2024年9月11日水曜日

善知鳥

善知鳥神社
青森市の中心部、港にもほど近い安方町に、善知鳥(うとう)神社があります。青森市では、最も古く、格式の高い神社とされます。5世紀前半の允恭天皇の頃、鳥頭中納言藤原安方が外ヶ浜を平定し、鎮護神として天照大御神の子である宗像三女神を祭った事が起源とされます。また、別な説では、流罪となって外ヶ浜にたどり着いた安方が、宗像三女神を祀るために建てた祠が起源とされます。安方が亡くなると、見慣れない鳥が祠に飛んできて、雄はウトウ、雌はヤスカタと鳴きます。村人は、この鳥を安方の化身として恐れ敬います。ある日、猟師が誤って雌鳥を撃つと、雄鳥が田畑を荒し始めます。猟師も変死したため、祟りを恐れた村人は雄鳥を丁重に弔ったと伝わります。

以降、この地は、善知鳥村、あるいは善知鳥安方村と呼ばれるようになったともされます。その後、祠は寂れますが、坂上田村麻呂によって再建されたとも言われます。四国の弘法大師、東北の坂上田村麻呂は、やたらと土地の伝承に登場しますが、そもそも田村麻呂は青森までは来ていません。安方にまつわる伝承そのものも眉唾ものですが、ウトウ(善知鳥)という鳥は実在する海鳥です。北太平洋沿岸に広く分布し、北海道や東北沿岸でも見られます。夏になると嘴の付け根に突起が出るので、アイヌ語で突起を意味するウトウと呼ばれるのだそうです。野太い鳴き声は独特ですが、ウトウとは聞こえません。それにしても、なぜウトウが善知鳥と記され、なぜ善知鳥神社が創建されたのかは謎と言わざるを得ません。

さらに不思議なことに、長野県の塩尻には善知鳥峠があります。その名に関する伝承が残されています。猟師が北国の浜で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴い、都へ売りに行きます。親鳥は、ウトウ、ウトウと鳴きながら、猟師の後を追い続けます。猟師の親子は、険しい峠道で吹雪に襲われ、親は子をかばうように覆って絶命します。吹雪の後、村人たちは、泣きじゃくる子と死んだ猟師を発見します。また、傍らには鳴き続ける雛鳥と覆うようにして死んだ親鳥の姿もありました。村人たちはその鳥が善知鳥(ウトウ)であると知り、猟師とともに手厚く弔い、その地を善知鳥峠と呼ぶようになったというのです。塩尻は海の塩を運ぶ交通の要所でしたが、それにしても、この山中で海鳥の名を持つ峠とは、誠に不思議な話です。

世阿弥作とされる謡曲に「善知鳥」があります。諸国を回る僧が、外ヶ浜へ行く途中、立山に寄ると、死んだ猟師の亡霊が現れ、自分の蓑笠を外ヶ浜の家族のもとに届けて弔ってもらいたいと告げます。外ヶ浜に着いた僧は、猟師の家族とともに弔いをします。すると猟師の亡霊が現れます。親鳥がウトウと鳴くと雛がヤスカタと鳴き返す善知鳥の習性を利用して、多くの善知鳥を殺したため、殺生の罪で苦しんでいると告げます。僧の弔いで猟師は成仏し、感謝するという内容です。亡霊が猟の様子を伝える所作カケリが見事な能楽です。物語は、明らかに青森の善知鳥伝説が下敷きになっています。室町期の京都でも善知鳥伝説が知られていたことになりますが、実は、平安末期から鎌倉期の和歌にも詠み込まれています。

西行法師は「子を思う 涙の雨の 笠の上に かかるもわびし やすかたの鳥」という歌を残しています。また、後鳥羽院の勅命によって編纂された新古今和歌集には、藤原定家が詠んだ「みちのくの 外ヶ浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」という歌が残されています。外ヶ浜は、陸奥湾の西側一帯を指しますが、国の端を意味していたとされます。善知鳥伝説の起源もさることながら、なぜ北端の寒村の伝承が都にまで伝わったのかは謎であり、不思議な話です。背景には陸奥の金があるのかもしれません。8世紀中葉、陸奥で金脈が発見され、以降、朝廷による蝦夷征討が本格化します。19世紀、カリフォルニアで金が発見されるとゴールドラッシュが起き、一気に西部開拓が進みます。陸奥は平安期のフロンティアだったと言えます。インディアンと蝦夷は、ほぼ同じ歴史を持っているわけです。(写真出典:ja,wikipedia.org)

マクア渓谷