2024年8月30日金曜日

チャールダーシュ

世の中には、中毒性の高い麻薬のような音楽があります。人それぞれには、好きな曲も思い出の曲もあり、なぜか頭から離れない曲もあるものです。ここで言う中毒性の高い音楽とは、そうした個人的なものではなく、多くの人々が何度でも繰り返し聞きたくなるような音楽のことです。その代表の一つが、ハンガリーのダンス音楽チャールダーシュであり、代表的曲はヴィットーリオ・モンティ作曲の「チャールダーシュ」(1904)だと思います。ヴィットーリオ・モンティは、ハンガリー人ではなく、イタリアはナポリの音楽家です。ただ、この曲以外の活動はほとんど知られていません。「チャールダーシュ」は、確かにモンティの名曲ですが、ハンガリー音楽チャールダーシュの魅力をうまくまとめあげた曲だと思います。 

18世紀初頭にさかのぼるチャールダーシュの起源は、ハンガリー常備軍の兵士募集のために、酒場で演奏されたヴェルブンクだとされます。兵士の募集方法としては珍妙な印象を受けますが、まずは人を寄せ、軍隊は楽しいところだよ、という幻想を売り込んだものなのでしょう。18世紀末になるとヴェルブンクを引き継ぎ、さらに洗練させたヴェルブンコシュが広まります。印象だけで言えば、やたら手足を叩いて踊るジプシー・ダンスの曲といった風情です。19世紀になると、作曲家マルク・ロージャヴォルギが登場し、ヴェルブンコシュを都会的に洗練させたチャールダーシュへと昇華させていきます。ロージャヴォルギは、”チャールダーシュの父”と呼ばれているようです。

チャールダーシュの魅力は、明暗、緩急のコントラストの妙にあると思います。ラッサンと呼ばれる遅いパートとフリシュカという速いパート、哀愁に満ちたメロディと明るく活き活きとした印象のメロディとの対比です。哀愁あふれるメロディには、絶望でも悲嘆でもなく、宿命に対する諦めのようなものを感じます。それも自己憐憫という甘い味付けがされています。そして明るいパートは、人生悪いことばかりじゃないよね、といった希望を感じさせます。つまり、誰にでもあり得る人生の浮き沈みやささやかな希望を思わせるものがあります。チャールダーシュは短い曲ながら、人生の機微が詰まっているとも言えます。それが人を惹きつけるのでしょう。チャールダーシュは欧州で大流行し、一時、ハプスブルク家が禁止令を出したこともあるようです。

ハンガリーという国は、広大なハンガリー平原がほとんどを占める国です。冷涼な気候と豊かな牧草が、古くから遊牧民たちを引き寄せ、多くの民族が行き交ってきました。ハンガリー人の大層を占めるマジャル人は、ウラル山脈に起源を持ち、チュルク系との混血を繰り返しながらドナウ川に至ったようです。11世紀にはハンガリー王国が誕生し、モンゴルの侵入を許したものの、その後は周辺の国々を制圧し、多民族国家を築いています。16世紀になるとオスマン帝国に侵入され、国は分割されます。17世紀末、陰りの見えたオスマンは、ハプスブルク家のオーストリアに敗れ、ハンガリーもその支配下に入ります。いずれにしても、ハンガリーという国は多様な民族・文化が行き交う地であり、それが独特な文化を生んできたのでしょう。ちなみに、マルク・ロージャヴォルギもマジャル人ではなくユダヤ人です。

モンティの「チャールダーシュ」は、ヴァイオリンやピアノで聞くことが多いのですが、もともとはマンドリンのために作曲された曲です。マンドリンでもピアノでも、あるいはクラリネットでも良い演奏が聴けますが、やはりヴァイオリンが最も適した楽器のように思います。「チャールダーシュ」の哀愁に満ちたメロディや超絶技巧は、ロマ音楽に通じるところがあり、やはりフィドルが似合うように思います。チャールダーシュは、楽譜どおりに演奏する曲ではないと聞きます。アドリブという意味ではなく、演奏者個々の解釈が大胆に反映されるべき曲という意味だと思います。確かに、緩やかなラッサン・パートでは演奏者がそれぞれ思い入れたっぷりに演奏します。その表現の違いが面白いと思います。西洋系よりも東欧系の、それもロマ系の演奏者の方が、情感たっぷりに弾いており、より魅力的だと思います。(写真出典:mnte.hu)

2024年8月28日水曜日

麦こがし

数年前、友人から沖縄土産として「伊江島ぴしご」をもらいました。伊江島は、本部半島からフェリーで30分、平らな島に城山だけが突き出た島です。”ぴしご”とは、伊江島の言葉で押し込むことだそうです。伊江島産の小麦の全粒粉とじーまみ(ピーナツ)を型に押し込んだ素朴なお菓子です。伊江島は、琉球王朝時代から続く小麦の産地であり、在来種である”江島神力” という小麦は、香り高いことで知られているようです。その江島神力を使って開発されたのが「伊江島ぴしご」とのこと。「伊江島ぴしご」の香ばしくて素朴な味わいは、子供の頃に食べた”麦こがし”に通じるものがあり、懐かしさも相まってすっかり気に入りました。売っているところも限られるので、お取り寄せで箱買いしています。

麦こがしは、香煎(こうせん)、関西でははったい粉とも呼ばれますが、大麦の玄穀を焙煎した上で挽いた粉です。”はったい”とは”焙じた”がなまった言葉とされます。玄穀とは、米で言えば玄米にあたり、穂から取ったままの皮付きの種子です。大豆で同じように作れば、きな粉になります。きな粉は、和菓子の世界で大人気ですが、似たような麦こがしの知名度はイマイチどころか、特に若い人たちはほとんど知らないと思われます。私が子供の頃ですら、既に過去のものになりつつありました。よく食べたという記憶はなく、食べたことがあるといった程度に留まります。食べ方としては、麦こがし粉に砂糖と若干のお湯を入れて溶きペースト状のまま食べます。香ばしい簡単おやつといったところでしょうか。

その歴史ははっきりしませんが、恐らく中国伝来ということなのでしょう。源平合戦のおり義経一行が食べて喜んだとも、大坂の陣の際には徳川家康が食べて気に入り、好物の一つになったとも聞きます。栄養価も高いので、戦時の携行食という面もあったのかもしれません。恐らく、その性格からして世界中に似たようなものが存在していると思われます。最も有名なものとしては、チベットのツァンパが挙げられます。ツァンパは、大麦の一種ハダカムギを脱穀、焙煎してから粉にし、お湯ではなくバター茶で溶いたものです。バター茶は、紅茶、ミルク、バター、砂糖で作られます。ツァンパは、チベットの主食であり、日に3度食べるといいます。また、ダライ・ラマの誕生日に行われるツァンパ祭りでは、互いにツァンパの粉を掛け合うという風習まであります。

麦こがしは、落雁などの和菓子に使われることもあります。落雁は、米粉に水飴などを加えて型にはめ、乾燥させたものです。中央アジア発祥で、中国経由で室町期の日本に伝来したとされます。落雁とは風流な名前ですが、語源ははっきりしていません。明のお菓子”軟落甘”が転じたという説があります。日本三大銘菓(越乃雪、長生殿、山川)も落雁の一種です。また、米粉以外にも豆落雁、栗落雁、そして大麦を使う麦落雁もあります。これなどは麦こがしを固形化したものと言えます。伊江島ぴしごも、小麦を使う麦落雁の一種ということができると思います。ちなみに、落雁によく似たお菓子にお干菓子がありますが、これは水飴などを使わず、和三盆だけを押し固めたものです。

