2024年9月29日日曜日

マナー大国

最近、ネットで、日本はマナー大国である、という記載を見かけます。しかし、マナー大国の意味するところが、よく分かりません。調べて見ると、マナーの良い国、マナーにうるさい国、マナーが数多く存在する国等々、様々な意味で使われているようです。そもそも、マナーは、他人に迷惑をかけない、不快な思いをさせないよう行動することで、お互いが心地良く、円滑に社会的生活を送ろうという知恵だと思います。他者への気遣いということもできます。法律ではないので罰則はありませんが、社会的に認知された習慣として、尊重されるべき行動基準だと思います。強制的なものではなく、あくまでも個人の良識に委ねられる行動とも言えます。

類似した言葉に、礼儀、行儀、エチケット等があります。エチケットは、マナーとほぼ同じ意味で、多少、身近なものを指しているように思います。礼儀や行儀は、儒教が体系化した礼という思想を行動レベルで明確化したものだと思います。礼とは、大雑把に言えば、自然の摂理、神、先祖、他者を敬う、あるいは尊重することで人間社会が治まるという考え方だと思います。いずれにしても、マナーは、その社会における歴史、宗教、風土などに根ざし、また時代によっても変わっていくものだと思います。当然、国によって大いに異なります。ですから、各国のマナーを比較して、良いとか悪いとか論じることに意味があるとは思いません。大事なことはそれぞれの国のマナーを尊重することなのだと思います。

近年、インバウンドのお客さまが増加したことで、それぞれの常識やマナーが交錯する場面も増え、来日した側にも、受け入れる側にも混乱や戸惑いが生じているものと思われます。恐らく、そういった状況のなかで、マナー大国という不可思議な言葉も登場したのでしょう。かつて、アメリカに赴任する際には、アメリカにおけるビジネス・マナーや一般的なマナーを勉強して出かけたものです。短期的な旅行では、そこまでしないことも多いと思いますが、ある程度は知っておくべきだと思います。例えば、イスラム教国へ行ったら、女性は露出の高い服装は避ける、髪はスカーフ等で覆うといった気遣いはすべきだと思います。インバウンド客の皆さんも、ある程度は、日本におけるマナーを尊重いただきたいものです。

とは言うものの、肝心の日本人が日本におけるマナーを守っているかというと、甚だ心もとないものがあります。例えば、交通マナーです。日本では、車の合流地点でなかなか入れてもらえないという状況が起こりがちです。NYでは、ヤクの売人のようなチンピラでも、One by Oneの原則は必ず守ります。電車内のマナーに関しても、結構、腹立たしい思いをさせられます。一番は、弱者に席を譲らない若者たちです。本来、優先席などというものは必要ありません。マナーが悪くなったので、設定せざるを得なかったのでしょうが、多くの場合、まったく優先などされていません。もっとも首都圏だけの現象かもしれません。札幌の地下鉄では、混んだ車内でも優先席は空いていました。空いていれば座っても良いと思うのですが。

また、席を譲られても座らない老人も少なからずいて、若者の勇気をくじいている面もあります。老人には、譲られたら、例え一駅であっても、ありがたく座る勇気が求められます。サッカー日本代表が海外で試合をしたあと、日本人サポーターが客席のゴミをひろう姿が称賛されています。一方で、同じ若者が、電車では席を譲らないわけです。マスコミが、この現象を取り上げたことはないと思います。自分たちも席を譲らないので、問題だとも思っていないのかもしれません。民放は、芸能ニュースなど流す暇があったら、この問題を取り上げるべきと思います。もっとも、民放の性格上、視聴率が上がるならやりますということになるのでしょう。いずれにしても、日本におけるマナーの悪化傾向には、世も末だなと思ってしまいます。ただ、考えてみれば、我々のマナーも、親の世代からは、世も末だと言われていたような気もしますが。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年9月27日金曜日

湖南ミーフェン

中国四大菜系(料理)と言えば、北方系(北京料理等塩辛く濃い味)、東方系(上海料理等甘く濃厚な味)、南方系(広東料理等素材を活かした淡泊な味)、西方系(四川料理等痺れる辛さが特徴)となります。さらに八大菜系となると、諸説あるようですが、概ね山東料理(北京料理等)、江蘇料理(上海料理)、広東料理、四川料理という四大料理系統に、浙江料理、福建料理、安徽料理、そして湖南料理が加わります。福建料理は、台湾料理の源として日本人にも馴染みがあり、またあっさりとした味付けは日本人好みでもあります。長いこと気になっていたのは湖南料理です。四川料理は麻辣と表現されますが、湖南料理は、酸っぱくて辛い酸辣が特徴とされます。また、巧みに発酵を使うことでも知られます。

日本人にも馴染みのある湖南系料理としては、酸辣湯が挙げられます。アメリカでは、”Hot & Sour Soup”として、どんな田舎の小さな中華料理店にもある定番のスープです。ところが、かつての日本では、ほとんど見かけることのないメニューでした。私もアメリカで初めて食べました。日本で酸辣湯が知られるようになったのは、1990年代中頃、酸辣湯麺が人気を博したからだと思います。酸辣湯麺は、かつて赤坂にあり、現在は神楽坂に移転した「榮林」が発明した日本式中華料理です。湖南や四川で酸辣湯に麺を入れることはありません。ましてや小麦の拉麺などあり得ません。酸辣湯麺に似た味の麺料理はありますが、使うのはあくまでも伝統のミーフェン(米粉)やミーシェン(米線)ということになります。

最近、都内には湖南料理店がいくつかできているようですが、かつての東京ではごくごく希な存在でした。知る限りでは、京橋の“雪園”、あるいは芝の”味芳斎”あたりでしょうか。酸辣湯麺の榮林も湖南料理店というわけではありません。雪園では、何度か宴会を行ったことがあります。美味しい店ですが、ごく普通の中華料理だとばかり思っていました。味芳斎は、味に深みのある美味しい店ですが、メニューによっては辛すぎて、泣きながら食べていました。味芳斎の強烈な辛さこそが湖南料理なのでしょう。ただ、残念ながら、サラリーマン相手の味芳斎では、メニューに限界があり、本格的湖南料理店とまでは言えないように思います。結局、ごく最近まで、本当の湖南料理にはお目にかからなかったということになります。

錦糸町の「李湘潭 湘菜館」は、中国湖南料理を看板に掲げる店です。ただ、日本人向けに辛さのハードルは下げているものと思われます。この店は、10年前のオープン当初から、湖南のソウル・フードであるミーフェンをウリの一つにしていたようです。東京の湖南料理店では初めてのことだったと聞きます。神保町の蘭州牛肉麺・馬子禄では、9種類の麺のタイプがあり、注文が入ってからミーフェンを打つ本格派ですが、湘菜館はミーフェン・ミーシェン2種類の自家製乾麺を使っています。モチッとして、ツルッとした麺はとても美味しいと思います。馬子禄の牛肉スープに対して、湘菜館のスープは豚骨・鶏肉がベースです。発酵の酸味と香りの良い辛味の効いたスープはクセになります。ミーフェンは、多様な食べ方が提供されていて全部食べてみたくなります。

中国北部の小麦文化では饅頭や餃子が主食となります。一方、米作発祥の地でもある長江以南の南部では米食が中心となります。ミーフェンも、中国南部の各省のソウル・フードとなっているようです。特に、桂林米粉、雲南の過橋米線、福建や台湾のビーフンなどが良く知られています。ちなみにビーフンはミーフェンの方言なのだそうです。数年前、丸亀製麺でお馴染みのトリドールが買収し、日本にも進出した香港の大人気ミーシェン店が「譚仔三哥(タムジャイサムゴー)」です。新宿店は、いつも大行列です。ただ、個人的には、深みにも、面白味にも欠けるスープだと思います。今のところ、馬子禄と湘菜館のミーフェンがベストだと思っています。特に湖南ミーフェンの酸味と辛味はクセになる美味しさです。(写真出典:tabelog.com)

