2025年3月14日金曜日

プラナカン

プラナカンとは、主に福建省からマラッカ海峡周辺に渡ってきた中国人と現地のマレー人やインドネシア人との混血によって生まれた子孫たちを指します。プラナカンという言葉は、もともと子孫を意味していたようですが、その後、現地化した中華系を指す言葉になったようです。プラナカンは、海峡華人とも、ニョニャ・ババとも呼ばれます。ニョニャは女性、ババは男性を表します。ニョニャはポルトガル語、ババはペルシャ語由来とされます。中華系ながら、華僑とは異なり、中国本土との関係は維持されませんでした。プラナカンは、中国文化と現地文化を融合した独自の世界を生み出し継続してきたわけです。不思議なことにプラナカンと多民族との混血は進まなかったようです。商業利権の継承が関係しているのではないかと想像します。

15世紀以降のマラッカの繁栄はプラナカンたちによって築かれたと言っていいのでしょう。マラッカは、昔から交易の要衝だったわけですが、14世紀末にマラッカ王国が建国され、繁栄の時代を迎えます。国王は、スマトラの王家出身ですが、独立を企てて失敗し、半島を転戦してマラッカにたどり着きます。 木陰で昼寝した王は、縁起の良い夢を見たことから、その木の名前であるマラッカを国名とします。15世紀初頭には、明の永楽帝の指示を受けた鄭和の大船団がマラッカに寄港します。その縁か、王国は明と結ぶことで、北のシャム、南のスマトラのイスラム王国の脅威から守られることになります。恐らく、この頃から華人の来航が増えていくのでしょう。16世紀になると、ポルトガルによって占領され、東南アジア開拓の拠点とされます。

この頃、ゴアを拠点に布教活動を行っていたイエズス会のフランシスコ・ザビエルは、マラッカで出会った日本人ヤジロウの勧めで日本への布教の旅に出ています。また、中国への布教の途上亡くなったザビエルの遺骸は、数ヶ月間、マラッカに安置され、その後、ゴアで埋葬されています。その後、マラッカは、17世紀にオランド領となり、19世紀には英蘭協定によってイギリスの植民地となります。こうしてマラッカは多くの文化が交錯する独特な文化を築いていきます。2008年、マラッカは、ユネスコ世界遺産に登録されています。その中心となっているのが、かつてプラナカンたちが商店の軒を並べたオールド・タウン地区です。間口が狭く、奥行きのある建築は、ノスタルジックな雰囲気を醸し、かつての繁栄を偲ばせています。

プラナカンの文化を今に伝えるものの一つにニョニャ料理があります。中華料理とマレー料理が融合した料理の数々です。そもそもマレー料理は、インドネシア、タイ、南インドの影響が濃い料理であり、そこに中華が加わることで、東南アジア・オールスターズといった風情になります。移民文化が根付く地域の料理は、多くの民族が受け入れやすいよう角のないやさしい味になるものです。ニョニャ料理にも同じ傾向があるように思います。ニョニャ料理の代表格の一つがエビ出汁とココナツでマイルドに仕上げた米粉麺のラクサです。日本でも、成城石井が火付け役となり話題になりました。今回、クアラ・ルンプールでドライ・ラクサを食べましたが、とても美味しくて気に入りました。また、マラッカで食べたオンデオンデは、パームシュガーを緑色の餅粉で包み、ココナツ・フレークをまぶした蒸し菓子ですが、その穏やかな味が好きになりました。

1941年12月、日本軍は、英領マレー半島東部に上陸し、わずか70日間で半島を制圧、シンガポールを陥落させます。英軍に支援された抗日ゲリラも活動を始めます。日本軍は、日中戦争の影響から、中国系共産党ゲリラに対して過敏になり、中国系住民の虐殺も行っています。マラッカでも、終戦直後に中国系の虐殺事件が起きています。一方、マレー系住民は優遇され、民族対立が加速した面もありました。また、ゲリラには、抗日よりも英国からの独立を目的とするグループもあったようです。日本軍の侵略を受けながらも、マレー半島は、民族対立、対英独立運動等、複雑な状況を抱え、戦後にも濃い影を残します。結果論ですが、日本軍のマレー作戦は、英国の東南アジアにおける麻薬ビジネスを根絶したことで、英国の弱体化を招き、マレーシア連邦の独立につながったという見方をする人たちもいるようです。(写真:マラッカ・オールド・タウン 出典:4travel.jp)

