監督:ティム・フェールバウム 2024年ドイツ・アメリカ
☆☆☆+
1972年9月5日、ミュンヘン・オリンピック選手村で、テロリストがイスラエル・チームの部屋を襲撃、選手たちを人質にとります。実行犯は、PLO(パレスティナ解放機構)の最大派閥ファタハに属するテロ組織「黒い9月」でした。最終的に、テロリストは国外へ脱出を図ろうとしますが、空港で地元警察との銃撃戦になり、人質11人、警官1人、テロリスト5人が死亡します。オリンピック史上最悪と言われるこの事件を描いたのが、スピルバーグの傑作「ミュンヘン」(2005)でした。ただ、「ミュンヘン」でスピルバーグが描いたのは、事件後、イスラエルが「黒い9月」に対して行った徹底的な報復でした。本作は、事件当日、テロの状況を世界中に実況中継したABC放送のスタッフたちを描いています。事件が発生した未明から終結した深夜までの一日を、ほぼTV中継の調整室内だけで構成するというチャレンジャブルな設定です。随所に当時の映像が使われ、ドキュメンタリー・タッチの抑え気味の演出がされています。また、今に比べれば、相当にアナログだった放送機材とそれを巧みに扱うスタッフの職人ぶりが実に丁寧に描かれており、時代感を出すだけでなく、ドラマ全体のリアリティをしっかり支えています。いずれにしても、限られた時間と空間を逆手にとって、緊張感あふれるドラマに仕立てた本作は、なかなかの佳作だと思います。とりわけ脚本と細部にこだわった映像が見事だと思います。ちなみに、今年のアカデミー脚本賞にもノミネートされています。
ただ、テーマの追求という点においては、ややブレてしまった印象が残ります。大雑把に言えば、ドイツ国民の負の遺産への向き合い方、そしてマスコミ報道のあり方、という二つのテーマを並列させたために、リアリティや緊迫感だけが印象に残る結果になったと思います。ミュンヘン・オリンピックは、ドイツにとって第二次大戦後初となるオリンピックでした。敗戦国日本が、1964年、アジア初となる東京オリンピックを開催するまでには、相当な困難があったことはよく知られています。ドイツは、1936年、ナチス政権下でベルリン・オリンピックを開催していたこと、そして何よりホロコーストがゆえに、開催決定までは日本以上の苦労があったものと思われます。それだけに大会に寄せる国民の思いもかなり深いものがあったはずです。
悪夢を乗り越えるためのオリンピックだったはずが、事件によって悪夢がフラッシュバックさせられたわけです。国民の落胆も大きく、かつ、まだまだ重荷を負い続けなければならないのか、という感慨を深くしたものと考えます。右傾化が進むドイツの現況に一石を投じるために企画された映画なのだろうと思います。また、当時、事件の悲惨な結果について、西ドイツ政府の対応のまずさも批判されました。テロ対策が不十分であったことは他国も同じだったのでしょうが、法律上、事件に対応することになったのが装備も準備も不足していた地方警察であり、政府との連携の悪さも目立ちました。そして、憲法上、軍を投入できなかったことが大問題となりました、こうした敗戦国ドイツの複雑な状況についても、冷静な描写がされていました。
街に商品広告ポスターが貼ってあったとしても、それを一日中見ている人などいません。しかし、TVは、それを実現する魔法の箱です。視聴率とは、見ている側の主体性を感じさせる言葉ですが、本質的には、どれだけ大衆をTVの前に釘付けにし、CMを見続けさせたかというデータです。事件の現場に居合わせたABCのスポーツ中継スタッフが、即座に事件を生中継したことは、ジャーナリスティックな対応と言えますが、それ以上にTV関係者の視聴率へのこだわりに基づく対応だったようにも思います。しかし、それがテロリストに警察の動きを伝えることになり、TVは殺人の瞬間を放送していいのかという倫理的な問題をも引き起こします。国民の知る権利、事実を報道するという使命、そして報道の自由といったマスコミ側の基本スタンスは、しばしば倫理問題を引き起こします。線引きが難しい問題です。ただ、マスコミの正義感の向こうに視聴率が横たわっていることも事実だと思います。(写真出典:eiga.com)