2024年9月25日水曜日

怪僧

怪僧と言えば、まずは容貌も怪異なラスプーチンがイメージされます。帝政末期のロシアにおいて、アレクサンドラ皇后の寵愛を受けた祈祷僧ラスプーチンは、皇室に深く入り込み、政治を左右するほどの影響力を持ちます。ラスプーチンを厄災だとする貴族たちによって、1916年末に暗殺されています。シベリアの農民だったラスプーチンは、修行僧として名を為し、血友病だったアレクセイ皇太子の発作を静めたことで、アレクサンドラ皇后の庇護を受けることになります。神秘主義が流行していたロシア皇室や貴族社会にあって、ラスプーチンは貴婦人たちの熱狂的な支持を集めます。暗殺以前から、ラスプーチンを排除しようとする動きも多くありましたが、ニコライ2世によって退けられています。

ラスプーチンからさかのぼること千年以上前、日本にはラスプーチンをしのぐほどの怪僧が登場しています。平将門、足利尊氏とならび日本三悪人の一人とされる道鏡です。三悪人とされるのは、いずれも天皇の位を脅かしたからです。河内弓削氏出身の道鏡は、法相宗の禅師でした。弓削氏は、弓を削る集団を率いて朝廷に仕えてきた家であり、天孫家につながる物部氏の傍系とされます。シベリアの農民で、読み書きもままならず、正式な僧ですらなかったラスプーチンとは大違いです。ただ、怪僧になっていく経緯は良く似ています。道鏡は、近江国保良宮で病を得た孝謙上皇を徹底的に看病し、加持祈祷を行ったことで、上皇の寵愛を受けることになりました。

孝謙上皇は、大仏建立で知られる聖武天皇と藤原氏初の皇后となった光明皇后の間に生まれた内親王です。6人目の女性天皇となった孝謙天皇は、藤原氏出身の光明皇后と藤原仲麻呂に支えられます。その後、孝謙天皇は、仲麻呂の娘婿・淳仁天皇に譲位して上皇になっていました。孝謙上皇と道鏡の関係に意見した淳仁天皇と仲麻呂は、孝謙上皇から敵視されることになります。追い込まれた仲麻呂は反乱を起こして斬首され、淳仁天皇も廃位させられ淡路島へ流されます。淳仁天皇は淡路島で病死していますが、暗殺であったという説が一般的です。孝謙上皇は自ら重祚して称徳天皇となり、歴史上、最も独裁的だった天皇として知られることになります。その間にも、道鏡は出世を重ね、ついには天皇を超える法王位にまで登り詰めます。

仲麻呂の乱の後、宇佐八幡宮から、道鏡を天皇にすれば天下は泰平である、という神託が称徳天皇のもとに届けられます。しかし、確認のために宇佐八幡に派遣された和気清麻呂によって、この神託が虚偽であったことが曝かれます。和気清麻呂に都合の良い結果を持ち帰るよう事前に働きかけていた称徳天皇と道鏡は激怒します。和気清麻呂は左遷され、さらに流罪となります。事件の翌年、称徳天皇が崩御すると、道鏡は下野国に下向させられ、2年後、その地で亡くなっています。とは言え、道鏡は、流刑にも斬首にもなっていません。仏教振興面での貢献が評価されたとも言われます。称徳天皇の崩御で途切れた天武天皇系から、後継の光仁天皇の天智天皇系への移行という転換期にあって、種々行われたであろう激変緩和措置の一つだったようにも思えます。

称徳天皇の道鏡との関係については、高齢独身女性の色狂いといった下世話な説も多く、また、父親譲りの過度な仏教重視が言い訳になっていた面もあるのかもしれません。しかし、背景には、権力を巡る争いのなかで血筋に関わる葛藤があったのではないでしょうか。日本の支配階層は、天皇家と藤原家が二分してきたとも言われます。天皇の外戚として実権を握るという藤原氏の戦略は、人臣出身の初の皇后となった光明皇后に始まり、その子・孝謙天皇で形を成します。結果、藤原仲麻呂が絶大な権勢を振うことになりました。しかし、一方で、孝謙天皇には、天武天皇の直系という天皇家の血筋もあります。言わば孝謙天皇のなかには、二つの家を巡るせめぎ合いがあったも言えそうです。孝謙天皇は、天孫家の血筋を優先し、藤原氏の勢いを抑えるために道鏡を使ったという面があるのかもしれません。(写真:2020年に制作され西大寺に奉納された道鏡像 出典:mainichi.jp)

2024年9月23日月曜日

ローレル・キャニオン

私が、初めてローレル・キャニオンを知ったのは、先日亡くなったジョン・メイオールのアルバム「ブルース・フロム・ローレル・キャニオン」(1968)でした。ミック・テイラーのブルース・ギターがいい味を出していますが、サイケデリックな曲も含まれており、時代を感じさせるアルバムでした。ローレル・キャニオンは、LAのハリウッド・ブールバードのすぐ北側に位置する自然豊かな山間の別荘地です。ハリウッド至近にも関わらず、街から隔離され、自然豊かだったことから、20世紀初頭から別荘地として開発されます。多くの映画スターや有名人が住みました。1960年代中葉以降は、若いミューシャンが多く集まり、自由に行き来する環境のなかでフォーク・ロックが生まれていくことになります。

アリソン・エルウッド監督の「ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック(原題:LAUREL CANYON: A PLACE IN TIME)」(2020)というドキュメンタリーをAmazon Primeで観ました。フォーク・ロック、ウェストコースト・ロックには、あまり興味がないのですが、優れたミュージシャンや名曲も多いことは知っています。特に60年代後半から70年代前半には、一世を風靡したヒット曲も多く、懐かしく観ました。当時、ウェストコートのドンだったママス&パパス、フォークロックの元祖とも言えるバーズ、ウッドストックで大観衆をうならせたクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、史上最高のソングライターとも言われるジョニ・ミッチェル、現代を代表するフォーク歌手ジャクソン・ブラウン等々に加え、モンキーズまで登場しています。

ドアーズのジム・モリソンも住んでいたようです。ドアーズは、時代を超える音楽性の高さを持っており、明らかにローレル・キャニオン的ではありません。ただ、ジム・モリソンは詩人としても高く評価されていますから、理解できるような気もします。もう一人、驚いたのがスティーブ・マーティンです。穏やかな笑顔と嫌みのない笑いが大人気のトップ・コメディアンですが、かつて、ライブの前座として、バンジョー片手に皆を笑わせていたようです。その後、コメディ分野で多くの賞を獲得し、”サタデー・ナイト・ライブ”で大ブレークすることになります。いずれにしても、カウンター・カルチャーの時代、ローレル・キャニオンは新しい音楽と文化を象徴する場所だったわけです。

あまりにも大物すぎて、ローレル・キャニオン時代があったとは思ってもいなかったのが、リンダ・ロンシュタットです。ロックの殿堂入りも果たしたリンダは、病気で引退していなければ、今頃、大御所中の大御所になっていたと思います。彼女のバック・バンドから巣立ったのがウェストコースト・ロックの王様イーグルスです。花と麻薬でサイケデリックに彩られたミュージック・コミューンも、カウンター・カルチャーの終わりとともに変わっていきます。巨大な音楽ビジネスに取り込まれ、ツアーやアリーナ・ライブに振り回され、金を手にしたミュージシャンたちはローレル・キャニオンを離れていきます。最も大きな変化をもたらしたのは、1969年のチャールズ・マンソン事件だったと言います。マンソンもミュージシャンくずれでした。