2025年3月12日水曜日

泥の河

ヒジャブは、イスラム教の女性たちが髪を隠すために身につけるスカーフです。シャリーア(イスラム法)によって、女性は家の者以外に髪を見せてはならないとされています。ヒジャブの色柄、材質、被り方は、国によって大いに異なります。インドネシア、マレーシアの女性は、ヒジャブの被り方ですぐに判別できます。とりわけ地味な単色のヒジャブで首まで完全に覆うマレーシア系は、すぐに分かります。マレーシアではトゥドゥンと呼ばれるヒジャブの着用は、個人の判断に委ねられているようですが、着用率は高いように思われます。普段、ヒジャブを着用しない人でも、モスクでは着用が義務づけられます。モスクでは、外国人はじめ異教徒であっても、ヒジャブを着用しない限り、場内に入ることはできません。

初めてマレーシアへ行ってきました。マレー半島とボルネオ島北部で構成されるマレーシアは、日本の9割ほどの国土に人口は3,500万人。海に囲まれているので年間平均気温は27度とあまり高くありませんが、湿度は非常に高く、まさに熱帯の国です。国土は6割がジャングルに覆われた山岳地帯であり、比較的平地の多い西側が国の中心です。国民は、マレー系65%、中国系25%、インド系8%で構成されます。マレー系を中心に、国民の6割がイスラム教徒であり、国はイスラム化政策を採っています。一人当たりGDPは12,000ドルを超え、近隣のタイ、ベトナム、インドネシアを越えています。マレーシアは、石油はじめ鉱物資源に恵まれ、かつ工業化にも成功した国であり、アジアの優等生とも言われます。そして、鉱物資源の開発は錫から始まりました。

クアラ・ルンプールとは、マレーシア語(マレー語)で「泥の河」という意味なのだそうです。市内を流れるクラン川とゴンバック川の合流地点には、1909年に建立されたという美しいスルタン・アブドゥル・サマド・ジャメ・モスクがあります。かつて、この場所では、採掘した錫を洗っており、河はドロドロだったようです。まさに近世マレーシアの成り立ちを象徴する場所と言えます。一方、中世マレーシアを象徴するのはマラッカなのでしょう。マラッカ海峡に臨むマレーシアは、古くから交通、交易の要衝だったようです。特に、自由貿易港マラッカは、その中心でした。15世紀初頭に成立したマラッカ王国は、中東、インド、アジア各国を結ぶアジア屈指の貿易港として栄え、日本や琉球からも船が通っていました。

大航海時代に入ると、ポルトガル、オランダ、そしてイギリスの支配が続きます。19世紀にはイギリスの植民地となり、第二次世界大戦中は日本に占領されますが、1957年、マラヤ連邦独立まで植民地の時代が続きます。1963年には、イギリス領だったボルネオ島北部やシンガポールを含めマレーシア連邦が成立します。ただ、1965年、イスラム化を進める連邦と中華系の多いシンガポールの溝は深まり、民族暴動を機にマレーシアはシンガポールを追放しています。その後、シンガポールは著しい経済発展を遂げますが、イスラム化を進めたマレーシアは遅れをとることになります。一概に言えるものではありませんが、工業化を成功させたとは言え、資源に頼ってイスラム化を進めてきたマレーシアの基本スタンスは、現在も変わっていないように思えます。

首相官邸を含むマレーシアの連邦行政府のほぼ全てが、計画都市プトラジャヤに移転しています。30年前に建設が始まったプトラジャヤは、クアラ・ルンプールから25kmほどのところにあり、人口12万人、住民のほぼ全てが連邦職員とその家族です。首都は、国王と国会が所在するクアラ・ルンプールのままになっています。20世紀以降の首都移転はことごとく失敗したと言われますが、マレーシアの場合はうまくいっているように思います。プトラジャヤ着工と同じ頃、クアラ・ルンプールに、当時、世界一の高さを誇ったペトロナス・ツイン・タワーが完成しています。この頃が、マレーシアの近代化の大きな節目だったのでしょう。豊富な鉱物資源がゆえに、教育・医療が無償化され、治安が良く、物価も安く、街も清潔なマレーシアですが、不足しているのは民間の活力なのではないでしょうか。そこにはイスラム化政策が影を落としているように思えます。宗教という檻の中の平穏か、自由という荒野における競争か、ということかもしれませんが・・・。(写真:ペトロナス・ツイン・タワー 出典:ja.wikipedia.org)