大麦は、世界最古の穀物の一つといわれます。日本への渡来も小麦よりも早かったようです。乾燥や低温にも強いことから、広く世界で栽培されています。その用途も幅広く、日本では、麦飯、味噌・醤油、焼酎、麦茶、水飴、麦こがし等に使われます。また、大麦の麦芽は、ビールやウィスキーの原材料として知られます。さらに大麦若葉は、青汁の原料として人気です。私も、毎朝、飲んでいます。飼料としても利用され、上質な牛肉には欠かせないとも聞きます。近年、大麦は、食物繊維とビタミン類が豊富なことで注目されているようです。ひょっとすると麦こがしも脚光を浴びる日が来るかもしれません。(写真出典:erecipe.woman.excite.co.jp)

2024年8月26日月曜日

「夜の外側」

監督: マルコ・ベロッキオ  原題:Esterno notte  2022年イタリア

☆☆☆+

1978年に発生した極左テロ組織”赤い旅団”によるアルド・モーロ誘拐殺害事件を題材とする映画です。TVミニシリーズ6回分を、前編・後編2本の映画にブロウ・アップしたバージョンです。マルコ・ベロッキオは、2003年にも「夜よ、こんにちは(Buongiorno, notte)」でテロリスト側の視点から同事件を描いています。本作は、84歳になった監督が、事件の全体像を撮っておきたいと強く願って実現したものと思われます。アルド・モーロ誘拐殺害事件は、イタリアでテロが頻発した“鉛(弾丸)の時代”を象徴する事件とされます。複数の極左テロ組織、それに対抗する政府、ロッジP2等の反共結社、西側諸国といった構図は、カウンター・カルチャーの時代だけでなく、東西冷戦をも反映していると言われます。

アルド・モーロは、2度に渡って首相を務め、事件当時は、キリスト教民主党(DC)の党首でした。DCは、イタリアの戦後を半世紀に渡って主導した中道右派政党です。第二次大戦の際、三国同盟のうち日独は敗戦国となりますが、イタリアは戦勝国になっています。1943年、敗戦濃厚となったイタリアではムッソリーニが失脚し、連合国側についたイタリアは進駐してきたナチスと戦い、戦勝国になったわけです。戦後、DCが政権を握り、アメリカの欧州復興援助計画、いわゆるマーシャル・プランのもと、イタリアを奇跡的復興へと導きました。援助による復興は権力者の腐敗を生みやすいものです。しかもDC政権の長期化がそれを助長しました。腐敗の象徴が、事件当時の首相ジュリオ・アンドレオッティでした。

教皇や政府の一部は、赤い旅団との交渉を試みますが、アンドレオッティ内閣は一切の交渉を拒否します。これが、結果、アルド・モーロの殺害を招くことになります。当時、モーロは、第二党に躍進してきた共産党との歴史的連立を指向していました。アンドレオッティはじめDCの保守派、反共組織、そして西側諸国は、この動きを大いに懸念します。この構図が、今に至るまで、多くの疑惑と憶測を生み続けています。ただ、マルコ・ベロッキオは、極力、そうした仮説や憶測を避けて、客観的な事実に基づいて本作を構成しています。もちろん、ある程度の政治的示唆はあります。左翼冒険主義の内実に関する批判的な描写があり、アンドレオッティはじめ保守派はマフィアに寄せた映像に仕上げられています。

ただ、全体としては、関係者個々に焦点を当てたエピソード構成のなかで、事件が持つ人間的な側面や普遍性を追求しているように思います。かつてマオイストで、今も左翼を自認するマルコ・ベロッキオだけに、こうしたアプローチには、ある意味、重みを感じます。丁寧な描写、効果的な音楽、少し粗めの映像などによって、映画は長尺ながら高い緊張案を保って展開しています。さすがマルコ・ベロッキオといったところです。ただ、この人の映画の特徴として、けれんみのあるドラマティックな展開に欠けることが挙げられます。今回は、ミニシリーズというフレーム上の制約や過度に政治的になることを避けたことから、一層、娯楽映画的なメリハリに欠け、それが、かえって重厚なドラマを形成することになったと思います。

”タンジェントポリ”というイタリア語があります。直訳すれば”汚職の街”となりますが、1992年に始まった政財界とマフィアへの大規模な汚職捜査と、その結果生じた政治改革を指しています。ミラノに始まり全国に拡大した捜査は、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事、パオロ・ボルセリーノ検事の暗殺などの激しい抵抗も受けましたが、結果的には国会議員400人を含む3000人を摘発しています。ジュリオ・アンドレオッティも、汚職、複数のテロ・暗殺への関与で首相の座を追われ、起訴され、DCも解党に追い込まれています。イタリアの戦後の膿が一気に出たと言えます。しかし、それ以降、イタリア政治が安定したというわけでもありません。タンジェントポリで政権を奪取したメディア王ベルルスコーニは疑惑の百貨店でした。その後も政権は安定することなく変わり続けています。(写真出典:eiga.com)

2024年8月24日土曜日

神護寺展

京都が最も混雑するのは紅葉の頃です。宿は取れず、名所は人だかり、道も大渋滞、決して近づくべきではありません。京都の紅葉の名所は多くありますが、最近は比叡山麓の瑠璃光院が一番人気なのだそうです。JR東海のCMで取り上げられ、大人気になったようです。以前はCM効果で東福寺に人が押し寄せていた時期もありました。よく出来たCMであることは間違いなく、見事な紅葉の景観が披露されます。しかし、冷静に考えれば、人っ子一人なく、ありえないアングルで映し出される映像は、決して観光客の見ることのできない景色とも言えます。TVCMのはるか前から知られた紅葉の名所に”京の三尾”があります。北西部の高雄・槙尾・栂尾という愛宕山に連なる三つの尾根です。

高雄には空海ゆかりの神護寺、槙尾には神護寺から独立した西明寺、栂尾には鳥獣戯画で有名な高山寺があります。いずれも名だたる古刹ですが、なかでも神護寺は、歴史的重要性が高いだけでなく、9点の国宝、2800点を超える重要文化財を抱える名刹です。行ってみたいと思うのですが、そのアクセスの悪さから断念してきました。ところが、今般、国立博物館で「神護寺―空海と真言密教のはじまり」展が開かれ、向こうから来てくれました。しかも、ご本尊である国宝「薬師如来立像」が、他に7点の国宝を従えてのお出ましです。創建1200年を記念した特別展とのことですが、ご本尊が寺を出るのは創建以来初めてとのことです。ちなみに、今回、展示されていない国宝は梵鐘です。重すぎて山を下れなかったようです。

展示される国宝は、見事なものばかりですが、なかでもご本尊「薬師如来立像」、そして、今回、230年振りに修復された「両界曼荼羅」、いわゆる高雄曼荼羅が圧巻でした。神護寺は、和気清麻呂が8世紀末に創建した神願寺と高雄山寺を合併する形で、824年に開かれています。高雄山寺は、806年に唐から帰国した空海が、最澄の口利きで身を寄せた寺であり、真言宗を開いた寺として知られます。空海は、神護寺の創建にも深く関わっているようです。薬師如来立像は、創建の際、前身となった二つの寺のいずれかのご本尊を移したものとされます。重量感のある外観と厳しい眼光を持つ一本造の薬師如来立像は、木彫りの仏像の最高峰に位置づけられます。平安前期の貞観様式に特徴的な峻厳さは、南都六宗への批判、あるいは山岳仏教の影響とも言われます。

