2025年2月28日金曜日

「ブルータリスト」

監督:ブラディ・コーベット      2024年アメリカ・ハンガリー・イギリス

☆☆☆☆ー

ブルータリズムとは、1950年代に流行った建築様式です。バウハウスの流れを組みつつも、近未来的で大胆な外見、打ちっぱなしのコンクリートとガラスといった素材を特徴とします。粗野(brutal)な印象からブルータリズムと呼ばれます。1950年代モダニズムの典型の一つと言えます。映画は、第二次大戦後、ナチの強制収容所を出てアメリカに渡ったハンガリー出身のユダヤ人建築家の半生を描いています。彼が、富豪の依頼を受けて設計したブルータリズム様式によるコミュニティ・センターの建設が重要なモティーフになっています。映画館の入り口では、そのコミュニティ・センターを紹介するパンフレットも渡されます。

完全なフィクションですが、設定のリアリティを高めるための細工です。また、1950年代に誕生して消えていったビスタヴィジョンの使用、あるいは15分間のインターミッション(休憩)の採用、さらにはドラマティックな劇伴を含む音楽の多用など、ドラマ以外の部分も使って時代感を醸成しています。プロットは、芸術家肌の建築家が、わがままな富豪、アメリカのビジネス環境、あるいは根強いユダヤ人差別のなかで孤独感を強めていくといったものですが、追求したかったテーマはあくまでも移民問題なのだと思われます。やはり大統領選挙を意識して製作されたのでしょう。昨年9月にヴェネツイアで銀獅子賞(監督賞)を獲っていますが、配給のA24によるなんらかの配慮でもあったのか、アメリカでの公開は大統領戦後の12月末になっています。

ナチスの強制収容所、アメリカで経験するユダヤ人差別、あるいは名の知れた建築家であっても避けがたい移民の辛酸などが描かれています。船がNYに到着すると、船内に歓声があがりますが、自由の女神が逆さに映し出されます。象徴的な映像です。映画の前半では、たたみかけるように展開する音楽とヴィデオ・クリップ的映像が印象的ですが、ヒッチコックの「レベッカ」(1940)を思い起こさせるものがあります。本作は、ミステリではありませんが、ヒッチコックの緊張と緩和というセオリーを準用しているように思えます。主人公の人格破綻、観客に与える不安感、女性の描き方、同性愛の扱い方なども、どことなくヒッチコックを思わせるものがあります。若い監督による新しい感性を感じさせますが、基本をしっかり抑えた映画とも言えます。

本作は、ヴェネツイアの銀獅子賞はじめ、英国アカデミー賞やゴールデン・グローブでも各賞を獲得し、アカデミー賞では10部門にノミネートされています。監督は、俳優から監督に転じた人で、本作が3作目とのこと。前2作も高い評価を得ているようです。主演は、ウェス・アンダーソン映画でお馴染みの個性派エイドリアン・ブロディです。この人ははまり役を必要とする人だと思います。そういう意味では、本作の主演はアカデミー主演男優賞を獲った「戦場のピアニスト」以来のはまり役だと思います。富豪役を演じたのはベテランのガイ・ピアースですが、なにやら演技を楽しんでいる風情がありました。妻役でいい味を出しているフェリシティ・ジョーンズは、「ローグ・ワン」の主役だったようですが、随分と印象が違います。

主人公のモデルとして、建築家マルセル・ブロイヤーの名前があがっています。ハンガリー出身のユダヤ系、バウハウス出身、有名な椅子のデザイン、アメリカへ渡ってブルータリズムの先駆者として活躍したことなど、外形的には共通点が多いと思います。それにしても、移民問題というテーマを追及するために、なぜブルータリズム建築家を選んだのかという点が気になりましたが、よく分かりませんでした。人種問題は、ブルータルなものではありますが・・・。余談ながら、エンドロールで、スコット・ウォーカーへ献辞が現れ、驚きました。スコット・ウォーカーは、60年前に一世を風靡したポップ・シンガーであり、2019年に亡くなっています。知らなかったのですが、その後、音楽の幅を広げ、映画音楽も手がけていたようです。ブラディ・コーベット監督の長編デビュー作の音楽もスコット・ウォーカーが担当したようです。(写真出典:eiga.com)

2025年2月26日水曜日

征夷大将軍

源頼朝
古代中国で生まれた幕府という言葉は、王に代って軍を指揮する将軍の陣幕を指したようです。平安期の日本では、禁中警護にあたる近衛府の雅称として使われました。源頼朝が右近衛大将に任じられると、その陣屋が幕府と呼ばれます。頼朝は、その後、征夷大将軍となるわけですが、幕府という呼称はそのまま使われました。さらには、陣屋のみならず、将軍による政権自体を指す言葉になっていきます。鎌倉以降、日本には3つの幕府が誕生しました。江戸幕府については、ほとんどの人が、治世260(265)年、将軍は15代、と答えられると思います。ところが、鎌倉幕府、室町幕府となると、かなり曖昧になってきます。江戸幕府に比べて、政権が安定性に欠け、将軍の影が薄かったからなのでしょう。

