んたふ」の名で売り出し大ヒット。約200人のかりんとう売りが江戸中で売り歩いたとされます。明治になると浅草仲見世の飯田屋が安価な黒糖をまぶしたかりんとうを売出し、浅草名物になります。現在の定番かりんとうの誕生です。大正期には、天竜堂が機械製造を始め、かりんとうは全国に広まったとされています。

かりんとうの起源に関しては、唐菓子説の他に南蛮菓子説もあります。その代表格が播州かりんとうです。危機に陥った姫路藩の財政を立て直したことで知られる家老・河合道臣(寸翁)は、特産品作りのために菓子職人を長崎に送り込みます。職人が、オランダ商館で学んだ製法をもとに播州かりんとうが生み出されたと言われます。スペインのアンダルシアには、ペスティーニョと呼ばれるクリスマスの定番菓子があり、かりんとうとよく似ているようです。ペスティーニョは、アラブ由来とも言われます。九州には、今でもかりんとうをオランダと呼ぶ地域があると聞きます。南蛮菓子由来説も説得力があると思いますが、世の東西を問わず、こねた小麦粉を揚げるというレシピは、古くからあったのではないでしょう。

播州かんりんとうは、関東のものに比べ、固くて甘さ控えめだとされます。固さは、讃岐うどんのように生地をしっかりとこねることから生まれます。かつて、姫路城下には30軒を超すかりんとう屋があり、かりんとうは播州名物となっていたようです。播州かりんとうがあるにも関わらず、かりんとうの消費はに西日本よりも関東以北が多くなっています。世帯当たりの消費額は、北海道、東北、関東の順になっています。かつては、寒冷な気候になるほど小麦の生産が多かったことが関係しているのかも知れません。世帯消費日本一の北海道のかりんとうと言えば、なんといっても二色の渦巻きタイプが主流です。しかし、渦巻きかりんとうの発祥は北海道ではなく、岩手県ではないかと言われているようです。

岩手県では、お盆のお菓子として渦巻きかりんとうが定着しており、なかでも田老かりんとうは有名です。田老の老舗・田中屋によれば、初代が、明治の頃、宮古の駄菓子屋「玉泉堂」で製法を学んだと伝えられているとのこと。玉泉堂なる店は、今は存在せず、それ以上さかのぼることはできません。宮古は、南部藩の外港として栄えた町です。今でも、宮古の人たちは、ありがとうを「おおきに」と言うなど、関西文化の影響が残ります。岩手県のかんりんとうは、江戸ではなく、関西から入ってきた可能性もあります。播州かりんとうの老舗・常磐堂も渦巻き型かりんとうを売っています。播州における渦巻き型の歴史はよく分かりませんが、ひょっとすると、播州駄菓子こそ岩手県の渦巻きかりんとうのルーツなのかもしれません。

東京三大かりんとうと言えば、湯島の「ゆしま花月」、浅草の「小桜」、銀座の「たちばな」とされます。いずれも、メインの商品は、白糖系の蜜をまぶした上品なかりんとうであり、駄菓子と呼ぶことがためらわれる高級品です。十年ちょっと前には、日本橋錦豊琳が東京駅に出店し、かりんとうブームを巻き起こしました。小ぶりで様々なフレイバーが用意されている錦豊琳のかりんとうは、モダンなかりんとうのスタンダードになりました。かりんとうではありませんが、宇都宮の高林堂のかりんとう饅頭、いわゆる”かりまん”も好物です。今やかりまんは全国に存在するようですが、その発祥は明確です。福島県田村市の老舗和菓子店「あくつ屋」が、2001年に発売したのがかりまんの始まりなのだそうです。かりまんも黒糖ベースです。やはり、かりんとうは黒糖味が基本だということです。(写真出典:shop.sweetsvillage.com)

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