青木繁は、1882年、旧久留米藩士の長男として、久留米に生まれます。同い年、しかも同じ久留米藩士の息子である坂本繁二郎とは生涯の親友だったようです。明治を代表する洋画家二人が、進取の気風あふれる久留米出身の親友というのは興味深い話です。画家を目指した青木が旧制中学を退学して上京したのが、1899年、16歳の時だったそうです。青木の上達ぶりを目の当たりにした坂本は、3年後の1902年、親友の後を追うように上京しています。上京後、青木は画塾「不同舎」で小山正太郎、東京美術学校(現東京芸大)の西洋画科選科で黒田清輝の指導を受けていました。青木は、在学中から、古代神話をテーマとした絵画で注目を集めています。
1904年夏、東京美術学校を卒業した青木は、恋人の福田たね、親友の坂本などと、房総半島館山の布良に、2ヶ月ばかり逗留します。いわば卒業旅行ですが、青木は、存分に布良の夏を楽しんだようです。ほぼ無銭旅行に近かった一行は、宿代が無くなり、小谷家という民家に居候することになります。布良滞在中、青木は、記紀に語られる山幸彦と海幸彦を題材とする制作を企図します。ところが、ある日、坂本から布良漁港で目にした大漁の様子を聞いた青木は、天啓のごとくインスピレーションを得て、わずか1週間で大作を描き上げます。重要文化財「海の幸」の誕生です。その秋の白馬会展に、名だたる大家の作品とともに出品された「海の幸」は、画壇に衝撃を与え、世間の注目を集めることになります。青木繁、22歳のことでした。
初めて「海の幸」を観たのは北の丸の東京国立近代美術館でした。若い頃でしたが、いつだったのかははっきり覚えていません。ただ、その時に受けた衝撃だけは忘れません。画面からほとばしる強烈なエネルギーに、ただただ圧倒されました。それは古代が放つ根源的エネルギーであり、人類が本来備えているパワーそのものだと思いました。画筆の巧拙といったレベルの低い議論など「海の幸」の前では吹き飛んでします。存在そのものが奇跡に近いとも言えます。その後、いくつかの展覧会で、そして久留米の旧石橋美術館でも2度ほど観ましたが、その圧倒的な印象が薄れることは決してありませんでした。現在は、石橋美術館が移転してきた八重洲のアーティゾン美術館で観ることができます。
名声を得た青木ですが、生活は困窮を極めたようです。絵を描くこと以外には興味を示さない天才肌の青木は、いわば生活破綻者だったようです。「海の幸」も大作にすぎて売れなかったと聞きます。1907年には、海中からの視点というユニークさを持つ作品「わだつみのいろこの宮」を発表します。しかし、3年をかけた力作は、満足のいく評価を得ることができませんでした。古事記に題材をとっていますが、「海の幸」のパワーはなく、英国のラファエル前派の影響だけが際立ちます。画材さえ買えなくなった青木に、実家の負債、父の危篤、福田たねの妊娠なども重なり、青木は追い詰められていきます。青木は、1908年、現実から逃げるように放浪の旅に出ます。その間に、持病であった肺結核が悪化、19011年、福岡の病院で亡くなっています。享年28歳。
夭折した天才画家ということになるのでしょうが、神が「海の幸」を描くためだけに地上に遣わした人のようにも思えます。一方、親友の坂本は、徐々に名をあげていき、1921年には渡仏しています。フランスの光と自然に魅せられた坂本は、独自の画風を生み出します。帰国後は久留米を拠点として画業に励み、九州を出ることはほぼ無かったと聞きます。戦後は洋画界の巨匠として高い名声を得ることになります。日本芸術院会員にも推薦されますが、辞退しています。1956年には文化勲章を受章しています。自宅とアトリエのある八女市で亡くなったのは1969年のことであり、享年87歳でした。久留米で育った親友二人の生涯は、随分と異なるものになったわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)