朝廷にも永らく摂関政治の時代がありましたが、鎌倉幕府では執権、室町幕府では管領という将軍補佐職が実権を握り、将軍職は有名無実化していきました。ちなみに、鎌倉幕府の治世は141年、将軍は9代であり、室町幕府は250年、空位期間も目立ちますが将軍は15代を数えます。鎌倉幕府では、頼朝の後、嫡男・頼家が2代目、次男・実朝が3代将軍になります。2代将軍・頼家は、横暴がゆえに有力御家人・北条家と対立し、結果、将軍を降ろされ、謀殺されます。その際、有力御家人であった梶原景時、比企能員も滅ぼされ、北条家が実権を握ります。頼家の弟・実朝が跡を継ぐと、北条家は執権の座に着きます。実朝は、朝廷に接近しすぎて、御家人と不和になります。そして、鶴岡八幡宮参拝のおり、甥でもある頼家の子・公暁に暗殺されます。

幕府の棟梁である鎌倉殿を代行する形となった北条政子は、対立する後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしますが、断られます。結果、政子は、九条家から三寅、後の4代将軍・藤原頼経を迎え、自ら後見となります。幼い三寅に代って将軍代行となった政子は尼将軍と呼ばれました。以降の将軍は、京都から迎えられ、北条家の傀儡となっていきます。北条家が将軍になれば済むことのように思いますが、そうはいきません。桓武平氏の傍流である北条家の格式の低さが主な理由だったとされます。武士の世になったとは言え、天皇を頂点とするヒエラルキーが重かったわけです。8世紀末、初めて征夷大将軍に任命されたのは大伴弟麻呂でした。続いて坂上田村麻呂も征夷大将軍になります。当時は、文字通り蝦夷征討を任としていました。

蝦夷が制圧されると、以降、征夷大将軍の任命は途絶えます。平家を滅ぼした頼朝は、吉例であるとして、約400年ぶりに征夷大将軍に任じられます。その後、征夷大将軍は、戦時の司令官ではなく、武家社会の棟梁として政権を担う地位になります。そうなると、家柄が大きな任命条件となってきます。頼朝と足利尊氏は、清和天皇を祖とする清和源氏のなかでも、八幡太郎義家に始まる河内源氏の嫡流です。家康は、河内源氏から出た新田氏の子孫と称していましたが、証跡は一切ありません。それでも征夷大将軍になれたのは、応仁の乱以降の下剋上という世相、朝廷の権威低下が影響しているのかも知れません。平清盛、織田信長も征夷大将軍になっていません。農民出身の秀吉は最高官位である関白にはなりましたが、征夷大将軍にはなっていません。

天皇家内での後継者争いはあったにしても、天皇家を滅ぼして自ら王位に就こうとした人はいません。日本に簒奪王朝が無かった理由は、為政者に統治の正統性を与える神や天という思想が希薄で、天皇がその役割を担っていたからだと考えます。幕府にも、将軍位を奪取しようとした家臣はいません。将軍家を滅ぼし、正統性の無いまま征夷大将軍を名乗ったとしても、天皇や上皇の追討宣旨が出れば、大きな戦は避けられません。ならば、お飾りの将軍を貴族から迎え、将軍補佐職として実権を握った方が得策ということになります。つまり、武力を背景に成立する武家政権下にあって、家柄重視の硬直的任命がされた征夷大将軍は、早晩、形骸化して当然だったわけです。両幕府の不首尾に学び、かつ家柄が怪しかった家康は、しっかり体制を固めることを怠らなかったということになります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年2月24日月曜日

「オーダー」

監督: ジャスティン・カーゼル    2024年カナダ

☆☆☆+

戦後民主主義というアメリカに強要された一種の宗教のなかで価値観を形成してきた我々の世代にとって、2021年に起きた合衆国議会襲撃事件は、何とも言えない空恐ろしさを感させた出来事でした。それは、我々の価値観が足下から崩れていくような恐さであり、ある意味、人生が否定されるような印象すら受けました。我々にとって、アメリカは民主主義の総本山であり、議事堂は本殿そのものだと言えるからです。事件の背景に、ドナルド・トランプの影響力があったことは疑いようがありません。TV界が生んだ怪物トランプにとって、最も重要なことは、視聴率の確保、つまり人々にウケることなのだと思います。それも世界中の人々ではなく、全国民でもなく、選挙人の過半にウケればいいということになります。

その中には白人至上主義者も含まれます。トランプが白人至上主義者でないことは明らかです。しかし、彼らにとっては、自分たちの代表をホワイト・ハウスに送り込んだくらいの気持ちなのでしょう。議会襲撃は彼らが先導したとも言われます。彼らの議会襲撃に大きな影響を与えたと言われるのが「ターナーの日記」です。ターナーの日記は、白人至上主義者ウィリアム・ルーサー・ピアースが、1970年代、アンドリュー・マクドナルド名義で自費出版されました。白人至上主義組織が、テロ、連邦政府の転覆、核戦争、人種戦争を繰り広げ、世界中の非白人とユダヤ人を絶滅するというストーリーになっているようです。多数の犠牲者を出した1995年のオクラホマ・シティ連邦政府ビル爆破事件はじめ、200件にのぼるテロに影響を与えたと言われます。

その一つが、本作で描かれたオーダー事件です。オーダーは、1980年代前半、ワシントン州メタラインに実在したネオナチ・グループです。連邦政府の打倒を目刺し、贋札づくり、銀行強盗、現金輸送車襲撃を繰り返しました。映画は、事実に基づき、抑え気味のドキュメンタリー・タッチで展開されています。美しい自然の描写が、いいアクセントになっています。ドラマを構築しにくいテーマだとは思いますが、FBI捜査官役のジュード・ロウの好演が、映画のエンターテイメント性を確保しています。そして、アメリカ大統領選挙にぶつけて製作された映画であることは明らかだと思います。8月、ヴェネツィア国際映画祭で公開され、金獅子賞を争いますが、アメリカでの公開は大統領戦後となりました。何らかの圧力でもかかったのでしょうか。

