しかし、明治の近代化はクォンタム・リープなどではなく、江戸期からの連続性のなかで実現された革新だったように思えます。幕藩体制から中央集権化という大きな変化はあったものの、本質的に明治維新は武家から武家への政権交代だったと思います。江戸期には、近代化に欠かせない官僚体制の確立、商業資本の蓄積、各種技術の進化、流通体制の整備等が十分なレベルに達していたように思えます。また、鎖国と言っても、欧州の知見は出島のオランダ人を通じて入手できていました。要するに、日本は、江戸期260年の安定を通じて、近代化への準備を整えていたわけです。幕藩体制の行き詰まりを背景に、列強の脅威、関ケ原の遺恨といったトリガーはあったものの、明治の近代化は、起こるべくして起こったとも言えます。
欧州では、蒸気機関の登場とともに産業革命が起こります。日本も、蒸気機関さえあれば、産業革命が爆発する状態にあったとも言えるのでしょう。近代化の実現には、中央集権化された国家の殖産興業政策が大きな役割を果たします。ただ、上部構造だけでなく、文明開化を受け入れた社会のあり方も近代化実現の大きな要素だったと思います。政府が打ち出した四民平等が奏功したと言われますが、江戸後期には、貨幣経済の進展に伴い、町人が台頭、武士は没落、農民の生活水準も上がり、社会の均一化が進んでいました。四民平等は、幕藩体制の解体、租税強化、徴兵制など、中央集権化を進めるための方便だったのでしょう。庶民にとって、明治維新とは、幕府と武士が政府と役人に代わり、税が増え、兵役が課されただけのことだったのかもしれません。
つまり、明治維新とは、既に行き詰まっていた幕藩体制を、国民の犠牲の上に破産処理したような面もあるわけです。これが市民革命であれば、理想の社会を実現するために市民は進んで犠牲を払います。しかし、明治維新は簒奪型の政権交代であり、市民革命ではありません。犠牲を強いられる国民にも分かりやすい大義の欠如こそ、武家政権である明治政府の泣き所だったと思われます。それが明治維新として賞賛されることになったのは、天皇の神格化、富国強兵、文明開化といったプロパガンダの上手さ、そして何よりも日清・日露戦争での勝利がゆえだったのでしょう。日清・日露戦争は、あたかも免罪符がごとき絶大な力を政府に与えます。そして、それが、後の軍国主義、太平洋戦争へとつながっていくことになります。
明治維新を巡る学界での論争は続いているようですが、国民の認識としては司馬遼太郎などによる明治維新礼賛が定着しています。およそ歴史にクォンタム・リープなどなく、あくまでも原因と結果という連続性の上に成り立っているのだと思います。クォンタム・リープと呼べるのは、シュメール文明の唐突な出現くらいでしょう。ただ、それも近年発見されたトルコのギョベクリ・テペ遺跡の研究などによって、謎が解明されるかもしれません。明治維新については、その果たした役割の大きさを否定するつもりなどありませんが、史実に関するより冷静な分析が行われ、プロパガンダの呪縛から解放されるべきだと思います。半藤一利の薩長史観等もありますが、国民の認識が変わるまでには至っていません。歴史を正しく認識することは、我々の立ち位置を理解し、将来につなげていくためには欠かせないプロセスだと思います。(写真出典:touken-world-ukiyoe.jp)