その制作を空海が指揮したとされる両界曼荼羅、別称高雄曼荼羅は、4m四方の胎蔵界・金剛界曼荼羅が対を成します。空海が唐から持ち帰った優美な仏画が忠実に再現されていると言います。曼荼羅は、密教における宇宙の真理を表わすとされます。両界曼荼羅は、密教の二大経典である大日経と金剛頂経を図解したものとされます。胎蔵界曼荼羅は大日如来の悟りの世界を表し、金剛界曼荼羅は悟りを開くための方法を示すとされます。現存する最古の大型曼荼羅である高雄曼荼羅は、希少な紫根で染めた絹地に金銀泥で微細な線が描かれています。今回の補修では、欠損部分はそのままに、また金銀泥で書き足すこともせず、裏地を全て張り替ることだけを行ったと言います。オリジナルを尊重した補修のあるべき姿なのでしょう。

ご本尊がお出ましになり、かつこれだけ国宝を並べた展覧会も珍しいと思います。明らかに、今年開催された展覧会のなかでは一番だと思います。こっちが行かなくても、向こうがやってきてくれた、と言いましたが、何が何でも高雄に出かけようという気になりました。余談になりますが、国立博物館では、たまに名の知れた仏像を展示するわけですが、その前で手を合わせている人を見たことがありません。神護寺へ行けば、皆、ご本尊の前で、お賽銭を入れ、深々と礼拝するわけです。博物館の展示となっただけで、手を合わせなくなります。今回、私は、薬師如来立像に手を合わせました。周囲からは、多少、妙に思われたかもしれませんが、ご本尊にはそうさせるだけの神々しさがありました。(写真出典:artexhibition.jp)

2024年8月22日木曜日

カルピス

実家から自転車で5分ばかりのところに母校でもある高校がありました。高校には、本格的な50mプールがあり、夏休みになると一般開放されます。中学・高校時代の夏休みは、友人たちと毎日のようにそのプールで遊んでいました。遊び疲れて家に帰ると、濃いめに希釈したカルピスをがぶ飲みし、それから昼寝することが日課になっていました。疲れた体が、水分と糖分を欲していたのでしょう。今もカルピスは定番の飲料として売られていますが、多くは希釈済みのカルピス・ウォーターです。かつて、カルピスと言えば、瓶詰めの原液だけでした。原液はとても濃いので腐敗しにくく、常温保存が可能でした。その特性から、かつては贈答品の定番であり、また、昔は軍隊の栄養補給食品でもあったようです。

カルピスは、1919年、世界初の市販乳酸飲料として発売されています。開発したのは、元僧侶の三島海雲です。若くして大陸に渡って商売を始めた海雲は、モンゴルで病に倒れ、瀕死の状態に陥ります。世話をしてくれたモンゴル族に勧められるままに酸乳を飲み続けたところ、見事に回復します。帰国した海雲は、モンゴルでの経験をもとに乳酸菌の研究を重ね、カルピスの発売にこぎつけます。商品名のカルピスは、カルシウムとサンスクリット語で熟酥を意味するサルピスを組み合わせたものだそうです。商品名を決めるにあたり、海雲は、作曲家の山田耕筰に相談したうえで、カルピスに決定したといいます。音感が良いということだったのでしょう。海雲という人のマーケティング・センスの良さを感じます。

昔、来日したアメリカ人の土産としてカルピスが人気だった頃があります。カルピスが、カウ・ピス(牛の尿)に聞こえると面白がられたようです。その後、カルピスが海外展開した際には、カルピコという商品名を使っていました。ちなみにポカリ・スウェットも、日本人は汗を飲むのか、ということでアメリカ人にウケていたようです。また、かつてカルピスのロゴと言えば、パナマ帽を被った黒人がストローでカルピスを飲む図案でした。この図案は、国際公募を行い、選出されたドイツ人デザイナーの作でした。黒人のロゴと水玉の包装紙は、長らくカルピスの象徴でした。ただ、ロゴは、1990年、人種差別問題への配慮から廃止されています。ちなみに、その前々年、永らく親しまれた人気童話「ちびくろ・さんぼ」も同じ理由で絶版化されています。

いずれにしても、ブランドを確立したカルピスでしたが、1980年頃から売上が減少します。飲料の多様化が始まり、コンビニや自販機の普及、ペットボトルの登場もあり、希釈タイプのカルピスは厳しい状況に陥ります。1991年には、味の素の資本参加を仰ぎ、同時に希釈済みのカルピス・ウォーターを発売、ヒットさせています。早く発売すべきだったと思いますが、希釈用とのカニバリが起こることを恐れていたようです。2000年代に入ると、飲料業界は更なる激戦の時代に入り、カルピスは再び売り上げを落とし、会社はアサヒ飲料傘下に入ります。それ以降、カルピスは、ジワジワと売上を伸ばしてきました。成功の要因は、乳酸をアピールした健康指向路線をとったことです。いわば原点回帰です。かつてカルピスで育った大人たちを中心に売上が伸びたようです。

今年の夏は灼熱地獄でした。そのなかで、突然、プールの後のカルピスの味を思い出しました。希釈用のボトルを買って、半世紀ぶりに飲んでみました。やはり美味しいわけです。ただ、こんなに甘かったのか、とも思いました。カルピスの定番キャッチ・コピーと言えば「初恋の味」です。海雲は、友人から薦められたこのコピーを一度は断ったと言いますが、1922年、採用を決断します。当時は、愛だとか恋だとかおおっぴらに言える時代でもなく、案の定、このコピーは物議を醸したようです。ただ、大正デモクラシーに沸く世間では、新鮮でモダンなコピーとして大いにウケたそうです。また、海雲は、関東大震災のおり、被災者に滋養をつけるためにカルピスを無料で配ったといいます。海雲の座右の銘は「国利民福」だったそうです。一流と言われる人たちは確固たる信念を持っているものだと、つくづく思います。(写真出典:chiebukuro.yahoo.co.jp)

2024年8月20日火曜日

「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」

監督: グレッグ・バーランティ      2024年アメリカ

☆☆☆

マーケティングの世界では、アポロ計画のパブリック・リレーションズは成功例の一つとして知られています。それをサクセス・ストーリー風コメディに仕立てるという着想は秀逸であり、実にハリウッド的だと思います。今年は、アポロ11号の月面着陸から55周年です。分断を深める現在のアメリカ社会に、あの興奮、あの一体感を取り戻そうと呼びかけているのかもしれません。マーケティングを面白おかしく描いたコメディですが、肝心の本作のマーケティングには失敗しているように思います。総じて言えば、そつなく作られたコメディにも関わらず、まるで”NASAやニクソンの陰謀を曝く”的な売り方になっています。そもそも、ありふれた”月に行っていない”説など、今さら売りにはなりません。

映画は、ハリウッド伝統のコメディ・タッチをうまく出した脚本と演出になっています。ただ、後半、ややフォーカスを失い、だらけた展開になったことが、ラストへの収束感を薄くしています。脚本は、もう少し詰めるべきでした。脚本のローズ・ギルロイは、モデル出身の若い脚本家です。異色の経歴ですが、父も祖父も脚本家というDNAを持っています。スカーレット・ヨハンソンに認められ、本作を執筆したようです。ちなみに、この映画の制作会社These Pictures社は、スカーレット・ヨハンソンの会社です。映画後半の失速傾向を救っているのは、そのスカーレット・ヨハンソンと共演のチャニング・テイタムの魅力だと言えます。さらに言えば、スカーレット・ヨハンソンをマリリン・モンロー仕立てにしたのは大正解でした。