監督のジャスティン・カーゼルは、オーストラリアの社会派監督として知られます。高い評価を得た「二トラム」(2021)や「トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング」(2019)、あるいはデビュー作となった「スノータウン」も、すべて実在の事件に基づいた映画です。そういう意味では、本作に最適ともいえる監督が選ばれたわけです。カーゼルの映画には、事件を起こした実在の人物に対するシンパシーがあり、主人公たちを事件へと向かわせた社会や環境への批判的視線があります。今回は、ほぼ一方的に白人至上主義者たちの狂った行動を描いているように見えます。とは言え、彼らを単なる狂人として描いているわけでもありません。深掘りされてはいませんが、彼らを取り巻く環境に対するカーゼルらしい視点も垣間見えます。

オーダーは、1984年、著名なラジオのパーソナリティでユダヤ系のアラン・バーグを殺害します。リベラルなバーグは、白人至上主義を強く批判していました。君たちの特徴は何でも人のせいにすることだ、とバーグは語っています。古今東西の陰謀論の本質を突いた名言だと思います。ヒトラーはユダヤ人と共産主義者、KKKはアメリカの黒人、トランプは不法移民と貿易赤字をもたす諸外国を諸悪の根源と非難します。オーダーは、シオニストに支配された連邦政府を批判します。敵を明確にして固い結束を得ることは政治の常道でもあります。Qアノンやプラウド・ボーイといったトランプ支持の極右勢力も、陰謀論が求心力の中心にあります。アメリカの田舎に多く存在するミリシア(民兵組織)も、連邦政府と東部エスタブリッシュメントの陰謀論によって結束されています。(写真出典:filmarks.com)

2025年2月22日土曜日

バカの壁

20年ほど前に、養老孟司の「バカの壁」が大ベスト・セラーとなりました。人は自分が知りたくない情報を遮断するという傾向をバカの壁と例えていました。基本的には、いわゆる確証バイアスのことであり、古くはカエサルも、人は見たいものしか見えない、という名言を残しています。10年前まで、九段下駅では、都営新宿線とメトロ半蔵門線が同じプラットホームを使っていながら、壁を作って仕切り、乗り換えには階段を昇降する必要がありました。これもバカの壁と呼ばれていました。昨年秋の衆議院選挙後、国会では与党と国民民主党の間で”年収の壁”問題が盛り上がっています。これもバカの壁にしか見えないところがあります。

年収の壁とは、パートタイマー等の年収が一定額を超えると税金や社会保険料の負担が発生し手取りが減るという問題です。住民税の100万の壁、所得税では103万の壁、社会保険料や配偶者控除では106万、130万、160万の壁と様々あります。昨年の衆院選挙では、国民民主党が、選挙公約として103万円の壁の引き上げを打ち出しました。衆院で過半数割れとなった自民党は、予算を通すために国民民主党の協力が不可欠となります。国民民主党の要求を無視できなくなった与党は、税制改正大綱に123万円への引き上げを盛り込みました。ただ、国民民主党は納得しておらず、依然、攻防が続いています。年収の壁を引き上げることは、世帯収入を増やす効果とともに昨今の人手不足解消につながる面も多少はあります。

それは否定しませんが、壁の引き上げで増える手取り収入は数千円から数万円のレベルであり、一方で税収は数兆円減ることになります。選挙前に票集めのために行われる一時金のばらまき政策とは異なる制度論議ではありますが、目先のことしか考えていないという点においては似たような議論であり、しかもその水準はばらまき以下だと思います。そもそも、近年、劇的な変化を見せている日本の社会に対して、社会制度はまったく対応できていません。例えば、制度立案の前提とされる世帯モデルは、かつて夫婦に子供2人、妻は専業主婦というものでしたが、今や、そんな世帯はごく少数派です。随所に明治憲法の精神を温存しながら成り立つ日本の社会制度は、生きた化石に近づき、世界遺産登録も間近と言えます。

少子化、年金水準、夫婦別姓を含む女性の権利、同性婚などへの対応などはOECD加盟国のなかで最も後進的な状況にあります。国際競争力、教育水準も低下し、医療制度も危うい状況のままです。根本から社会制度を変える議論が必要とされるなか、微々たる手取り水準の議論をしている政治など、もはや笑い話だと思います。問題の先送り、ごまかしは自民党が最も得意とするところであり、近年、さらに酷くなっていると思います。数年前、自民党の隠し金が取り沙汰された頃、NYタイムス紙が、自民党批判の記事を出し、結論として自民党のレベルの低さは国民のレベルの低さでもあると断言していました。屈辱的な記事ですが、日本のマスコミは沈黙していました。先進国のなかで唯一、新聞とTVが同じ経営という日本のマスコミですが、NYタイムスを批判すれば、自らの首を絞めることになりかねないと恐れたのかもしれません。