ママス&パパスの「カリフォルニア・ドリーミン」(1965)が、ミュージシャンたちをローレル・キャニオンへと呼び寄せ、音楽の中心地をNYからLAへと移したのでしょう。そして、ジョニ・ミッチェルが作詞・作曲し、映画「いちご白書」(1970)のテーマ・ソングになった「サークル・ゲーム」が、カウンター・カルチャーの次の時代を象徴していたように思います。ちなみに、映画は印象に残る駄作でした。原作は、コロンビア大の学生運動に関する学生の回想です。雑で甘い青春映画でしたが、時代的共感があったことはユーミンが曲を書いたことでも明らかです。州兵に包囲された体育館のなかで、学生たちが座って輪を作り、ジョン・レノンの「ギブ・ピース・ア・チャンス」を歌うラスト・シーンには涙したものです。なお、いちご白書とは、学生の意見などいちごが好きだと言っているのと変わらない、というコロンビア大学部長の暴言に基づきます。(写真出典:IMDb.com)

2024年9月21日土曜日

中秋節

昔、9月中旬にシンガポールを訪れた際のことですが、セントラルで夕食の約束があり、マリーナ・ベイから水上バスに乗りました。タクシーで行けば済むことですが、駐在員から、この時期は船がお薦めと言われて乗りました。驚きました。川の両岸に、形も色も様々なランタンが飾られ、まるで夜のディズニー・ランドをより華やかにしたような光景でした。ちょうど中秋節の直前だったわけです。国民の7割が中国系と言われるシンガポールでは、中国同様、大々的に中秋節を祝います。中秋節に欠かせないものと言えば、月餅です。翌日、セントラル界隈を散策すると、デパートやショッピング・モールは月餅であふれていました。中華圏には、中秋節に月餅を贈り合う習慣があります。

月と人間との関係は、天象崇拝、太陰暦、天文学、あるいは各国に伝わる月の伝説等からも分かるとおり、古くて深いものがあります。また、月を愛でるという文化も、いつから始まったことなのかは分かりませんが、古い歴史があるのでしょう。特に、太陰暦8月15日の満月は、中秋の名月、十五夜等として、古くから親しまれてきました。秋の澄んだ空気がゆえに、とりわけ美しいということなのでしょう。ただ、祝い事や祭りとしての中秋節は、秋の収穫との関係において盛んになったものと想像します。中国において、中秋という言葉の初出は、紀元前の春秋戦国時代末期に成立した「周礼」だとされます。漢代には月見が始まり、唐代に至ると定型化されていったようです。さらに、それが一般化したのは宋代だとされます。

中華圏における中秋節は、春節に次ぐ大きなお祭りだと聞きます。満月が円満、円満が団らんにつながり、中秋節は、家族が集まる一家円満の日とされているようです。月餅は、唐代には原型が誕生し、満月に寄せて丸くなっていったようです。人々が、月餅を贈り合うようになったはいつなのか明確ではありませんが、少なくとも明代には行われていたようです。元の圧政に苦しむ漢民族によって起こされた紅巾の乱が契機となり、明朝は建国に至りました。漢民族に一斉蜂起を呼びかける指示は、月餅のなかに隠され、中秋節に配られたという話が残ります。台湾でも、反清運動の際、月餅が連絡に使われていたとされます。一家円満の象徴でもある月餅ですが、為政者にとっては、いささか物騒な代物でもあるわけです。

中秋節に関する最も有名な伝承は「嫦娥奔月(嫦娥、月へ走る)」なのだそうです。昔、太陽が10個あったため、人が住めないほどに地球が熱せられたことがありました。 后羿という弓の名手が崑崙山から弓を放ち9つの太陽を撃ち落とし、世界を救います。西王母という女神が、褒美として不老不死の薬を后羿に与えます。后羿は妻の嫦娥と離れたくなかったので、薬を隠すように彼女に頼みます。ところが、ある日、后羿の弟子の蓬蒙が薬を盗もうとします。薬を守ろうとした嫦娥は、思わず飲んでしまいます。すると嫦娥の体は浮き、月へと昇っていきました。その夜の月はことに明るく輝き、そこに嫦娥の姿を見た后羿は、嫦娥が愛した庭で好物の果物を供え、嫦娥を祀ったという話です。これが中秋節の起源だということなのでしょう。

それにしても、中秋節の贈答品として大量に出回る月餅は、一家で食べきれる量ではないと思われます。過日、中国人の友人に、受け取った大量の月餅をどうするのか、と聞いてみました。まずは、月餅は日持ちが良いので、少しづつ家族で食べると言います。また、冷凍も可能なので、長期保存もするようです。一番、傑作だったのは、もらった月餅を他の家へ贈るという話でした。大量の月餅が、中国国内をグルグル回っている絵姿を想像すると、思わず吹き出してしまいました。ちなみに、月餅の通常サイズは6~7cmあり、大きなものです。これは家族で分け合って食べることを前提としているからなのだそうです。最近は、一人サイズのミニ月餅も多く売られています。ひょっとすると中国共産党の一人っ子政策が反映されたサイズ・ダウンなのかもしれません。(写真出典:jukeihanten.com)

2024年9月19日木曜日

VTOL

ハリアーⅡ
人が乗って空中を航行する機器としての航空機の歴史は、古いとも新しいとも言えます。古代から人間は鳥のように空を飛びたいと願い、様々な装置を考えてきました。しかし、その実現は、1783年、フランスのモンゴルフィエ兄弟が発明した熱気球まで待たなければなりませんでした。19世紀末になると、航空工学の先駆者とされるドイツのオットー・リリエンタールがグライダーでの飛行に成功します。この成功が、その後の航空機の歴史を切り開いたものと思います。1903年になると、アメリカのライト兄弟が、はじめて動力を用いた飛行機を飛ばします。これが、浮力を生む固定翼と推力を生むエンジンという飛行機の原型となり、今も基本は変わっていません。

ただ、固定翼の歴史は150年に満たないわけです。人間は、長いこと、垂直に浮き上がることに固執してきたとも言えます。そういう意味ではヘリコプターの実用化こそ、航空装置の保守本流なのかもしれません。レオナルド・ダ・ヴィンチのアイデアも有名ですが、本格的な開発は19世紀に始っています。1907年には、フランスのモーリス・レジェが有人飛行に成功、1936年に至り、ナチス・ドイツのハインリヒ・フォッケが開発したフォッケウルフ Fw61が世界初の実用ヘリコプターとなります。しかし、レシプロ・エンジンの出力では不十分でした。ガス・タービン・エンジン搭載機が実用化されたのは、1951年、アメリカでのことでした。以降、急速に、ヘリコプターは、軍用、民用として普及していくことになります。

滑走路を必要としないヘリコプターは多様な用途があり、実に便利な代物ですが、最大の問題は固定翼に比べて飛行速度が圧倒的に遅いことです。そこで登場するのが、垂直離着陸機、いわゆるVTOL(Vertical Take-Off and Landing)です。エンジンの推力だけで浮上するため、軽量な機体と強力なエンジンが必要になります。VTOLには、離着陸時にエンジンの向きを変えるティルト・ローター、エンジンのついた翼の向きを変えるティルト・ウィング、垂直に離着陸するテイル・シッター、浮上用だけのエンジンを持つリフト・エンジン、エンジンの噴射向きだけを変えるスラスト・ベクタリング(推力偏向)などがあります。第二次大戦末期、連合軍に滑走路を破壊されたナチスは、急遽、VTOLの開発に取り組みます。しかし、実用化は間に合いませんでした。