2025年3月10日月曜日

塩昆布

えびすめ
塩昆布は大好物の一つです。昆布を炊いた料理は、平安時代からあったようですが、塩昆布は、天明元年(1781年)に大阪で創業した「神宗」が明治期に売り始めたのが嚆矢とされます。神宗は、今でも日本を代表する高級佃煮店として知られます。随分と大仰に聞こえる店名は、創業者である神嵜屋宗兵衛からきているようです。神宗は、「蛸の松」と呼ばれる包装も有名です。眉山玉震が幕末に描いたという重文「大坂中之島久留米藩蔵屋敷絵図」の一葉であり、神宗に家宝として伝わっていたものだそうです。当初、塩昆布はまかないだったようですが、明治政府肝いりの内国勧業博覧会に出品されると評判を呼び、一気に知名度があがりました。

神宗の塩昆布は、しっとりとした佃煮系です。対して、塩吹きタイプの塩昆布は、昭和24年(1949年)、「小倉山山本」の「えびすめ」の発売に始まるとされます。塩吹きタイプは、昆布を煮詰めて乾燥させたものです。えびすめという名称は、古語で昆布を指します。”め”は、広く海藻類を指し、蝦夷の国の”め”なので、えびすめとなるわけです。小倉山山本は、嘉永元年(1848年)に、初代山本利助によって大阪で創業されています。えびすめは、三代目が開発したようです。贈答品として利用されることが多い神宗に対して、小倉山山本のえびすめは普段使いといったところです。ただ、決して安いわけではありません。いずれも厳選された昆布や他の材料を丁寧に炊き上げることから、どうしてもいいお値段になってしまうわけです。

塩昆布が、天下の台所と呼ばれた大阪で誕生したことは、もっともな話だと思います。昆布に関して言えば、大阪は単なる集積地だけはなかったようです。北前船で北国から運ばれた乾燥昆布は、高温多湿な大阪で熟成が進み、味が良くなったというのです。塩昆布誕生の背景には、大阪のお茶漬け文化も関わっているのでしょう。お湯漬けや水飯は、蒸した強飯が主だった古代から存在していたようですが、お茶漬けは、室町時代、関西から始まったとされます。かつて、米を炊くのは1日1回、かつ保温技術のない時代ですから、温かいご飯は1日1回、後は冷飯だったわけです。商人の多い大阪では昼に米を炊き、武士が多い江戸は朝炊いていたようです。商家の朝は多忙を極めます。朝食は、前日昼に炊いた米を茶漬けにしてかき込んだわけです。

当初、お茶漬けは漬物だけで食べていましたが、そこは全国の物産が集まる大阪のことですから、海苔、梅干しはじめ様々な工夫がされていきます。塩昆布も、その延長線上にあるのだと思います。初めは、まかないとして、はねものやおぼろ昆布の端など店に出せない昆布を炊いてお茶漬けに添えていたのでしょう。それが商品化され、人気を博したわけですが、近年では結構なお値段になっています。個人的には塩吹きタイプの塩昆布、とりわけえびすめが好きなのですが、もはや高級品です。四角いえびすめに対して、細切りにした塩昆布“しら磯”は随分と割安に買えます。端材を使っているからお安いのでしょう。昆布の味をしっかり楽しめるのはえびすめですが、お茶漬けにするならしら磯で十分であり、近年はもっぱら細切り専門になっています。