会社勤めのなかで、社内制度の設計にも永く携わりました。その経験からすれば、制度は思想7割、だと思います。つまり、何を目指すのかを明確にできれば、細部は、その実現に資するかどうかという話になり、スムーズに設計できます。例えば、人事諸制度は、会社として望む従業員の姿を明確に伝え、その姿に近づけば、どう処遇するのかを明らかにするものです。社会制度も同じだと思います。目指すところが不明瞭であれば、細部の議論が紛糾するわけです。社会制度の場合、その根幹たるべきものは憲法なのだと思います。お仕着せ感が残るせいか、日本は憲法へのこだわりが薄いように思います。憲法について、最も重要なことは国民の間で共有されるべきだということです。そのためにも、憲法改正の議論を真っ正面から行い、それによって政治を変えていくことも可能になるのではないかと思います。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年2月20日木曜日

揚げ物

ひらおの天ぷら
元和2年(1616)、徳川家康は、駿河国田中(現在の藤枝市)で鷹狩を催します。家康が鷹狩を好んだことは、よく知られています。将軍の鷹狩ともなれば、相当に大規模なものだったと思われます。家康は、参加していた京都の豪商・茶屋四郎次郎に、上方で流行っているものを尋ねます。茶屋四郎次郎は、鯛を揚げたものが流行っていると答えます。新しもの好きの家康は、早速に調理を命じて食しますが、あまりの美味しさに何度もおかわりをしたとされます。その夜、腹痛に襲われた家康は、回復することなく、三ヶ月後に亡くなります。家康の死因が鯛の天ぷらだと言われる所以です。よく知られた話ですが、最近の研究によれば、本当の死因は胃がんだったようです。

熱を使う料理の、焼・煮・蒸・揚という基本形のうち、”揚げる”は、意外と歴史が浅いようです。油の確保が前提となるからなのでしょう。6世紀、ペルシャで生まれた肉の甘酢煮「シクバージ」が揚げ物のルーツだとされます。シクバージは、船上の保存食として地中海世界に広まり、10世紀頃には魚のシクバージが作られるようになります。文献上は、13世紀のエジプトに、小麦粉をまぶした魚を揚げして、甘酸っぱいソースをかける料理が魚のシクバージとして残っているようです。16世紀初頭には、スペインやポルトガルで、現代に続くエスカベッシュが登場します。16世紀末、これをポルトガル船が日本に伝え、天麩羅になるわけです。天麩羅の語源も、ポルトガル語のtempêro(調味料)、temporras(金曜日の祭り)等の説があります。

家康が、鯛の天麩羅を食べた頃には、南蛮渡来の新しい料理だったわけです。しかし、これは、あくまでも小麦粉と卵で衣を作った揚げ物の話であり、素揚げや米粉を使った揚げ物、あるいは揚げた唐菓子は、奈良時代に中国から伝わっていたようです。とは言え、当時の中国では、油の確保や高温に耐える鉄鍋といった前提が整っていなかったため、一般的な調理法ではなかったようです。西日本では、練り物の素揚げを天ぷらと呼びますが、その起源となったものは、いわゆるさつま揚げです。鹿児島では、さつま揚げをつけ揚げと呼びます。中国由来の琉球料理”チキアーギ”が江戸期に薩摩藩に入り、”つけ揚げ”になったとされます。ただ、なぜ西日本で練り物の素揚げを天ぷらと呼ぶようになったのかは、よく分かりませんでした。

天ぷらは「たね七分にうで三分」と言われますが、個人的には五分五分ではないかと思っています。私は、衣の厚い天ぷらよりも「てんぷら山の上」や「みかわ」風の薄い衣でからっと揚げたものが好みです。そうなると、一層、腕の違いが大きな要素となってきます。一流の天ぷら職人ともなると、客が箸をつけるタイミングで食材に熱が通るよう見計らって揚げると言われます。小うるさいことで有名なさる天ぷら屋のご亭主は、天ぷらは火の芸術です、とまで言い切っていました。さすがに言い過ぎのようにも思いますが、確かに天ぷらは熱の入れ方に関する職人技の極致だとも言えるのでしょう。そういう意味からも、天ぷらは、寿司がそうであるのと同様、カウンターで揚げたてを食べるべきものだと思います。

カウンター天ぷらは高級料理です。それは新鮮な、あるいは高級なネタゆえのことではありますが、熟練した職人技への対価でもあります。そこに一石を投じたのが博多天ぷらだと思います。カウンターで揚げたての天ぷらを一品づつ出すにも関わらず安価というありがたいスタイルです。博多天ぷらと言えば「ひらお」が最も有名なのでしょう。私も、福岡へ行った際には、行列に並んで食べています。実は、このスタイルは「だるま」が発祥の店とされます。高級料亭の板長だった岡本茂氏が1963年に開業しています。現在では、東京にも「やまや」や「たかお」が進出しています。また、天丼の金子半兵衛も、日本橋で天ぷらめしと称して、博多天ぷらスタイルの店を営業しています。最近は、天ぷらを食べたくなったら、迷わずに博多天ぷらスタイルをチョイスしています。(写真出典:fukuoka-meguri.com)

2025年2月18日火曜日

静謐な部屋

2008年、上野の国立西洋美術館で、アジア初となるヴィルヘルム・ハンマースホイの回顧展が開かれました。恐らくハンマースホイの絵を観るのは初めてだったと思うのですが、とても強い印象を受けました。いつもはギフト・ショップの絵葉書など買わないのですが、何枚か買って、額装して部屋に飾りました。ヴィルヘルム・ハンマースホイは、1864年、コペンハーゲンに生まれています。裕福な家庭に育ったハンマースホイは、8歳でデッサンの個人レッスンを受け、15歳からデンマーク王立美術院で学んでいます。21歳のおり、妹を描いた「若い女性の肖像」でデビューします。当時のデンマーク画壇での評判は芳しくなかったようですが、オーギュスト・ルノアールが賞賛したという話も残っています。

