2025年3月30日日曜日

インド大魔術団

P.C.ソーカー
子供の頃、インド大魔術団の公演を2度ほど見ました。空中浮揚や人体切断といった大仕掛けな奇術は、大いに人気を集めたものです。さらに言えば、遠く、かつ謎めいた国インドというだけで十分にエキゾチックであり、それだけでも人を集める力があったのだと思います。同じ頃、ソヴィエトから来たボリショイ・サーカスも人気でした。東西冷戦の頃、ソヴィエトは壁の向こうの国として、やはりエキゾチックだったわけです。インド大魔術団は、国際的に活躍した奇術師P.C.ソーカーが率る「Indrajal(魔術) Show」の日本名であり、1950~1960年代、しばしば来日公演を行い、TVにも出演していました。同氏は、1971年、公演のために訪れた旭川で心臓発作を起こし、客死しています。 

ソーカーと言えば、裾の長い派手な上着を着て、羽根飾付のターバンの後ろを長く垂らし、立派な口ひげをたくわえた姿がトレード・マークでした。彼のマハラジャ的な姿が、我々のインド人のイメージに相当の影響を与えたものと思います。ソーカーは、バングラデシュのダッカ出身であり、シーク教徒ではないと思われます。ですからターバンは、あくまでもステージ衣装だったのでしょう。それにしても、インド人と言えば、ターバンというイメージが見事に定着しています。人口のわずか2%に過ぎないシーク教徒の姿が、なぜインド人を代表するに至ったのか不思議なところです。おそらくは、インドに進出した英国人が、エキゾチシズムを強調するためにシーク教徒の姿を象徴的に使ったからなのでしょう。

インド大魔術団のショーは、ステージ・マジックのなかでもイリュージョンと呼ばれるジャンルでした。記録に残る最も古い奇術は、4千年前、エジプトの洞窟壁画に描かれた”カップ&ボール”だとされます。それがエジプトから世界に広まったということではなく、各地で手先・指先の器用な人たちが遊びとして行っていたことが奇術になっていったのだと思います。イリュージョンの始まりは、チェスを指す”トルコ人”という機械人形だとされます。1770年、ハンガリーの発明家がマリア・テレジアを喜ばせるために作りました。トルコ人は、欧州を巡業し、人気を博したようです。ただ、トルコ人が、科学の歴史ではなく、奇術の歴史に登場するわけは、中にチェスの名人が入っていたというインチキがゆえです。

近代奇術の父とされるのは、19世紀フランスのジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダンです。それまで奇術が持っていた黒魔術的なムードを、燕尾服に明るい照明という現代につながる姿に変えました。近代的なイリュージョンもロベール=ウーダンに始まるとされています。元時計職人という経歴を活かした機械魔術の他に、透視術や人体浮遊といった新しい奇術を次々と発表したとされます。興味深いことに、ロベール=ウーダンの人体浮遊は、インドのマドラスでヒンドゥー教の行者が披露した空中であぐらをかく技が元ネタになっているようです。また、イリュージョンの定番である消失マジックも、17世紀インドで行われていた奇術だったようです。空中に立ち上がったロープを少年が登るヒンドゥー・ロープというイリュージョンも、その名の通り、インドの奇術師が行ったものだとされます。

やはりインドは、奇術のメッカの一つなのでしょう。インドの場合、奇術は単なる遊びではなく、宗教と深く関わっている面がミステリアスな印象を与えます。それは過去の話とも言えません。1990年代、日本ではサイババ・ブームが起こります。オカルト・ブームに乗った日本のTV局が、奇跡を起こすインドの宗教家として大騒ぎしました。奇跡とは、病気を治す、腕輪などを出現させるなどですが、最も有名になったのは何もない手から聖灰を生み出すものです。サイババの奇跡は手品だという批判も多くありましたが、科学的な解明はできませんでした。TVは、サイババを奇跡という一点だけでネタにしていました。日本のマスコミの軽薄さを象徴する話です。実は、サイババは、教育や社会インフラの整備等に大きな功績を残した人です。今も、インド国内だけでなく、世界的に大きな影響を残しています。(写真出典:bbc.com)

2025年3月28日金曜日

クォンタム・リープ

クォンタム・リープとは、量子力学の世界で「非連続的飛躍」を意味します。一般的には”革新的”ではなく”革命的”という言葉に相当するのでしょう。明治期の日本の近代化は、わずか30年で先進列強と肩を並べるまでなります。そのスピードに世界が驚き、多くの国が日本を手本にしようとしました。直近まで鎖国状態の封建社会だったことからすれば、まさに非連続的であり、クォンタム・リープと呼ばれることもあります。日本が驚くべきスピードで近代化できた理由については、多くの説が語られてきました。薩長が、大儀には乏しい戊辰戦争で江戸幕府と佐幕派各藩を滅ぼし、瞬時に中央集権国家を実現したこと、あるいは不平等条約解消に向けて近代化を急ぐ必要があり、貪欲に海外文化を吸収していったこと等が挙げられてきました。

しかし、明治の近代化はクォンタム・リープなどではなく、江戸期からの連続性のなかで実現された革新だったように思えます。幕藩体制から中央集権化という大きな変化はあったものの、本質的に明治維新は武家から武家への政権交代だったと思います。江戸期には、近代化に欠かせない官僚体制の確立、商業資本の蓄積、各種技術の進化、流通体制の整備等が十分なレベルに達していたように思えます。また、鎖国と言っても、欧州の知見は出島のオランダ人を通じて入手できていました。要するに、日本は、江戸期260年の安定を通じて、近代化への準備を整えていたわけです。幕藩体制の行き詰まりを背景に、列強の脅威、関ケ原の遺恨といったトリガーはあったものの、明治の近代化は、起こるべくして起こったとも言えます。

欧州では、蒸気機関の登場とともに産業革命が起こります。日本も、蒸気機関さえあれば、産業革命が爆発する状態にあったとも言えるのでしょう。近代化の実現には、中央集権化された国家の殖産興業政策が大きな役割を果たします。ただ、上部構造だけでなく、文明開化を受け入れた社会のあり方も近代化実現の大きな要素だったと思います。政府が打ち出した四民平等が奏功したと言われますが、江戸後期には、貨幣経済の進展に伴い、町人が台頭、武士は没落、農民の生活水準も上がり、社会の均一化が進んでいました。四民平等は、幕藩体制の解体、租税強化、徴兵制など、中央集権化を進めるための方便だったのでしょう。庶民にとって、明治維新とは、幕府と武士が政府と役人に代わり、税が増え、兵役が課されただけのことだったのかもしれません。

つまり、明治維新とは、既に行き詰まっていた幕藩体制を、国民の犠牲の上に破産処理したような面もあるわけです。これが市民革命であれば、理想の社会を実現するために市民は進んで犠牲を払います。しかし、明治維新は簒奪型の政権交代であり、市民革命ではありません。犠牲を強いられる国民にも分かりやすい大義の欠如こそ、武家政権である明治政府の泣き所だったと思われます。それが明治維新として賞賛されることになったのは、天皇の神格化、富国強兵、文明開化といったプロパガンダの上手さ、そして何よりも日清・日露戦争での勝利がゆえだったのでしょう。日清・日露戦争は、あたかも免罪符がごとき絶大な力を政府に与えます。そして、それが、後の軍国主義、太平洋戦争へとつながっていくことになります。

