初めてマレーシアへ行ってきました。マレー半島とボルネオ島北部で構成されるマレーシアは、日本の9割ほどの国土に人口は3,500万人。海に囲まれているので年間平均気温は27度とあまり高くありませんが、湿度は非常に高く、まさに熱帯の国です。国土は6割がジャングルに覆われた山岳地帯であり、比較的平地の多い西側が国の中心です。国民は、マレー系65%、中国系25%、インド系8%で構成されます。マレー系を中心に、国民の6割がイスラム教徒であり、国はイスラム化政策を採っています。一人当たりGDPは12,000ドルを超え、近隣のタイ、ベトナム、インドネシアを越えています。マレーシアは、石油はじめ鉱物資源に恵まれ、かつ工業化にも成功した国であり、アジアの優等生とも言われます。そして、鉱物資源の開発は錫から始まりました。
クアラ・ルンプールとは、マレーシア語(マレー語)で「泥の河」という意味なのだそうです。市内を流れるクラン川とゴンバック川の合流地点には、1909年に建立されたという美しいスルタン・アブドゥル・サマド・ジャメ・モスクがあります。かつて、この場所では、採掘した錫を洗っており、河はドロドロだったようです。まさに近世マレーシアの成り立ちを象徴する場所と言えます。一方、中世マレーシアを象徴するのはマラッカなのでしょう。マラッカ海峡に臨むマレーシアは、古くから交通、交易の要衝だったようです。特に、自由貿易港マラッカは、その中心でした。15世紀初頭に成立したマラッカ王国は、中東、インド、アジア各国を結ぶアジア屈指の貿易港として栄え、日本や琉球からも船が通っていました。
大航海時代に入ると、ポルトガル、オランダ、そしてイギリスの支配が続きます。19世紀にはイギリスの植民地となり、第二次世界大戦中は日本に占領されますが、1957年、マラヤ連邦独立まで植民地の時代が続きます。1963年には、イギリス領だったボルネオ島北部やシンガポールを含めマレーシア連邦が成立します。ただ、1965年、イスラム化を進める連邦と中華系の多いシンガポールの溝は深まり、民族暴動を機にマレーシアはシンガポールを追放しています。その後、シンガポールは著しい経済発展を遂げますが、イスラム化を進めたマレーシアは遅れをとることになります。一概に言えるものではありませんが、工業化を成功させたとは言え、資源に頼ってイスラム化を進めてきたマレーシアの基本スタンスは、現在も変わっていないように思えます。
首相官邸を含むマレーシアの連邦行政府のほぼ全てが、計画都市プトラジャヤに移転しています。30年前に建設が始まったプトラジャヤは、クアラ・ルンプールから25kmほどのところにあり、人口12万人、住民のほぼ全てが連邦職員とその家族です。首都は、国王と国会が所在するクアラ・ルンプールのままになっています。20世紀以降の首都移転はことごとく失敗したと言われますが、マレーシアの場合はうまくいっているように思います。プトラジャヤ着工と同じ頃、クアラ・ルンプールに、当時、世界一の高さを誇ったペトロナス・ツイン・タワーが完成しています。この頃が、マレーシアの近代化の大きな節目だったのでしょう。豊富な鉱物資源がゆえに、教育・医療が無償化され、治安が良く、物価も安く、街も清潔なマレーシアですが、不足しているのは民間の活力なのではないでしょうか。そこにはイスラム化政策が影を落としているように思えます。宗教という檻の中の平穏か、自由という荒野における競争か、ということかもしれませんが・・・。(写真:ペトロナス・ツイン・タワー 出典:ja.wikipedia.org)