ハンマースホイは、27歳のおり、イーダ・イルステズと結婚し、1898年から、コペンハーゲンのストランゲーゼ30番地のアパートで暮らし始めます。これは、コペンハーゲンで最もよく知られた住所になります。というのも、ハンマースホイは、このアパートの室内を数多く描き、彼の代名詞ともなったからです。ハンマースホイの室内画に人物が登場することは希です。人物が描かれるとすれば、後ろ姿の妻イーダに限られます。また、室内には、生活を感じさせるものはほとんど描かれていません。そこにあるのは、淡く頼りなげな光と静寂な空間だけです。ハンマースホイが描く空虚な部屋は、空虚がゆえに深く語りかけてくるものがあります。それは孤独感ではありますが、決して絶望的ではありません。

北欧の人々は、過酷な自然を恨むことなくそのまま受け入れ、そのうえで微かな幸せと喜びを見いだす性向があるように思えます。いわば北欧的諦観です。それを象徴するのが、ルター派という宗教であり、ジャンテ・ロウという精神風土だと思います。ハンマースホイの絵画は、それら全てを表現しているように思います。淡い光と空虚な空間は、厳しい自然や孤独感のなかだからこそ見いだし得る静寂と安寧なのだろうと思います。そういう意味では、ハンマースホイの絵画は、北欧の精神風土そのものともいえますが、同時に、それは孤独という宿命のなかで生きてゆく人間にとって普遍的なテーマだと言うこともできます。彼の絵画が、当時の芸術家から高く評価され、今になって再評価されている理由がここにあると思います。

国連による幸福度調査などにおいて、北欧諸国は常にトップを占めています。それもそのはずです。国民の収入の半分を税として徴収し、高福祉社会を維持しているわけですから、諸制度の充実度は良くなるに決まっています。一方、幸福感に関する国民アンケートでも、皆が幸せだと答え、世界トップの結果となっています。鬱病やアルコール中毒が多い国柄にも関わらず、こうした結果になっているのは、抑制的な精神風土によるものだと思います。近年、北欧各国で、ジャンテ・ロウに対する批判が高まっていると聞きます。ITによる情報共有、ボーダーレス化が進む世界にあっては、理解できる話です。しかし、わざわざ声高にアンチを叫ばなければならないほど、ジャンテ・ロウは社会に根付いているとも言えます。

私が最もハンマースホイらしいと思う作品は、1905年に描かれた「白い扉、あるいは開いた扉」(写真)です。精緻な描写、空虚な空間の表現も素晴らしいのですが、この絵の主役は画面奥の窓にわずかに差し込む淡い陽光だと思います。北欧の人々の心象風景そのものだと思います。もし、若い頃にハンマースホイの絵に出会っていたとしたら、まったく無視していたのではないかとも思います。北欧の人々が心の奥深くに持っている思いは、世界中の高齢者に共通するものでもあるように思います。つまり、諦めに似た孤独感です。この絵とは別に、お気に入りの一枚があります。「陽光、あるいは陽光に舞う塵」(1900)です。私が最も心地良いと思う光景の一つは、午前中の喫茶店、窓から降り注ぐ陽の光、そのなかで舞う塵、そこに漂うコーヒーとトーストの香り、ピアノ・トリオが奏でるけだるいジャズといったイメージです。この絵は、その穏やかな幸福感を思い起こさせます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年2月16日日曜日

「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」

監督:ペドロ・アルモドバル     2024年スペイン・アメリカ 

☆☆☆☆ー

アルモドバルにとっては初めてとなる英語による映画です。アメリカの作家シーグリッド・ヌーネスの長編小説を原作としています。アルモドバルらしいきめ細かな人間描写、鮮やかな色彩、見事な音楽の使い方、そしてティルダ・ウィンストンの見事な演技と、ヴェネツィア国際映画祭での金獅子賞も頷ける映画になっています。しかし、アルモドバル最良の映画かと言えば、まったく違うように思います。まずはテーマへのフォーカスが甘くなっています。原作に忠実であろうとした結果なのかもしれませんが、いずれにしても妙にブレています。加えて、初めての英語映画で力が入ったのか、映像のハイセンスさがテーマを妙に軽くしている面もあります。

75歳になるアルモドバルは、前作「ペイン・アンド・グローリー」で、自らを重ねるように、老いをテーマにしました。そして、今回は死を扱ったわけです。死に対する恐怖と受容、安楽死を巡る問題、戦場における死、死が近親者にもたらすもの、といった死に関する様々なテーマが語られています。ただ、多様にすぎて焦点がぼけ、全体が薄っぺらく感じられます。安楽死がメイン・プロットではありますが、決して深掘りされることもなく、ティルダ・ウィンストンの演技力ばかりが目立ちます。アカデミー女優のジュリアン・ムーアも、安定感のある演技を見せていますが、いつもどおり平板と言えば平板なところがあります。ある意味、映画が表面的になった理由は、彼女の存在にもあるのかもしれません。