この人は、北欧の俳優に共通する白いキャンバス感が強く、何にでも化けられるところがすごいと思います。また、脇を固めるキャラクターの漫画っぷりもよく出来ています。定番の脇役キャラ、動物、中西部出身等々、ハリウッドの伝統とも言えるモティーフが繰り出され、観客は、安心して笑っていられます。定番コメディで忘れてならないのは”泣かせ”です。泣かせのないコメディは、軽薄なだけのスプラスティックになってしまいます。今回は、ヨハンソンの詐欺師として育てられた過去、そしてテイタムのアポロ1号の悲劇がそれに当たります。良い対比だと思います。ヨハンソンは、合法的に人をだませるマーケティングに出会い、その才能を開花させます。アメリカ、特に60年代の物質文明への皮肉が効いていて笑えます。

ジョン・F・ケネディ大統領の演説に始まるアポロ計画は、アメリカ国民を大いに高揚させました。ただ、ベトナム戦争が拡大するなか巨額の経費は大きな負担となり、また宇宙開発競争でソヴィエトに勝つことも容易ではありませんでした。1967年、アポロ1号の事故で宇宙飛行士3名が犠牲になると、計画への批判が急速に高まります。そこで、予算確保をねらってPRが強化されていきます。ベトナム戦争の泥沼化、カウンター・カルチャーの拡大という時代にあって、それは広い意味での国威高揚策でもありました。マーケティングは、今でこそ経営学の一角を占めますが、もともとはアメリカの市場主義のなかで蓄積された販売ノウハウです。NYマディソン街に多い広告宣伝会社が活躍の場を物販以外へも拡大したのは1950年代後半のことでした。

好きなマーケティングの話の一つに、旅客機の宣伝があります。1950年代前半、多くのアメリカ人は、まだ飛行機による旅に危険を感じていたようです。広告会社は、普及してきたTVを使って、旅客機がまるで空に止まっているかのような映像を大量に流します。これが、安全性に関する国民の認識を大いに変え、アメリカは航空大国になったというのです。空を飛ぶものは、いつか必ず落ちます。海に浮かぶものは、いつか必ず沈みます。それが重力というものです。アメリカ国民は、幻想を売り込まれたわけです。こうしてマディソン街は、アメリカの物質主義を加速させていったわけですが、同時に人を月に送り込んだとも言えるのでしょう。ちなみに、タイトルは、バート・ハワードが1954年に作曲したジャズのスタンダード・ナンバーです。(写真出典:eiga.com)

2024年8月18日日曜日

ウポポイ

是非とも行きたいと思っていたウポポイを訪れることができました。この春、張り切って出かけたら休館日だったというお粗末があっただけに、感慨ひとしおといったところです。ウポポイは、2020年にオープンしています。国立アイヌ民族博物館を中心に、アイヌ文化を体験できる国立民族共生公園などで構成され、民族共生象徴空間と称しています。アイヌ民族の歴史と文化を伝える資料館は道内各地にいくつかありますが、国立のアイヌ民族博物館は初めてであり、規模も桁違いです。ポロト湖の周囲に作られた民族共生公園には、再現されたコタン(村)や体験学習施設、そしてホールなどが点在しています。なかなかの施設だとは思うのですが、どこか物足りなさを感じてしまいました。

アイヌ民族に限らず狩猟民族の展示は、神具、狩猟道具、生活雑器等となり、ややヴァリエーションに欠ける傾向があります。むしろ、物ではなく世界観や死生観を通じた自然との関わり方こそプレゼンすべきものだと思います。アイヌ民族博物館も、そのことは理解しているのでしょうが、やや物に頼った展示になっているように思いました。ねらいとしては、民族共生公園での展示も含めて、総合的に世界観を伝えようとしているのかもしれません。ただ、その実現は非常に難しいものがあり、結果、民族共生公園は、子供向けのありきたりな体験展示が多くなっています。そのなかで、ウポポイの精神を表現できているのが”ウエカリ・チセ(人が多く集まる家)”と呼ばれるホールで展示される歌と踊りだと思います。

施設名となっているウポポイとは、大人数が集まって歌うことです。ウポポは歌を意味しますが、特に即興で歌われる輪唱形式の座り歌を指す場合が多いようです。アイヌ音楽は、神への祈り、世界観の伝承、娯楽と幅広い役割を持っているようです。いずれも、アイヌの自然との関わり方を象徴しているのでしょう。これまでも、アイヌの歌と踊りは見たり聞いたりしたことがあります。ただ、あくまでも観光施設での見世物レベルに過ぎませんでした。そういう意味では、今回、初めて本当のアイヌ音楽を聴いたとも言えます。最も印象的だったのは、その特徴的な発声です。通常の歌声のなかに、裏声や喉歌のような発声が混じるのです。喉歌は、モンゴルのホーミーなどが有名ですが、アルタイ語族が得意とするところです。

改めて、アイヌと大陸北方との関係を実感させられました。アイヌとアルタイ語族や北方民族との交流や交易はよく知られるところですが、ダイナミックな北方文化圏の存在にはいつも興味を惹かれます。アルタイ語は、チュルク語、モンゴル語、ツングース語だけでなく、日本語、韓国語もその系統に含まれます。しかし、アイヌ語は、アルタイ語系の影響はあるにしても、言語的な系統性は確認できないとされます。つまり、アイヌ語は、独立性の高い、いわゆる孤立した言語だということです。人種的にも、アイヌはアルタイ語族とは異なり、最も近いのは縄文人だとされます。縄文人は、北方と南方から日本に渡った人類が混血を重ねて生まれたという説が有力です。アイヌが北から渡った人々に近いというのなら理解しやすい話です。

ところが、アイヌはアルタイ語族のDNAを持っていないわけです。不思議な話ですが、恐らく、日本へ渡ってきた時期があまりにも古く、大陸系の特徴を失ったのではないでしょうか。日本人は、その後、大陸や半島から稲作とともに渡ってきた人々との混血が進み。弥生人になっていきます。ただ、寒冷であった北海道や北東北では、稲作も混血も進展が遅くなり、結果、アイヌは独立的な民族になったということなのでしょう。同様に、アイヌ語も孤立していったのではないでしょうか。アイヌが文字を持たなかったことも深く関わっているものと思います。文字を持たないがゆえに、歌は、アイヌの人々にとってアイデンティティを守るために欠くべからざる存在だったのだと思います。(写真出典:nohgaku.or.jp)

2024年8月16日金曜日

大丸屋騒動

刀 銘 村正

国立演芸場の花形演芸会で、笑福亭喬介の噺を聞いてきました。昨年の同じ高座で上方落語の大ネタ「たちぎれ線香」を演じた喬介ですが、今年は、やはり大ネタの「大丸屋騒動」をかけました。往年の名人と比べるのは酷というものでしょうが、上方の大ネタを東京で演じるという心意気には頭が下がります。「大丸屋騒動」は、歌舞伎役者の声色を交える芝居噺風、あるいは三味線・太鼓等のはめものなど、上方落語らしい演出が特徴的な噺です。また、商人言葉による軽妙なやりとり、あるいは祇園の花街言葉はじめ京都の風情も、上手く取り込まれています。能楽、浄瑠璃、歌舞伎には、実際に起きた事件に基づく創作が多くありますが、 「大丸屋騒動」も、1773年7月、京都の暑い夜に起きた大文字屋事件を題材にしています。

