2024年11月29日金曜日

繁昌亭

大阪の「天満天神繁昌亭」は、上方落語の数少ない定席です。 2006年、上方落語協会会長だった6代目桂文枝(当時は桂三枝)の呼びかけで開場しています。繁昌亭は、大阪では、実に半世紀ぶりとなる定席の復活でした。もちろん、定席がなくても落語家は高座に上がることはできます。ホールやこじんまりとした会場での演芸会、あるいは地方での公演ということになりますが、残念ながら不定期の開催になります。大物は別として、定席がなければ、落語家は、収入を得ることも、芸を上達させることも難しくなります。そういう意味で、定席の復活は、上方落語家の悲願だったと想像できます。天満天神という名称は、土地を無償提供した大阪天満宮、開場に尽力した天神橋筋商店街に感謝してつけられたのでしょう。

今般、初めて繁昌亭に行く事ができました。平日の昼席のことですから、客もまばらだろうと思っていましたが、200席強ある客席は、ほぼ満席という繁昌ぶりでした。”伝統芸能を守る”という言葉がありますが、落語は守られるようになったらお終いだと思います。時代が変われども、人を惹きつけてこその大衆芸能だと思います。とは言え、娯楽の多様化とともに、寄席は姿を消してきました。東京には、上野の鈴本演芸場、新宿の末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場に、今は建替中の国立演芸場を加え、5つの定席があります。しかし、大正13年には、117の寄席があったのだそうです。現存する寄席以外で言えば、1970年に人形町末廣が閉場しています。すべて畳敷きという江戸時代さながらの寄席だったようです。

上方落語が定席を失った理由は、娯楽の多様化とは別にもう一つあったように思えます。漫才ブームです。寄席の色物に過ぎなかった漫才が、主役にのし上がるという下剋上が起きたわけです。現在の漫才につながるしゃべくり漫才は、昭和初期の横山エンタツ・花菱アチャコに始まるとされます。大人気となり、追随するコンビが多く生まれたようです。漫才が人気になった背景にはラジオの普及があったとされます。1959年の皇太子ご成婚とともにTVが普及すると、再び漫才はブームの様相を呈していきます。漫才の歴史は、マス・メディア抜きには語れないわけです。背景には、花月劇場とTVの相乗効果をねらった吉本興業の作戦があったとも言われます。漫才に押されて、落語の人気は落ち、寄席も消えていくことになりました。

凋落した落語界ですが、四天王と呼ばれた松鶴、小文枝、春団治、そして米朝が上方落語復興に向けて大活躍します。上方落語、中興の祖とも言える名人たちでした。なかでも、後に人間国宝にもなった桂米朝は、上方落語を極めると同時に、TV・ラジオでも活躍し、大人気となります。他にも三枝(後の文枝)、鶴瓶、仁鶴、ざこば、文珍等々もTVタレントとして人気を博します。また、高座では枝雀が大人気を博します。ただ、いずれも個人的な人気でした。彼らが落語を演じるとしてもホールが中心となり、寄席の人気回復にはつながらなかったと言えます。寄席が吉本の花月劇場に変わったのだと言えるのかもしれません。ただ、花月の番組は、新喜劇と漫才が中心であり、落語や他の芸が入ることは希になりました。

江戸落語は座敷噺に始まり、上方落語は辻噺が起源とされます。上方落語は、往来を行く人の足を止める必要から、親しみやすく笑いのとれる噺が多く、じっくり聞かせる世話物は少ないと言われます。また、見台や小拍子を使うことや音曲をはさむ”はめもの”を使うこと等も、人目をひく必要から生まれたとされます。客の気をそらすことなくたたみかけてくるところが、上方落語の醍醐味だと思います。繁昌亭の高座で、一人、興味深い噺家がいました。二代目桂枝曽丸です。かつらを被り、老女の出立で現れたのには驚きました。開口一番「びっくりしたでしょう。すぐ慣れますから」とやって笑いをとっていました。和歌山のおばあちゃんという設定で、ディープな和歌山弁を使って新作落語を披露します。東京ではとても考えられないことです。ある意味、最も上方落語らしい光景だと思いました。(写真出典:hanjotei.jp)

2024年11月27日水曜日

渡航制限

宴席でのことですが、後輩から、これまで何カ国へ行ったのか、と聞かれました。数えてみると、トランジットを除いて22カ国になりました。そんな程度だったのか、とも思いましたが、その場にいた人のなかでは一番多くの国に渡航していました。米国駐在員や海外出張の経験もありますが、一番年上だったことが主な理由なのでしょう。アメリカのピュー研究所が、2023年春に行った調査に依れば、日本人が海外旅行で訪れた国の数は、1~4カ国が46%、5~9カ国が11%、10カ国以上が8%、経験なしが34%となっていました。Agota社が、2019年に行った調査では、日本人の平均海外渡航国数は5カ国、海外旅行経験なしが19%となっています。

2019年と2023年調査結果の差は、コロナ禍、円安、原油高の影響によるのではないかと思われます。ちなみに、ピュー研究所のデータで、10カ国以上の海外経験者が多い国は、スウェーデン、オランダ、イギリスがトップ3となっています。こうした調査は、恐らくマーケティング用なのでしょうが、海外旅行経験の国別比較など、ほとんど意味がないと思います。その背景にある経済力、アクセスの良さ、社会環境が明らかに異なるからです。ただ、各国における海外渡航の変遷は、社会史としては、一つの視点になり得ると思います。日本の場合は、太古の昔から大陸との交流のなかで国を形成してきたとも言えます。有史以降も、戦争を含めた国同士の関わりに限らず、民間による経済的交流も行われてきました。

物見遊山の旅に関しては、江戸期の鎖国政策もあり、始まったのは明治以降ということになります。とは言え、制約も多く、コストもかかり、一般大衆には縁遠いものでした。昭和に入り、軍国主義の時代を迎えると、渡航制限は一層強まります。敗戦後、今度はGHQが渡航制限を課しますが、それはGHQの意図したものではなかったようです。もちろん、戦後の外貨不足が渡航制限につながった面はあるものの、GHQ としては、民主化を進めるため日本人の海外渡航を促進したかったようです。ところが、そこに立ちはだかったのは11カ国で構成される極東委員会でした。極東委員会は、占領政策の決定機関でした。大戦中、日本の侵略を受けた国々は、自国の国民感情を考慮して、日本人が海外に出ることに反対したわけです。

また、GHQは、共産党の会議に出席するための海外渡航を認めませんでした。極東委員会の一員であったソヴィエトは激怒し、GHQの海外渡航拡大方針そのものにも反対します。日本人の海外渡航は、東西冷戦の影響を受けて進まなかったとも言えそうです。1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は再独立を果たしますが、日本政府は外貨不足がゆえに海外渡航の制限を継続します。持出外貨は制限されたものの、観光目的の海外旅行が自由化されたのは、1964年のことでした。東京オリンピックが開催された年でもありますが、奇跡の経済復興を遂げた日本が、経済協力開発機構(OECD)への加盟、そして国際通貨基金(IMF)8条国への移行を実現し、国際社会に本格復帰した年でもありました。

日本人の海外渡航が拡大したのは、1970年代後半のことです。1976年、ニクソン・ショックをうけドルが変動相場制へ移行。長く続いた1$=360円という固定相場が終わり、円高が進みます。高度成長下で豊かになった日本人は、円高で割安になった海外旅行へと殺到します。1985年のプラザ合意後は、さらに円高が進み、海外渡航者は急拡大、日本人は世界中でショッピングしまくり状態へと入ります。昨年以降、コロナ禍等で激減した海外渡航者数は回復してきたようですが、円安、原油高の影響が続き、コロナ前の水準には戻っていないようです。逆に、円安は、インバウンド客の急増につながっています。GHQがねらったのは、海外渡航を促進することで日本人の国際感覚を高め、民主化を進めることでした。実は、外国人旅行者が増えることも、日本人の国際感覚を高めることには大きく寄与するものと考えます。(写真:1965年ジャルパック第1陣 出典:jalpak.jp)

