2025年3月10日月曜日

塩昆布

えびすめ
塩昆布は大好物の一つです。昆布を炊いた料理は、平安時代からあったようですが、塩昆布は、天明元年(1781年)に大阪で創業した「神宗」が明治期に売り始めたのが嚆矢とされます。神宗は、今でも日本を代表する高級佃煮店として知られます。随分と大仰に聞こえる店名は、創業者である神嵜屋宗兵衛からきているようです。神宗は、「蛸の松」と呼ばれる包装も有名です。眉山玉震が幕末に描いたという重文「大坂中之島久留米藩蔵屋敷絵図」の一葉であり、神宗に家宝として伝わっていたものだそうです。当初、塩昆布はまかないだったようですが、明治政府肝いりの内国勧業博覧会に出品されると評判を呼び、一気に知名度があがりました。

神宗の塩昆布は、しっとりとした佃煮系です。対して、塩吹きタイプの塩昆布は、昭和24年(1949年)、「小倉山山本」の「えびすめ」の発売に始まるとされます。塩吹きタイプは、昆布を煮詰めて乾燥させたものです。えびすめという名称は、古語で昆布を指します。”め”は、広く海藻類を指し、蝦夷の国の”め”なので、えびすめとなるわけです。小倉山山本は、嘉永元年(1848年)に、初代山本利助によって大阪で創業されています。えびすめは、三代目が開発したようです。贈答品として利用されることが多い神宗に対して、小倉山山本のえびすめは普段使いといったところです。ただ、決して安いわけではありません。いずれも厳選された昆布や他の材料を丁寧に炊き上げることから、どうしてもいいお値段になってしまうわけです。

塩昆布が、天下の台所と呼ばれた大阪で誕生したことは、もっともな話だと思います。昆布に関して言えば、大阪は単なる集積地だけはなかったようです。北前船で北国から運ばれた乾燥昆布は、高温多湿な大阪で熟成が進み、味が良くなったというのです。塩昆布誕生の背景には、大阪のお茶漬け文化も関わっているのでしょう。お湯漬けや水飯は、蒸した強飯が主だった古代から存在していたようですが、お茶漬けは、室町時代、関西から始まったとされます。かつて、米を炊くのは1日1回、かつ保温技術のない時代ですから、温かいご飯は1日1回、後は冷飯だったわけです。商人の多い大阪では昼に米を炊き、武士が多い江戸は朝炊いていたようです。商家の朝は多忙を極めます。朝食は、前日昼に炊いた米を茶漬けにしてかき込んだわけです。

当初、お茶漬けは漬物だけで食べていましたが、そこは全国の物産が集まる大阪のことですから、海苔、梅干しはじめ様々な工夫がされていきます。塩昆布も、その延長線上にあるのだと思います。初めは、まかないとして、はねものやおぼろ昆布の端など店に出せない昆布を炊いてお茶漬けに添えていたのでしょう。それが商品化され、人気を博したわけですが、近年では結構なお値段になっています。個人的には塩吹きタイプの塩昆布、とりわけえびすめが好きなのですが、もはや高級品です。四角いえびすめに対して、細切りにした塩昆布“しら磯”は随分と割安に買えます。端材を使っているからお安いのでしょう。昆布の味をしっかり楽しめるのはえびすめですが、お茶漬けにするならしら磯で十分であり、近年はもっぱら細切り専門になっています。

さて、話は少し逸れますが、湯漬けに関する大好きな話があります。平安中期の三条中納言こと藤原朝成は、大食いの肥満体だったようです。それを気にした三条中納言は、医者から、湯漬け・水飯で痩せろ、という助言を得ます。それが一向に成果が出ないというので医者が訪ねてみると、三条中納言は、干瓜十本、鮨鮎三十尾をおかずに、大盛りのご飯の上に水を少し垂らしたものをお代わりまでして食べていたというのです。今昔物語集に出てくる話です。医者がイメージしたのは、漬物程度をおかずにした軽い食事だったのでしょう。ただ、三条中納言の気持ちもよく分かります。塩昆布好きとしては、お茶漬けなら何杯でも食べられそうな気がします。その時代に塩昆布があれば、三条中納言のお代わりは2~3回では済まなかったかもしれません。(写真出典:rakuten.co.jp)

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