烏丸通の材木商大文字屋の息子彦右衛門が、先斗町の家で出養生していたところ、心神喪失状態に陥り、手代を斬り殺します。刃を持ったまま四条通に出た彦右衛門は、烏丸通、丸太町と、往来の人々を斬りつけていきます。3名が命を落とし、21名が重軽傷をおったという凄惨な事件です。使われた刀は、粟田口近江守忠綱作の名刀と記録されます。無差別大量殺人は、今も昔もしばしば発生しています。トリガーは様々でも、犯人は、みな心神喪失状態だったのでしょう。この事件の原因は、彦右衛門の疳の虫とだけ記録されているようです。動機やトリガーが明確でないところが、戯作者たちの想像をかきたてるのでしょう。落語「大丸屋騒動」の主人公は、伏見の大商人である大丸屋宗兵衛の弟・宗三郎です。

宗三郎は、兄嫁の嫁入道具であった妖刀村正が気に入り、請うて手元に置きます。宗三郎は、祇園の芸妓おときと将来を誓う仲になります。これを親戚筋から批判された兄宗兵衛は、おときは花嫁修業、宗三郎は出養生に専念し、3ヶ月間会わないことを条件に結婚を許します。夏の暑い日、見張役の番頭と冷えた柳陰を飲み始めた宗三郎は、無性におときに会いたくなります。番頭の目を盗んだ宗三郎は、村正を腰に家を抜け出します。しかし、おときは、宗兵衛にきつく言われた婚礼の条件を頑なに守ろうとします。宗三郎は、脅すつもりで、村正を鞘ごと、おときの肩に当てます。すると鞘が割れ、抜き身となった村正がおときを切り裂きます。気が動転した宗三郎は、下女の首も落とし、先斗町から祇園へ向かい、通りの人々を切っていきます。

現在は中村楼となっている八坂神社の二軒茶屋では、おりしも盆の供養として芸妓・舞子が総出で踊りを披露しています。宗三郎は、その人だかりへと切り込み、あたりは大混乱となります。たまたま所用で上洛し、騒ぎに遭遇した兄宗兵衛は、役人に申し出て宗三郎を取り押さえます。不思議なことに、斬られても刺されても宗兵衛は血を流しません。そのことを役人に問われた宗兵衛は「これは実の弟。切っても切れない血縁。私は伏見(不死身)の商人です」と答えます。これが噺の落ちです。村正は桑名の刀工で、その作は正宗と並び称されます。美しさが際立つ正宗に対して、村正は切れ味の良さで知られます。実戦用の業物として、徳川家康や西郷隆盛などに愛されました。江戸期には、禍をもたらす、あるいは血を求める妖刀として伝説化されます。

実際に起きた大文字屋事件でも、凶器は名刀でした。商人が天下の名刀を持っていることは、いかに商人が隆盛を極めたかということでもあります。しかし、武芸に関してはずぶの素人である商人が名刀を持つことは、間違いも起こりやすいということでもあります。成功した商人たちの増長ぶりへの皮肉も込めた噺なのでしょう。いずれにしても、夏の暑い夜には、信じられないようなことも起こるということです。ちなみに、噺に登場する柳陰は、味醂を製造する際に加える焼酎の量を多くしたものです。要は、アルコール分が高い味醂です。江戸期には、これを冷やして飲むのが乙だったようです。夏の疲れを取るのに糖分が効くということなのでしょう。落語の名作「青葉」で、ご亭主が植木屋にご馳走するのも柳陰です。(写真出典:touken-world.jp)

2024年8月14日水曜日

「ツイスターズ」

監督:リー・アイザック・チョン     2024年アメリカ

☆☆☆ー

家族や恋人たちが、巨大なポップコーンとソーダを抱え、キャーキャー騒ぎながら楽しめる映画は、アメリカの文化そのものであり、大事にすべき伝統だと思います。本作も、実にアメリカらしい娯楽映画です。1996年に、ストーム・チェイサーを描いて大ヒットした「ツイスター」の続編という位置づけです。ただ、ストーリーも登場人物も何の関連もありません。前作との大きな違いは、トルネードを単に恐ろしい天災としてではなく、コントロールすべき対象という視点で描いている点だと思います。良い着想だと思いますが、やや似非科学的なところが気になります。映画に登場するトルネード消滅策が有効であれば、実際に行われているはずです。

ところが、トルネードは、依然として、自然の猛威のままです。対策と言えば、発生予測、早い警報、地下室などシェルターへの避難ということになります。発生のメカニズムは解明され、理論上の消滅策もあるのですが、実際には、いつ、どこで発生し、どこへ向かうのかが特定しづらく、何よりもそのスピードの早さゆえに対策が打ちにくいのでしょう。映画で取り上げられている高分子吸水材とヨウ素銀を使う方法も理論的には正しいのでしょう。ただ、トルネードの中心に入り込むこと自体が非現実的と言えます。所詮、フィクションの世界の話ですが、妙にリアルなところが危ういと思います。真似する奴が出てこなければいいのですが。どうせなら、思いっきり空想的な手法の方が良かったようにも思います。

1996年のツイスターは、スピルバーグ総指揮、脚本をマイケル・クライトン、監督がヤン・デ・ポンという豪華な制作陣で大ヒットを飛ばしました。スピルバーグは、今回も制作に名を連ねています。監督は、「ミナリ」で高い評価を得た韓国系アメリカ人のリー・アイザック・チョンです。とても意外感な起用ですが、トルネード・アレイのアーカンソーで育ったというだけあって、見事にトルネードの偉容と恐怖を捉えています。原案は「トップガン: マーベリック」の監督ジョセフ・コシンスキー、脚本は「レヴェナント」のマーク・L・スミスというヒット・メイカーを並べています。ただ、脚本は、複数の要素が縦糸に収斂していく醍醐味に欠けます。時間がなかったのかもしれませんが、整理不十分と言わざるを得ません。

主演は、英国人俳優のデイジー・エドガー=ジョーンズです。「ザリガニの鳴くところ」(2022)での不思議な存在感が評価されての起用なのでしょうが、ミス・キャストだと思います。ザリガニはディープ・サウスの不思議な世界だったので彼女の演技が成立したと思います。今回はネイティブな南部女のたくましさが欲しい役柄でした。線の細い彼女の起用には無理があったと思います。また、この手の映画では、サブ・キャストのキャラクターが、一目で分かるほど漫画的であるべきだと思いますが、そこも弱い感じがあります。演出というよりも十分に練り込まれていない脚本の問題だと思います。よくスピルバーグがゴー・サインを出しな、と思います。結果、大ヒットしたので良かったのかもしれませんが。

この映画がヒットした背景には、明らかに昨今の天候不順があると言えます。トルネードは、トルネード・アレイを外れた南東部でも多く発生し、しかも毎年5~6月のストーム・シーズン以外でも頻発しています。そうした状況を受けて、急遽、制作が決まったのかもしれません。今後、ストーム映画が増えるようにも思います。アメリカでは、トルネードに襲われた場合、地下室がなければ、バスタブに身を隠せと言われます。陶器製のバスタブ自体が重いことに加え、配管が地中へとつながり固定されているからです。実際にバスタブで助かったケースも多いようです。今回、空のスイミング・プールへ避難して助かるシーンがあります。やや誤解を生みやすいシーンだと思いました。プールで助かったのは、配管にしがみついた人だけでした。プールではなく、地中に固定された配管のおかげだったわけです。(写真出典:wannerbros.co.jp)