2024年11月25日月曜日

湯豆腐

湯豆腐や いのちのはての うすあかり      久保田万太郎

京都で一番美味しい豆腐屋は、嵯峨野の森嘉と言われます。京都や大阪の百貨店でも買うことができますが、旅先でもあり、買って食べたことはありません。ただ、森嘉の豆腐を使っている料理店は、嵯峨野・嵐山界隈を中心にいくつかあり、そこで食べることができます。私も「湯豆腐 嵯峨野」や「湯豆腐 竹むら」で食べたことがあります。美味しいのですが、他の京都の豆腐との違いまでは分かりませんでした。そもそも京都で食べる湯豆腐は、上品な豆腐もさることながら、風情あふれる庭などのしつらえも含めて、どこでも美味しくいただけます。湯豆腐好きとして、京都の主な有名店には行ったと思うのですが、最も多く行った店は産寧坂の「奥丹清水」だと思います。豆腐や庭に加え、清水詣の際に立ち寄りやすい立地も良い店です。

湯豆腐の最も基本的な作り方は、土鍋に昆布と水を入れて火にかけ、煮立てずに絹豆腐を温めるということになります。たれは、土佐醤油が基本だと思いますが、ポン酢という人もいます。ポン酢は、出汁醤油そのものでもあり、湯豆腐にも合います。薬味は、紅葉おろしかおろし生姜、刻みねぎが基本だと思います。刻み海苔、大根おろし、鰹節、柚子なども合います。食べ終わったら、豆腐を炊いた昆布出汁をたれに注いで楽しみます。土佐醤油は、酒、味醂、醤油を煮切ってから鰹節を入れて、さらに短時間煮立たせます。そのあと、少し置くと鰹節の風味が利いた土佐醤油になります。奥丹では、土鍋の真ん中に土佐醤油の入った徳利を入れ、冷めないようにしています。実家では蕎麦ちょこを使っていました。

豆腐は、紀元前2世紀、淮南王・劉安が考案したとされています。ただ、実際には、8~9世紀の唐代において、騎馬民族の乳製品を参考に作られたもののようです。日本へは遣唐使がもたらし、鎌倉時代には庶民にも広がり、江戸期には一般的な食材になっていたようです。湯豆腐の起源に関する資料は残っていないようですが、鎌倉時代、南禅寺の禅僧たちが、精進料理の一つとして考案したとされています。豆腐は、8~9割が水という食品です。それを水で炊くわけですから、湯豆腐は水を味わっているようなものです。それだけに、豆腐のみならず、湯豆腐も水の良し悪しが美味しさを左右します。美味しい水が豊富な京都は最適な土地と言えます。ミネラル分の多い硬水で炊くと豆腐は固くなります。京都の水の柔らかさが豆腐や湯豆腐に最適なわけです。

それにしても湯豆腐は、なんとシンプルな料理なのでしょうか。にも関わらず、人を温め、幸せにする絶品でもあります。冒頭に掲げた久保田万次郎の俳句は名作として知られます。最愛の女性を失った後、しかも万次郎自身の死の半年前に詠まれた句です。命の儚さを詠んだ句とされます。”うすあかり”は死後の世界を表わすと言うのですが、そうなのでしょうか。万次郎が、湯気の向こうの白くもろい豆腐に見たものは、愛する人を失った悲しみや死がもたらす絶望などではなく、むしろ儚い人生の向こうにある安らぎや穏やかさであり、ある意味、さとりだったのではないでしょうか。禅僧が考案したからというわけではありませんが、湯豆腐には、どこか禅に通じるシンプルさがあるように思えます。食べる禅と言えば、言い過ぎでしょうか。

久保田万次郎は、浅草出身の小説家、劇作家、演出家、俳人です。戦後の文壇を代表する重鎮として知られますが、演劇界の大御所といったイメージが強い人です。脚本も書けば、演出も行い、新劇から歌舞伎までと幅広く手がけています。浅草出身ということもあり、美食家としても知られていたようです。恐らく湯豆腐にも、一家言あったものと思われます。その万次郎は、赤貝の鮨を喉につまらせ亡くなっています。日頃から、噛みきれない赤貝は口にしていなかったようですが、梅原龍三郎邸で行われた宴席の場で、勧められるままに口にしたのだそうです。老境に至れば、気をつけるべきことは増える一方ですが、その一つが誤嚥であり、窒息の恐れがあります。湯豆腐に関して言えば、ほぼ、その心配はありません。(写真出典:sapiko-laughalot.com)

2024年11月23日土曜日

「グラディエーターⅡ」

監督:リドリー・スコット  2024年アメリカ・イギリス

☆☆☆

リドリー・スコットが、ラッセル・クロウ主演で「グラディエーター」を撮ったのは2000年のことでした。映画は世界的に大ヒットし、作品賞、主演男優賞はじめアカデミー賞5部門を受賞しています。歴史上の人物を借用したフィクションは、史実の誤認を生みかねないとの批判もありましたが、重厚感を備えた一級の娯楽作品に仕上がっていました。エイリアンやブレードランナーで高い評価を得ながらも低迷していたリドリー・スコットは、グラディエーターで名匠としての名声を確立したと言えます。今般、リドリー・スコットは、四半世紀も経てから、続編などあり得ない作品の続編を撮ったわけです。驚きです。

そのことがグラディエーターⅡという作品の性格を物語っているように思います。時代設定は、前作から2世代後の皇帝カラカラの時代となっています。再び、歴史的人物を配したフィクションになっており、前作の構図を引き継いでいます。一部のキャラクターも前作から継続させることで、辛うじて続編として成立させています。映画全体としては、さすがリドリー・スコットと言える映像やテンポの良さで一級の娯楽作品に仕上がっているとは思います。さはさりながら、前作の重厚感もなく、ストーリーの無理矢理感もぬぐえません。演出は、プロットをこなすことに汲々としている面もあります。今日的な観客の指向に迎合し、アクション・シーンにこだわり、ストーリーは手際よく処理するといった印象も受けました。

そもそもフィクションですから、荒唐無稽なストーリーをとやかく言う筋合いでもないのでしょうが、それでも気にはなります。史実に基づくフィクションの場合、歴史的事実は尊重し、それ以外の部分での製作陣の想像を膨らませるスタイルが一般的です。グラディエーターの場合、フィクションに歴史的事実や人物を都合良く借用する方式です。そのような映画では、歴史に忠実な作品以上に、本物感漂う映像、あるいはドラマの深さなどが求められるものだと考えます。前作は、そこが実に巧みに演出されており、ラッセル・クロウの重厚な演技も効いていたように思います。続編では、やや安易な娯楽性重視の傾向が見え、デンゼル・ワシントンの演技は手堅いとしても、役柄の設定自体に無理があったように思います。

四半世紀ぶりの続編と言えば、デヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」を思い起こします。ツイン・ピークスは、ストーリーも、キャラクターも、キャストも、完全に前作を受け継いでいました。グラディエーターⅡでは、回想シーンでラッセル・クロウの映像が登場し、ルッシラ役でコニー・ニールセン、グラックス議員役でデレク・ジャコビが再演しています。コニー・ニールセンは前作で知名度を上げたデンマーク人女優ですが、近年は、DCコミックス系でのヒッポリタ女王役が当たり役になっているようです。こういう役どころには北欧系の女優が合っているということなのでしょう。ちなみに、マルクス・アウレリクス帝の娘であるルッシラは、歴史上、実弟コンモドゥス帝の殺害を企てたとして処刑されています。

娯楽性追求映画ですが、メッセージ性がないわけではありません。「ローマの夢」とラスト・シーンが象徴的と思われます。映画では、マルクス・アウレリクス帝が夢見たという共和制をローマの夢と呼んでいましたが、パックス・ロマーナ時代の五賢帝の一人であるマルクス・アウレリクスが共和制を目指していたとは思えませんし、史実としても聞いたことがありません。製作陣が意図したのは、プーチン、習近平、そしてトランプといった独裁色の強い指導者たちが幅を利かせる状況にあって、民主主義の復権を訴えたかったのだろうと思います。ラスト・シーンは、ローマの夢が姿を表わしたかのように展開されますが、実に中途半端で意味不明で曖昧な終わり方です。ストーリーとしては、そうするしかなかったのでしょうが、歴史を大いに誤認させる恐れがあります。そもそもローマの共和制と民主主義は大いに異なりますし、パックス・ロマーナは帝政によってもたらされたことも忘れてはいけいないと思います。(写真出典:IMDb.com)