さて、話は少し逸れますが、湯漬けに関する大好きな話があります。平安中期の三条中納言こと藤原朝成は、大食いの肥満体だったようです。それを気にした三条中納言は、医者から、湯漬け・水飯で痩せろ、という助言を得ます。それが一向に成果が出ないというので医者が訪ねてみると、三条中納言は、干瓜十本、鮨鮎三十尾をおかずに、大盛りのご飯の上に水を少し垂らしたものをお代わりまでして食べていたというのです。今昔物語集に出てくる話です。医者がイメージしたのは、漬物程度をおかずにした軽い食事だったのでしょう。ただ、三条中納言の気持ちもよく分かります。塩昆布好きとしては、お茶漬けなら何杯でも食べられそうな気がします。その時代に塩昆布があれば、三条中納言のお代わりは2~3回では済まなかったかもしれません。(写真出典:rakuten.co.jp)

2025年3月8日土曜日

夢の酒

和歌山淡島神社
死んだ自分と相対するという落語「粗忽長屋」 は、古典落語のなかで最も奇妙な傑作だと思いますが、それに次ぐほどに奇妙な傑作が「夢の酒」だと思います。若旦那が居眠りをして寝言を言っていると女房に起こされます。何の夢を見てたのかと聞かれた若旦那は、 絶対に怒るなよ、と念を押してから話し始めます。向島へ用足しに行くと雨に降られます。ある家の軒先で雨宿りをしていると、その家に呼び込まれます。そこには若旦那を慕っていたという綺麗な御新造さんがいます。飲めない若旦那ですが、勧められるままに酒を飲んで倒れ、布団を敷いてもらいます。すると御新造さんも布団に入ってる、という夢でした。案の定、怒り狂った女房と若旦那は口論になり、心配した大旦那が仲裁に入ります。

どうにも怒りが収まらない女房は、大旦那に、向島へ行って御新造さんを叱ってくれと頼みます。夢の話だから無理だと言うと、淡島様の上の句を詠めば人の夢の中に入れると言うから行ってくれと懇願されます。大旦那は、渋々、言われたとおりにします。すると不思議なことに、夢の中で、やはり向島の綺麗な御新造さんの家にあがることになります。酒好きの大旦那は、燗酒を所望します。御新造さんは、燗がつくまでのつなぎに冷や酒を勧めます。大旦那が、私は冷や酒はやらない、と断っているところを女房に起こされます。大旦那が、惜しかった、と言うと、女房は、談判する前に起こしてしまいましたか、と聞きます。そこで大旦那が一言、いや、冷やでもよかった。これがオチになっています。

18世紀後半の作とされますが、まるで星新一が書いたショート・ショートかと思うほど奇妙な設定です。淡島様とは、和歌山市にある淡島神社を総本社とする民間信仰、あるいはその祭神を指します。淡島神は、イサナギとイザナミの2番目の子“淡島”とも、大国主の国造りに活躍した少彦名神とも言われます。江戸期には、安産や婦人病など女性に関する諸事に霊験があるとされ、信仰されていたようです。その伝道師となったのが、神棚を背負い祭文を唱えながら市中、特に色町を回ったという淡島願人だとされます。また、淡島様の上の句とされるのが「われたのむ 人の悩みの なごめずば 世にあはしまの 神といはれじ」ですが、やや押しつけがましく、また出所もはっきりしません。民間信仰ならでは、と言えるのでしょう。

この淡島様の上の句は、頼み事はなんでも叶えるという意味だと思われます。他人の夢に入ることも含まれるということなのでしょうが、夢との関係が、どうもよく分かりません。イサナギとイザナミの国産み伝説においては、淡島の前に水蛭子(ヒルコ)が生まれていますが、二人とも障害があったために葦舟に乗せて流されます。その行方に関する伝承はありません。子作りに際し、イザナミから誘ったので障害のある子が生まれた、と神から聞かされた二人は、イサナギから誘うことにします。すると次々に子が生まれ、それぞれが島になって大八島、つまり日本列島が作られるわけです。男尊女卑の匂いプンプンですが、後に淡島神が女性の味方として信仰されたのは、このあたりに基づくものなのでしょう。

向島、御新造さんとくれば、なにやら艶っぽいな、と思うわけですが、それは向島の花柳界をイメージするからなのでしょう。東京六花街といえば、もともと柳橋・芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草でしたが、後に柳橋が廃れ、向島が入ります。戦前の向島には1,000人を超す芸妓がいたそうですが、今は100人ほどと聞きます。ただ、いずれにしても明治以降の話です。江戸期の向島は、墨堤の桜をはじめ風光明媚で、かつ手近な行楽地として人を集め、料亭も数件あったようです。ただ、花街はなかったわけです。にもかかわらず、艶っぽい話の舞台として向島が選ばれているのは、やはり浮世離れした土地柄だったからではないでしょうか。とりわけ、川向こうというところがポイントなのだと思います。(写真出典:wakayama.goguynet.jp)