もちろん、アルモドバルですから、レベル以上の出来にはなっているのですが、その薄さがアルモドバルらしくないなと思ったわけです。ただ、徐々に、それこそがアルモドバルがねらったことなのかもしれないと思えてきました。誰にとっても死は避けがたい現実です。とは言え、死の瞬間、死後の世界を経験した人が生きていないので、何一つ分かっていないわけです。そのことが人間にとって大きなストレスになってきました。ゆえに、人間は、太古の昔から、死を恐れ、思い悩んできました。それに応じるように、宗教が隆盛し、安楽死や自死も行われてきました。ちなみに、本作における死は、安楽死かのように描かれていますが、自死以外の何ものでもありません。これもアルモドバルが仕掛けたトリックなのかもしれません。

死に関する思いや議論に正解などないからこそ、いつの世にあっても、重いテーマであり続けているのでしょう。アルモドバルは、死そのものではなく、そうした死を巡る様々な思想や姿勢の有り様に対して疑問を投げかけているように思えます。つまり、誰に対しても平等に一度は訪れる死、避けようにも避けがたい死だからこそ、夜が来ること、雨が降ることと同じく、ごく自然体で受け入れるべきではないかと言っているように思うわけです。それが、老境に至ったアルモドバルがたどり着いた答なのではないかと思います。映画は、主人公の死をもって終わっても良かったはずです。ところが、主人公と不仲だった娘が、初めて母を受け入れ、連帯を確認するシークエンスが蛇足的に続きます。実は、これこそがアルモドバルが言いたかったことではないかと思います。

私の父が「葬式は生きている者たちのために行う」と言っていました。名言だと思っています。アルモドバルは、大事なことは、死そのものではなく、死が生きている人たちに与える影響なのだ、と言っているように思えます。つまり、いかに生きるかということに関わる限りにおいて、死は大きな意味を持つということなのでしょう。逆説的なアプローチの映画と言えますが、アルモドバルの言わんとするところを正攻法で正面から描くとすれば、とてつもなく難しい映画になったはずです。そういう意味で面白い映画を作ったものだと思います。ただし、ヴェネツィアの審査員が同じように思って票を投じたとは思いませんが。(写真出典:warnerbros.co.jp)

2025年2月14日金曜日

梁盤秘抄#35 2nd Collection

アルバム名:2nd Collection : Hydeout Productions(2007)                                  アーティスト:Various Artist

トラックメーカーのNujabesが主宰していたHydeout Productionsのレーベル・コレクション第2集です。Nujabesは、本名の瀬場淳のアルファベット表記を逆さにした名前です。残念ながら、Nujabesは、2010年、交通事故で亡くなっています。36歳でした。ただ、今でも高い人気を誇り、海外で再生される回数が多い日本人アーティストとしても知られます。Nujabesは、J Dillaと並んでローファイ・ヒップホップの産みの親とされます。J Dillaも、2006年、32歳で亡くなっています。皮肉なことに、世界中でローファイ・ヒップホップの人気が高まったとき、二人の産みの親は亡くなっていたわけです。

一般的に、ローファイ・ヒップホップとは、テンポを緩めにしたヒップホップ系ビートに、チルアウト系の穏やかなメロディを乗せた音楽、つまり、一言で言えば、心地良いリズムとメロディを持つ音楽ということになるのでしょう。自宅で過ごしたり仕事をする時間が増えたコロナ禍にあって、BGMとして人気が高まったと言われます。ただ、J DillaやNujabesが目指したものは、多少、異なるように思います。先鋭化したラップのアンチテーゼとして生まれたという面もあるのかもしれませんが、むしろヒップホップ文化の確立と定着に伴い、様々なジャンルとの融合、化学反応が始まった結果なのだと思います。ラップにメロディを持ち込んだのはローリン・ヒルと言われますが、そのあたりからラップの新たな展開が始まったのではないかと思います。

ローファイは、ハイファイの対義語であり、使っている機器類の精度の低さだけではなく、メロディやリズムの緩さをも意味していると思われます。J Dillaは、サンプリングを駆使して、ラップを新しい次元へとワープさせました。1980年代後半、極めて高価だったサンプラーを入手しやすい価格で販売したのがエンソニックと日本のAKAIでしたお手頃価格のサンプラーの登場は、ラップの世界に衝撃をもたらしたと言えます。独特なリズムを生み出すJ DillaがAKAIのMPCと出会ってローファイ・ヒップホップが生まれます。さらに電子音楽を正確でクリアな音に調整するソフトウェア”クオンタイズ”をOFFにすることで、揺らぎを持ったより人間的で暖かみのある音が誕生します。こういったことが”ローファイ”という言葉につながったのでしょう。

Nujabesに関して言えば、ループやリフの上に、サンプリングよりもオリジナルの印象的なメロディを乗せることが多いように思います。そのメロディ・センスの良さには驚かされます。一体、この人は何を聴いて育ったのか、そのセンスを磨いた音楽は何だったのかということが気になります。調べてみると、すぐに一つの名前にぶち当たります。橋本徹です。編集者、選曲家、DJ、プロデューサーの橋本は、メロウ・ブームの産みの親にして第一人者です。橋本は、出版社に勤務しながら、好きな70年代ソウル、ジャズ、ブラジル系などの音楽を紹介するフリー・ペーパー「Suburbia Suite」を1990年に創刊しています。そこを起点に、DJ、コンピ・アルバムと広がっていくわけですが、その輪の中に美大の学生だったNujabesもいました。