2024年11月21日木曜日

名水

池山水源
国土の7割が山地という日本では、各地に名水が湧き出ています。1985年、当時の環境庁が「名水百選」 を選定しました。富士山、立山を含めた南北アルプス、そして阿蘇山周辺には多くの百名水が存在します。今般、友人の車で、阿蘇山とその周辺を旅し、百名水のうち、由布の男池湧水地、産山村の池山水源の水を口にすることができました。水源の透明度の高さにも驚きました。しかし、百名水に限らず、阿蘇の水はいずれもまろやかで美味しい水でした。利根川、吉野川と並び、日本三大暴れ川とされる筑後川の水源は阿蘇の外輪山一帯であり、これらの湧水が筑紫平野を潤してきたわけです。

毎分30tの水が湧き出すという池山水源は、のどかな山村である産山村の奥まった森のなかにあります。池一面の水草と穏やかな水面に映り込んだ森の緑が相まって、深遠な光景を生んでいます。ただ、水の透明度が高すぎるために、スマホのカメラで水草を撮っても、ただの草むらのようにしか写りません。友人は、10Lのポリタンクを持ち込み、水源の水を汲んでいました。この水で入れるコーヒーが絶品とのこと。私も、500mlのペットボトルに名水を汲んで持ち帰りました。翌朝、早速にコーヒーを入れてみましたが、さほどの違いは感じませんでした。トリエステのillyの豆で入れたのですが、恐らく、硬水を前提とした欧州の深煎りの豆では池山水源の軟水の魅力は活きないということなのでしょう。

今回の旅で、念願だった高千穂にも行くことができました。宮崎県の高千穂は、天孫降臨の地として知られます。他にも天孫降臨の地としては霧島連山の高千穂峰が有名ですが、同じ宮崎県にあります。高千穂で最も人気のあるスポットと言えば、柱状節理が美しい高千穂峡です。高千穂は、阿蘇山南東の裾野に位置しますが、やはり多くの滝や湧水で知られます。今回、高千穂の名物が流しそうめんだということを初めて知りました。流しそうめんと言えば、指宿の唐船峡が有名です。巨大な施設で、丸い流しそうめん器を多くの人々が囲む姿は異様です。機械でやるなら、家でやればいいように思います。ところが、唐船峡の美味しい水こそが重要なのだそうです。高千穂の流しそうめんも、素麺を食べて、阿蘇の美味しい湧水を味わう、ということなのでしょう。

「名水百選」は、水質・水量、景観、保全状況、保全活動を必須として、規模、故事来歴、希少性等を勘案し、選定されています。水質オンリーというわけではありません。美味しさとミネラル分の含有量が直結していないということでもあるのでしょう。日本は、水道水も含めて、軟水が大層を占める国です。軟水は、ミネラル分の含有率が60mg/L以下と定義されます。欧州に硬水が多く日本は軟水が主である理由は、欧州の山地は石灰岩、日本は花崗岩が多いことによるのだそうです。加えて、日本は勾配の急な山が多く、ミネラル分の混入が少なくなるのだそうです。いずれにしても、日本の農作物、農加工品、料理、すべてが軟水を使っているわけで、日本の食文化は軟水を前提として成り立っていると言えます。

さる大手ケミカル会社の会長が、獺祭の旭酒造が純水を使って仕込んだ日本酒を持っているというので、一緒に飲みましょうよとお願いしました。ところが、うまいわけがないから飲まないと断られました。逆浸透膜や蒸留装置を使って生成される純水は、ミネラル分を一切含まない純粋なH₂Oです。ある意味、純水は、軟水の極致とも言えます。ただ、会長によれば、酒の旨味は雑味から生まれるとのこと。雑味のない純水から美味い酒などできるわけがないというわけです。人間と同じですね、と会長に申しあげたところ、うまいことを言うねェ、とほめられました。阿蘇の名水も、単にミネラル分の少ない軟水というだけでなく、雑味の入り方が絶妙な水ということなのでしょう。(写真出典:welcomekyushu.jp)

2024年11月19日火曜日

「十一人の賊軍」

監督: 白石和彌   原案:笠原和夫   2024年日本

☆☆+

我々の世代にとって、脚本家・笠原和夫(1927~2002年)の名前は、とても大きいと言えます。日本映画史にその名を残す名作「博奕打ち 総長賭博」(1968年)を書き、「仁義なき戦い」シリーズを大ヒットさせました。三島由紀夫は、総長賭博をギリシャ悲劇にも通じる名画と絶賛しています。東映の着流しヤクザのマンネリ路線に辟易していた笠原和夫は、ヤクザの冷酷で残忍な世界を描きます。笠原は、ラストシーンで鶴田浩二に「任侠道?そんなもん俺にはねえ!」と言わせ、任侠路線に終止符を打ちます。また、その台詞がそのまま仁義なき戦いへとつながっていきます。総長賭博は、私にとって人生で最も泣けた映画です。そして、まさに時代を捉えた仁義なき戦いは、若者たちを熱狂させることになりました。

全共闘の熱狂に70年安保の敗北が続いた時代、笠原が描いたのは旧世代に翻弄される若者たちの無念だったように思います。「十一人の賊軍」のプロットも同じ構図を持っています。戊辰戦争時の新発田藩にインスパイアされたフィクションです。笠原は、1964年に本作を書きますが、上層部に却下されます。怒り狂った笠原は、台本を破き捨てます。ただ、プロットのメモだけは残っていました。今般、そのプロットに基づき映画化されたわけです。総じて言えば、プロットは☆☆☆☆、脚本は☆☆☆ー、演出とキャストは☆☆ーといったところでしょうか。凡庸な画角、下手な演技は、TVドラマといった風情ですが、プロットの良さに助けられています。ちなみに、仁義なき戦いへのオマージュといった映像もありました。

新発田藩は尊皇を旨とする藩でした。戊辰戦争が勃発すると、新発田藩の周囲は、奥羽越列藩同盟だらけとなります。かつ、同盟の補給線として重要な新潟港を囲む立地でもありました。新潟は天領ですが、周囲は新発田藩の領地だったのです。会津藩はじめ同盟側から恫喝された小藩・新発田藩は、同盟に参加せざるを得ませんでした。ただ、裏では官軍との連絡を絶やしていませんでした。同盟側からの出兵要請には、領民による妨害を理由に、ほぼほぼ応えていません。実は、領民の妨害も、裏で新発田藩士が画策したものでした。官軍が新潟港に上陸した時点で、新発田藩は官軍に参加しています。同盟側からは裏切り者として批判されますが、新発田藩にとって同盟参加は、義を通すための偽装だったということになります。

結果、新発田藩は、領民と領地を戦火にさらすことなく明治を迎えます。新発田藩の偽装工作は、小藩が生き延びる知恵としては、見事なものだったとも言えます。今でも、長岡藩領だった中越地方の老人たちには、新発田藩を中心とする下越地方を嫌う傾向が残っています。私が新潟赴任中に中越地震が起きます。中越地方の営業拠点は、全く稼働できない状態に陥ります。中越地方の営業目標を全て引き受けると立ち上がったのは新発田営業所でした。決して大きくも、強くもない営業所でしたが、その気持ちには涙させられました。結果、新発田の心意気が支社を一つにまとめあげ、災害に遭いながらも、新潟支社は営業目標を達成することができました。一企業内でのささやかな出来事ではありますが、私には、150年の歴史を超えた壮大なドラマのように思えました。

笠原和夫は、小藩なりのやり方で義を貫いた新発田藩の物語を見事にプロット化したわけです。どうも「十一人の賊軍」の製作陣は、新発田藩の決意や土地の人々の思い、あるいは笠原の時代感覚や若者への目線に対する思い入れが一切なく、ひたすらエンターテイメント性だけを追求しているように思えます。映画が薄っぺらいものになった最大の要因はここにあるのだろうと思います。例えば、黒澤映画は超一級の娯楽作品ですが、その背景にしっかりとした思想があったからこそ一級品になっているわけです。本作は、プロットが良かっただけに、誠に残念な結果になったと思います。これだけ見事なプロットですから、真田広之にでもリメイクしてもらいたいものだと思います。(写真出典:hochi.news)