明治維新を巡る学界での論争は続いているようですが、国民の認識としては司馬遼太郎などによる明治維新礼賛が定着しています。およそ歴史にクォンタム・リープなどなく、あくまでも原因と結果という連続性の上に成り立っているのだと思います。クォンタム・リープと呼べるのは、シュメール文明の唐突な出現くらいでしょう。ただ、それも近年発見されたトルコのギョベクリ・テペ遺跡の研究などによって、謎が解明されるかもしれません。明治維新については、その果たした役割の大きさを否定するつもりなどありませんが、史実に関するより冷静な分析が行われ、プロパガンダの呪縛から解放されるべきだと思います。半藤一利の薩長史観等もありますが、国民の認識が変わるまでには至っていません。歴史を正しく認識することは、我々の立ち位置を理解し、将来につなげていくためには欠かせないプロセスだと思います。(写真出典:touken-world-ukiyoe.jp)

2025年3月26日水曜日

「教皇選挙」

監督: エドワード・ベルガー         2024年イギリス・アメリカ

☆☆☆+

枢機卿たちによるローマ教皇選出選挙、いわゆるコンクラーヴェを題材としたミステリ映画です。様々な政治的要素も見え隠れするものの、緊張感あるエンターテイメントに仕上がっています。ドイツ人のエドワード・ベルガー監督は、前作「西部戦線異状なし」(2022)でアカデミー国際長編映画賞を受賞しましたが、今回も手堅い演出をしています。原作は、英国のベストセラー作家ロバート・ハリスの同名小説です。脚色は、「ヤギと男と男と壁と」(2009)や「裏切りのサーカス(Tinker Tailor Soldier Spy)」(2011)で高く評価されたピーター・ストローハンですが、本作でアカデミー脚色賞を獲っています。音楽は、「西部戦線異状なし」に続いて、前衛音楽家のフォルカー・ベルテルマンがいい仕事をしています。

スリルや派手なアクションもない系統のミステリでは、高い緊張感とテンポの速さを維持しながら、意味ありげな静寂を効果的に差し込むというのが正統派のアプローチだと思います。いわゆるヒッチコック式の緊張と緩和といったスタイルとは大いに異なるわけです。史実に基づいた陰謀がらみの政治サスペンスものなどが、その典型だと思います。本作は、そうしたセオリーに忠実に作られていると思います。ところが、教会批判をテーマとする政治サスペンスのようではあっても、実はそうではありません。あくまでもエンターテイメントに徹した作品であり、教会批判的な要素は単なるモティーフに過ぎません。それも、結構、ありきたりな内容になっています。そのギャップが気になるところではあります。

プロテスタントたちが作った映画であることも含め、恐らくバチカンやカソリック教徒からの批判があるものと思われますが、まともに批判するのもバカバカしいレベルだと思います。製作陣も、それは百も承知で、あえてそうしている面があるのでしょう。例えて言うなら、ハリウッドが作ったサムライ映画のようなものです。しかし、思想性や政治性には欠けるとは言え、かなり出来の良いミステリにはなっています。上出来になった大きな要因は、演出もさることながら、キャストの重厚な演技やスキのない美術にもあると思います。もちろん、システィーナ礼拝堂はじめバチカンでロケを行うわけにはいきません。バチカンのセットは、細部にこだわった、かなりレベルの高いものになっています。ここがこの映画の大事なポイントの一つです。

今一つの肝は、キャスティングの良さと演技のレベルの高さです。まずは、主演するレイフ・ファインズは、映画のムードを決定づけるほどの好演を見せています。レイフ・ファインズは、007やハリー・ポッター、あるいはウェス・アンダーソン映画でおなじみですが、舞台出身の性格俳優としての実力を見せています。ジョン・リスゴーはじめ脇役陣も見事な顔ぶれですが、なかでも、イザベラ・ロッセリーニには驚きました。久々すぎて誰か分かりませんでしたが、とても存在感のある良い演技をしていました。彼女は、ロベルト・ロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘で、マーティン・スコセッシの妻でもありました。デヴィッド・リンチの衝撃作「ブルー・ヴェルヴェット」(1986)で、モデルから女優に転じますが、鳴かず飛ばずが続いていました。

13世紀から続くコンクラーヴェは、ラテン語で”鍵の掛かった”という意味だそうです。現在、上限を120人とされている枢機卿たちが世界中から集まります。システィーナ礼拝堂に籠もって投票を繰り返し、得票が2/3以上に達した枢機卿が教皇になります。かつては、教皇が決まるまで完全に礼拝堂に缶詰にされていたようですが、現在は、2005年に完成したサン・マルタ館に宿泊するようです。もちろん、コンクラーヴェ期間中は、システィーナ礼拝堂とサン・マルタ館は、物理的にも、電子的にも完全に外界と遮断されます。コンクラーヴェは、しばしばバチカンの閉鎖性の象徴のようにも言われます。密室における陰謀めいた世界が描かれた本作は、アメリカ大統領選挙の年に公開されました。もちろん、ただの偶然ではありません。(写真出典:imdb.com)

2025年3月24日月曜日

ワニ

NYへ赴任すると、駐在員の皆さんが歓迎会を開いてくれました。当時のNY事務所は、3つの現地法人、20人弱の従業員、半数が駐在員といった構成でした。歓迎会は、皆さんがよくランチで使っている和食店で行われました。日本から赴任したばかりの人間を和食店で歓迎というのも如何なものかとは思いましたが、和食しか食べないという人が数人いたのでやむを得ない選択だったようです。店の壁に不思議な品書きを見つけました。ワニの刺身です。せめて異国へ来た感を味わいたかったので注文してもらいました。皆、気持ち悪がって、私だけが食べました。水っぽい鶏肉といった味ですが、さして美味しいものでもありませんでした。

後日判明したことですが、その店でワニの刺身が提供されたのは、なんと、その日だけだったようです。何か問題があったに違いない、お前、大丈夫だったか、と皆さんから気遣っていただきましたが、まったく問題ありませんでした。その後、しばらくの間、事務所で私はワニと呼ばれていました。NYにいた間に、3度ばかりフロリダのディズニー・ワールドへ行きましたが、その際、オランド-のゲイター・ランドというワニ園も訪れたことがあります。熱川バナナワニ園のようなものですが、規模が桁違いでした。今は知りませんが、かつてはワニ肉を食べることができました。チキン・ナゲットのような食べ方でしたが、やはりしまりのない鶏肉のような味がしました。特に美味しいものではありませんでした。

美味しければ、今頃、ワニは乱獲によって絶滅危惧種に指定され、場合によっては養殖も行われているはずです。山陰地方や広島県の山間部にもワニを食べる文化があります。といっても、ワニとはサメのことです。古事記の「因幡の白兎」に登場する和邇、日本書紀では鰐となりますが、これがワニかサメかについては、いまだに議論が続いているようです。日本にワニは生息しませんから、ワニとはサメの古語と理解すべきなのでしょう。ただ、ワニの語源も定かではなく、日本の固有言語ではないかとされているようです。サメの肉にはアンモニア臭があって、あまり美味しいものとは言えません。ただ、そのアンモニア成分が、サメの肉の鮮度を保つことになり、特に山間部では重宝され、祝宴の定番料理とされてきたようです。

ブルックリン出身の人に聞いた話ですが、子供の頃、ホタテはそこそこ高価なもので、街の魚屋でホタテが安く売られていると、喜んで買ったものだそうです。ただ、安いホタテの多くは、メイコー・シャーク、日本名アオザメの肉を型抜きしたものだったそうです。NYの下町の庶民は、ホタテはアンモニア臭いものだと思っていたのかもしれません。高知県民はウツボが大好きですが、これもアンモニア臭が気になります。サメ、ウツボ、エイなども新鮮なものは臭くないとされますが、そもそも、さほど美味しいものではないように思います。とは言え、優秀なタンパク源であることは間違いなく、大昔から世界中で食べられてきたようです。日本では加工品の原材料が多いわけですが、アジアでも、欧州でも、アフリカでも下処理をして食べられているようです。