ナチスのVTOLはテイル・シッターであり、戦後、米英ソはこの技術に基づきVTOLの開発を行います。ただ、操縦の難しさもあり、開発は断念されます。1959年、イギリスのブリストル社が画期的な推力偏向エンジンであるペガサスを開発します。これがホーカー・シドレー社の世界初の実用VTOL機ハリアーへとつながります。1967年に量産を開始したハリアーは、世界各国で採用されていきます。初めてハリアーの映像を見た時には、未来が来た、と思ったものです。一方、アメリカは、しぶとくティルト・ローターの開発も続け、ベルとボーイングが開発したオスプレイが2000年頃から配備されます。また、ロッキード・マーティンの主力戦闘機F-35の派生型として登場したF-35Bは、世界初の実用超音速STOVL(短距離離陸垂直着陸機)戦闘機とされます。

軽空母しか持たない国にとって、VTOL機は実にありがたい艦上機です。高価であっても、巨大な空母を保有・運用することと比較すれば、安いものかもしれません。しかし、本当に開発されるべきはVTOLは、旅客機や大型輸送機ではないかと思います。滑走路が作れない山岳部や島嶼部、あるいは危険な滑走路しか持てていない地域には、大変な恩恵になると思います。恐らくその開発は、どこかで進められているのだろうとは思います。余談ですが、スター・ウォーズの世界に登場する飛行体は、リパルサー・リフトと呼ばれるVTOLが基本になっています。離着陸時の推力として使われるのは反重力発生装置です。VTOLは、全ての飛行体の究極の姿なのでしょうが、VTOLが最終的に目指すのはリパルサー・リフトということになります。(写真出典:trafficnews.jp)

2024年9月17日火曜日

縄文は分からない

一時期、縄文文化にハマりました。書籍を読みあさり、遺跡にも足を運びました。今でも興味は失っていませんが、熱狂のようなものは消えました。知れば知るほど、ある思いが強まったからです。それは、一言で言えば、現代人が縄文文化を理解することはできない、ということです。文字を持たず、組織化されていなかった縄文文化を、科学的に解明することは不可能だという意味ではありません。縄文文化と弥生以降の文化との世界観や価値観があまりにも異なるため、現代人が縄文文化を推測したり、理解することは不可能だということです。今般、ドキュメンタリー「縄文にハマる人々」(2018)をネットで観ました。そのメッセージは私の思いとよく似ているように思いました。

縄文文化は、1万1千年とも1万6千年とも言われるほど長く続いた文化です。世界の歴史上、最も長く続いた文化だとされます。私が子供の頃、縄文人は定住せずに狩猟採取の生活を送った原始人だと教わりました。その後、発掘が進むと、定住して村落を構成し、雑食ながらどんぐり等の栽培も行っていたことが分かってきました。世界で初めて土器を生み出し、生活に用いていたことも分かりました。土器で煮炊きをすることによって、雑食の幅が広がり、飢饉がなかったことが文化の長期化をもたらしたのでしょう。また、出土した人骨の状態や人を害する武器が見つかっていないことから、平和的であったことが文化の長期化につながったとも言われます。その背景には、所有概念が未熟だったことがあるのでしょう。

では、縄文文化と弥生以降の文化との決定的違いは何かと言えば、農耕ということになります。農耕によって食料は飛躍的に増え、人口も急拡大していきます。食料生産は多くの人手を必要とすることから共同作業が必要となり、効率を求めて組織化が始まります。また、食料の備蓄が可能になったことから分業化が進みます。つまり、直接生産にたずさわらなくても食える人が生まれ、社会が形成されていきます。さらに、農耕が土地と労力の確保を前提とすることから、生産手段の所有を巡る争いも発生し、武力に基づく村落や国が誕生していくことになります。こうした物理的側面は、よく知られていることですが、実は精神的な側面、あるいは価値観に関しても、大きな変化があったものと考えられます。

大雑把に言えば、自然の一部として、あるいは自然を恐れながら生きた縄文人に対して、弥生人は、農耕を通じて、自らの手で自然を作り出した人々です。もちろん、今でも自然の多くはコントロールできないものの、自然界には存在しない物を作り出すことで、自然に対抗できるようになったわけです。この自然との関係の変化こそが、我々の縄文文化に対する理解を阻んでいるのだと思います。創意工夫によって自然を制していくという弥生人以降のメンタリティを継承する現代人の価値観で、縄文文化の土器や土偶の意味するところを推測することはできません。例えば、火焔型土器の複雑で精緻な紋様は謎でしかありません。しかも、それを煮炊きに使っていたわけですから、効率を重視する我々の価値観では意味不明としか言いようがありません。

縄文にハマっていた頃、不思議でしょうがなかったのは、写実的な絵や土偶が存在しないことでした。彼らの造形能力の高さからすれば、できないわけがありません。考えられる答えは、作れなかったのではなく、あえて作ることを避けていたのではないか、ということです。映画のなかでも、そのことを指摘していた学者がいました。さらに言えば、自然界に存在しないものを人間が作り出すことは、秩序を乱すこととして恐れられていたのかもしれません。土器の装飾は、自然を作り出すのではなく、抽象的な紋様や造形によって自然界に存在するものかのようにカモフラージュすることが狙いだったように思えます。土偶も、あえてデフォルメすることによって、自然が作った人間を自ら作り出したのではないと強調したかったように思えます。恐れたのは神ではなく、恵みをもたらす自然界の秩序だったのでしょう。今、我々が直面する自然崩壊は、農耕が生み出した飽くなき人造物追求の結果だとも言えます。(写真:「縄文にハマる人々」ポスター 出典:natalie.mu)

2024年9月15日日曜日

梁盤秘抄#31 トロピカル・スウィンギン!

アルバム名: トロピカル・スウィンギン!(2018)                    アーティスト:オムニバス

ギター・マガジン誌の”1960年代キューバのギタリストたち”という特集と連動したコンピレーション・アルバムです。古いラジオから流れてきそうなトロピカルで、ノスタルジックなギター・インスト集は、滅多にお目にかかれない超レアものです。キューバのレジェンド級ギタリストたちばかりのようですが、私が知っているのはアルセニオ・ロドリゲスくらいでした。野太い音、キレの良い独特のリズム感が特徴の盲目のギタリスト、アルセニオ・ロドリゲスは、1940~50年代、ハバナで活躍し、自身のバンドも持っていました。コンフントと呼ばれる10人程度で編成されるソン・クバーノのバンド・スタイルは、ロドリゲスが始めたとされます。

スペインの植民地だったキューバは、スペイン・アメリカ戦争を経て、1902年に独立しています。しかし、独立とは名ばかりで、ほぼアメリカの属国化していきます。反乱と米軍の介入が続きますが、世界恐慌を機にアメリカが方針転換をしたことにより、キューバは独立性を高め、政情は安定していきます。1952年、フルヘンシオ・バティスタが軍事クーデターを起し独裁を始めると、キューバはアメリカ資本とマフィアの巣窟と化していきます。キューバのカジノはマフィアの大きな資金源となります。1950年代、マンボはじめキューバ音楽は、米国に始まり世界を席巻します。その背景には、マフィアによるキューバのカジノ・リゾート化があったと思われます。

1959年、キューバを国民の手に取り戻すべくフィデル・カストロがキューバ革命を起こします。政権をとったカストロは、産業の急速な国営化を進め、アメリカ資本を駆逐します。対してアメリカは経済封鎖に打って出ます。これがキューバのソヴィエトへの接近、ピックス湾事件、キューバ危機、さらには諸説あるもののジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件へとつながります。国外でのキューバ音楽の人気も衰えていきますが、一方、国内ではカストロが文化も国民の手に取り戻そうとしていました。音楽も政府によって大いに振興されます。また、フロリダやNYに急増した亡命キューバ人たちは、異国にあっても故郷の音楽を奏で続けます。1960年代末には、それがサルサ等へと結実していくことになります。