2024年11月17日日曜日

カタカナ語

30年ほど前のことですが、当時の副社長が本社部長会議の席上で「格好つけてカタカナを使うのは止めろ。社内のコミュニケーションを悪化させるだけだ」と演説していました。使うなと言いながら、自分もカタカナ語を使っているじゃないか、と吹き出しそうになりました。最近は聞かなくなりましたが、当時は”カタカナ語の氾濫”という言葉をよく耳にしました。”日本語の乱れ”の一環として騒がれていたように記憶します。言葉は生き物です。時代とともに変化して当たり前です。”さよなら”や”いらっしゃいませ”も、一般的に使われ始めた頃には、日本語の乱れと言われていたのかもしれません。

日本語の乱れが話題になっていた頃、文化庁が毎年行っている「日本語に関する世論調査」で、2度ほどカタカナ語が取り上げられています。2002年度版では、120ばかりのカタカナ語の認知度・理解度・使用度のアンケートが行われ、いずれの項目でも”ストレス”、”リサイクル”、”ボランティア”がトップ3になっています。逆にワースト3に顔を出しているのは、”コンソーシアム”、”インキュベーション”、”エンフォースメント”などです。この頃にカタカナ語が増えたとすれば、その背景には、インターネットとウィンドウズの登場、そしてバブル崩壊があったように思います。バブル崩壊は、日本の社会と企業の自信喪失を招きました。企業は日本式経営に替わるアメリカ式の新たな経営手法を模索し始めていました。

海外から新しい文化が入ってくれば、当然、新しい言葉も増えるわけです。日本の場合、輸入元が中国であれば漢語が増え、西洋であればカタカナ語が増えるというのは、ごく当たり前の構図です。ことさら”カタカナ語の氾濫”などと騒ぐ必要もないように思います。カタカナ語とは、言い換えれば、ほぼ外来語ということになります。日本は、舶来文化を巧みに取り入れながら独自の社会や文化を形成してきた国です。歴史的に見れば、稲作の伝来、仏教の伝来(含、遣唐使)、南蛮貿易、明治維新、敗戦、これらが外来文化流入の大きな節目だったと言えるのでしょう。インターネットとバブル崩壊は、それらに匹敵するほどの大事件だったということかもしれません。

新たな外来語のうち、物品の名称は別として、思想や抽象的な言葉については、当初、共通の認識や理解を得ることは難しいと言えます。一方、ビジネス界には、トレンドに疎いことは勉強不足であるという風潮があります。結果、知ったかぶりが横行し、新たな外来語は曖昧な理解のまま広がっていきます。この点に関し、明治の人々は翻訳という賢い対応をとっていました。社会、個人、哲学、芸術、あるいは鉄道、電話、野球等々、多くの翻訳語が編み出され、日本語として定着しています。表意文字である漢字の特徴を活かした翻訳語は、完璧ではないにしても、その意味するところをよく表わしていると思います。少なくとも原語のカタカナ表記よりも理解は広がります。日本の近代化は、翻訳語に依るところが大きかったと言ってもいいのではないでしょうか。

外来語のカタカナ化は、大正期から増え始めたようですが、恐らく、戦後、爆発的に増加したものと思われます。占領下であったことに加え、当用漢字(現在の常用漢字)による漢字の制限も影響したのではないでしょうか。カタカナの蔓延は、官庁やマスコミによるところが大きいとも言われますが、当用漢字の制定が背景にあるように思います。だとしても、翻訳語を作る努力や使う傾向が薄れたことは興味深いと思います。カタカナ語を使うことは、先端性を気取り、かつ曖昧さを利用している面もあるように思います。2000年頃、私は、経営会議でのプレゼンに、まだ珍しかったパワー・ポイントを使っていました。流行りのカタカナ語も多用していたはずです。一部に、あいつのプレゼンにだまされるな、という声があったようです。案件が決済されたとしても、だまされた感が残ったことは想像に難くありません。

2024年11月15日金曜日

梁盤秘抄#33 Remain In Light

アルバム名:Remain In Light(1980)                                                  アーティスト:トーキング・ヘッズ

トーキング・ヘッズは、NYを代表する最もNYらしいバンドだと思います。強いリズムやファンク・テイストにデヴィッド・バーンの神経質な歌声という構成は、都会的で、かつ時代を超えたユニークさがあります。トーキング・ヘッズは、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの学生バンドとして、1974年に結成されています。卒業後は拠点をNYに移し、NYパンクのメッカであった伝説的ライブハウス「CBGB」に出演するようになります。1977年にはデビュー・アルバム「サイコ・キラー'77」をリリースし、売上はイマイチながら注目を集めます。トーキング・ヘッズが、独自のカラーを明確にし、名声を確実なものにしたきっかけは、1978年に希代の異才ブライアン・イーノをプロデューサーに迎えたことにあります。

ブライアン・イーノは、ウィンチェスター美術大学在学中から現代音楽や電子楽器に傾倒し、1970年、ブライアン・フェリーと出会うと、翌年にはロキシー・ミュージックを結成しデビューします。ロキシーは、瞬く間にグラム・ロックのスターになりますが、知的でアーティスティックなスタイルは、他のバンドとは大いに異っていました。シンセサイザーを担当したイーノは、奇抜で独創的な出立を含めてフェリーを超える人気を博したため、ロキシーをクビになります。ソロ活動を始めたイーノは、現代音楽に傾注し、アンビエント・ミュージックを生み出していくことになります。同時に、イーノは、デヴィッド・ボウイ、トーキング・ヘッズ、U2のプロデュースも手がけます。

イーノがプロデュースしたトーキング・ヘッズの2ndアルバム「モア・ソングス」(1978)からは”Take me to the river”がヒットし、3rdアルバム「フィア・オブ・ミュージック」(1979)の” I Zimbra”では、その後のトーキング・ヘッズの作風が形を成します。ちなみに、” I Zimbra”には、キング・クリムゾンのロバート・フリップが参加しています。そして、1980年、傑作「リメイン・イン・ライト」がリリースされます。アフロビートを生んだフェラ・クティの影響を受けたというポリリズムとリフが全編をグルーブさせています。なかでも”Once in a Lifetime”は、トーキング・ヘッズの代名詞とも言える名曲だと思います。メロディや演奏も素晴らしいのですが、デヴィッド・バーンが書いた歌詞も示唆に富んでおり面白いと思います。

「リメイン・イン・ライト」は、サポート・メンバーを加えた大編成で録音されています。キング・クリムゾンの奇才エイドリアン・ブリューも参加し、お得意の象の咆哮的ギターを聞かせています。ブライアン・イーノによるプロデュースは、このアルバムで終わります。以降、デヴィッド・バーンとジェリー・ハリスンはソロ活動、ティナ・ウェイマスとクリス・フランツ夫妻は、バンド内バンドとされるトム・トム・クラブでの活動をはじめます。トム・トム・クラブは、麻薬的名曲” Genius of Love”(1981)で全米No.1ヒットを飛ばしています。その後、トーキング・ヘッズは、4枚のアルバムを発売しますが、ツアーは1983年が最後でした。1991年、ヴィム・ヴェンダースの映画「夢の涯てまでも」のサントラ録音後、解散が発表されました。

数年前、トム・トム・クラブのライブに行きました。ベース奏者として評価の高いティナ・ウェイマスは、依然として若々しい演奏を聞かせていました。エイドリアン・ブリューのライブにも行きましたが、象の鳴き声に会場は大盛り上がりでした。また、2018年に、デヴィッド・バーンがブロードウェイで行ったショーをスパイク・リーが記録した「アメリカン・ユートピア」(2021)は、音楽的にも、ショーとしても、映画としても見事な出来でした。今年は、トーキング・ヘッズのライブ映像「ストップ・メイキング・センス」4Kデジタル・リマスター版がA24の配給で公開されました。オリジナルは、1983年、LAのパンテージズ劇場でのライブを、メンバーの自費で記録したものです。実にシンプルなライブ映像であり、ほぼ最後となったトーキング・ヘッズのライブがたっぷり楽しめます。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年11月13日水曜日

