2025年3月14日金曜日

プラナカン

プラナカンとは、主に福建省からマラッカ海峡周辺に渡ってきた中国人と現地のマレー人やインドネシア人との混血によって生まれた子孫たちを指します。プラナカンという言葉は、もともと子孫を意味していたようですが、その後、現地化した中華系を指す言葉になったようです。プラナカンは、海峡華人とも、ニョニャ・ババとも呼ばれます。ニョニャは女性、ババは男性を表します。ニョニャはポルトガル語、ババはペルシャ語由来とされます。中華系ながら、華僑とは異なり、中国本土との関係は維持されませんでした。プラナカンは、中国文化と現地文化を融合した独自の世界を生み出し継続してきたわけです。不思議なことにプラナカンと多民族との混血は進まなかったようです。商業利権の継承が関係しているのではないかと想像します。

15世紀以降のマラッカの繁栄はプラナカンたちによって築かれたと言っていいのでしょう。マラッカは、昔から交易の要衝だったわけですが、14世紀末にマラッカ王国が建国され、繁栄の時代を迎えます。国王は、スマトラの王家出身ですが、独立を企てて失敗し、半島を転戦してマラッカにたどり着きます。 木陰で昼寝した王は、縁起の良い夢を見たことから、その木の名前であるマラッカを国名とします。15世紀初頭には、明の永楽帝の指示を受けた鄭和の大船団がマラッカに寄港します。その縁か、王国は明と結ぶことで、北のシャム、南のスマトラのイスラム王国の脅威から守られることになります。恐らく、この頃から華人の来航が増えていくのでしょう。16世紀になると、ポルトガルによって占領され、東南アジア開拓の拠点とされます。

この頃、ゴアを拠点に布教活動を行っていたイエズス会のフランシスコ・ザビエルは、マラッカで出会った日本人ヤジロウの勧めで日本への布教の旅に出ています。また、中国への布教の途上亡くなったザビエルの遺骸は、数ヶ月間、マラッカに安置され、その後、ゴアで埋葬されています。その後、マラッカは、17世紀にオランド領となり、19世紀には英蘭協定によってイギリスの植民地となります。こうしてマラッカは多くの文化が交錯する独特な文化を築いていきます。2008年、マラッカは、ユネスコ世界遺産に登録されています。その中心となっているのが、かつてプラナカンたちが商店の軒を並べたオールド・タウン地区です。間口が狭く、奥行きのある建築は、ノスタルジックな雰囲気を醸し、かつての繁栄を偲ばせています。

プラナカンの文化を今に伝えるものの一つにニョニャ料理があります。中華料理とマレー料理が融合した料理の数々です。そもそもマレー料理は、インドネシア、タイ、南インドの影響が濃い料理であり、そこに中華が加わることで、東南アジア・オールスターズといった風情になります。移民文化が根付く地域の料理は、多くの民族が受け入れやすいよう角のないやさしい味になるものです。ニョニャ料理にも同じ傾向があるように思います。ニョニャ料理の代表格の一つがエビ出汁とココナツでマイルドに仕上げた米粉麺のラクサです。日本でも、成城石井が火付け役となり話題になりました。今回、クアラ・ルンプールでドライ・ラクサを食べましたが、とても美味しくて気に入りました。また、マラッカで食べたオンデオンデは、パームシュガーを緑色の餅粉で包み、ココナツ・フレークをまぶした蒸し菓子ですが、その穏やかな味が好きになりました。

1941年12月、日本軍は、英領マレー半島東部に上陸し、わずか70日間で半島を制圧、シンガポールを陥落させます。英軍に支援された抗日ゲリラも活動を始めます。日本軍は、日中戦争の影響から、中国系共産党ゲリラに対して過敏になり、中国系住民の虐殺も行っています。マラッカでも、終戦直後に中国系の虐殺事件が起きています。一方、マレー系住民は優遇され、民族対立が加速した面もありました。また、ゲリラには、抗日よりも英国からの独立を目的とするグループもあったようです。日本軍の侵略を受けながらも、マレー半島は、民族対立、対英独立運動等、複雑な状況を抱え、戦後にも濃い影を残します。結果論ですが、日本軍のマレー作戦は、英国の東南アジアにおける麻薬ビジネスを根絶したことで、英国の弱体化を招き、マレーシア連邦の独立につながったという見方をする人たちもいるようです。(写真:マラッカ・オールド・タウン 出典:4travel.jp)

マクア渓谷