レジェンドたちのギターは、それぞれとても個性的な音色を聞かせます。共通しているのは、やはりリズムの強さだと思います。キューバの伝統的なギターと言えば、トレスが有名です。2弦×3コースという楽器ですが、リズムの強さのなかで深みを出すために複弦スタイルになっているように思います。19世紀、世界中に広がったハバネラはキューバの最も古い舞踊曲であり、そのリズムが多様に変化し、コンガ、ルンバ、マンボ、チャチャチャ等々を生み出します。その進化の早い段階で登場したのがクラーベです。キューバの多様なリズムのベースにはクラーベがあるように思います。実は、キューバのギター演奏も、基本的にはクラーベがベースになっており、トレスもそれに合わせた楽器だったように思えます。

レジェンドたちの演奏は、エレクトリック・ギターで行われています。キューバのギタリストたちの音を聞いていると、ジャズやブルースのギタリストたちとは異なるエレクトリック・ギターの魅力を引き出しているように思えます。エフェクターが登場する以前のギターと言えば、乾いた音色が一つの特徴だったように思います。それは、強いリズムを表現するのに適していたとも言え、キューバ音楽との相性が良かったのでしょう。ちなみに、アルバムの最初の曲は、ウィルソン・ブリアンが演奏するお馴染み「南京豆売り」。もう、いきなりやられたという感じです。南京豆とはピーナッツのことですが、その古色蒼然たるタイトルにはシビれます。この曲が世界的に大ヒットしたのが1930年であり、日本でもすぐにカバーされたようです。ピーナッツは、当時、南京豆と呼ばれていたわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年9月13日金曜日

「ソウルの春」

監督:キム・ソンス      2023年韓国

☆☆☆

本作は、1979年12月に勃発した”粛軍クーデター”を、ほぼ事実に即して描いたファクションです。1979年10月、独裁体制を続けてきた朴正煕大統領が暗殺されます。その直後、朴大統領のお気に入りで軍内部の秘密組織ハナ会を率いる全斗煥少将が、彼に批判的な参謀総長鄭昇和大将を武力を用いて不法逮捕し、軍の実権を握った事件です。全斗煥、盧泰愚と続く軍事政権の始まりです。本作は、昨年、韓国で観客動員数1位になりました。1日の出来事を緊張感あるスピーディーな展開で描いています。映画としてはイマイチな面もありますが、韓国の人々にとっては忘れるのことのできない過去であり、全斗煥が極悪人に描かれていれば、映画はヒットするという傾向もあります。

クーデターとされますが、政権奪取を狙ったわけではないので、反乱と理解すべきなのでしょう。今一つ分かりにくいのは、全斗煥の動機です。参謀総長から批判され、左遷されることになったため、保身をはかった、あるいはハナ会を守るために実行したように思えます。朴体制の維持という面はあるにしても、政治的、思想的対立が鮮明なわけでもなく、極めて利己的な動機だったのではないでしょうか。軍を動かしたものの、内実は単なる内輪もめだったとも言えそうです。映画では、民主VS保守的な構図もありますが、善と悪という枠組みの方が勝っています。巨悪の全斗煥に対する善の代表は、首都警備司令官に任じられたノンキャリ張泰玩少将です。歴史的事実として”善”側が敗れますが、逆張りの勧善懲悪的構図が、大ヒットの要因の一つなのでしょう。

韓国は、映画に限らず、ことさら善悪を鮮明にしなければ気がすまないという傾向があると思います。李朝時代に定着した儒教の影響なのでしょう。時に依りますが、北朝鮮、共産主義、保守勢力、財閥、そして日本等が悪とされてきました。敵を明確にすることによって大衆の不満をそこに向かわせ、その構図を加速させていくことで政権は支持を拡大させるという構図です。ナチスの台頭はじめ、どこの国でも、いつの時代にもある政治手法です。ただ、韓国では、歴史が生んだ”恨の文化”が、その傾向を強め、社会にまで広げているのではないかとも思います。対して、日本では、映画も含めて、徹底的な悪人という描き方は少ないように思います。国造りにおいて、仏教を基盤としたか、儒教を基盤としたかの違いのようにも思えます。

映画は、主演の二人を中心に進みますが、双方の陣営における他の将軍たちが、事の成り行きに右往左往する不甲斐ない姿も強調されています。一方で、中間管理職的な若手幹部たちの気骨ある行動が対照的に描かれています。このあたりも、観衆をくすぐる韓国の娯楽映画伝統のうまさだと思います。その点も含め、善悪の構図を分かりやすく提示し、スピード感を重視するという本作のスタンスは、総体としてはTV的な面があります。人物描写や画角等もTV的にならざるを得ないところがあり、映画としては奥行きのないものになっています。また、国軍同士の対立なので、同じ軍服、似た髪形といった点や日本人には区別しにくい職名や氏名ということも含め、主役以外は見分けがつきにくいという恨みも残りました。

粛軍クーデターは大事件ながら、あくまでも軍内部の抗争であり、社会では民主化を求める動きが加速していました。プラハの春にならって、ソウルの春とも呼ばれた動きです。軍を掌握した全斗煥は、大統領をも手玉にとり、保守化を強めていき、翌年には5・17非常戒厳令拡大措置を打ち出します。それに抵抗して発生した光州事件では、全斗煥の命令によって、国軍が多くの市民を殺害しました。民主化後、全斗煥と盧泰愚は死刑判決を受けることになります。首都警備司令官の張泰玩少将は、粛軍クーデター後、予備役に編入され、民主化後、民間企業のトップ等を務めています。クーデター直後、少将の父親は、忠臣の家族は謀反者の下で生きていけない、として断食し自らの命を絶っています。長男は、1982年、祖父の墓の前で不審死しています。また、映画にも登場する妻は、2012年、少将の没後、投身自殺しています。韓国社会の苛烈さを感じさせる話です。(写真出典:klockworx.com)

2024年9月11日水曜日

善知鳥

善知鳥神社
青森市の中心部、港にもほど近い安方町に、善知鳥(うとう)神社があります。青森市では、最も古く、格式の高い神社とされます。5世紀前半の允恭天皇の頃、鳥頭中納言藤原安方が外ヶ浜を平定し、鎮護神として天照大御神の子である宗像三女神を祭った事が起源とされます。また、別な説では、流罪となって外ヶ浜にたどり着いた安方が、宗像三女神を祀るために建てた祠が起源とされます。安方が亡くなると、見慣れない鳥が祠に飛んできて、雄はウトウ、雌はヤスカタと鳴きます。村人は、この鳥を安方の化身として恐れ敬います。ある日、猟師が誤って雌鳥を撃つと、雄鳥が田畑を荒し始めます。猟師も変死したため、祟りを恐れた村人は雄鳥を丁重に弔ったと伝わります。

以降、この地は、善知鳥村、あるいは善知鳥安方村と呼ばれるようになったともされます。その後、祠は寂れますが、坂上田村麻呂によって再建されたとも言われます。四国の弘法大師、東北の坂上田村麻呂は、やたらと土地の伝承に登場しますが、そもそも田村麻呂は青森までは来ていません。安方にまつわる伝承そのものも眉唾ものですが、ウトウ(善知鳥)という鳥は実在する海鳥です。北太平洋沿岸に広く分布し、北海道や東北沿岸でも見られます。夏になると嘴の付け根に突起が出るので、アイヌ語で突起を意味するウトウと呼ばれるのだそうです。野太い鳴き声は独特ですが、ウトウとは聞こえません。それにしても、なぜウトウが善知鳥と記され、なぜ善知鳥神社が創建されたのかは謎と言わざるを得ません。