フカとは、主に関西でのサメの呼称、あるいは大型のサメと言われます。深い海に生息するからフカと呼ばれたという説があります。中国三大珍味の一つはフカヒレです。中国では昔から気仙沼産が最高級品とされてきました。それはサメの種類ではなく、丁寧な加工がゆえと聞きます。フカヒレは、下処理してから天日干しにして作られます。子供の頃、近くにフカヒレの作業場があり、風向きによっては匂うことがありました。もちろん、かぐわしい匂いではありません。いつの頃か、作業場はなくなっていました。作業場ができた頃は周囲に住宅が少なく、その後、宅地化が進み、周辺住民からの苦情が多くなったということなのでしょう。私が、アンモニア臭のある魚を好まないのは、その頃の記憶によるものかもしれないと思っています。(写真出典:awsfzoo.com)

2025年3月22日土曜日

梁盤秘抄#36 Saxophone Colossus

アルバム名:Saxophone Colossus(1956)                                          アーティスト:Sonny Rollins

ソニー・ロリンズのライブを一度だけ聴いたことがあります。1973年、大学に入りたての年でした。それまで何度もジャズのライブは聴いていましたが、これほどの大物は初めてでした。まずは、テナー・サックスの音の大きさに驚きました。こんなに違うものなのかと思ったことを覚えています。マイルスの「ビッチェズ・ブリュー」(1970)以降のことでもあり、多少ロックっぽい味付けの演奏も行っていましたが、会場が一番沸いたのは、やはり「セント・トーマス」でした。ロリンズがジャズに持ち込んだカリプソのなかでも絶大な人気を誇るのがセント・トーマスです。ジャズ・ファンが”サキコロ”と呼ぶ名盤「サキソフォン・コロッサス」で初リリースされた曲です。

セント・トーマス以前からラテン・ジャズは存在し、特にアフロ・キューバンは人気があったようです。多くのラテン・ジャズは、リズム・セクションにコンガ等のパーカッションを加えて、アップ・テンポで演奏されます。ところが、トリニダード・トバゴの民族音楽であるカリプソは、のんびりとした陽気なリズムが特徴です。南の島のレイドバック・スタイルそのものとも言えます。ロリンズは、NYのハーレムの生まれ育ちですが、両親がヴァージン・アイランドの出身であり、ラテンのリズムとグルーブは体に染みこんでいたのでしょう。ロリンズが作曲した曲は、オレオ、アルフィーなど、リズミカルで耳に馴染みやすいメロディが多いように思いますが、それも両親の影響なのかもしれません。

サキコロは、非の打ち所がない傑作と言われます。その通りだと思います。さらに言えば、ロリンズの演奏自体は、いつも非の打ち所がないと思います。最もジャズらしいジャズを演奏する人であり、超がつくほどの優等生と言っても過言ではありません。ロリンズは19歳で初レコーディングに参加し、大物たちとのセッションも行うなど、若くしてその名が知られる存在でした。しかし、20歳代前半は、犯罪と麻薬で刑務所を出入りしています。優等生とは言えない生活ぶりですが、演奏に関しては、その誠実で温厚な人柄から、自身の音楽性を高めていきます。20歳代後半に入ると、トップ・プレイヤーとして活動していき、26歳のおり、サキコロをリリースするわけです。ただ、一方で、その誠実な人柄が、音楽的な行き詰まりも生んでいくことになります。

自分の演奏に限界を感じたロリンズは、1959~1961年の2年間、音楽シーンから姿を消します。その間、ロリンズは、毎日、ウィリアムスバーグ・ブリッジで15~16時間、サックスを吹き続けたと言います。ロリンズは、その後も2度ばかり、音楽シーンを離脱しています。誠実な優等生だからこそ直面した壁だったのでしょう。ロリンズと同様、モダン・ジャズを代表する名演奏家としてはマイルス・デイビスやジョン・コルトレーンもいますが、彼らが優等生だと思ったことはありません。彼らも、壁にぶち当たることもあったはずですが、常に新しい世界に挑戦することで、壁を乗り越え、ジャズを変えていきました。優等生ロリンズは、ハード・バップ、モダン・ジャズの本流に忠実であり続けたがゆえに、幾度も壁に直面したのだと思います。

ジャズを聴きたいと思ったら、それもいい演奏を聴きたいと思ったら、ロリンズは正しい選択です。図太くも温かみのある音色、抜群のテクニック、モダンなフレーズのアドリブと、まったく申し分ありません。そこには、マイルスのスリル、コルトレーンの高揚感はありませんが、ロリンズのテナーはジャズ界の灯台のような存在であり、メイン・ストリームを照らし続けたのだと思います。サキコロは、ジャケットも有名です。恐らくレコード・ジャケットの歴史を語るとすれば、決して外してはいけない一枚だと思います。当時、ロリンズは、まだ26歳だったのですが、既に灯台のような存在感を見せています。(写真出典:amazon.co.jo)

2025年3月20日木曜日

「アノーラ」

監督:ショーン・ベイカー     2024年アメリカ

 ☆☆☆☆ー

アカデミー賞では、作品賞、監督賞を含む5部門を受賞、カンヌでもパルム・ドールを獲得、他にも数々の賞を総なめにした作品です。ショーン・ベイカー監督と言えば、移民、庶民、性産業で働く人々といったアメリカの底辺で生きる人々を描くことで知られます。本作も、その目線に変わりはないものの、これまでにない勢いとテンポの良さを感じさせる映画でした。派手なロマンティック・コメディに見えますが、全く別物です。プロットの構図は、決して新しいものではありませんが、小気味よい展開が新しさを感じさせます。また、切ないものの、救いのあるエンディングは、多くの人の共感を得るものと思います。

映画は二部構成といった風情になっています。前半では、アノーラとイヴァンが出会って結婚するまでが、ビデオクリップのような映像とテンポで描かれます。スタイリッシュでパワフルな展開ではありますが、やや冗漫な印象も受けます。後半の展開とのコントラストやアノーラの強さを強調するために必要だということは理解できますが、やや監督の思い入れが強すぎバランスを失したようにも思えます。後半では、失踪したイヴァンを探し、イヴァンの両親と対峙していくわけですが、特に印象に残ったのは、タランティーノばりの小気味よい会話の応酬です。監督の過去の作品でも、会話は独特なムードを持っていましたが、本作では、明らかに一段ギアが上がっています。アノーラを演じたマイキー・マディソンのアカデミー主演女優賞も頷けます。

後半の舞台は、NYのロシア人街ブライトン・ビーチや隣り合うコニー・アイランドとなっており、ショーン・ベイカー監督らしいストリート・ムービー的な風情を感じます。ブルックリンのブライトン・ビーチは、リトル・オデッサとも呼ばれます。19世紀後半、海辺のリゾートとして開発されたブライトン・ビーチですが、大恐慌や第二次大戦前後から、徐々に東欧やロシアのユダヤ系移民が移り住み始めます。ロシア移民が多く集まりだしたのは1970年代のことだったようです。私がNYにいた1990年前後のブライトン・ビーチは、完全にロシア人街として知られていました。中華街はじめ移民の街はどこも同じですが、ブライトン・ビーチにも、英語を話すことなくロシア語だけで生きている人も少なくないと聞きました。そこはロシアそのものなわけです。