歯磨き粉

スモカ
昨年、ありったけの勇気と沢山のお金を注ぎ、永年の課題だった歯科治療に通いました。今年は、毎月、チェックとクリーニングに通っています。喫煙とコーヒーによる着色汚れは、日々の歯磨きだけでは如何ともしがたく、クリーニングに通っています。過日、歯科で、お薦めの喫煙者用歯磨き粉はあるか、と聞いてみました。その際、粉ではないのに歯磨き粉という呼び方でいいのか、ということが急に気になりました。歯科でも歯磨き粉と言っていましたが、念のため、ネットで調べたところ、やはり今も歯磨き粉が一般的な名称だと分かりました。昔は、確かに粉でしたが、いつの頃からかチューブ入りのペースト・タイプしか見かけなくなりました。何故か、名前だけが残ったわけです。

ところが探してみると、粉タイプもしぶとく生き残っていました。代表的なものは、スモカ歯磨社の”MASHIRO”だと思われます。喫煙者用の歯磨き粉”スモカ”は、1925年、壽屋、現在のサントリーが発売しています。1932年、経営難に陥った壽屋が、現在のスモカ社に売却しています。スモカは、2019年に販売終了していますが、一昨年、数量限定で復刻しているようです。現在も、ネット上で入手できます。MASHIROはスモカの後継商品なのでしょう。ちなみに、ライオン社が、1962年に発売し、2016年に販売を終了したた”タバコライオン”も喫煙者用歯磨き粉でした。これも在庫があるのか、ネットでは入手できます。いずれにしても、粉タイプは、ホワイトニング用の研磨剤として健在なわけです。その研磨効果ゆえに、工芸用としても使われているようです。

大昔から、歯磨きには房楊枝と呼ばれる小枝や根をほぐした物が使われていたようです。爪楊枝の原型でもあるようです。今も、インドやアフリカで房楊枝は現役だと聞きます。一方、文献上、世界最古の歯磨き粉とされるのは、紀元前1500年頃の古代エジプトの医術書に登場します。ビンロウ、火打石、蜂蜜等を混ぜたものだったようです。恐らく、それは王族や金持用であり、エジプトに限らず世界中の庶民が使っていたのは塩程度だったのではないかと想像します。その後、各国で様々な歯磨き粉が作られていきます。各国、各時代の練歯磨きや歯磨き粉には、塩、酢、石灰系、アンモニア系など多様な材料が使われ、口当たりを良くするために蜂蜜も使われていたようです。

原材料を見ると、口内をすっきりさせたいということに加え、古くから虫歯対策や美白効果も狙っていたことが分かります。ちなみに、虫歯の原因が細菌であることが解明されたのは20世紀になってからだと聞きます。それまでは、口中に住む虫が原因だと思われており、よって虫歯と呼ばれていたわけです。原因が細菌であることが判明した後も虫歯と呼び続けているところは、歯磨き粉によく似ています。日本で最初の歯磨き粉とされるのは、江戸初期、丁字屋喜左衛門が売り出した「丁字屋歯磨」、「大明香薬」だとされます。製法は、朝鮮半島から伝わったものだったようです。粒子の細かい陶土に丁字や龍脳といった漢方薬を混ぜていました。美白効果と口臭対策が謳われ、類似品が広まっていきますが、基本的には研磨剤であり、歯には良くなかったようです。

江戸では、房楊枝と歯磨き粉や塩で歯を磨く習慣が一般化したようです。欧米では、19世紀、歯磨き粉を使った歯磨きの習慣が一般化していますが、自家製の粉タイプが多かったようです。そこへ化学的に合成され、品質の安定した練りタイプが登場します。日本では、1888年、資生堂が西洋の製法に基づく初の練りタイプ「福原衛生歯磨石鹼」を発売しています。1896年、米国でコルゲート社が初めてチューブ入りの練りタイプを発売すると、1911年には、ライオン社が日本初となるチューブ入りの歯磨き粉を発売しています。当初、チューブは輸入に頼っていたようです。日本における練りタイプの歴史も、結構、古かったわけですが、粉タイプが主流であり続けた理由は、コストなのではないかと思います。肌感覚で言えば、現在のチューブ入りが主流になったのは1960年代ではないかと思われます。ペースト主体になっても歯磨き粉と呼ぶのは、粉タイプの歴史が長かったからということに尽きるのでしょう。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2024年11月11日月曜日

星の功罪

夜の門仲で、飲んだ帰りにTV局のインタビューを受けたことがあります。いつもなら断るところですが、酔っ払っていたので、ベラベラとしゃべりました。聞かれたのは門仲の魅力だったと記憶しますが、いつのまにか良い店を次々と紹介していました。放送は見ませんでしたが、見たという人の話によると、タイトルバックに私の映像が使われ、そこそこの間、写っていたようです。ただし、インタビューの音声は一切なかったとのこと。ま、求めていた内容ではなかったので、とりあえず酔っ払いの映像だけ使ったのでしょう。その際、酔ってはいたものの、仁義だけは守り通したつもりです。というのは、本当に好きな店、誰にも教えたくない店については、一切語りませんでした。

やはり門仲の通っていた店で飲んでいた時に、テレビ東京のスタッフが現れ、”アドマチック天国”の取材交渉を始めました。すると親父は、にべもなく断り、スタッフを追い返しました。TVスタッフが退散した後、アド街なら受けても良かったんじゃない、と親父に言うと、とんでもない、TVはこりごりだと言うのです。聞けば、かつてTV取材を受けたところ、放送日翌日からフリの客が押し寄せ、常連たちが店に入れない状態が続いたというのです。TVの影響はすごいとも言えますが、そんなブームは一時のものです。その間に、常連に迷惑をかけ、いい客を失う可能性が高いわけですから、納得の理由です。店によっては、制作会社に金を払ってまで取材してもらうこともあるようですが、如何なものかと思います。

NYの場合ですが、ミシュラン・ガイドで星を獲得したレストランの40%が、その後、閉店しているという記事を読みました。念願叶ってミシュランの星を獲得すると、高いレベルを求める新たな客が押し寄せます。店は、それに応えて星を維持しようとするため、食材のコスト、シェフの人件費が高くなります。場合によっては、設備やインテリア費用、賃料などもアップするかもしれません。結果、店の経営は破綻するというわけです。高い評価が禍をもたらす傾向は、料理店に限らず、作家、画家など様々な分野にも存在するようです。例えば、世間的に評価の高いプロ経営者を会社に迎えると、高額な給与を取るにも関わらず自身の執筆、講演、取材に多くの時間を割き、結果、経営に悪影響を及ぼすという話もあります。

もちろん、星や賞を獲得すれば、いいこともありますが、マイナス面にも注目すべきだというわけです。ミシュラン・ガイドの場合、覆面調査の結果、星に該当するとミシュラン側からガイドへの掲載が打診されるようです。ここで断る選択肢もあるわけです。ミシュランは断ることもできますが、例えば、SNSでバズった場合などは、どうしようもありません。過日も、たまに行く神保町の町中華店に大行列ができており、入れませんでした。町中華がブームだと言うので、その店もSNSでバズったのでしょう。近年は、意外な店にインバウンド客が行列している光景を見かけます。ガイド・ブックの時代なら、掲載を断ることもできたのでしょうが、SNSでは打つ手がありません。SNSの弊害の一つだと思います。

名古屋で一番だという老舗のふぐ屋に連れて行ってもらったことがあります。店の玄関に大きな看板があり「会員制」と書いてありました。女将さんに、会員制のふぐ屋とは珍しい、と言ったところ、「私はね、知らない客が大嫌いなのよ」と返されました。名古屋には、結構、看板を出していない店もあります。排他的な街として知られる名古屋らしい話です。空いているのに、フリの客が来ると、親父が「満席だよ」と断る店もありました。京都でもそういう店を知っています。予約オンリーの店ですが、知らない客から予約の電話が入ると「満席です」と言って切るわけです。それで店が成り立つなら結構なことだと思います。現代社会では、ネットも含めて、誰もがあらゆる情報にアクセスできます。人類の歴史においては大きな革命だと思います。一方で、弊害もあるわけです。その弊害に対しては、今のところ、我々は自ら防衛するしかないようです。(写真出典:guide.michelin.com)