さらに不思議なことに、長野県の塩尻には善知鳥峠があります。その名に関する伝承が残されています。猟師が北国の浜で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴い、都へ売りに行きます。親鳥は、ウトウ、ウトウと鳴きながら、猟師の後を追い続けます。猟師の親子は、険しい峠道で吹雪に襲われ、親は子をかばうように覆って絶命します。吹雪の後、村人たちは、泣きじゃくる子と死んだ猟師を発見します。また、傍らには鳴き続ける雛鳥と覆うようにして死んだ親鳥の姿もありました。村人たちはその鳥が善知鳥(ウトウ)であると知り、猟師とともに手厚く弔い、その地を善知鳥峠と呼ぶようになったというのです。塩尻は海の塩を運ぶ交通の要所でしたが、それにしても、この山中で海鳥の名を持つ峠とは、誠に不思議な話です。

世阿弥作とされる謡曲に「善知鳥」があります。諸国を回る僧が、外ヶ浜へ行く途中、立山に寄ると、死んだ猟師の亡霊が現れ、自分の蓑笠を外ヶ浜の家族のもとに届けて弔ってもらいたいと告げます。外ヶ浜に着いた僧は、猟師の家族とともに弔いをします。すると猟師の亡霊が現れます。親鳥がウトウと鳴くと雛がヤスカタと鳴き返す善知鳥の習性を利用して、多くの善知鳥を殺したため、殺生の罪で苦しんでいると告げます。僧の弔いで猟師は成仏し、感謝するという内容です。亡霊が猟の様子を伝える所作カケリが見事な能楽です。物語は、明らかに青森の善知鳥伝説が下敷きになっています。室町期の京都でも善知鳥伝説が知られていたことになりますが、実は、平安末期から鎌倉期の和歌にも詠み込まれています。

西行法師は「子を思う 涙の雨の 笠の上に かかるもわびし やすかたの鳥」という歌を残しています。また、後鳥羽院の勅命によって編纂された新古今和歌集には、藤原定家が詠んだ「みちのくの 外ヶ浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」という歌が残されています。外ヶ浜は、陸奥湾の西側一帯を指しますが、国の端を意味していたとされます。善知鳥伝説の起源もさることながら、なぜ北端の寒村の伝承が都にまで伝わったのかは謎であり、不思議な話です。背景には陸奥の金があるのかもしれません。8世紀中葉、陸奥で金脈が発見され、以降、朝廷による蝦夷征討が本格化します。19世紀、カリフォルニアで金が発見されるとゴールドラッシュが起き、一気に西部開拓が進みます。陸奥は平安期のフロンティアだったと言えます。インディアンと蝦夷は、ほぼ同じ歴史を持っているわけです。(写真出典:ja,wikipedia.org)

2024年9月9日月曜日

路面のステーキ屋

チャイムのステーキ
日本の高度成長を支えた要素の一つは、ざる蕎麦だと思っています。というのも、入社間もない頃のことですが、高度成長期を戦ってきた先輩たちの昼食と言えば、ほぼ毎日、ざる蕎麦でした。早い・安い・うまいということでしょうが、早いは、出るのも食べるのも早いということです。メシを食うのが遅い奴は仕事ができない、というのが先輩たちの常識でした。皆、競うようにざる蕎麦をすすっていたものです。企業戦士たちがざる蕎麦を食べ続けた背景には、どこにでも蕎麦屋があったという環境もあります。商店街にも、住宅街にも、特にサラリーマン街には複数の蕎麦屋が必ずあったものです。

もちろん、昼食に蕎麦以外のものを食べることもありました。何か祝うべきことがあれば、鰻屋、寿司屋等へ行ったものです。いわばサラリーマンにとってのフェスティバル・フードです。また、その中間に位置するような昼食メニューも多くありました。その一つがステーキです。もちろん、目の前の鉄板でシェフが焼いてくれるA5ランクの高級ステーキではありません。安価なランチ・サービスです。100g強の安い肉をサービス・ステーキと称して提供するわけです。入社したての頃、スエヒロのサービス・ステーキは、ご飯・味噌汁がついて500円でした。お腹いっぱいにはなりませんが、ステーキを食べたという満足感はありました。そんなステーキ屋も、サラリーマン街には必ずと言っていいほどあったものです。

そうした大衆的なステーキ屋を、”路面のステーキ屋”、略してロメステと呼びたいと思います。B級グルメがブームとなりつつあった2000年頃に登場した”路面のスパゲティ屋”、いわゆるロメスパという言葉にあやかってのことです。近年、ロメステの店舗数は減ったように思いますが、しぶとく安いステーキを提供し続けている店も存在します。最近のサービス・ステーキの価格は、1,000円前後といったところだと思います。かつては固い肉が多かったのですが、近年は仕込みや調理も進化して、そこそこ柔らかい肉が出ます。ただ、味は相変わらずイマイチですが、そこはこっちも了解済みというわけです。ロメステでは、ソースで味を誤魔化す傾向があります。その濃いソースにハマる人も多かったように思います。 

久々にロメステを食べたくなり、東銀座のビルの地下にある「チャイム」へ行ってみました。実は、初めて行く店です。通っている歯医者の近くにあって、気になっていました。10卓ばかりの小ぶりな店です。行ったのが昼時だったこともあり、5~6人ほどの行列ができていました。回転は早いはずだと思い列につきました。諸物価高騰のおり、ランチ・メニューには工夫がしてありました。豚や羊を千円程度で提供し、ステーキ・ランチはWカットと称して1600円。他に限定メニューとして、ヒレ肉やリブロースを2,000円前後で出していました。各テーブルには鉄板があり、店主がそこでステーキを焼くというやや高級スタイルです。ソースは、自分で醤油と酢と辛子を混ぜるスタイル。肉に自信があるということです。

うまい方法だと思ったのは、店内の張り紙に肉を1.5倍に増量可とありました。ついつい私もステーキ・ランチの1.5を注文してしまいました。十分に満足感を得ることができました。生き残ったロメステは、こうした工夫をしているものなのでしょう。2013年にオープンした立食いの「いきなり!ステーキ」は大ブームを巻き起こしました。食べた肉のグラム数でポイントが貯まる肉マイレージも秀逸なアイデアでした。私も、一時期、通いました。ロメステよりもやや高い価格設定ながら、多くの肉好きが”いきなり!ステーキ”に流れたものと思います。ただ、調子に乗って店舗を急拡大したことが裏目に出て、カニバリによる売上減少、従業員の教育不足によるクレームの大量発生が起き、凋落します。現在は、店舗数を大幅に縮小し、システムも変えて、細々と営業しています。実に残念。昔から大量出店による自滅はよくありました。人気が出ると、ついついやっちゃうのでしょうね。(写真出典:tabelog.com)

2024年9月7日土曜日

大仏

鎌ヶ谷大仏
新京成の鎌ヶ谷大仏駅近くにカー・ディーラーがあり、車検や点検のために、年に一度は通っていた時期があります。駅名にまでなっている大仏を一度拝んでおきたいと思いながらも、どこにあるのかも分からず、日が経ちました。車で通りかかるので、駅の近くの墓地にさほど大きくない仏像が鎮座しているのは知っていました。なんとそれが鎌ヶ谷大仏でした。高さ1.8mの大仏は、意外と小ぶりなので”がっかり大仏”とも言われているようです。江戸中期に、大商人が先祖供養のために建立した鋳造青銅製の釈迦如来像です。がっかりとは随分な言い方ですが、大仏と言えば真っ先に奈良の大仏や牛久大仏が思い浮かぶので、拍子抜けするのはやむを得ないところです。

