粕漬けは、発酵食品である酒粕に様々な食材を漬け込んだものです。酒の旨味を食材に移すだけでなく、長期保存が可能になります。野菜を漬ければ漬物となり、その代表格は奈良漬けやわさび漬けなどです。魚や肉を漬けて焼けば風味豊かな逸品料理になります。その歴史は古く、10世紀に成立した「延喜式」にも登場するそうです。延喜式は、律令の施行細則のようなものです。現在の税制にあたる租庸調の項に、税として納めるべき全国の名産品も細かく記載されているようです。日本における酒造りは、稲作と同じ時期に始まったと推測されています。恐らく同じ時期に、粕漬けも生まれていたのではないかと思われます。絞りかすとは言え、様々な効用のある酒粕を利用しない手はないわけです。
通常、粕漬けは、まず食材に塩をして水分を抜き、みりん、砂糖、水飴、酒などを加えた酒粕に漬け込みます。使用する酒粕は、空気をしっかり抜いたうえで、数ヶ月熟成させ、タンパク質を旨味の素であるアミノ酸に変化させます。漬け込み期間は数日から数ヶ月と、ものによって大きく異なるようです。有名なのは、奈良漬けの漬け込みです。酒粕に漬けては洗い流し、これを最低5回繰り返すと言われます。あの見事な飴色は、手間暇をかけて生まれているわけです。また、適切な管理をすれば、長期間の保存も可能であり、江戸期に漬けた奈良漬けが、今も大事に保管されているようです。なれ鮓も、空気に触れさせなければ、数百年もつと言われます。発酵の偉大さには、いつも感心させられます。
粕漬けの名店である人形町の魚久は、1914年、高級鮮魚店として創業しています。奈良の出身で京都で板前修行をしたという清水久蔵が開きました。久蔵の跡を継いだのが、福島から上京し、下働きから頭角を現わした廣田年尾でした。廣田は、商売を広げ、仕出し料理もこなし、1940年には割烹を開業します。そこで出される会席料理のなかで評判をとったのが魚の粕漬けでした。土産にしたいという客の声に応えて、粕漬け専門店「京粕漬魚久」が誕生したのは1965年のことでした。前から不思議に思っていたのですが、他で”京粕漬”という言葉を聞いたことがありません。実は”京粕漬”は、魚久独自のネーミングです。伏見の酒粕を使っていること、そして京都で修行した先代に敬意を表して名付けられたものだそうです。
魚久は、実に様々な食材を粕漬けにして商っていますが、なんといっても銀ダラの京粕漬が絶品だと思います。銀ダラは、鱈ではありません。ギンダラ科に属する大型の深海魚です。脂の乗りが良く、白身で淡泊な銀ダラは、粕漬けや西京漬けにピッタリの魚です。食材も吟味され、手間もかかった粕漬けが高価になることはやむを得ません。なかでも魚久の銀ダラは、いささか敷居が高い買い物になります。ただ、ありがたいことに、魚久は、切り落としや小ぶりな切り身のセットをサービス品として提供しています。人気の切り落としは、数量も限られ、朝から整理券を出すほどです。さすがに、その行列には並んだことはありませんが、一度、挑戦してみたいものです。(写真出典:uokyu.co.jp)