2024年8月12日月曜日

海の幸


青木繁は、1882年、旧久留米藩士の長男として、久留米に生まれます。同い年、しかも同じ久留米藩士の息子である坂本繁二郎とは生涯の親友だったようです。明治を代表する洋画家二人が、進取の気風あふれる久留米出身の親友というのは興味深い話です。画家を目指した青木が旧制中学を退学して上京したのが、1899年、16歳の時だったそうです。青木の上達ぶりを目の当たりにした坂本は、3年後の1902年、親友の後を追うように上京しています。上京後、青木は画塾「不同舎」で小山正太郎、東京美術学校(現東京芸大)の西洋画科選科で黒田清輝の指導を受けていました。青木は、在学中から、古代神話をテーマとした絵画で注目を集めています。

1904年夏、東京美術学校を卒業した青木は、恋人の福田たね、親友の坂本などと、房総半島館山の布良に、2ヶ月ばかり逗留します。いわば卒業旅行ですが、青木は、存分に布良の夏を楽しんだようです。ほぼ無銭旅行に近かった一行は、宿代が無くなり、小谷家という民家に居候することになります。布良滞在中、青木は、記紀に語られる山幸彦と海幸彦を題材とする制作を企図します。ところが、ある日、坂本から布良漁港で目にした大漁の様子を聞いた青木は、天啓のごとくインスピレーションを得て、わずか1週間で大作を描き上げます。重要文化財「海の幸」の誕生です。その秋の白馬会展に、名だたる大家の作品とともに出品された「海の幸」は、画壇に衝撃を与え、世間の注目を集めることになります。青木繁、22歳のことでした。

初めて「海の幸」を観たのは北の丸の東京国立近代美術館でした。若い頃でしたが、いつだったのかははっきり覚えていません。ただ、その時に受けた衝撃だけは忘れません。画面からほとばしる強烈なエネルギーに、ただただ圧倒されました。それは古代が放つ根源的エネルギーであり、人類が本来備えているパワーそのものだと思いました。画筆の巧拙といったレベルの低い議論など「海の幸」の前では吹き飛んでします。存在そのものが奇跡に近いとも言えます。その後、いくつかの展覧会で、そして久留米の旧石橋美術館でも2度ほど観ましたが、その圧倒的な印象が薄れることは決してありませんでした。現在は、石橋美術館が移転してきた八重洲のアーティゾン美術館で観ることができます。

名声を得た青木ですが、生活は困窮を極めたようです。絵を描くこと以外には興味を示さない天才肌の青木は、いわば生活破綻者だったようです。「海の幸」も大作にすぎて売れなかったと聞きます。1907年には、海中からの視点というユニークさを持つ作品「わだつみのいろこの宮」を発表します。しかし、3年をかけた力作は、満足のいく評価を得ることができませんでした。古事記に題材をとっていますが、「海の幸」のパワーはなく、英国のラファエル前派の影響だけが際立ちます。画材さえ買えなくなった青木に、実家の負債、父の危篤、福田たねの妊娠なども重なり、青木は追い詰められていきます。青木は、1908年、現実から逃げるように放浪の旅に出ます。その間に、持病であった肺結核が悪化、19011年、福岡の病院で亡くなっています。享年28歳。

夭折した天才画家ということになるのでしょうが、神が「海の幸」を描くためだけに地上に遣わした人のようにも思えます。一方、親友の坂本は、徐々に名をあげていき、1921年には渡仏しています。フランスの光と自然に魅せられた坂本は、独自の画風を生み出します。帰国後は久留米を拠点として画業に励み、九州を出ることはほぼ無かったと聞きます。戦後は洋画界の巨匠として高い名声を得ることになります。日本芸術院会員にも推薦されますが、辞退しています。1956年には文化勲章を受章しています。自宅とアトリエのある八女市で亡くなったのは1969年のことであり、享年87歳でした。久留米で育った親友二人の生涯は、随分と異なるものになったわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年8月10日土曜日

佐渡金山

佐渡金山が、ついにユネスコの世界遺産に登録されました。2010年に、暫定リストに載ったものの、近隣国から異が唱えられ、15年近い月日が流れました。それだけに、地元の喜びはひとしおだったと思います。佐渡金山の歴史は古く、文献上の初出は平安末期に成立した「今昔物語」とされます。恐らく砂金が採れていたのでしょう。金脈が発見されたは、佐渡が徳川領となった1601年のことです。同じく佐渡で安土桃山時代から採掘されていた鶴子銀山の山師3人が発見しています。砂金が採れていた頃から鉱脈発見まで600年、素人的には随分と時間がかかったものだと思います。江戸期における佐渡金山の最盛期は、17世紀前半であり、年間400kgを産出し、当時としては世界最大級の金山だったようです。

佐渡金山の景観で最も目を引くのは「道遊の割戸」です。三角形に近い山が、頂上から真っ二つに割れています。最初に見た時には、その異様さに驚きました。いかなる自然現象によるものかと不思議に思いましたが、実は金脈を追って露天掘りを続けた結果だと聞き、さらに驚きました。人間の強欲が生んだ異形には気色悪いものがあり、南米のガリンペイロの映像を思い出しました。ガリンペイロは、一攫千金を求めて、手掘りで金銀を採掘する人々です。脈のありそうなところに、無数のガリンペイロが群がる様は、まるで地獄絵図のようです。いわば強欲の蟻地獄です。もちろん、佐渡金山は、ガリンペイロではなく、幕府によって管理され、計画的に採掘された金山です。

とは言え、鉱山労働の危険さと過酷さに、変わりなどありません。江戸期の佐渡金山では、山師たちが抱える各々の人足集団が中心となって採掘を進め、幕府が強制的に連行した無宿人たちも水替職人として働いていたようです。江戸中期になると金の産出量は落ちてきます。手掘りの限界だったわけです。明治になると、西洋の鉱山技術が導入され、生産量は江戸期の最盛期を超えていきます。労働者は、山師を引き継いだ部屋頭が率いる各部屋の人足が中心となります。過酷な労働環境や中間搾取に不満を持つ労働者たちは、しばしば労働争議を起こすようになります。払い下げによって経営権を得ていた三菱合資会社は、労働者を直雇いに変え、労働環境の改善を図っています。

太平洋戦争が始まると、炭鉱労働力は逼迫し、その不足を補うべく、日本統治下の朝鮮で労働者が募られます。高給に加え、干ばつの被害があったため、当初は多くの応募があったようです。ただ、応募者の多くが日本へ渡ることだけを目的としていたため、実際に金山で働いたのは半数程度だったようです。終戦が近づくにつれ、労働環境は悪化、強制労働に近いものになっていったようです。韓国政府が主張する朝鮮人労働者への虐待も、詳細は分からないものの、事実あったようです。韓国政府は、強制労働の現場として、佐渡金山は世界遺産登録に相応しくないと反対します。中国も歴史問題であるとして、そして世界遺産委員会の委員国であるロシアも日本が過去の犯罪の記憶を消そうとしているとして反対の立場をとります。

今般、日本政府が虐待にも言及した総合的な展示を行ったこと、ユン大統領のもと日韓関係が良好になったこと、ウクライナ侵攻を機にロシアが委員会から外れたことも幸いし、世界遺産登録に至りました。韓国の抗議内容は理解できる面もありますし、反日が政治の前提化しているような社会状況も承知しています。虐待の現場は世界遺産に相応しくないという韓国の批判ですが、アウシュヴィッツ強制収容所、原爆ドームも世界遺産に登録されています。これらは、しばしば負の世界遺産とも呼ばれます。もちろん、世界遺産には登録基準があります。韓国等の抗議は、登録基準に関わるものではありません。根源的には歴史認識の問題であり、外交上の問題です。ユネスコの世界遺産はブランド価値が上がり、登録数も増加しています。それとともに、登録基準以外の政治的争点も増えてきたのでしょう。(写真出典:tokyo-np.co.jp)