Nujabesは、1995年、21歳の時、渋谷・宇田川町にレコード店を開き、その後、スタジオやレーベルを立ち上げ、自らも音楽制作に入っていきます。2004年には、パリコレでコムデギャルソンの音楽を担当し、TVアニメ「サムライチャンプルー」の音楽制作にも参加しています。生まれた時から多くの洋楽を聴いて育った若者が起こしたムーブメントが渋谷系でした。渋谷系がポップな側面を担い、ジャズやソウルで育った橋本やNujabesたちがメロウ系、そしてローファイ・ヒップホップを生み出しました。いずれも同じ土壌から生まれたわけです。ワールド・ワイドな音楽を聴いて育っただけに、彼らの音楽が国境を越えて広がるのは当然だったのでしょう。ネット環境下で生まれる音楽に国境はありません。Nujabesは、その先駆者でもあったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2025年2月12日水曜日

荒行

寒百日大荒行
過日、家の近くの中山法華経寺へお参りしたら、ちょうど大荒行成満会の日でした。11月1日から行われる寒百日大荒行は、2月10日をもって成満となります。荒行を満行した修行僧たちは、全国各地の自分の寺から駆けつけた檀家や支援者に迎えられ、大荒行成満会を行います。私が行った時刻には、すべての行事が終わっていましたが、境内には多くの檀家の皆さんが残っており、各寺の幟がはためいていました。中山法華経寺の寒百日大荒行は、比叡山延暦寺の千日回峰行、インド仏教のヨーガと並んで世界三大荒行とされているようです。

日蓮宗大本山の一つ中山法華経寺で行われる寒百日大荒行は、午前2時に起床し、水行を午前3時から午後11時まで1日7回、木釼相承と呼ばれる寒風のなかでの読経が朝夕2回、他の時間はひたすら万巻読経と書写行にあてられます。衣服は、寒中にも関わらず白い単衣のみ。朝夕2回の食事は、白粥に梅干一つという厳しさであり、即座に栄養失調に陥ることは間違いありません。まさに死と蘇生の荒行であり、命を落とす修行僧もいると聞きます。百日間の荒行を満行した修行僧は、伝師から秘法を授かり、修法師に任命されます。修法師は、日蓮宗特有の加持祈祷を行うことが許されます。中山法華経寺は、この寒百日大荒行を天正19年(1591)から400年以上に渡って行ってきました。

全宗派を通じて日本で最も厳しい荒行とされるのが、比叡山延暦寺の千日回峰行です。9世紀に相応和尚が始めたとされます。1,200年の間に、満行し大阿闍梨の称号を得たものは、わずか51人。うち2度満行した行者が3人、3度はただ1人です。千日回峰行が、いかに厳しい修行であるかが分かります。千日回峰行に入ると、最初の3年間は、年に一度、100日連続で回峰し、続く2年間は200日行います。深夜2時にスタートし、真言を唱えながら比叡山内の260箇所を拝しながら回る距離は約30km、所要時間は約6時間。回峰ルートを少し歩いたことがあります。狭くて、アップダウンが激しく、木の根がゴツゴツとした厳しい道です。通常、時速5kmは早歩き程度ですが、厳しい道を礼拝しながら回峰するにはトレイル・ラン並みのスピードが求められます。

ひとたび回峰行に入ると、途中で止めることは許されず、離脱は自死を意味します。そのために行者は、首をくくるための死出紐、短剣、三途の川の渡り賃である六文銭、埋葬料10万円を常に携行すると言われます。5年間の回峰が終わると、まさに自殺行為としか思えない堂入りの行に入ります。まずは生前葬を執り行い、その後、無動寺明王堂に9日間籠もります。その間、断食・断水・不眠・不臥という四無行を行い、日に三度勤行し、10万遍の不動真言を唱え続けます。堂入りを満行すると、行者は阿闍梨と呼ばれることになります。6年目は、京都市中へのルートも含めた60kmの回峰を100日、7年目には京都大回り84kmを100日、続いて比叡山回峰30kmを100日終えて満行となります。満行者は大阿闍梨の位を授与されます。

荒行の目的は、死の直前まで肉体を追い込むことによって、一切の罪と穢を滅し浄めて、神仏に近づくことだとされます。釈迦は、6年間の苦行を行いますが、何も得ることが出来ず、放棄します。極端な苦行は真理から遠ざかると理解した釈迦は、体力を回復し、菩提樹の下で瞑想に入ります。8日目、釈迦はついに悟りをひらくことになります。仏教における苦行は、釈迦がたどったこのプロセスを追体験するものなのでしょう。荒行であっても、巡礼であっても、最も重要なことは、自分自身と徹底的に向き合うことなのだと思います。修行中に沸き起こるであろう様々な思いのすべてが煩悩なのだと思います。その一つひとつに向き合い、乗り越えていくことこそが荒行の目指すところなのだと思います。しかし、それは悟りをひらくことを意味するのではなく、悟りの何たるかを知るための修行だと理解すべきなのでしょう。(写真出典:shushoji.jp)

2025年2月10日月曜日

たこ焼き

たこ焼きは大阪のソウル・フードの一つですが、東日本でも、お祭りや縁日の露店にはありました。しかし、形状は同じでも、似て非なるものでした。中までしっかり火がとおり、ソースの味しかしませんでした。始めて本場物を食べたのは、高校の修学旅行で京都へ行った際のことです。三条橋のたもとあたりに屋台が出ており、ちょうど小腹が空いたのでトライしたわけです。その美味しさにビックリしました。いわゆる外カリ中トロの食感もさることながら、出汁が利いた生地の美味しさに驚きました。今まで食べてきたものは何だったのかと思ったものです。 東京で本物に近いものが食べられるようになったのは、さほど昔のことではありません。しばらくの間、本当のたこ焼きは、関西でしか味わえませんでした。