シンデレラ的なロマンティック・コメディと言えば、「マイ・フェア・レディ」(1964)や「プリティ・ウーマン」(1990)を思い出します。本作は、そのスタイルをうまく借用しながら、全く異なるものを作りあげています。古くから世界中にある”才子佳人”系の話は、ハッピー・エンドが基本です。本作は、救いはあるものの、典型的なハッピー・エンドにはなっていません。監督が描きたかったのは、厳しい環境に置かれた移民たちの現状、そしてその環境を生き抜く強さなのだろうと思います。さらに、本作の最も大きな特徴は、風俗店で働く主人公の悪びれることのないプロとしての逞しさと明るさ、そしてオリガルヒに対しても怯むことのない強気な姿勢なのではないかと思えます。妙な暗さや侘しさを見せないところが、とても新しいと思いました。

ロシア系移民をモティーフにした点もチャレンジャブルだと思います。同じ民族の移民が集まる街には、母国のヒエラルキーや社会構造がそのまま持ち込まれるものです。本作に登場するオリガルヒはツァーリそのものであり、仕える者たちも、息子でさえも滑稽なほど恐れて、服従しています。ロシアでは、ツァーリによる支配が絶え間なく続いていることへの皮肉なのでしょう。服従することに居心地の良さを感じる大衆の存在が、ツァーリを生むとも言えます。恐れることなく、徹底的にオリガルヒに抵抗するアノーラは、ロシアがいまだ拭い去れない社会体質に対するアンチ・テーゼでもあります。残念ながらアノーラが勝利することはありませんでしたが…。(写真出典:imdb.com)

2025年3月18日火曜日

道楽

道楽の王道盆栽
若い頃から、落語に登場する”ご隠居”に憧れていました。隠居という言葉にはいくつかの意味がありますが、ご隠居と言えば、家督を子の代に譲り、公職や仕事から離れて老後を送る武家や商家の先代、元の戸主を指します。サラリーマンには、隠居などなく引退があるのみですが、それだけに憧れたとも言えます。ご隠居さんのイメージとしては、こぢんまりとした建屋と庭のある隠居屋に住み、身の回りの世話をしてくれる奉公人が一人、そして道楽の一つや二つを持って暮らす、といったところです。江戸期の三大道楽と言えば、園芸、釣り、文芸だったと聞きます。文芸道楽は幅広ですが、商家のご隠居の場合なら、芝居、俳句、囲碁将棋、それに義太夫や端唄小唄といった習い事あたりでしょうか。

道楽とは、仕事以外で好きなことに打ち込むことです。本業以外の得手なことで金を稼ぐなら、それは商売であって道楽ではありません。先輩から、このブログに広告を貼り付け収入を得たらどうか、と勧められたことがあります。お断りです。収入を期待できるような代物でもありませんが、そもそも道楽でやっていることです。金が絡むと、好きなことではなくウケねらいで書くことになります。金を稼ぐなら道楽とは言えませんが、一方、道楽に金や時間を注ぎ込み過ぎて仕事や生活に支障をきたすなら、それも道楽本来の姿ではありません。例えば、飲む・打つ・買うという世界に血道を上げれば、道楽者や道楽息子といったレッテルが貼られます。近年、道楽という言葉は、批判的に使われることが多くなったと思います。

道を楽しむ、とは、実にうまい言葉を考えたものだと感心させられます。ただ、道楽は、もともと仏教の言葉だったようです。仏教では”どうぎょう”と読み、仏道を求めることとされます。”楽”という漢字は”願”という意味を持っていました。それが法華経などでは、道を修めて得られる法悦を表す言葉に変化していったようです。仏典には、楽に二種あり、俗楽と道楽なり、という言葉もあると聞きます。いつの頃かは分かりませんが、俗楽と道楽が混同されてゆき、道楽と言う言葉だけが残ったということなのでしょう。生活に余裕が出てきた江戸初期のことだったのではないかと推測できます。興味深いことに、英語の”Hobby”という言葉が生まれたのも17世紀のことだったようです。世の東西を問わず、生産性が上がった時期ということなのでしょう。

道楽によく似た言葉に”趣味”があります。趣(おもむき)と味わいということなのでしょうが、趣を味わうという意味もあり、道楽とほぼ同義語だと思われます。趣味という言葉は、明治初期から使われ、一般化したのは明治後期のことだったようです。ただ、いわゆる西洋文化の翻訳語ではなく、一方、中国の古典にも登場しない言葉のようです。いつ、どのように誕生した言葉なのかは分かりませんでした。ただ、明治になって、この言葉が使われ始めた背景には、西洋文化の迎合と職と特権を失った士族たちのプライドがあったという説があります。家計は苦しいものの、平民とは異なるという矜持を、洋装を整えることや書画骨董を収集することで保とうとする傾向があったのだそうです。その際、多用されることになったのが趣味という言葉だったようです。

道楽という言葉でも良かったようにも思いますが、道楽は経済的余裕が背景にあるように思います。明治の士族の収入では、ゆとりなどあり得ないわけです。加えて、単なるもの好きではなく、プライドの維持という目的もあるわけですから、道楽ではなく趣味という言葉が重宝されたのでしょう。現代では、趣味の幅も相当に広がり、かつ、言葉の意味も曖昧になっているように思います。道楽とは異なり、“趣味と実益を兼ねて”という言葉があるくらいですから、趣味で収入を得ることもまったく問題にされないわけです。趣味という言葉は、その幅広さからして実に便利な言葉だと言えます。一方で、道楽という言葉は、古語辞典でしかお目にかかれない、いわゆる死語になっていくのかもしれません。(写真出典:web-japan.org)

2025年3月16日日曜日

ピューター

富山県の高岡は、鋳物の街として知られます。その歴史は400年を超えるとされています。いまや高岡を代表する鋳物工場の一つとなっているのが、1916年創業、モダンなデザインで知られる「能作」です。とりわけ錫100%の製品は、能作の代名詞となっています。錫は、融点が低く、柔らかい金属です。加工しやすいだけでなく、酸化しにくく,抗菌性が高く、熱伝導率が高いことから、酒器や茶器として重宝されています。また、錫は雑味を取る効果もあるようです。頂き物ですが、能作の錫のカップを持っています。冷たい飲み物には最適な器です。数年前、富山に行った際、能作の工場を見学しました。上質で高価な製品に相応しいモダンな工場でした。

錫の加工品の一つにピューターがあります。錫に、少量の銅とアンチモンを加えて、硬度を高めた製品です。錫100%だと、手で曲げられるほどに柔らかいので、合金にしているわけです。かつては鉛を混ぜていたようですが、19世紀、鉛が健康に良くないということで、今の製法に変わったようです。ピューターの歴史は古く、4000年前のエジプトの墓からも出土しています。ピューターは、古代ローマでも使われていました。錫鉱山の多いブリテン島に進出したローマ人たちは、ピューターを多く生産していたようです。中性に至るとイギリス製のピューターが欧州各地で使われるようになりますが、高価だったことから、富裕層や教会に限ってのことだったようです。その後、庶民の間にも広がり、その特性から、主に食器類として活用され、大人気となっていきます。 

14世紀のイギリスには、既にピューター生産者の組合が存在し、現在も続いているとのこと。大人気となったピューターでしたが、18世紀になると、東洋からもたらされた陶磁器の製造法が広まり、高価なピューターの食器類はより安価な陶磁器に置換えられていったようです。さらに20世紀になると、食器類は、各種、新しい素材を使って大量生産されるようになり、ピューターは姿を消していきます。ただ、加工のしやすさから装飾品として、あるいはその特性からビール・ジョッキなどとしては、根強い人気があります。かつてNYにいた頃のことですが、メリーランド州イーストンのソールズベリー社のピューターはギフトとして人気がありました。頂き物のカップを一つ持っていますが、30年以上経っても、まったく劣化していません。