2025年3月6日木曜日

アマゾンと楽天

寄席の楽屋で、高齢の師匠が中堅と世間話をしています。師匠が「あの若手は、随分と人気があるようだね」「そうですね、いつも客席は満席ですよ」「最近じゃ海外でも知られるようになったのかい?」「どうでしょうか」「だってよ、この前、楽屋に南米から荷物が届いていたよ」「師匠、それはアマゾンという通販会社ですよ」結構前に聞いた小噺ですが、実話でもあったようです。アマゾンと言えば、今やアマゾン川よりもAmazon.comの方が有名なのだと思います。アマゾンは、1994年、ヘッジ・ファンドのシニアVPだったジェフ・ベゾスによって創業されています。ベゾスは、アマゾンという語感が気に入り、アマゾン川のような世界一のオンライン書店を作りたいと願って社名を決めたといいいます。

インターネットの起源となったのは、1台のコンピューターを各地のユーザーたちが利用するタイム・シェアリング・システムだとされます。1960年代後半から運用されました。私も、仕事で使ったことがあります。1980年頃のことですが、アメリカの大型コンピューターをタイム・シェアしました。1969年には、パケット通信を使ったコンピュータ・ネットワークであるアーパネットが開発されます。その後、1986年に学術研究用のNSFネット、1988年には商用インターネットの運用が開始されます。そして、1990年、ティム・バーナーズ=リーがワールド・ワイド・ウェッブ(WWW)を開発し現在に至るインターネット環境がスタートしています。また、この年、ウィンドウズ3.0が発売され、コンピューターが身近なものになります。

1990年代初めには、オンライン・ショップが登場していたようですが、いわゆるe-コマースの一般化は、1995年のAmazon、そしてネット・オークションのeBayの創業とともに始まります。プリンストン大でコンピューター・サイエンスを専攻したベゾスは、いち早くネットの可能性に着目したのでしょう。開業にあたり、ベゾスはオンライン書店営業のために必要な条件を精査し、シアトルがベストの立地と判断し、NYから移転しています。ネットの特性を深く考えたうえでの判断は、既にベゾスの成功を決定づけていたように思います。また、この年、ウィンドウズ95が発売され、世界中で爆発的にコンピューターが普及することになります。我が家にもパソコンとインターネットが入り、恐る恐るでしたがアマゾンの利用も始めました。

日本では高い米国の本、日本では入手困難なCDが買えることが魅力でした。送料はかかりますが、ペーパー・バックやCDでは大した額になりません。1997年には、三木谷浩史が楽天市場を開き、ほどなくアマゾン・ジャパンも開業します。この2社が、日本のEC市場を牽引するわけですが、その性格はまったく異なっていました。小売業であるアマゾンに対して、楽天は店舗を貸す不動産業のようなものです。当初、アマゾンを圧倒していた楽天ですが、今やアマゾンに首位の座を明け渡しています。Eコマースやインターネットの可能性を自ら広げてきたアマゾンに対し、楽天は豊富な資金を元手に買収を重ね、他業態への進出を進めてきました。この違いが、今後、EC市場における両社の格差を拡大させるのではないかと思われます。

ちなみに、楽天市場は、安土桃山時代の楽市・楽座のような自由で賑わいのある市場をネット上に作りたいという思いから命名されたようです。信長など戦国大名が活用した楽市・楽座は規制緩和策であり、経済振興と人口増加に効果がありました。ただ、楽市・楽座には多くの小売業者が集まり過ぎ、過当競争に陥っていきます。結果、問屋が力を増し、権力と結んだ御用業者も現れます。自由競争が寡占・独占を生んでいくわけです。魅力を失った楽市・楽座は消えていきます。自由市場は本質的に統制を嫌いますが、統制を失うと意図せぬ方向へ暴走するリスクもあります。放任と統制の匙加減が求められる楽天ですが、ネット市場の統制は、ネットの利便性を高める方向、つまり新技術の提案でしか実現できないものと考えます。楽天は、もう少しここに注力した方がいいように思います。(写真出典:agora.web.jp)

