2024年12月7日土曜日

万里の長城

かつて”世界三大バカ”という言葉がありました。万里の長城、ピラミッド、戦艦大和を指します。膨大な労力と資金をつぎ込んだ割にはあまり意味のなかった巨大構造物や建造物という意味です。もちろん、意味がないとは暴論です。太平洋戦争末期に帝国海軍士官の一部で、建造時、既に時代遅れとなっていた巨艦大和を揶揄するために生まれた言葉だと聞きます。引き合いに出されたピラミッドと万里の長城にとってはいい迷惑だったわけです。ピラミッドとは、ギザのクフ王のピラミッドを指しているのでしょうが、王の墳墓ならば、意味の有る無しではなく、価値観の問題です。万里の長城は、北方民族の侵入を完全には防げなかったことをもって無意味と言っていたのでしょうが、本当にそうなのでしょうか。 

万里の長城が、史上最大の建造物であることは間違いありません。宇宙から肉眼で見える唯一の建造物とも言われていましたが、実際のところ、宇宙船からは目視出来なかったようです。万里の長城は、紀元前3世紀、秦の始皇帝が築いたとされますが、長城という形式自体は、そのはるか以前、紀元前8~5世紀の春秋時代には生まれていたようです。戦国時代になると、燕、趙、秦あたりで、遊牧民族対策としての長城構築が始まります。それらをつなげて万里の長城として成立させたのが始皇帝でした。万里の長城の長さは、河北省の山海関から甘粛省の嘉峪関までの21,196 kmとされます。日本列島の7倍というべらぼうな長さですが、秦や漢の時代には楽浪郡、現在の平壌あたりまで伸びていたという文献もあるようです。

確かに、万里の長城は、幾たびか北方民族の侵入を許しています。元朝を建国するモンゴル族、清朝を築く女真族、後の満州族の侵入が代表ということになります。長城には、いくつか途切れている箇所もありますし、長城の隅から隅まで多数の兵を配置することもできません。その気になれば、大軍団が壁を越すことなど容易いのでしょう。では、やはり無意味なのか、と言えば、そうでもありません。壁や烽台の存在はもとより、兵が速やかに移動できる長城は、安易な侵入を防ぐだけではなく、国境としての意味も含め、心理的な抑止効果が大きかったものと考えます。防衛上の必要性が薄れた時期には放置されていた期間もあるようですが、抑止効果が認められるからこそ、2千年もの間、修復や増築が行われてきたわけです。

長城と言えば、イングランドとスコットランドの国境にあるハドリアヌスの長城も有名です。古代ローマは、1世紀半ばにはブリタニアに進出していますが、ケルト人の侵入に悩まされます。2世紀初頭、ハドリアヌス帝は、長城の建設を命じます。後に石で補強されることになる4~6mの土塁の上には2mを超す塀もあったようです。もちろん、ケルト人対策として構築された長城ですが、同時に、拡大の一途をたどってきた古代ローマが、自らの意志で初めて前進を止めたということも大いに注目されています。万里の長城にも、同じ意味があるのでしょう。つまり、中華に起こった強大な国々は、北方への領土拡大に意欲に持っていなかったわけです。農耕によって国を成立させた漢民族は、農耕に適さない土地には興味をもたなかったのでしょう。

現在の万里の長城の姿は、明朝による大補修の結果だとされます。しかし、その明朝が満州族に侵入されて滅亡したことから、近世中国では万里の長城に対する批判が多かったようです。それが一変するのは、1911年の辛亥革命だったとされます。清朝を倒し、アジア初の共和国が樹立されると、万里の長城は中国人民が成しえた大偉業と喧伝されます。現在も、そのスタンスは継続されています。北京中心部から70kmほどにある八達嶺は、長城見物のメッカです。30年ほど前に行きましたが、さほど混んではいませんでした。近年は、国慶節等の旅行シーズンになると危険なほどに混んでいるようです。背景には、毛沢東の詩の一節「長城に到らずんば好漢に非ず」があると聞きます。万里の長城は、漢民族の国土防衛の象徴であり、国境でした。現在、長城の外にまで領土を広げた中国が、長城を国の象徴にするとは、なんとも皮肉なものだと思います。(写真出典:veltra.com)

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