2024年11月9日土曜日

パジャマ

25年ほど前の話ですが、夏の夜、九十九里浜のコンビニに立ち寄った際のことです。近所の方だと思うのですが、母親が女の子2人を連れて来ていました。アイスクリームでも買いにきたのでしょう。目が点になったのは、その3人がパジャマ姿だったことです。いかに近所とは言え、パジャマで外出など、あまりにも常識外れであり、驚きました。田舎では常識の範囲内、あるいは許容範囲内だったのかもしれませんが、実に異様な光景でした。最近は、若い人たちを中心に、パジャマではなく、ジャージ、Tシャツ、ルーム・ウェア、ラウンジ・ウェア等を着て寝る人が多いようです。そういう類いならば、ナイトウェアであっても近所への外出くらいは許容範囲なのでしょう。

コロナ禍で、いわゆる”おうち時間”が増えたことから、近年、ルームウェアの需要が世界的に伸びたようです。コロナ禍が一段落しても需要は落ちず、今後も拡大が見込まれているとのことです。ルームウェアの心地よさが認知されたことに加え、市場拡大とともに新商品の投入が相次いだことも影響しているのでしょう。ルームウェアの好調に押されて伝統的なパジャマ需要は減少しているではないかと思いきや、そうでもないようです。ナイトウェア市場全体が伸びるなか、パジャマも高機能化、高価格化が進み、需要も伸びているとのこと。その背景には、睡眠の質への関心が高まっていることがあるようです。厚ぼったいものを着て寝ると安眠できなないような気がするのは我々の年代だけではなかったようです。

パジャマの語源は、インドの民族服のズボンを意味する”パージャーマー”であるとされます。かつてインドに駐留した英国人が寝間着として使い始め、上下に分かれた寝間着が世界中に広がりました。パジャマ以前の欧州の寝間着は、男女ともにワンピース型のネグリジェだったようです。日本にパジャマが入ってきたのは明治維新の頃であり、洋装の普及とともに広がったようです。とは言え、昭和の中頃までは、昼は洋装でも、寝間着は木綿の浴衣というスタイルが多かったようです。その名残は今でもあって、温泉宿や一部のホテルでは寝間着として浴衣が用意されています。温泉では、食事や宴会、あるいは温泉街の散策にも着用されています。その感覚からすれば、九十九里の親子のパジャマ姿も変ではないのかもしれません。

 平安以前から、寝巻きとしては帷子(かたびら)が使われていたようです。帷子とは、裏地のない着物、つまり単衣のことで、汗取りや防寒用として使われていたいわば下着です。素材は夏冬で異なったようですが、浴衣の原型と言えます。なお、寝巻きと寝間着には違いがあります。かつては寝巻きと記されていたものが、パジャマの登場以降は寝間着と記載されるようになったようです。また、浴衣は、かつて入浴の際に身につける着物を指しました。入浴の習慣は、飛鳥時代、仏教とともに伝来しています。当時は蒸風呂ですが、湯帳なるものを着用して入浴していたようです。それが平安期になると湯帷子と呼ばれるようになります。鎌倉時代以降、裸でお湯に入る入浴が一般化し、湯帷子は不要になりますが、入浴後の汗取りとして残ることになり、今に続く浴衣として普及します。日本版バス・ローブというわけです。

私は、天然素材以外のパジャマは寝心地が悪いと思っています。かつては、コットン素材オンリーでしたが、近年は、気温に応じてシルク、コットン、フランネル、重ねガーゼを使い分けるようになりました。神経質に過ぎるような気もしますが、私なりの高機能化とも言えます。最近人気の高機能パジャマには、マイクロ・カプセル等を使ったサーモ・コントロール型、あるいはセラミック等を織り込んだ疲労回復型、あるいは静電気の発生を抑えた高級フリース型などがあるようです。最先端技術を駆使しているのでしょうが、どうしても化学繊維系が多くなります。天然素材由来の高機能パジャマもあります。最高級の糸や生地を使うことで寝心地を良くしており、結構、お高いものになっています。(写真出典:britannica.com)

2024年11月7日木曜日

Tokyo Film 2024(4)


 「死体を埋めろ」 マルコ・ドゥトラ監督 2024年ブラジル ☆☆

完全なるカルト・ムービーでした。終末、信仰宗教、エクソシズム、動物の死骸処理場等々、カルト好きにはたまらないモティーフのオンパレードです。映画祭のコンペ部門に出品されている映画が、カルト・ムービーとは思いもしませんでした。体系的に調べたわけではありませんが、南米は結構カルト・ムービー好きのような印象があります。南米は、独特で強烈なカトリック文化が支配する世界のように思えます。カルト・ムービーはその反動として根強い人気があるのかもしれません。南米のカルトと言えば、なんといってもアレハンドロ・ホドロフスキーが思い起こされます。彼の映画は、単純なエログロ系ではなく、どこか哲学的で詩的なところがあります。対して、本作は、ひたすら単純なカルト、しかも割とオーソドックスなアプローチが多いように思いました。

「アディオス・アミーゴ」 イバン・D・ガオナ監督 2024年コロンビア ☆☆☆+

1902年、コロンビアでは、千日戦争と呼ばれる泥沼の内乱が終結します。映画は、その直後の混乱期に舞台をとった寓話です。主人公の元革命軍兵士は、故郷の村へ帰ろうとしますが、様々な出来事に遭遇し、その都度、旅の仲間が増えていきます。神話や伝承的ではなく、むしろロール・プレイング・ゲーム的であり、世の東西を問わずゲームで育った若い世代の感性なのでしょう。仲間は、様々な出自、民族、性別を持っています。恐らく、主人公はコロンビアそのものであり、仲間たちはコロンビアの民族的多様性を象徴しているのでしょう。仲間のうち一人だけが途中で離脱します。奴隷労働によるプランテーション経営で財を成した南米特有の富裕層です。コロンビアは、20世紀後半も事実上の内戦状態にあり、その後は麻薬カルテルとの麻薬戦争が続きました。近年、政治的安定を取り戻し、経済的にも南米第3位となっています。民族の融和と融合は、そうした安定を背景に進みつつあるのかもしれません。音楽は、終始、民族的楽団によって奏でられています。これも面白いと思いました。

「ファイヤ―・オブ・ウィンド」 マルタ・マテウス監督 2024年ポルトガル・スイス・フランス ☆☆☆+

ポルトガルのブドウ畑、青い空のもと収穫に追われる労働者たちの牧歌的光景が映し出されます。一日の作業が終わり家路を急ぐ労働者たちでしたが、突然、荒れ狂う雄牛に襲われます。そして、木に登り難を避けた労働者たちのモノローグが静かに始まり、詩劇が展開されていきます。不思議な設定ですが、ポルトガルの貧農が置かれた厳しい状況を象徴しているのでしょう。労働者たちは、生活の厳しさを語り、見いだしたわずかな幸せを語ります。途中、時代が交錯し、革命を鼓舞するラジオ放送も流れますが、状況が変わるわけでもなく一夜が明け、兵士が銃を川に投げ捨てるところで映画は終わります。クリアで見事な映像からは、乾いた空気や土の臭いまで感じられました。とてもユニークな映画体験だと思いました。これが、今年の映画際で私が見た先最後の作品です。終わりにふさわしい詩的な作品でした。


10日間に渡った映画祭は、「敵」(吉田大八監督、2024年日本)をグランプリに選出して終わりました。日本の作品がグランプリを獲得したのは、2005年、根岸吉太郎監督の「雪に願うこと」以来になるようです。ちなみに、現在、国際映画製作者連盟が公認する国際映画祭は14ありますが、東京はアジア開催では最大規模となっているようです。三大国際映画祭といわれるカンヌ、ヴェネツィア、ベルリンに比して、アジア系の作品が多いことが特徴なのだと思います。国際映画祭の開催は、とてもお金のかかるものらしく、安定的開催のためには、国の関与が欠かせないと聞きます。東京国際映画祭も、経済産業省と東京都が共催となっています。とは言え、まだまだ手作り感が多い映画祭でもあり、もう少し予算を増やしてもらってもいいように思います。また、毎年、チケットの争奪戦は厳しいものがあります。映画祭ゆえ限界はあるのでしょうが、もう少し上映回数を増やせないものか、とも思います。

