監督:レイチェル・ランバート 原題:Sometimes I Think About Dying 2023年アメリカ
☆☆☆
孤独や疎外感をテーマとする20世紀アメリカ文学、特に短編小説の伝統を感じさせる佳作だと思います。オレゴン州北部の田舎町で暮らす孤独なフランは、自分の殻にこもりながらも、社会とのつながりを不器用に模索します。映像は、フランと田舎町の日常を淡々と描き、おりおりでフランの空想シーンを挿入することで新鮮な印象も与えています。フラン役には、スターウォーズの続三部作で主人公レイを演じたデイジー・リドリーが起用されています。レイとは真反対とも言えるアスペルガー症候群的な役柄を見事に演じています。レイチェル・ランバートは、ボストン大学出身の注目の女流監督だそうです。本作は、彼女にサンダンス映画祭の女性監督賞をもたらしています。また、ダブニー・モリスの見事な音楽が、映画を構成する重要な役割を担っています。原題には、少し難解なところがあります。邦題を考えた人も、相当に悩んだものと思われます。直訳では、映画が持つ味わいを伝えられないので、苦肉の策としてこの邦題になったのでしょう。映画は、決して死や死生観をテーマとしているわけではありません。この原題は、ラストシーンでフランがロバートにささやく言葉ですが、フランに自殺願望があるわけでもありません。それが何を意味するのかという疑問は、観客に投げかけられたまま映画は終わります。精神は、肉体という檻に閉じ込められているから孤独なのだとすれば、死はその解放を意味します。フランは、自ら殻に閉じこもることを選択しているわけですが、一方で、自らの精神の解放と他者との連帯を強く求めているということなのでしょう。
とは言うものの、フランの姿勢には、どこか自己憐憫的なところもあります。”私って可哀想”的な少女趣味は、おおむね絶望感とは無縁なものです。そうした曖昧な感性は、ダブニー・モリスの音楽によってうまく表現されています。甘いと言えば甘いのですが、この曖昧さがアメリカの若い女性たちの現実なのかもしれません。舞台となっているオレゴン州アストリアは、コロンビア川の河口にある人口1万人ほどの町です。NYやLAを舞台としていない点が面白いと思います。つまり、都会の孤独などではなく、アメリカ中の若い女性に共通する感覚なのだと言っているのでしょう。また、フランが付き合うことになるロバートは、大都市シアトルから越してきたばかりという設定です。
ロバートは、移住した理由を”離婚した”としか語りません。愛や人間関係を長く作れない、とも語ります。ロバートは、田舎に可能性を求める都会の孤独を象徴しているのでしょう。映画には、特徴的な姿のアストリア・メグラー橋が頻繁に映り込みます。アメリカ西海岸を縦断する101号線は、この橋の完成をもって貫通しています。田舎と都会をつなげた橋だと言えます。オレゴンと言えば、アメリカ・インディーズ映画界を代表するケリー・ライカート監督を思い出します。ライカートは、ほぼ全ての作品をオレゴンで撮影しています。オレゴンには、映画制作のための良い環境があると聞いたことがあります。州政府など自治体によるサポートがあり、出資者も募りやすいのかもしれません。(写真出典:cinemacafe.net)