昨今では、マレーシアのロイヤル・セランゴール社のピューターが、世界中で最も品質が高いとされ、人気があるようです。錫の産出国は、アジアと南米に集中していますが、マレーシアもその一つです。1885年、プラナカンが創業したロイヤル・セランゴール社は、クアラ・ルンプールに本社があります。セランゴールとは、マレーシア連邦13州のうち、クアラ・ルンプールを取り囲む州の名称です。ロイヤル・セランゴール社は、かつて単に州名セランゴールを冠したブランドでしたが、1979年、同州のスルタンから王室御用達の名誉を与えられます。それを機に、社名もロイヤル・セランゴールに変更しています。東京にも進出しており、丸の内に店舗があった頃には、しばしば後輩たちの結婚祝いとして、同社のピューターの一輪挿しを贈っていたものです。

今般、クアラ・ルンプール郊外にあるロイヤル・セランゴール社の工場を見学してきました。いまや同社はマレーシアの誇りの一つとなり、工場見学は観光コースになっているようです。良く出来た見学コースが設定されており、ピューター加工の各段階が職人によって実演されてもいました。また、庭にはギネス・ブックに登録されているというピューター製の巨大なビール・ジョッキも展示されていました(写真)。もちろん、ショップも併設されており、ピューターだけでなく、同社の金銀製品も売られていました。ピューターは、かつての倍以上に値上がりしていました。聞けば、錫は金銀に次いで高価な金属なのだそうです。リタイアしてしばらく経つ身としては、もはや後輩たちの結婚の知らせを聞くことなど一切ありません。そのことに少しホッとした次第です。(写真出典:travel.co.jp)

2025年3月14日金曜日

プラナカン

プラナカンとは、主に福建省からマラッカ海峡周辺に渡ってきた中国人と現地のマレー人やインドネシア人との混血によって生まれた子孫たちを指します。プラナカンという言葉は、もともと子孫を意味していたようですが、その後、現地化した中華系を指す言葉になったようです。プラナカンは、海峡華人とも、ニョニャ・ババとも呼ばれます。ニョニャは女性、ババは男性を表します。ニョニャはポルトガル語、ババはペルシャ語由来とされます。中華系ながら、華僑とは異なり、中国本土との関係は維持されませんでした。プラナカンは、中国文化と現地文化を融合した独自の世界を生み出し継続してきたわけです。不思議なことにプラナカンと多民族との混血は進まなかったようです。商業利権の継承が関係しているのではないかと想像します。

15世紀以降のマラッカの繁栄はプラナカンたちによって築かれたと言っていいのでしょう。マラッカは、昔から交易の要衝だったわけですが、14世紀末にマラッカ王国が建国され、繁栄の時代を迎えます。国王は、スマトラの王家出身ですが、独立を企てて失敗し、半島を転戦してマラッカにたどり着きます。 木陰で昼寝した王は、縁起の良い夢を見たことから、その木の名前であるマラッカを国名とします。15世紀初頭には、明の永楽帝の指示を受けた鄭和の大船団がマラッカに寄港します。その縁か、王国は明と結ぶことで、北のシャム、南のスマトラのイスラム王国の脅威から守られることになります。恐らく、この頃から華人の来航が増えていくのでしょう。16世紀になると、ポルトガルによって占領され、東南アジア開拓の拠点とされます。

この頃、ゴアを拠点に布教活動を行っていたイエズス会のフランシスコ・ザビエルは、マラッカで出会った日本人ヤジロウの勧めで日本への布教の旅に出ています。また、中国への布教の途上亡くなったザビエルの遺骸は、数ヶ月間、マラッカに安置され、その後、ゴアで埋葬されています。その後、マラッカは、17世紀にオランド領となり、19世紀には英蘭協定によってイギリスの植民地となります。こうしてマラッカは多くの文化が交錯する独特な文化を築いていきます。2008年、マラッカは、ユネスコ世界遺産に登録されています。その中心となっているのが、かつてプラナカンたちが商店の軒を並べたオールド・タウン地区です。間口が狭く、奥行きのある建築は、ノスタルジックな雰囲気を醸し、かつての繁栄を偲ばせています。

プラナカンの文化を今に伝えるものの一つにニョニャ料理があります。中華料理とマレー料理が融合した料理の数々です。そもそもマレー料理は、インドネシア、タイ、南インドの影響が濃い料理であり、そこに中華が加わることで、東南アジア・オールスターズといった風情になります。移民文化が根付く地域の料理は、多くの民族が受け入れやすいよう角のないやさしい味になるものです。ニョニャ料理にも同じ傾向があるように思います。ニョニャ料理の代表格の一つがエビ出汁とココナツでマイルドに仕上げた米粉麺のラクサです。日本でも、成城石井が火付け役となり話題になりました。今回、クアラ・ルンプールでドライ・ラクサを食べましたが、とても美味しくて気に入りました。また、マラッカで食べたオンデオンデは、パームシュガーを緑色の餅粉で包み、ココナツ・フレークをまぶした蒸し菓子ですが、その穏やかな味が好きになりました。

1941年12月、日本軍は、英領マレー半島東部に上陸し、わずか70日間で半島を制圧、シンガポールを陥落させます。英軍に支援された抗日ゲリラも活動を始めます。日本軍は、日中戦争の影響から、中国系共産党ゲリラに対して過敏になり、中国系住民の虐殺も行っています。マラッカでも、終戦直後に中国系の虐殺事件が起きています。一方、マレー系住民は優遇され、民族対立が加速した面もありました。また、ゲリラには、抗日よりも英国からの独立を目的とするグループもあったようです。日本軍の侵略を受けながらも、マレー半島は、民族対立、対英独立運動等、複雑な状況を抱え、戦後にも濃い影を残します。結果論ですが、日本軍のマレー作戦は、英国の東南アジアにおける麻薬ビジネスを根絶したことで、英国の弱体化を招き、マレーシア連邦の独立につながったという見方をする人たちもいるようです。(写真:マラッカ・オールド・タウン 出典:4travel.jp)

2025年3月12日水曜日

泥の河

ヒジャブは、イスラム教の女性たちが髪を隠すために身につけるスカーフです。シャリーア(イスラム法)によって、女性は家の者以外に髪を見せてはならないとされています。ヒジャブの色柄、材質、被り方は、国によって大いに異なります。インドネシア、マレーシアの女性は、ヒジャブの被り方ですぐに判別できます。とりわけ地味な単色のヒジャブで首まで完全に覆うマレーシア系は、すぐに分かります。マレーシアではトゥドゥンと呼ばれるヒジャブの着用は、個人の判断に委ねられているようですが、着用率は高いように思われます。普段、ヒジャブを着用しない人でも、モスクでは着用が義務づけられます。モスクでは、外国人はじめ異教徒であっても、ヒジャブを着用しない限り、場内に入ることはできません。

初めてマレーシアへ行ってきました。マレー半島とボルネオ島北部で構成されるマレーシアは、日本の9割ほどの国土に人口は3,500万人。海に囲まれているので年間平均気温は27度とあまり高くありませんが、湿度は非常に高く、まさに熱帯の国です。国土は6割がジャングルに覆われた山岳地帯であり、比較的平地の多い西側が国の中心です。国民は、マレー系65%、中国系25%、インド系8%で構成されます。マレー系を中心に、国民の6割がイスラム教徒であり、国はイスラム化政策を採っています。一人当たりGDPは12,000ドルを超え、近隣のタイ、ベトナム、インドネシアを越えています。マレーシアは、石油はじめ鉱物資源に恵まれ、かつ工業化にも成功した国であり、アジアの優等生とも言われます。そして、鉱物資源の開発は錫から始まりました。