2024年8月8日木曜日

ピタとパン

ポンペイのパン
ピタパンは、地中海沿岸や中東圏で一般的な薄型円形のパンです。パンは、農耕以前から存在したとされますが、考古学的には、ヨルダンで、14,500年前の遺跡からピタに近いものが見つかっているようです。生地を発酵させて焼くパンは、6,000~8,000年前の古代エジプトに登場したといわれます。これもピタに近いものであり、ピタは世界最古のパンとも言われます。薄型のピタに対して、欧州のパンには厚いものが多く、その違いはなぜ生まれたのか不思議です。成形の違いと言えばそれまでですが、いずれも発酵させ、釜で焼くことは同じです。ただ、ピタは直火焼き、欧州のパンは輻射熱を使った間接加熱という違いがあります。

石窯を使い間接加熱方式でパンを焼く場合、まずは薪などで窯を熱します。十分に熱せられた窯の石材は、遠赤外線を発します。これが輻射熱になるわけです。燃え残った薪を窯から掻き出し、生地を入れます。壁から発せられる輻射熱で、生地の表面はパリッと焼き上がり、内部に水分を閉じ込めます。そして、パンの表面を透過した遠赤外線が内部をじっくりと加熱して、しっとりと焼きあげていきます。我々になじみ深い厚さのあるパンは、遠赤外線によって作られているわけです。生地の発酵は、パンの歴史の中で大革命だったと思うのですが、同じように間接加熱も歴史を大きく変えたと言えます。ただ、いつ、どこで間接加熱スタイルが生まれたのかは、よく分かりません。

石窯が登場する以前、エジプトでは素焼きの壺に生地を入れ、火にかけていたようです。その後、釜が使われるようになりますが、当初は、上に開口部のある壺が使われ、内部の壁に生地を貼り付けて焼いていたようです。そのスタイルを今に受け継いでいるのが、北インドのタンドールなのでしょう。壺の底部で薪や炭を燃やし、ナンは壁に貼り付け、肉や魚は金串に刺して焼きます。高温を維持するために上部の開口部は狭く作られています。実に理にかなった構造ですが、タンドールの開口部の高さや狭さは扱いにくさにつながります。そこで、北インド以外では、開口部を横に設けたフロント・ローディング式の石窯に替わっていきます。釜内部の熱を均一に保つ工夫として上部は丸く作られています。

このスタイルの石窯は、東京でもピッツァ窯として見ることができます。このフロント・ローディング式の石窯を活用して、現在に至るパンの調理法を確立したのが古代ギリシャだとされます。興味深いことに、古代ギリシャ人は、ピタを焼くだけでなく、実に様々なパンを発明していたようです。古代ギリシャのパンは、恐らく古代ローマにも受け継がれ、発展していったものと思われます。古代ローマでは、パン屋が登場しています。ポンペイ遺跡では、パン屋跡から当時のパンが炭化した状態で出土しています。放射状に8つの切れ込みを入れた厚みのある丸いパンです。厚みからすれば、間接加熱のように思えますが、炭化の状態を見ると直火のようにも思えます。直火なら、かなり固いパンだったと思われます。

古代ローマが版図を拡大するとともに、製パン技術も欧州各地に広がっていきます。恐らく石窯も、同じように欧州北部へと広がっていったのでしょう。寒さが厳しい欧州北部の暖房は、12世紀頃、囲炉のようなものから暖炉に替わっていったようです。相対的に天井の低い2階建ての建物が増え、防火という観点から誕生したようです。暖炉の火があれば、これを利用してパンを焼くという発想が生まれて当然です。しかし、直火の石窯に比べ、火力が弱いことから、じっくりと時間をかけて焼くことになります。結果的に、表面はパリッと、なかはしっとり、ふんわりとした厚みのあるパンが生まれ、主流となっていったのではないでしょうか。もちろん、これは、勝手な想像に過ぎません。それにしても、パンの間接加熱という大革命に関する歴史情報が少ないことは、実に不思議だと思います。(写真出典:asahi.com)

2024年8月6日火曜日

「時々、私は考える」

監督:レイチェル・ランバート 原題:Sometimes I Think About Dying 2023年アメリカ

☆☆☆

孤独や疎外感をテーマとする20世紀アメリカ文学、特に短編小説の伝統を感じさせる佳作だと思います。オレゴン州北部の田舎町で暮らす孤独なフランは、自分の殻にこもりながらも、社会とのつながりを不器用に模索します。映像は、フランと田舎町の日常を淡々と描き、おりおりでフランの空想シーンを挿入することで新鮮な印象も与えています。フラン役には、スターウォーズの続三部作で主人公レイを演じたデイジー・リドリーが起用されています。レイとは真反対とも言えるアスペルガー症候群的な役柄を見事に演じています。レイチェル・ランバートは、ボストン大学出身の注目の女流監督だそうです。本作は、彼女にサンダンス映画祭の女性監督賞をもたらしています。また、ダブニー・モリスの見事な音楽が、映画を構成する重要な役割を担っています。

原題には、少し難解なところがあります。邦題を考えた人も、相当に悩んだものと思われます。直訳では、映画が持つ味わいを伝えられないので、苦肉の策としてこの邦題になったのでしょう。映画は、決して死や死生観をテーマとしているわけではありません。この原題は、ラストシーンでフランがロバートにささやく言葉ですが、フランに自殺願望があるわけでもありません。それが何を意味するのかという疑問は、観客に投げかけられたまま映画は終わります。精神は、肉体という檻に閉じ込められているから孤独なのだとすれば、死はその解放を意味します。フランは、自ら殻に閉じこもることを選択しているわけですが、一方で、自らの精神の解放と他者との連帯を強く求めているということなのでしょう。

とは言うものの、フランの姿勢には、どこか自己憐憫的なところもあります。”私って可哀想”的な少女趣味は、おおむね絶望感とは無縁なものです。そうした曖昧な感性は、ダブニー・モリスの音楽によってうまく表現されています。甘いと言えば甘いのですが、この曖昧さがアメリカの若い女性たちの現実なのかもしれません。舞台となっているオレゴン州アストリアは、コロンビア川の河口にある人口1万人ほどの町です。NYやLAを舞台としていない点が面白いと思います。つまり、都会の孤独などではなく、アメリカ中の若い女性に共通する感覚なのだと言っているのでしょう。また、フランが付き合うことになるロバートは、大都市シアトルから越してきたばかりという設定です。

ロバートは、移住した理由を”離婚した”としか語りません。愛や人間関係を長く作れない、とも語ります。ロバートは、田舎に可能性を求める都会の孤独を象徴しているのでしょう。映画には、特徴的な姿のアストリア・メグラー橋が頻繁に映り込みます。アメリカ西海岸を縦断する101号線は、この橋の完成をもって貫通しています。田舎と都会をつなげた橋だと言えます。オレゴンと言えば、アメリカ・インディーズ映画界を代表するケリー・ライカート監督を思い出します。ライカートは、ほぼ全ての作品をオレゴンで撮影しています。オレゴンには、映画制作のための良い環境があると聞いたことがあります。州政府など自治体によるサポートがあり、出資者も募りやすいのかもしれません。(写真出典:cinemacafe.net)

