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明智光秀 |
光秀の動機としては、信長に替わり天下を取りたかったという野望説、信長の度重なるいじめにキレたという私憤説、長宗我部を巡る信長の横暴を許しがたかったという義憤説が一般的です。他にも、黒幕が存在したという説、本能寺を襲ったのは光秀ではないという説まで存在します。いずれも歴史的裏付けがなく、仮説・空説の域を出るものではありません。多くは、出版と大衆芸能が盛んになった江戸期の創作によるものとされています。光秀の動機が不明のままである最大の要因は、光秀の早すぎる死だったのでしょう。直前まで自らの将兵にすら本能寺襲撃を秘匿し、信長討伐後の体制作りに着手することもなく、わずか10日あまりで死んでいます。いわゆる三日天下だったわけです。結果、唐突感だけが残りました。
唐突な行動に見えるので、私憤説が有力視されるのでしょう。しかし、本能寺襲撃が絶妙なタイミングであったことも含め、光秀の頭の中には綿密な計画があったのかも知れません。しかし、計画があったとしても、少なくとも2つの大きな誤算が生じ、シナリオが狂うわけです。まず一つ目は、光秀が信長の首を確保できなかったことです。信長の首どころか遺体も発見されない状況では、信長の死が疑われて当然です。光秀勢への参加を求められても、大名たちは躊躇することになります。完全に焼失した本能寺とともに信長の遺体も燃え尽きたのでしょうが、信長の墓のある阿弥陀寺縁起によれば、敵に遺体を渡さぬよう荼毘に付せと命じたのは信長本人だったようです。信長の政治センスの高さとも思えますが、戦国武将の常識だったのかもしれません。
今一つの誤算は、秀吉の中国大返しです。備中高松城を水攻め中だった秀吉が、本能寺の変を知ったのが翌日の6月3日夜だったようです。光秀が毛利に送った使者を捕まえて密書を入手したため、あるいは日頃から秀吉が関西に配置していた間者の知らせとも言われます。秀吉は、信長の死を陣内にも毛利方にも隠したまま、和議交渉をまとめ、6日には姫路への撤退を開始したようです。12日には、摂津富田(現高槻市)に2万の兵をもって布陣しています。その驚異的な行軍速度以上に注目すべきは、秀吉が展開した情報戦だと思います。まずは、信長は生きていると発信することで、大名たちが光秀側につくことを阻止し、その後、弔い合戦を呼びかけ、かつその先頭に立つことで、ポスト信長体制における優位な立場を確保していきます。
織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川、という江戸期の戯れ歌があります。名古屋では、愛知県出身の信長、秀吉、家康の3人を三英傑と呼び、毎年、三英傑祭りも行われています。ちなみに三英傑という言葉は、名古屋に赴任して初めて知りました。そのことを名古屋の人に伝えると、あり得ないと憤慨されました。三英傑の共通点は、軍事の才能というよりも、図抜けた政治力、あるいは政治的センスの良さなのだと思います。政治力とは、人の心を読んで操る技と言うこともできると思います。光秀は、極めて頭脳明晰で優秀な人だったとされます。信長配下で登り詰めたことからしても理解できる話です。しかし、光秀の政治力が三英傑にははるかに及ばなかったことも間違いないように思えます。(写真出典:yomiuri.co.jp)