クアラ・ルンプールとは、マレーシア語(マレー語)で「泥の河」という意味なのだそうです。市内を流れるクラン川とゴンバック川の合流地点には、1909年に建立されたという美しいスルタン・アブドゥル・サマド・ジャメ・モスクがあります。かつて、この場所では、採掘した錫を洗っており、河はドロドロだったようです。まさに近世マレーシアの成り立ちを象徴する場所と言えます。一方、中世マレーシアを象徴するのはマラッカなのでしょう。マラッカ海峡に臨むマレーシアは、古くから交通、交易の要衝だったようです。特に、自由貿易港マラッカは、その中心でした。15世紀初頭に成立したマラッカ王国は、中東、インド、アジア各国を結ぶアジア屈指の貿易港として栄え、日本や琉球からも船が通っていました。

大航海時代に入ると、ポルトガル、オランダ、そしてイギリスの支配が続きます。19世紀にはイギリスの植民地となり、第二次世界大戦中は日本に占領されますが、1957年、マラヤ連邦独立まで植民地の時代が続きます。1963年には、イギリス領だったボルネオ島北部やシンガポールを含めマレーシア連邦が成立します。ただ、1965年、イスラム化を進める連邦と中華系の多いシンガポールの溝は深まり、民族暴動を機にマレーシアはシンガポールを追放しています。その後、シンガポールは著しい経済発展を遂げますが、イスラム化を進めたマレーシアは遅れをとることになります。一概に言えるものではありませんが、工業化を成功させたとは言え、資源に頼ってイスラム化を進めてきたマレーシアの基本スタンスは、現在も変わっていないように思えます。

首相官邸を含むマレーシアの連邦行政府のほぼ全てが、計画都市プトラジャヤに移転しています。30年前に建設が始まったプトラジャヤは、クアラ・ルンプールから25kmほどのところにあり、人口12万人、住民のほぼ全てが連邦職員とその家族です。首都は、国王と国会が所在するクアラ・ルンプールのままになっています。20世紀以降の首都移転はことごとく失敗したと言われますが、マレーシアの場合はうまくいっているように思います。プトラジャヤ着工と同じ頃、クアラ・ルンプールに、当時、世界一の高さを誇ったペトロナス・ツイン・タワーが完成しています。この頃が、マレーシアの近代化の大きな節目だったのでしょう。豊富な鉱物資源がゆえに、教育・医療が無償化され、治安が良く、物価も安く、街も清潔なマレーシアですが、不足しているのは民間の活力なのではないでしょうか。そこにはイスラム化政策が影を落としているように思えます。宗教という檻の中の平穏か、自由という荒野における競争か、ということかもしれませんが・・・。(写真:ペトロナス・ツイン・タワー 出典:ja.wikipedia.org)

2025年3月10日月曜日

塩昆布

えびすめ
塩昆布は大好物の一つです。昆布を炊いた料理は、平安時代からあったようですが、塩昆布は、天明元年(1781年)に大阪で創業した「神宗」が明治期に売り始めたのが嚆矢とされます。神宗は、今でも日本を代表する高級佃煮店として知られます。随分と大仰に聞こえる店名は、創業者である神嵜屋宗兵衛からきているようです。神宗は、「蛸の松」と呼ばれる包装も有名です。眉山玉震が幕末に描いたという重文「大坂中之島久留米藩蔵屋敷絵図」の一葉であり、神宗に家宝として伝わっていたものだそうです。当初、塩昆布はまかないだったようですが、明治政府肝いりの内国勧業博覧会に出品されると評判を呼び、一気に知名度があがりました。

神宗の塩昆布は、しっとりとした佃煮系です。対して、塩吹きタイプの塩昆布は、昭和24年(1949年)、「小倉山山本」の「えびすめ」の発売に始まるとされます。塩吹きタイプは、昆布を煮詰めて乾燥させたものです。えびすめという名称は、古語で昆布を指します。”め”は、広く海藻類を指し、蝦夷の国の”め”なので、えびすめとなるわけです。小倉山山本は、嘉永元年(1848年)に、初代山本利助によって大阪で創業されています。えびすめは、三代目が開発したようです。贈答品として利用されることが多い神宗に対して、小倉山山本のえびすめは普段使いといったところです。ただ、決して安いわけではありません。いずれも厳選された昆布や他の材料を丁寧に炊き上げることから、どうしてもいいお値段になってしまうわけです。

塩昆布が、天下の台所と呼ばれた大阪で誕生したことは、もっともな話だと思います。昆布に関して言えば、大阪は単なる集積地だけはなかったようです。北前船で北国から運ばれた乾燥昆布は、高温多湿な大阪で熟成が進み、味が良くなったというのです。塩昆布誕生の背景には、大阪のお茶漬け文化も関わっているのでしょう。お湯漬けや水飯は、蒸した強飯が主だった古代から存在していたようですが、お茶漬けは、室町時代、関西から始まったとされます。かつて、米を炊くのは1日1回、かつ保温技術のない時代ですから、温かいご飯は1日1回、後は冷飯だったわけです。商人の多い大阪では昼に米を炊き、武士が多い江戸は朝炊いていたようです。商家の朝は多忙を極めます。朝食は、前日昼に炊いた米を茶漬けにしてかき込んだわけです。

当初、お茶漬けは漬物だけで食べていましたが、そこは全国の物産が集まる大阪のことですから、海苔、梅干しはじめ様々な工夫がされていきます。塩昆布も、その延長線上にあるのだと思います。初めは、まかないとして、はねものやおぼろ昆布の端など店に出せない昆布を炊いてお茶漬けに添えていたのでしょう。それが商品化され、人気を博したわけですが、近年では結構なお値段になっています。個人的には塩吹きタイプの塩昆布、とりわけえびすめが好きなのですが、もはや高級品です。四角いえびすめに対して、細切りにした塩昆布“しら磯”は随分と割安に買えます。端材を使っているからお安いのでしょう。昆布の味をしっかり楽しめるのはえびすめですが、お茶漬けにするならしら磯で十分であり、近年はもっぱら細切り専門になっています。

さて、話は少し逸れますが、湯漬けに関する大好きな話があります。平安中期の三条中納言こと藤原朝成は、大食いの肥満体だったようです。それを気にした三条中納言は、医者から、湯漬け・水飯で痩せろ、という助言を得ます。それが一向に成果が出ないというので医者が訪ねてみると、三条中納言は、干瓜十本、鮨鮎三十尾をおかずに、大盛りのご飯の上に水を少し垂らしたものをお代わりまでして食べていたというのです。今昔物語集に出てくる話です。医者がイメージしたのは、漬物程度をおかずにした軽い食事だったのでしょう。ただ、三条中納言の気持ちもよく分かります。塩昆布好きとしては、お茶漬けなら何杯でも食べられそうな気がします。その時代に塩昆布があれば、三条中納言のお代わりは2~3回では済まなかったかもしれません。(写真出典:rakuten.co.jp)

2025年3月8日土曜日

夢の酒

和歌山淡島神社
死んだ自分と相対するという落語「粗忽長屋」 は、古典落語のなかで最も奇妙な傑作だと思いますが、それに次ぐほどに奇妙な傑作が「夢の酒」だと思います。若旦那が居眠りをして寝言を言っていると女房に起こされます。何の夢を見てたのかと聞かれた若旦那は、 絶対に怒るなよ、と念を押してから話し始めます。向島へ用足しに行くと雨に降られます。ある家の軒先で雨宿りをしていると、その家に呼び込まれます。そこには若旦那を慕っていたという綺麗な御新造さんがいます。飲めない若旦那ですが、勧められるままに酒を飲んで倒れ、布団を敷いてもらいます。すると御新造さんも布団に入ってる、という夢でした。案の定、怒り狂った女房と若旦那は口論になり、心配した大旦那が仲裁に入ります。