2024年8月4日日曜日

京粕漬け

若い頃、老後はスペインに住もうと真剣に思っていた時期がありました。為替格差を活用すれば、年金を倍の価値で使えると思ったからです。為替も含め、世界が大きく変わることなど、まったく想定していませんでした。唯一、リスクだと思っていたのは、どうしようもなく日本食が食べたくなったらどうしようということでした。もちろん、そんな心配が吹き飛ぶほどに世界は変わり、スペイン移住計画など忘れてしまいました。もし、定年後、海外に移住していたとして、ある日、 魚久の銀ダラの粕漬けを食べたら日本が恋しくなり、即刻、空港に向かい日本に帰ることになるだろうな、と思います。他にも強力な吸引力を持つ和食はいくつか存在しますが、やはり魚久の京粕漬けはトップ・クラスだと思います。

粕漬けは、発酵食品である酒粕に様々な食材を漬け込んだものです。酒の旨味を食材に移すだけでなく、長期保存が可能になります。野菜を漬ければ漬物となり、その代表格は奈良漬けやわさび漬けなどです。魚や肉を漬けて焼けば風味豊かな逸品料理になります。その歴史は古く、10世紀に成立した「延喜式」にも登場するそうです。延喜式は、律令の施行細則のようなものです。現在の税制にあたる租庸調の項に、税として納めるべき全国の名産品も細かく記載されているようです。日本における酒造りは、稲作と同じ時期に始まったと推測されています。恐らく同じ時期に、粕漬けも生まれていたのではないかと思われます。絞りかすとは言え、様々な効用のある酒粕を利用しない手はないわけです。

通常、粕漬けは、まず食材に塩をして水分を抜き、みりん、砂糖、水飴、酒などを加えた酒粕に漬け込みます。使用する酒粕は、空気をしっかり抜いたうえで、数ヶ月熟成させ、タンパク質を旨味の素であるアミノ酸に変化させます。漬け込み期間は数日から数ヶ月と、ものによって大きく異なるようです。有名なのは、奈良漬けの漬け込みです。酒粕に漬けては洗い流し、これを最低5回繰り返すと言われます。あの見事な飴色は、手間暇をかけて生まれているわけです。また、適切な管理をすれば、長期間の保存も可能であり、江戸期に漬けた奈良漬けが、今も大事に保管されているようです。なれ鮓も、空気に触れさせなければ、数百年もつと言われます。発酵の偉大さには、いつも感心させられます。

粕漬けの名店である人形町の魚久は、1914年、高級鮮魚店として創業しています。奈良の出身で京都で板前修行をしたという清水久蔵が開きました。久蔵の跡を継いだのが、福島から上京し、下働きから頭角を現わした廣田年尾でした。廣田は、商売を広げ、仕出し料理もこなし、1940年には割烹を開業します。そこで出される会席料理のなかで評判をとったのが魚の粕漬けでした。土産にしたいという客の声に応えて、粕漬け専門店「京粕漬魚久」が誕生したのは1965年のことでした。前から不思議に思っていたのですが、他で”京粕漬”という言葉を聞いたことがありません。実は”京粕漬”は、魚久独自のネーミングです。伏見の酒粕を使っていること、そして京都で修行した先代に敬意を表して名付けられたものだそうです。

魚久は、実に様々な食材を粕漬けにして商っていますが、なんといっても銀ダラの京粕漬が絶品だと思います。銀ダラは、鱈ではありません。ギンダラ科に属する大型の深海魚です。脂の乗りが良く、白身で淡泊な銀ダラは、粕漬けや西京漬けにピッタリの魚です。食材も吟味され、手間もかかった粕漬けが高価になることはやむを得ません。なかでも魚久の銀ダラは、いささか敷居が高い買い物になります。ただ、ありがたいことに、魚久は、切り落としや小ぶりな切り身のセットをサービス品として提供しています。人気の切り落としは、数量も限られ、朝から整理券を出すほどです。さすがに、その行列には並んだことはありませんが、一度、挑戦してみたいものです。(写真出典:uokyu.co.jp)

2024年8月2日金曜日

「密輸 1970」

監督: リュ・スンワン    2923年韓国

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

リュ・スンワンという人は、つくづく腕の良い監督だと思います。本作は、海が舞台のコメディ・サスペンスですが、韓国らしく、ひとひねりも、ふたひねりもしたストーリーを、見事なエンターテイメントに仕上げています。リュ・スンワンのコミカルな演出は、間違いなく韓国の人たちの大好きな味付けなのだろうと思いますが、日本人にとっては少しクセの強いところがあります。本作は、1970年を舞台にしており、当時の韓国の歌謡曲が多く使われています。そのチープでノスタルジックな響も、一定年齢以上の韓国の人たちにとっては、涙ものなのでしょう。そこも含めて、リュ・スンワンの腕の良さを感じさせます。この映画は、2023年、韓国で大ヒットし、様々な賞も獲得しているようです。

敗戦後の日本における経済復興は、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需がきっかけでした。朝鮮戦争後、世界最貧国にまで落ち込んだ韓国は、1960年代後半から「漢江の奇跡」と呼ばれる驚異的な復興を遂げます。日本では、その背景に、1965年に締結された日韓基本条約があるとされています。日本から提供された無償・有償・民間あわせて8億ドル以上という資金は、韓国の国家予算の倍以上でした。韓国は、その資金をもとに重工業化やインフラ整備を進め、漢江の奇跡を成し遂げたというわけです。しかし、その倍額以上の資金が、ベトナム戦争によって韓国にもたらされています。韓国は自国軍をベトナムに派兵することをアメリカに強く要請し、その見返りとして5年間で17億ドル以上の経済・軍需援助を得てます。

1970年は、まさに漢江の奇跡が勢いよくスタートしていた頃です。漢江の奇跡は、韓国繁栄の礎となったわけですが、同時に、今につながる社会のひずみや多くの社会問題をも生んだと言えます。映画は、現在につながる様々な社会問題の萌芽を巧みに提示しています。田舎の漁村の女性二人が、ソウルの密輸の親玉や官憲と結託するチンピラ相手に、知恵と勇気をもってたくましく戦う様は、韓国の将来への希望を象徴しているのかもしれません。少なくとも、韓国経済の成長の恩恵に浴していない民衆は大喝采というわけです。コメディ仕立て、懐かしい歌謡曲、往時の風俗などで上手にカモフラージュしていますが、この映画は痛烈な韓国社会批判になっていると思います。

漁民が密輸に関わるきっかけとなったのは、新設された化学工場による海の汚染でした。工場は、財閥が建てたものだと想像できます。これは、依然として続く韓国の財閥中心経済を象徴しています。密輸は、往時の世相だったとも思われますが、その親玉にベトナム帰りを据えているあたり、外国からの資金に依存した経済復興への批判になっているのでしょう。官憲の腐敗は、海外資金導入に付き物ですが、ネポチズムと合わせ、今に続く韓国の悪弊の一つです。田舎の漁村を舞台としていることは、この時代に築かれたソウル一局集中体制への明らかな批判です。主人公が悲惨な過去を持つ女性であることは、韓国の男尊女卑体質への批判そのものです。片腕の夫とサメに足を食い千切られた妻のエピソードは、韓国の弱者の有り様を伝えているのでしょう。

それにしても、暗い過去を持つ、はすっぱな主人公を演じたキム・ヘスには驚かされました。様々な役柄を演じ分ける才能には脱帽です。「ベルリン・ファイル」(2013)、「ベテラン」(2015)、「モガディッシュ」(2021)などでヒットを飛ばしたリュ・スンワン監督、そしてキム・ヘス、この二人の才能が、本作のヒットにつながっていると思います。ちなみに、リュ・スンワンと言えば、小気味よいアクション・シーンも魅力ですが、本作でも、しっかり壮絶な乱闘シーンが組み込まれ、かつ、サメのシーンでも非凡な才能を見せています。(写真出典:eiga.com)

マクア渓谷