2024年11月6日水曜日

Tokyo Film 2024 (3)


 「シマの唄」 ロヤ・サダト監督 2024年スペイン・オランダ・フランス・台湾・ギリシャ・アフガニスタン ☆☆☆+

アフガニスタンを代表する女性監督が、1978年、実際に起きた事件を描いた作品です。左翼政権の内部闘争が勃発し、一方ではイスラム勢力のムジャヒディーンが反政府闘争を開始した頃の話です。結果、左翼政権はソヴィエトを呼び込み、10年間に及ぶアフガン紛争が始まりました。その際に起きた2人の若い女性の悲劇がモティーフになっています。2021年、監督が本作の撮影準備に入った時点で、タリバンが政権を奪還します。タリバンは、徹底的に女性の権利を剥奪します。偶然、国外にいた監督は国に戻ることなく、タリバン政権の女性差別に抗議するためにこの映画を完成させています。シマとは、ムジャヒディーンに加わり、左翼政権から虐殺された女性の名前です。映画のタイトルは、シマが唄の名手であったことに加え、タリバンに抑圧されるアフガン女性をも象徴しているようです。上映後に監督とキャストが登壇すると、アフガンの厳しい現状を目前に突きつけられた思いがしました。

「昼のアポロン 夜のアテネ」 エミネ・ユルドゥルム監督 2024年トルコ ☆☆+

脚本家や制作スタッフとして、永年、トルコ映画界で活躍してきた女性による初監督作品です。男性中心のトルコ映画界に新たな風を吹き込みたかったと監督は話しています。舞台となったシデは、トルコ南部の地中海に面したリゾートであり、トルコ最古と言われる古代ギリシャ遺跡があることでも知られます。シデの美しい景観や夕陽が印象的に使われています。映画は、幽霊が見える女性と幽霊との関わりを通して、トルコにおける女性の立場を浮かび上がらせるというプロットになっています。とてもユニークで面白いシナリオだと思います。ただ、監督の思い入れが強すぎたためか、編集が緩すぎて映画としての完成度を著しく落としている面があります。誠に残念な結果だと思います。

「冷たい風」 モハッマド・エスマイリ監督 2024年イラン ☆☆☆

雪山での遭難事故が、実は殺人事件であり、その背景には深い闇が潜んでいたというプロットです。これだけなら驚くほどのことではありませんが、この映画のすごさは、映画の全てが関係者の証言シーンだけで構成されていることです。しかも、映像は、捜査にあたる警部の目線だけという徹底ぶりです。なんとも大胆な試みです。しかも、緊張感を失うことなく映画は展開していきます。シナリオの勝利ではありますが、緊張感を維持するためにモノクロ映像、背景の奥行き、環境音、音楽等を総動員している点が見事です。監督は、もともと写真家で、これまで数本の短編を撮っているようですが、本作が長編初監督とのこと。映画人ではないことが、この勇気ある挑戦を生み出したのでしょう。監督の挑戦は、見事に成功したと言っていいのでしょう。チャレンジャブルな手法であることは理解できますが、それが通常のドラマを超えたスリルを生んでいるのかというと、やや疑問でもあります。

「黒の牛」 蔦 哲一朗監督 2024年日本・台湾・アメリカ ☆☆☆+

監督は、2013年、低予算で撮影された「祖谷物語 おくのひと」という作品で、国際的に高い評価を得た人だそうです。本作は、8年前にテスト版が作られ、以降、苦労を重ねながら、完成をみた作品だそうです。ほぼ全編がモノクロ、まるで墨絵のような世界が、極々静かに展開されます。映画は、山窩(サンカ)の人々が山を捨て、里に散っていくシーンに始まります。放浪の人々が強いられた文明化といったテーマなのかと思いましたが、実はかなり仏教色の濃い映画でした。プロットは、仏教の悟りへ至る段階を示した十牛図に基づいています。牛が仏性を象徴し、童子が真理を求める人を表わすとされます。しかし、十牛図の解釈は、かなり監督独自のものとなっています。ラストシーンは、35mmモノクロ映像から一転70mmカラーに変わります。これが監督の考える悟りの世界ということなのでしょう。そこには牛が見えるだけで、既に人の姿はありません。

2024年11月5日火曜日

Tokyo Film 2024(2)


 「トラフィック」 テオドラ・アナ・ミハイ監督 2024年ルーマニア・ベルギー・オランダ ☆☆☆+

貧困を逃れて西欧に押し寄せる東欧難民のやるせない現実が描かれています。貧困、差別、搾取、自分たちではどうしようもない現実が、難民たちを犯罪に始まる負のスパイラルへと巻き込んでいきます。人間が農耕を始めると貧富の差が生まれます。格差を生じさせない、あるいは是正する方策も試みられましたが、うまくいきませんでした。格差の存在を止むなしとすれば、最も留意すべきことは、その固定化を回避することだと思います。ボーダーレス化が進む世界で、それはどのように実現すべきなのか、誠に難しい問題です。監督は、「母の聖戦」で注目されたベルギー人ですが、彼女自身、7歳のとき、両親に連れられルーマニアから移住しています。自らのアイデンティティーと向き合った映画という凄みを感じさせます。

「ダホメ」 マティ・ディオップ監督 2024年ベナン・セネガル・フランス ☆☆☆☆

今年のベルリンで金熊賞を獲得したドキュメンタリー映画です。かつてフランスがダホメ王国から略奪した文化財7,000点のうち、26点だけが、2021年、ベナンに返還されています。その返還の模様、そしてベナン国民の反応や議論がドキュメントされています。返還を喜ぶ声、わずか26点の返還に憤る声、そして議論は植民地主義批判、ベナンの民族主義へと高まっていきます。実にドラマティックであり、感動的です。議論は公用語であるフランス語で行われます。ベナンは、古くから奴隷貿易の拠点でした。その後、フランスに植民地化され、文化財とともに歴史も文化も奪われ、言葉さえも奪われました。植民地支配の後遺症が今なお深く残っているわけです。監督は、デビュー作「アトランティックス」で、2019年カンヌのグランプリを獲得しています。彼女の父親は、セネガルを代表するミュージシャンです。本作は、監督のルーツに根ざした作品とも言えます。

「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」 ソイ・チェン監督 2024年香港 ☆☆☆+

香港で観客動員数歴代トップを記録したという作品です。かなりレベルアップしたカンフー・アクション映画です。マーベル作品等が作ったトレンドを反映させ、現実離れしたアクション・シーンが次々と展開されます。九龍城砦をモティーフに据えたのも見事な着想だと思います。ただ、あくまでも背景であって、九龍城砦を語る映画ではありません。1993年、香港を訪れた際、世界で最も危険な空港と言われた啓徳空港に降りました。飛行機は九龍城砦と呼ばれた雑居ビル群のすぐ真上を飛んで着陸します。その強烈な光景は、今でも忘れません。その年、九龍城砦は取り壊されています。実は、九龍城砦のある一角だけは、英国の借地ではなかったので、香港の司法当局の管轄外であり、中国も英国領の中の一角ゆえ手出しできないという奇跡の無法地帯でした。今の香港の若い人たちは、九龍城砦を一切知らないと思いますが、香港の歴史を語るうえでは欠くべからざる存在だと思います。セットとは言え、見事に九龍城砦が再現したことは、この映画の大きな意義のように思います。

「ナイトビッチ」 マリエル・ヘラー監督 2024年アメリカ ☆☆☆+

出産、育児に悩む母親が、母親の偉大さに気付くまでが描かれています。久々に、ユーモアとウィットに富み、なおかつメッセージ性を持つアメリカ映画を見た思いがしました。2021年に大ベストセラーになったレイチェル・ヨーダーの同名小説が原作です。監督の演出もレベル以上だと思いますが、なんと言ってもエイミー・アダムスの演技の見事さには感心させられます。エイミー・アダムスは、6度もアカデミー賞にノミネートされた大女優ですが、一度も受賞していません。ザ・マスター、アメリカン・ハッスル、メッセージ、バイスといった高評価の作品でも良い演技をしているのですが、どうも今一つ突き抜けてきません。今回も、演技は見事であり、楽しめますが、やはり強烈な印象を残すまでではありません。佳作といったところでしょうか。