どうにも怒りが収まらない女房は、大旦那に、向島へ行って御新造さんを叱ってくれと頼みます。夢の話だから無理だと言うと、淡島様の上の句を詠めば人の夢の中に入れると言うから行ってくれと懇願されます。大旦那は、渋々、言われたとおりにします。すると不思議なことに、夢の中で、やはり向島の綺麗な御新造さんの家にあがることになります。酒好きの大旦那は、燗酒を所望します。御新造さんは、燗がつくまでのつなぎに冷や酒を勧めます。大旦那が、私は冷や酒はやらない、と断っているところを女房に起こされます。大旦那が、惜しかった、と言うと、女房は、談判する前に起こしてしまいましたか、と聞きます。そこで大旦那が一言、いや、冷やでもよかった。これがオチになっています。

18世紀後半の作とされますが、まるで星新一が書いたショート・ショートかと思うほど奇妙な設定です。淡島様とは、和歌山市にある淡島神社を総本社とする民間信仰、あるいはその祭神を指します。淡島神は、イサナギとイザナミの2番目の子“淡島”とも、大国主の国造りに活躍した少彦名神とも言われます。江戸期には、安産や婦人病など女性に関する諸事に霊験があるとされ、信仰されていたようです。その伝道師となったのが、神棚を背負い祭文を唱えながら市中、特に色町を回ったという淡島願人だとされます。また、淡島様の上の句とされるのが「われたのむ 人の悩みの なごめずば 世にあはしまの 神といはれじ」ですが、やや押しつけがましく、また出所もはっきりしません。民間信仰ならでは、と言えるのでしょう。

この淡島様の上の句は、頼み事はなんでも叶えるという意味だと思われます。他人の夢に入ることも含まれるということなのでしょうが、夢との関係が、どうもよく分かりません。イサナギとイザナミの国産み伝説においては、淡島の前に水蛭子(ヒルコ)が生まれていますが、二人とも障害があったために葦舟に乗せて流されます。その行方に関する伝承はありません。子作りに際し、イザナミから誘ったので障害のある子が生まれた、と神から聞かされた二人は、イサナギから誘うことにします。すると次々に子が生まれ、それぞれが島になって大八島、つまり日本列島が作られるわけです。男尊女卑の匂いプンプンですが、後に淡島神が女性の味方として信仰されたのは、このあたりに基づくものなのでしょう。

向島、御新造さんとくれば、なにやら艶っぽいな、と思うわけですが、それは向島の花柳界をイメージするからなのでしょう。東京六花街といえば、もともと柳橋・芳町・新橋・赤坂・神楽坂・浅草でしたが、後に柳橋が廃れ、向島が入ります。戦前の向島には1,000人を超す芸妓がいたそうですが、今は100人ほどと聞きます。ただ、いずれにしても明治以降の話です。江戸期の向島は、墨堤の桜をはじめ風光明媚で、かつ手近な行楽地として人を集め、料亭も数件あったようです。ただ、花街はなかったわけです。にもかかわらず、艶っぽい話の舞台として向島が選ばれているのは、やはり浮世離れした土地柄だったからではないでしょうか。とりわけ、川向こうというところがポイントなのだと思います。(写真出典:wakayama.goguynet.jp)

2025年3月6日木曜日

アマゾンと楽天

寄席の楽屋で、高齢の師匠が中堅と世間話をしています。師匠が「あの若手は、随分と人気があるようだね」「そうですね、いつも客席は満席ですよ」「最近じゃ海外でも知られるようになったのかい?」「どうでしょうか」「だってよ、この前、楽屋に南米から荷物が届いていたよ」「師匠、それはアマゾンという通販会社ですよ」結構前に聞いた小噺ですが、実話でもあったようです。アマゾンと言えば、今やアマゾン川よりもAmazon.comの方が有名なのだと思います。アマゾンは、1994年、ヘッジ・ファンドのシニアVPだったジェフ・ベゾスによって創業されています。ベゾスは、アマゾンという語感が気に入り、アマゾン川のような世界一のオンライン書店を作りたいと願って社名を決めたといいいます。

インターネットの起源となったのは、1台のコンピューターを各地のユーザーたちが利用するタイム・シェアリング・システムだとされます。1960年代後半から運用されました。私も、仕事で使ったことがあります。1980年頃のことですが、アメリカの大型コンピューターをタイム・シェアしました。1969年には、パケット通信を使ったコンピュータ・ネットワークであるアーパネットが開発されます。その後、1986年に学術研究用のNSFネット、1988年には商用インターネットの運用が開始されます。そして、1990年、ティム・バーナーズ=リーがワールド・ワイド・ウェッブ(WWW)を開発し現在に至るインターネット環境がスタートしています。また、この年、ウィンドウズ3.0が発売され、コンピューターが身近なものになります。

1990年代初めには、オンライン・ショップが登場していたようですが、いわゆるe-コマースの一般化は、1995年のAmazon、そしてネット・オークションのeBayの創業とともに始まります。プリンストン大でコンピューター・サイエンスを専攻したベゾスは、いち早くネットの可能性に着目したのでしょう。開業にあたり、ベゾスはオンライン書店営業のために必要な条件を精査し、シアトルがベストの立地と判断し、NYから移転しています。ネットの特性を深く考えたうえでの判断は、既にベゾスの成功を決定づけていたように思います。また、この年、ウィンドウズ95が発売され、世界中で爆発的にコンピューターが普及することになります。我が家にもパソコンとインターネットが入り、恐る恐るでしたがアマゾンの利用も始めました。

日本では高い米国の本、日本では入手困難なCDが買えることが魅力でした。送料はかかりますが、ペーパー・バックやCDでは大した額になりません。1997年には、三木谷浩史が楽天市場を開き、ほどなくアマゾン・ジャパンも開業します。この2社が、日本のEC市場を牽引するわけですが、その性格はまったく異なっていました。小売業であるアマゾンに対して、楽天は店舗を貸す不動産業のようなものです。当初、アマゾンを圧倒していた楽天ですが、今やアマゾンに首位の座を明け渡しています。Eコマースやインターネットの可能性を自ら広げてきたアマゾンに対し、楽天は豊富な資金を元手に買収を重ね、他業態への進出を進めてきました。この違いが、今後、EC市場における両社の格差を拡大させるのではないかと思われます。

ちなみに、楽天市場は、安土桃山時代の楽市・楽座のような自由で賑わいのある市場をネット上に作りたいという思いから命名されたようです。信長など戦国大名が活用した楽市・楽座は規制緩和策であり、経済振興と人口増加に効果がありました。ただ、楽市・楽座には多くの小売業者が集まり過ぎ、過当競争に陥っていきます。結果、問屋が力を増し、権力と結んだ御用業者も現れます。自由競争が寡占・独占を生んでいくわけです。魅力を失った楽市・楽座は消えていきます。自由市場は本質的に統制を嫌いますが、統制を失うと意図せぬ方向へ暴走するリスクもあります。放任と統制の匙加減が求められる楽天ですが、ネット市場の統制は、ネットの利便性を高める方向、つまり新技術の提案でしか実現できないものと考えます。楽天は、もう少しここに注力した方がいいように思います。(写真出典:agora.web.jp)