2025年3月4日火曜日

「セプテンバー5」

監督:ティム・フェールバウム     2024年ドイツ・アメリカ

☆☆☆+

1972年9月5日、ミュンヘン・オリンピック選手村で、テロリストがイスラエル・チームの部屋を襲撃、選手たちを人質にとります。実行犯は、PLO(パレスティナ解放機構)の最大派閥ファタハに属するテロ組織「黒い9月」でした。最終的に、テロリストは国外へ脱出を図ろうとしますが、空港で地元警察との銃撃戦になり、人質11人、警官1人、テロリスト5人が死亡します。オリンピック史上最悪と言われるこの事件を描いたのが、スピルバーグの傑作「ミュンヘン」(2005)でした。ただ、「ミュンヘン」でスピルバーグが描いたのは、事件後、イスラエルが「黒い9月」に対して行った徹底的な報復でした。本作は、事件当日、テロの状況を世界中に実況中継したABC放送のスタッフたちを描いています。

事件が発生した未明から終結した深夜までの一日を、ほぼTV中継の調整室内だけで構成するというチャレンジャブルな設定です。随所に当時の映像が使われ、ドキュメンタリー・タッチの抑え気味の演出がされています。また、今に比べれば、相当にアナログだった放送機材とそれを巧みに扱うスタッフの職人ぶりが実に丁寧に描かれており、時代感を出すだけでなく、ドラマ全体のリアリティをしっかり支えています。いずれにしても、限られた時間と空間を逆手にとって、緊張感あふれるドラマに仕立てた本作は、なかなかの佳作だと思います。とりわけ脚本と細部にこだわった映像が見事だと思います。ちなみに、今年のアカデミー脚本賞にもノミネートされています。

ただ、テーマの追求という点においては、ややブレてしまった印象が残ります。大雑把に言えば、ドイツ国民の負の遺産への向き合い方、そしてマスコミ報道のあり方、という二つのテーマを並列させたために、リアリティや緊迫感だけが印象に残る結果になったと思います。ミュンヘン・オリンピックは、ドイツにとって第二次大戦後初となるオリンピックでした。敗戦国日本が、1964年、アジア初となる東京オリンピックを開催するまでには、相当な困難があったことはよく知られています。ドイツは、1936年、ナチス政権下でベルリン・オリンピックを開催していたこと、そして何よりホロコーストがゆえに、開催決定までは日本以上の苦労があったものと思われます。それだけに大会に寄せる国民の思いもかなり深いものがあったはずです。

悪夢を乗り越えるためのオリンピックだったはずが、事件によって悪夢がフラッシュバックさせられたわけです。国民の落胆も大きく、かつ、まだまだ重荷を負い続けなければならないのか、という感慨を深くしたものと考えます。右傾化が進むドイツの現況に一石を投じるために企画された映画なのだろうと思います。また、当時、事件の悲惨な結果について、西ドイツ政府の対応のまずさも批判されました。テロ対策が不十分であったことは他国も同じだったのでしょうが、法律上、事件に対応することになったのが装備も準備も不足していた地方警察であり、政府との連携の悪さも目立ちました。そして、憲法上、軍を投入できなかったことが大問題となりました、こうした敗戦国ドイツの複雑な状況についても、冷静な描写がされていました。

街に商品広告ポスターが貼ってあったとしても、それを一日中見ている人などいません。しかし、TVは、それを実現する魔法の箱です。視聴率とは、見ている側の主体性を感じさせる言葉ですが、本質的には、どれだけ大衆をTVの前に釘付けにし、CMを見続けさせたかというデータです。事件の現場に居合わせたABCのスポーツ中継スタッフが、即座に事件を生中継したことは、ジャーナリスティックな対応と言えますが、それ以上にTV関係者の視聴率へのこだわりに基づく対応だったようにも思います。しかし、それがテロリストに警察の動きを伝えることになり、TVは殺人の瞬間を放送していいのかという倫理的な問題をも引き起こします。国民の知る権利、事実を報道するという使命、そして報道の自由といったマスコミ側の基本スタンスは、しばしば倫理問題を引き起こします。線引きが難しい問題です。ただ、マスコミの正義感の向こうに視聴率が横たわっていることも事実だと思います。(写真出典:eiga.com)