全国に大仏と呼ばれる仏像は、現存するだけで120余りあるようです。日本三大大仏とされるのは、奈良の大仏、鎌倉の大仏までは明確なのですが、残る一つについては移り変わりがあるようです。江戸期までは京の大仏と言われた方広寺の大仏だったようです。火災や地震で崩壊、再建もされたようですが、今は残っていません。戦前には神戸にあった兵庫の大仏が三番目だったようです。ただ、戦争末期の金属類回収令に応じて供出されたようです。戦後は、鋳物の街に建造された高岡大仏、あるいは板橋の東京大仏が挙げられていたようです。昨今で言えば、ブロンズ立像としては世界一を誇る牛久大仏を入れるべきかと思います。高さ(全長)の順番では、牛久大仏120m、福岡県南蔵院の涅槃仏40m、千葉県日本寺の大仏31mとなります。

海外を見れば、中国の魯山大仏の208mはじめ、ミャンマーのレイチュン・セッチャー大仏129.5m、中国の磨崖仏・楽山大仏71m等々、多くの巨大大仏があります。磨崖仏以外の大仏は、すべて近年になってからの建立です。バンコクへ行った際には、2021年に完成したワット・パクナムの黄金の大仏69mに圧倒されました。これら巨大仏像がある一方で、鎌ヶ谷大仏も大仏と呼ばれます。大仏の定義は何なのかと思ってしまいます。仏像の高さは、立像で一丈六尺(約4.85m)、座像ならその半分というのが基本になっているようです。この高さは、お釈迦さま、ゴータマ・シッタールタの身長が一丈六尺だったという伝承に基づいているとのこと。まさか、の一言ではありますが、いずれにしても基本である一丈六尺を超えれば大仏と呼ばれるようです。

寺院の庭などでは、たまに仏足石を見かけることがあります。仏足石は、お釈迦さまの足裏を石に刻んだものです。大きさは様々ですが、おおよそ40~50cmといったところです。足のサイズから類推すれば、お釈迦さまの身長は3m超ということになります。ただ、仏足石は、お釈迦さまの足そのものというわけではなく、お釈迦さまの身体的特徴である”三十二相八十種好”を表わしています。足に関しては、扁平足である、足裏に輪形の相がある等の特徴があり、仏足石に表わされています。お釈迦さまの外見的特徴はすべてありがたいものであり、宗教的理想とも言われます。象徴的なものにもかかわらず、やはり大きく作ってしまうのは、お釈迦様の身長一丈六尺に関わる伝承があるからなのでしょう。

実は、この仏足石の起源は仏像よりも古いとされています。哲学的であった原始仏教に偶像崇拝はありませんでした。紀元前7~5世紀頃とされるお釈迦さまの入滅後、その教えを伝えるために図が作られ、その後、お釈迦さまを象徴する仏舎利、ストゥーパ、法輪、仏足石、あるいは菩提樹などが崇拝の対象になっていきます。仏像は紀元前1世紀から紀元1世紀頃になって、ガンダーラやマトゥラーで作られ始めます。アレキサンダー大王の東征によってもたらされたヘレニズム文明の影響下で生まれたとされます。ガンダーラの仏像は、西洋人の顔をしていることで知られますが、高さは釈迦立像でも2m50cm程度が最大とされます。一丈六尺は、仏像がインドで普及した後に確立されたということなのでしょう。(写真出典:next.jorudan.co.jp)

2024年9月5日木曜日

ツイン・ピークス

TVシリーズ「ツイン・ピークス」は、1990~1991年、シーズン1と2がアメリカのABCで放送されました。ちょうどNYに駐在していた頃です。デイヴィッド・リンチが、初めてTVシリーズを撮るというので、放送前から話題になりました。普段は、TVドラマなど見ないのですが、大いに期待して見ました。歴史的名曲とされるあのテーマ曲が流れた瞬間、これはやられたと思いました。TVドラマの枠を超えて展開されるデイヴィッド・リンチ・ワールドに全米が熱狂し、社会現象と言われるほどでした。放送開始からほどなくして、ニューズ・ウィーク誌が、ツイン・ピークスを特集し、登場人物の相関図まで載せていたことを覚えています。30年経った今でも、世界中からロケ地を訪れる人が絶えないというのですから、たまげます。

デイヴィッド・リンチは、自身の映画製作のために多忙だったこともあり、シーズン2への関与は限定的でした。また、大ヒットに気を良くしたABCが製作に口出しをはじめたため、シーズン2はグダグダになっていきます。視聴率も大幅に低下し、シーズン3が製作されることはありませんでした。最大の問題は、視聴者の声に押されてローラ・パーマー殺人事件の犯人をシーズン途中で明かしたことだとされます。ただ、ツイン・ピークスは、異界に関わる一つのサーガであり、ローラ・パーマーの殺人は単なるマクガフィンに過ぎません。とは言え、視聴者はフーダニットに熱中してしまったわけです。そうさせたのはABCの責任であると同時に、1本の映画ではなく長期に渡るTVシリーズだという認識が不十分だったデイヴィッド・リンチの責任でもあると思います。

シーズン3は、全編、デイヴィッド・リンチとマーク・フロストが脚本を書き、デイヴィッド・リンチが監督しています。今回は、反省を踏まえて、一気に全ての撮影を行い、それを分割してTVシリーズ化したようです。日本ではWOWOWの独占放送でしたが、今般、Amazon Primeで配信されたので、ようやく見ることができました。シーズン3では、デイヴィッド・リンチが、好き放題に独自の世界を展開しています。デイヴィッド・リンチを楽しむためには、映像が意味することを深掘りしたり、散発的なストーリーをつなげようなどと考えず、ひたすら奇妙でシュールな世界をそのまま受け入れることです。そこで感じる違和感は感性を解放する効果があり、精神的自由を感じることになります。それがデイヴィッド・リンチ映画の魅力です。

当然、世界観やキャラクターは前シーズンからしっかり継続されていますが、驚いた事にキャストもオリジナル・メンバーが徹底的に再起用されています。”あれから25年”という設定が利いており、実年齢を重ねた出演者たちの姿がまるで同窓会状態でした。また、デビット・ボウイなど亡くなった役者については、過去の映像をうまく使っています。デイヴィッド・リンチ・ファミリーも勢揃いですが、今回はファミリーの大御所ローラ・ダーンも、前シーズンでは姿が見えないままだったダイアン役で登場しています。短いシーンながら、モニカ・ベルッチまでが本人役で登場していました。舞台はツイン・ピークスから広がり、ラス・ヴェガス、サウス・ダコダのバックホーン、さらにはNYやブエノスアイレスも登場します。

音楽へのこだわりもデイヴィッド・リンチらしいところです。オープニングは、当然、アンジェロ・バダラメンティの名曲ですが、エンディング・テーマは、お馴染みの“バン・バン・バー”、通称”ロードハウス”でのライブという設定になっています。前シーズンでもジュリー・クルーズがライブで歌っていましたが、今回は、クロマティックス、ナイン・インチ・ネイルス、オルヴォァ・シモーネ等々、いかにもデイヴィッド・リンチ好みのバンドが登場します。ライブ・シーンには、前と同じく町の実情が垣間見える客の会話シーンが挿入されます。うまい仕掛けです。回が進むと、今回はどんなバンドが出演するのか、どんな会話がなされるのか、楽しみになっていきます。他にも、オーティス・レディング、ブッカーT&MG'S デイブ・ブルーベック、サント&ジョニー等の曲が効果的に挿入されています。(写真出典:tvtropes.org)

2024年9月3日火曜日

亜熱帯

亜熱帯という言葉は、よく耳にする言葉ですが、学術的には定説の無い言葉のようです。最も単純な気候帯の区分は、回帰線と極線に基づく熱帯・温帯・寒帯ということになります。あまりにも大雑把すぎるので、一般的には、ケッペンの気候区分が使われているようです。植生に基づき、気温と降水量によって30地域に区分されています。基本は、熱帯・乾燥帯・温帯・亜寒帯・寒帯という気候帯になりますが、これを気温と雨量によって、さらに細分化したものが気候区分となります。そのなかに亜熱帯という区分はありません。日本は、関東以南が温暖湿潤気候、東北・北海道は亜寒帯湿潤気候、さらにその高地は湿潤大陸性気候となります。また、高山はツンドラ気候、南の離島はサバナ気候や熱帯雨林気候と幅広い気候区分を持ちます。