2025年3月4日火曜日

「セプテンバー5」

監督:ティム・フェールバウム     2024年ドイツ・アメリカ

☆☆☆+

1972年9月5日、ミュンヘン・オリンピック選手村で、テロリストがイスラエル・チームの部屋を襲撃、選手たちを人質にとります。実行犯は、PLO(パレスティナ解放機構)の最大派閥ファタハに属するテロ組織「黒い9月」でした。最終的に、テロリストは国外へ脱出を図ろうとしますが、空港で地元警察との銃撃戦になり、人質11人、警官1人、テロリスト5人が死亡します。オリンピック史上最悪と言われるこの事件を描いたのが、スピルバーグの傑作「ミュンヘン」(2005)でした。ただ、「ミュンヘン」でスピルバーグが描いたのは、事件後、イスラエルが「黒い9月」に対して行った徹底的な報復でした。本作は、事件当日、テロの状況を世界中に実況中継したABC放送のスタッフたちを描いています。

事件が発生した未明から終結した深夜までの一日を、ほぼTV中継の調整室内だけで構成するというチャレンジャブルな設定です。随所に当時の映像が使われ、ドキュメンタリー・タッチの抑え気味の演出がされています。また、今に比べれば、相当にアナログだった放送機材とそれを巧みに扱うスタッフの職人ぶりが実に丁寧に描かれており、時代感を出すだけでなく、ドラマ全体のリアリティをしっかり支えています。いずれにしても、限られた時間と空間を逆手にとって、緊張感あふれるドラマに仕立てた本作は、なかなかの佳作だと思います。とりわけ脚本と細部にこだわった映像が見事だと思います。ちなみに、今年のアカデミー脚本賞にもノミネートされています。

ただ、テーマの追求という点においては、ややブレてしまった印象が残ります。大雑把に言えば、ドイツ国民の負の遺産への向き合い方、そしてマスコミ報道のあり方、という二つのテーマを並列させたために、リアリティや緊迫感だけが印象に残る結果になったと思います。ミュンヘン・オリンピックは、ドイツにとって第二次大戦後初となるオリンピックでした。敗戦国日本が、1964年、アジア初となる東京オリンピックを開催するまでには、相当な困難があったことはよく知られています。ドイツは、1936年、ナチス政権下でベルリン・オリンピックを開催していたこと、そして何よりホロコーストがゆえに、開催決定までは日本以上の苦労があったものと思われます。それだけに大会に寄せる国民の思いもかなり深いものがあったはずです。

悪夢を乗り越えるためのオリンピックだったはずが、事件によって悪夢がフラッシュバックさせられたわけです。国民の落胆も大きく、かつ、まだまだ重荷を負い続けなければならないのか、という感慨を深くしたものと考えます。右傾化が進むドイツの現況に一石を投じるために企画された映画なのだろうと思います。また、当時、事件の悲惨な結果について、西ドイツ政府の対応のまずさも批判されました。テロ対策が不十分であったことは他国も同じだったのでしょうが、法律上、事件に対応することになったのが装備も準備も不足していた地方警察であり、政府との連携の悪さも目立ちました。そして、憲法上、軍を投入できなかったことが大問題となりました、こうした敗戦国ドイツの複雑な状況についても、冷静な描写がされていました。

街に商品広告ポスターが貼ってあったとしても、それを一日中見ている人などいません。しかし、TVは、それを実現する魔法の箱です。視聴率とは、見ている側の主体性を感じさせる言葉ですが、本質的には、どれだけ大衆をTVの前に釘付けにし、CMを見続けさせたかというデータです。事件の現場に居合わせたABCのスポーツ中継スタッフが、即座に事件を生中継したことは、ジャーナリスティックな対応と言えますが、それ以上にTV関係者の視聴率へのこだわりに基づく対応だったようにも思います。しかし、それがテロリストに警察の動きを伝えることになり、TVは殺人の瞬間を放送していいのかという倫理的な問題をも引き起こします。国民の知る権利、事実を報道するという使命、そして報道の自由といったマスコミ側の基本スタンスは、しばしば倫理問題を引き起こします。線引きが難しい問題です。ただ、マスコミの正義感の向こうに視聴率が横たわっていることも事実だと思います。(写真出典:eiga.com)

2025年3月2日日曜日

老飯店の紅焼

上海老飯店
豫園(よえん)は、上海で最も有名な観光スポットです。広大というわけではありませんが、池、岩、植物、建物等の細部に至るまで美意識が凝縮された中国庭園の傑作です。初めて訪れた時には、あまりの濃厚さにめまいがするほどでした。16世紀、明代、現在の四川省長にあたる役職を務めた高級官僚の潘允端が、父親のために築いたとされます。清代になると、隣接する老城隍廟と呼ばれる道教寺院の庭園となります。当時は、今の倍の広さがあったといいます。その西半分が現在の豫園であり、東半分は豫園商城と呼ばれる飲食店・土産物店が密集する商業地区となっています。その一角、大きな通りに面して上海きっての老舗レストラン「上海老飯店」があります。

中国では、長い歴史を誇る店を「百年老店」と呼ぶようです。百年とは、創業100年以上ということではなく、単に長い歴史を持つという意味なのでしょう。北京など古い歴史を有する街には数多く存在するのでしょうが、比較的歴史の浅い上海にも存在します。例えば、同じ豫園商城には小籠包発祥の店として知られる「南翔饅頭店」があります。30年前に訪れた時も大行列に並んで食べましたが、今も長蛇の列が絶えません。創業は1900年とされますが、前身となった南翔の店から数えると150年の老舗ということになります。同じ頃、上海老飯店も創業しており、やはり150年の歴史を誇ります。歴史ある店は、変わることのない顧客の支持があったことを示していますが、激動の中国現代史を考えれば、生き残っただけでも賞賛に値すると思います。

ことに文化大革命のおりには、百年老店も存亡の危機に陥ったようです。紅衛兵たちは、人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を排除する、いわゆる”破四旧”を掲げて、文化財、伝統芸能などを含めて、とにかく古い文物を破壊していきます。当然、百年老店もターゲットになり、店名を変えられる、メニューを変えられる、さらには店を破壊されることになります。そこで消えていった百年老店も、少なからずあったのではないかと思います。上海老飯店も、南翔饅頭店も、同じ試練を受けたはずですが、なんとか生き残ったわけです。30年前に訪れた時、老飯店は歴史を感じさせる堂々たる外観と重厚感あふれる内観が実に印象的でした。今は近代的な建物になっていますが、外観は中国風に仕立てられ、なかなか立派なものです。

初めての上海は、一人で行ったのですが、何が何でも、有名な上海老飯店で、上海名物の紅焼を食べたいと思い、訪問しました。真っ当な中華料理店で一人で食事することなどあり得ません。そのリスクは承知していましたが、円が強かった時代でもあり、かまわずに訪れました。鰻の紅焼はじめ、3品ほど注文しました。ぶつ切りにされた鰻一匹が、照りのある美しい紅色に包まれて出てきたときには感動しました。鰻そのものの風味は薄かったように記憶しますが、紅焼の複雑で深みのある味には五千年の歴史の重みを感じたものです。紅焼は、ブレンドした中国醤油、紹興酒、砂糖、香辛料で具材を煮込んだ料理です。シンプルなだけに、味の深み、色合い、具材と調味料の一体感など、調理人の腕が試される料理だと言えます。

東京の上海料理店でも紅焼を食べることができます。ただ、排骨や獅子頭(肉団子)が多く、海鮮系はあまり見かけません。超高級店ならいざ知らず、なかなか上海老飯店ほどの味には出会いません。実は、上海老飯店は、東京にも進出していました。そのうちに行こうと思っているうちに撤退していました。そういえば、かつて、香港の名店福臨門酒家も来ていましたが、お家騒動の影響で名前が変わり、今は店もありません。名店が東京進出したら、そのうちなどと言わずに、すぐ行くべきなのでしょう。ちなみに、上海からは南翔饅頭店、北京からは北京ダックの全聚徳といった百年老店も東京に来ています。(写真出典:shanghainavi.com)

マクア渓谷