2024年11月4日月曜日

Tokyo Film 2024(1)


37回目となる東京国際映画祭ですが、200本強が上映されるとのこと。昨年までは、旅行と日程が重なり、十分に楽しめませんでした。今年は、フルに日程を開けたうえで、しっかりと計画を立て、8日間15作品のチケットを確保することができました。他にも観たい作品は多くありますが、体力的な限界もあり、これが目一杯というところです。(写真出典:2024.tiff-jp.net)

「ファントスミア」 ラヴ・ディアス監督 2024年フィリピン ☆☆☆☆

「立ち去った女」(2016)でヴェネツィアの金獅子賞を獲得したラヴ・ディアス監督の新作です。白黒、固定カメラ、音楽なしというスロー・ムービーは、監督の代名詞ですが、本作の上映時間は246分。しかし、だれることもなくラヴ・ディアスの世界に没入できます。ファントスミアとは存在しない臭いを感じる症状のようです。映画は、フィリピンの歴史と社会の現状を多重的に織り込んだ寓話になっています。ファントスミアに罹患した元軍人は、存在しない臭いに悩まされていたのではなく、フィリピンの支配体制が実際に放つ悪臭に精神を蝕まれたのでしょう。何とも皮肉の効いたタイトルです。フィリピンは近隣の国にも関わらず、情報が十分ではないように思います。結果、なかなかに理解しにくい国になっているように思います。

「三匹の去勢された山羊」 イエ・シンユー監督 2024年アメリカ ☆☆+

監督は、脚本やドキュメンタリーで注目されている若手のようです。陝西省の寒村でのコロナ騒ぎをコメディ・タッチで描いた小品です。情報が十分ではないなか、やみくもに中央の指示に従おうとする地方の共産党幹部や官僚の姿を揶揄しています。山羊農家が、コロナ禍の規制に伴い山羊を売れなくなるというプロットですが、タイトルの”三匹の去勢された山羊”が気になりました。恐らく三匹とは祖父、父、息子の三世代を指しているのでしょう。三世代それぞれ態様は異なるものの、いずれも共産党政権から去勢されている、ということなのでしょう。ロケ地も、キャストも、スタッフも中国人のようですが、さすがに中国国内での公開は難しかったのか、アメリカ映画とクレジットされていました。批判的スタンスは評価できますが、やや底が浅く、プロットも図式的に過ぎた面があります。

「赤いシュート」 ナンニ・モレッティ監督 1989年イタリア・フランス ☆☆☆☆

イタリアの巨匠ナンニ・モレッティ特集の一環として上映された初期の出世作です。やや古風な言い方をすれば”笑いとペーソスあふれる人間ドラマ”を身上とする監督であり、もはやイタリアの古典芸能だと思っていました。ところが、びっくりです。35年前のナンニ・モレッティ作品は大いに異なる作風でした。本作のプロットは、水球の選手でもある共産党書記長が交通事故で記憶を失い、自分探しをしていくというものです。コミカルな仕立てではありますが、フェリーニの「8 1/2」を思わせるキレの良いファンタジーになっていました。ナンニ・モレッティは、90年代に世界三大映画祭でグランプリを獲得しています。俄然、その頃の作品を観たくなりました。また、作中、デヴィッド・リーンの「ドクトル・ジバゴ」がモティーフとして使われていますが、一体、何を象徴していたのか、じっくり考えてみたくなりました。

「彼のイメージ」 ティエリー・ド・ペレッティ監督 2024年フランス ☆☆

日本人には馴染みの薄いコルシカ民族解放戦線とその変遷がモティーフとして使われていますが、決してコルシカの歴史と社会を深掘りしているわけではありません。全体的には、センチメンタルなイメージ・ビデオ的青春映画といった風情でした。ドラマ的な部分は、会話だけで構成されているような印象を受けました。映画全体としては、ひたすら情緒的であって深みに欠けるきらいがあります。ただ、会話パートでの演出は見事なものであり、監督の演劇界での経験が活かされていると思います。また、情緒的なムードの醸成に関しても監督の力量を感じさせます。

2024年11月2日土曜日

KJ法

かつて、若手や中堅職員は、よく社外研修へ参加させてもらいました。ゼネラリスト育成に関わるテーマは社内研修で対応し、特定テーマについては各部判断で社外研修が活用されていました。資格取得をするための長期のものから、講演、講習といった短期のものまで様々ありました。定期的・計画的に従業員を送り込む定番研修もあれば、従業員個々が、是非行きたいと申請する場合もありました。今も行われているのでしょうが、昔は予算もそこそこ与えられており、海外派遣も含めて、結構、賑やかなものでした。私も、様々、参加させてもらいましたが、いくつか印象に残る社外研修もありました。

その一つが”KJ法”研修です。1週間ばかり、河口湖畔の施設に泊まり込んで行う研修でした。お気軽な研修に聞こえるかもしれませんが、内容はハードなもので、毎晩、夜中まで議論させられたものです。KJ法は、1967年、文化人類学者の川喜田二郎氏が、その著作「発想法」で紹介した情報整理法です。同氏のイニシャルからKJ法と呼ばれます。単なる情報整理に留まらず、発想法、問題解決手法として有効であるとされ、瞬く間に学界やビジネス界で活用されることになりました。大雑把にいえば、グループの各個人が、アイデアや情報をラベルに書き込み、全員でラベルのグルーピングを行い、相互の関係性を議論して、問題の解決策や新たなアイデアを見つけるという手法です。いわば可視化されたブレイン・ストーミングのようなものです。

手間はかかるものの、手順自体はシンプルなものでした。1週間もの研修が必要な代物には見えないと思いますが、実は、ラベルの書き方、ラベルの読み取り方、表面にとらわれないグルーピングなど、細部には留意すべき点も多く、泊まり込み研修が必要とされたわけです。もはや手法というよりも技に近いものがありました。最も重視されたのはラベルの読み方です。現象や意見の背後にある本質を見極めることが重要なポイントだったわけです。ビジネスの世界では、昔から「Whyを3度(5度とも)繰り返せ」、あるいは「問題は細分化して考えろ」といった言葉があります。KJ法から生まれた言葉なのかもしれません。いずれにしても、現場における問題解決を、手法として、可視化、定型化したKJ法の功績は、大きなものだったと思います。

KJ法は、小集団活動における主要メソッドでもありました。ただ、技を必要とする点ではハードルが高かく、また、効率化やスピードが求められる時代にはそぐわない面もありました。結果、小集団活動と同様、手法としては廃れていったように思います。さりながら、とことん事の本質に迫るというKJ法の基本姿勢は、時代を超えたものだったと思います。その後、KJ法を効率化、簡素化した手法が多く発表されたことがその証左とも言えます。河口湖の1週間は、手法よりも基本姿勢を身につけることには役立ったように思います。研修で、一番面食らったのは、毎朝、”KJ法の歌”を歌わされたことです。バカじゃないの、と思いましたが、今、思えば基本姿勢の習得こそが肝だったからなのでしょう。もちろん、歌は、すっかり忘れました。

メーカーの監査役をした時のことですが、たまに製造工程においてイレギュラーな事案が発生し、その都度、原因分析と対応策が取締役会に報告されていました。技術的な対応策が限られるケースが多く、原因分析はおざなりになる傾向がありました。特にヒューマン・エラーに関しては、単純ミスです、ダブル・チェックをトリプル・チェックにします、といった報告も多くありました。これでは原因分析が不十分であり、真の原因が不明だと怒ったことがあります。単純ミスも、Whyを3度、5度と繰り返して、深掘りしていけば、重大な構造的欠陥や本質的問題が見えてくることもあり得ます。河口湖の研修から40年も経っていましたが、”KJ法の歌”が体に染みこんでいたのかもしれません。(写真出典:shikoku-np.co.jp)

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