2025年3月2日日曜日

老飯店の紅焼

上海老飯店
豫園(よえん)は、上海で最も有名な観光スポットです。広大というわけではありませんが、池、岩、植物、建物等の細部に至るまで美意識が凝縮された中国庭園の傑作です。初めて訪れた時には、あまりの濃厚さにめまいがするほどでした。16世紀、明代、現在の四川省長にあたる役職を務めた高級官僚の潘允端が、父親のために築いたとされます。清代になると、隣接する老城隍廟と呼ばれる道教寺院の庭園となります。当時は、今の倍の広さがあったといいます。その西半分が現在の豫園であり、東半分は豫園商城と呼ばれる飲食店・土産物店が密集する商業地区となっています。その一角、大きな通りに面して上海きっての老舗レストラン「上海老飯店」があります。

中国では、長い歴史を誇る店を「百年老店」と呼ぶようです。百年とは、創業100年以上ということではなく、単に長い歴史を持つという意味なのでしょう。北京など古い歴史を有する街には数多く存在するのでしょうが、比較的歴史の浅い上海にも存在します。例えば、同じ豫園商城には小籠包発祥の店として知られる「南翔饅頭店」があります。30年前に訪れた時も大行列に並んで食べましたが、今も長蛇の列が絶えません。創業は1900年とされますが、前身となった南翔の店から数えると150年の老舗ということになります。同じ頃、上海老飯店も創業しており、やはり150年の歴史を誇ります。歴史ある店は、変わることのない顧客の支持があったことを示していますが、激動の中国現代史を考えれば、生き残っただけでも賞賛に値すると思います。

ことに文化大革命のおりには、百年老店も存亡の危機に陥ったようです。紅衛兵たちは、人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を排除する、いわゆる”破四旧”を掲げて、文化財、伝統芸能などを含めて、とにかく古い文物を破壊していきます。当然、百年老店もターゲットになり、店名を変えられる、メニューを変えられる、さらには店を破壊されることになります。そこで消えていった百年老店も、少なからずあったのではないかと思います。上海老飯店も、南翔饅頭店も、同じ試練を受けたはずですが、なんとか生き残ったわけです。30年前に訪れた時、老飯店は歴史を感じさせる堂々たる外観と重厚感あふれる内観が実に印象的でした。今は近代的な建物になっていますが、外観は中国風に仕立てられ、なかなか立派なものです。

初めての上海は、一人で行ったのですが、何が何でも、有名な上海老飯店で、上海名物の紅焼を食べたいと思い、訪問しました。真っ当な中華料理店で一人で食事することなどあり得ません。そのリスクは承知していましたが、円が強かった時代でもあり、かまわずに訪れました。鰻の紅焼はじめ、3品ほど注文しました。ぶつ切りにされた鰻一匹が、照りのある美しい紅色に包まれて出てきたときには感動しました。鰻そのものの風味は薄かったように記憶しますが、紅焼の複雑で深みのある味には五千年の歴史の重みを感じたものです。紅焼は、ブレンドした中国醤油、紹興酒、砂糖、香辛料で具材を煮込んだ料理です。シンプルなだけに、味の深み、色合い、具材と調味料の一体感など、調理人の腕が試される料理だと言えます。

東京の上海料理店でも紅焼を食べることができます。ただ、排骨や獅子頭(肉団子)が多く、海鮮系はあまり見かけません。超高級店ならいざ知らず、なかなか上海老飯店ほどの味には出会いません。実は、上海老飯店は、東京にも進出していました。そのうちに行こうと思っているうちに撤退していました。そういえば、かつて、香港の名店福臨門酒家も来ていましたが、お家騒動の影響で名前が変わり、今は店もありません。名店が東京進出したら、そのうちなどと言わずに、すぐ行くべきなのでしょう。ちなみに、上海からは南翔饅頭店、北京からは北京ダックの全聚徳といった百年老店も東京に来ています。(写真出典:shanghainavi.com)

Tokyo Film 2026(2)