近年、一部の気象学者の間で、日本の亜熱帯化という議論があるようです。その大きな根拠として、黒潮の流れが変わったことが挙げられています。黒潮は、フィリピン周辺から北上する暖流で、日本列島に沿って房総半島沖まで達します。その後、東へと流れていきますが、一部は三陸沖にまで達し、南下してきた寒流である親潮とぶつかって世界三大漁場の一つを生みます。黒潮は、たまに紀伊半島沖で蛇行することが知られています。黒潮の大蛇行と呼ばれる現象は、一度発生すると1年以上に渡って継続するとされます。ただ、2017年に発生した大蛇行は、現在、7年を超えて継続しています。さらに、その影響から、黒潮は房総半島沖を越えて、東北北部にまで北上し、日本近海の海水温を押し上げています。

大気の流れと違い、海流は、そう簡単には変わらないようです。日本近海の海水温の上昇率は世界一と聞きます。黒潮の影響がいかに大きいかということです。今年の夏は灼熱地獄に大型台風と大荒れでしたが、今後、しばらくはこの状態が続くと覚悟する必要があります。農業や漁業への影響も大きなものがあります。伝統的な農業・漁業から、暑さを前提とした農作物の栽培、黒潮の流れを考慮した漁への転換が求められることになります。近年、魚沼産コシヒカリは、天候不順の影響を受け、厳しい状況に置かれています。新潟県は、2017年、”新之助”という新種米を投入しました。高温障害や気象災害のリスクと収穫作業の分散をねらった晩生品種とのことです。変更の負荷が大きくとも、こうした亜熱帯化への対応を急ぐべきなのでしょう。

亜熱帯化は、台風や降雨量にも大きな変化をもたらしています。土砂災害に関しては、ハザードマップや注意喚起に留まらない対応が求められます。過日の台風10号では、新宿駅西口のマンホールが宙高く飛ばされる映像に驚きました。都市部では河川の氾濫リスクだけでなく、下水溝のキャパシティが大きな問題となっています。かつてホーチミン市で、強烈なスコールに襲われたことがあります。驚いたのは、下水のキャパの大きさと道端の排水口の大きさです。排水口は、小学生くらいなら、簡単に吸い込まれそうな大きさで、グレーチングもありませんでした。短時間に降る膨大な雨量への対応なのでしょう。日本の都市部の下水の排水量は時間50mが限界と聞きます。これもお金と時間がかかっても変えていくべきだと思います。

亜熱帯へと気候区分が変われば、伝統的な衣食住や文化も大きく変化することになります。個人の対応だけでは不十分であり、国をあげた大規模な取組が求められます。ギリシャでは、戸外で働く業種に対して、午後の労働を禁じる法律が施行されました。それに伴う社会的負荷はとても大きいと思いますが、国民の命を守るという観点からすれば、まっとうな取組だと思います。今後、注目すべきは、1月の平均最低気温だと思います、東京は2度くらいですが、それが10度に近づくことがあれば、亜熱帯化はほぼ確定ということになります。日本が気候激変という未曾有のリスクに直面する最中、政権与党は親分選びのゲームに興じています。まるでブラック・ジョークです。世も末だと言わざるを得ません。それにしても、生きているうちに、地球と日本が破滅へと向かう姿を目にするとは思っていませんでした。(写真出典:rinya.maff.go.jp)

2024年9月1日日曜日

唐辛子

カレーの辛さを何倍と指定して注文するスタイルは、1974年、渋谷に開店した「ボルツ」からとされます。90年代のエスニック・ブームあたりから、このスタイルは一般化していきます。1988年に店を開いた神田神保町の名店エチオピアもその一つです。店名からしてエチオピアのカレーなのかと思いましたが、かつてはコーヒー主力の店であり、店名をそのままにカレー専門店に衣替えしたようです。エチオピアのカレーは好きですが、辛さは3倍と決めています。一度、5倍に挑戦しましたが、口の中が痛いだけで味を楽しめませんでした。あるとき、カウンターの隣に座ったおっさんが50倍を注文し、平然と食べていました。メニュー上は70倍まで可能です。10倍以上を注文する人たちは、明らかにカプサイシン中毒患者だと思います。 

そもそも辛さは味ではなく、単なる刺激です。唐辛子の辛味成分であるカプサイシンは、唾液の分泌を促し食欲を増したり、血行を良くして体を温める効果があります。また、体内では、辛さを中和させるために幸福物質とも呼ばれるβエンドルフィンが分泌されることも知られています。これが、カプサイシン中毒を生む原理かもしれません。刺激である以上、慣れということもあります。辛味に慣れてくるとその効用は薄れてくるので、同じ効果を求めればスコヴィル値をエスカレートさせていくしかありません。スコヴィル値は、辛さを示す単位であり、唐辛子の溶解液に砂糖水を足していき、辛味を感じなくなった瞬間の砂糖水の倍率を指します。唐辛子類ながら辛くないピーマンのスコヴィル値はゼロとなります。

一般的な唐辛子のスコヴィル値は4~5万とされます。すっかり一般化したハバネロで20万、長らく最も辛い唐辛子とされてきたブート・ジョロキアで100万、品種改良されたキャロライナ・リーパーは157万、近年、世界一に認定されたペッパーXは318万に達します。また、辛味調味料の競争も激化しています。市販品では”ザ・ソース”がトップとされ、スコヴィル値は710万。限定品ながらその上をいくのが”ブレアの午前6時”で1600万スコヴィルとなり、カプサイシンの結晶と同じ辛さです。調味料の辛さを伝える際、タバスコの何倍といった表現がよく使われます。発酵させた唐辛子に酢を加えたタバスコのスコヴィル値は5000程度です。”ブレアの午前6時”は、タバスコの3200倍というわけです。もはや死に至る危険な世界と言わざるを得ません。

唐辛子は、紀元前6500 ~ 5000年頃からメキシコで栽培されていたとされます。唐辛子を中南米から持ち出したのはコロンブスだったようです。16~17世紀には世界中に広がり、各地で盛んに栽培されています。大航海時代と重なったとは言え、その伝播力の高さは驚異的と言えます。それほど、唐辛子は人々を魅了したということです。唐辛子以前にも、カラシナやコショウがありました。日本でも、カラシナは弥生時代、胡椒は奈良時代に伝播していたと聞きます。辛子は、カラシナの実をすりつぶし、水を加えて煉ることで辛味が生まれます。ただ、熱を加えると辛さは消えます。一方の唐辛子は、乾燥させた実をそのまま使え、砕いても辛さは変わりません。そして、カプサイシンの辛さは、熱を加えても変わることがありません。

使い勝手の良さもさることながら、なんと言っても熱い料理と辛さとの相性の良さが、唐辛子の爆発的伝播につながったのではないでしょうか。日本へは、16世紀、ポルトガル人が伝えています。よって南蛮という呼び方も残ります。唐辛子と呼んだのは、海外伝来のものには何でも唐と付ける習慣があったからなのでしょう。江戸期にかけての日本では、唐辛子の急速な普及は起きていません。和食には唐辛子が合うような熱い料理はあまりないように思います。日本での栽培が本格化したのは昭和初期のことだったようですが、背景にはカレーライスの普及があったと言われます。辛い料理は、暑い国や寒い国に多いように思います。いずれでもない日本では、普及が遅れて当然だったのでしょう。ちなみに、唐辛子は、文禄・慶長の役の際、日本から韓国に伝えられました。(写真出典:tenki.com)

マクア渓谷