最近、広島のお好み焼きの美味しさに目覚めましたが、依然、関西風のお好み焼きにはしっくりこないものがあります。不味いというのではなく、何故、食べるのかよく分からないといったところです。ただ、同じ粉もののなかで、たこ焼きだけは別です。大阪に行った際には、梅田の”はなだこ”か”たこ八”に寄ります。ただ、最近、はなだこはインバウンド客で大行列になっており、なかなか食べるのには難儀します。止むなく、新大阪で”くくる”のたこ焼きを食べることになります。乳脂肪やワインを使った新感覚系のたこ焼きは、若者を中心に大人気です。これはこれで美味しいのですが、どうしてもたこ焼きとは思えないところがあります。やはり伝統的な店の味を選びたくなります。

大阪人に、お好み焼きもたこ焼きも、もんじゃ焼きから派生した、と言うと、そんなわけはない、と大騒ぎになります。しかし、残念ながら事実です。江戸に文字焼きという駄菓子があり、鉄板に溶いた小麦粉で文字を書いたことから文字焼きと呼ばれたようです。文字焼きは、いつしか訛って”もんじゃ焼き”と呼ばれるようになります。大正から昭和初期には、生地の上に様々な具材を乗せて焼く、いわゆるのせ焼きに進化し”どんどん焼き”となります。一般的にはどんどん焼きと呼ばれながらも、商う店や露店には”お好み焼き”という暖簾が掛かっていたようです。当時の花街では、座敷に鉄板を設え、客が好きに焼いて食べるスタイルが流行っていたようです。客が好みで焼くことから”お好み焼き”という名前が生まれたという説があります。

どんどん焼きは、関西に伝わり、賽の目に切った具材を乗せる”ちょぼ焼き”や”一銭洋食”として広まります。今も京都の祇園には「壹銭洋食」があります。小麦粉とソースがまだ珍しかった時代であり、”洋食”と呼ばれたようです。そして、すじ肉を入れて丸く焼いた”ラジオ焼き”が登場します。当時、最先端だったラジオにあやかったネーミングでした。1933年、大阪は西成の「会津屋」が、ラジオ焼きに牛肉を入れ肉焼きとして売り出します。1935年、客から、明石ではタコと鶏卵が入っていると聞いた会津屋は、これを研究し“たこ焼き”として売り出すことになりました。濃いめの味付けをし、ソースを付けずに食べるスタイルであり、たこ八等も、これを踏襲しています。現在も会津屋は営業中であり、東京でもお台場に店があります。

新潟に赴任した際、大阪出身の後輩が、安いたこ焼き器を使って、皆にたこ焼きを振る舞ってくれたことがあります。これがとても美味しくて、生地のレシピを尋ねました。ところが、実家のレシピです、と言うばかりで教えてもらえませんでした。大阪では、各家庭にたこ焼き器があると聞きます。生地のレシピも、各家庭によって異なり、門外不出となっているのでしょう。一度、美味いたこ焼きを自分で作ってみようと思い挑戦したことがあります。ネットでレシピを研究し、金に糸目を付けずに食材を買い込み、ホットプレートのたこ焼きプレートで焼いてみました。美味いは美味しいのですが、何か一つ足りない感じが残りました。火力や焼き方の塩梅もあるのでしょうが、おそらく何か秘密の隠し味があるではないか、と思いました。(写真出典:aiduya.com)

2025年2月8日土曜日

奇想の絵師

相馬の古内裏
2019年に東京都美術館で開催された「奇想の系譜展」は、とにかく面白い展覧会でした。1970年に出版されて大きな反響を呼んだ辻惟雄の「奇想の系譜」に基づく企画であり、 岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳、白隠慧鶴、鈴木其一の作品が並べられていました。そのコンセプトは、異端、キワモノと扱われてきた江戸期の絵師たちを、前衛として捉え直すという発想でした。以降、忘れられていた奇想の絵師たちの人気が高まることになります。今般、大阪中之島美術館で「歌川国芳展 ―奇才絵師の魔力」を観てきました。中之島美術館は、一昨年、長沢芦雪展も開催し、人気を博していました。中之島美術館は、奇想系を名物の一つにしようとしているように思えます。

国芳展は、400点を集めたという大規模展になっています。肉筆を期待していたのですが、大半は錦絵でした。奇想の絵師のなかで、錦絵を中心に活躍した国芳は多少異質だと思います。異端というよりは、大衆受けをねらったキワモノと言うべきでしょう。そもそも浮世絵は、コマーシャリズムそのものであり、大向こう受けをねらうことはその本質とも言えます。歌麿も、北斎も、ある意味、奇想の絵師としての性格を持っています。なかでも、江戸末期に活躍した国芳は、抜きん出た発想力を持つ奇才だったと思います。当時、日本にも入り始めた西洋画から、構図や影の表現といった影響を受けていたことでも知られています。もっとも、西洋画の影響というよりも、つまみ食いといった印象が強いように思います。

18世紀末、日本橋の紺屋に生まれた国芳は、早くから絵の才能が認められ、歌川豊国の弟子となります。手に負えないほどやんちゃな少年だったようで、画業にも身が入っていなかったようです。ただ、美人画で一世を風靡した兄弟子の歌川国貞、後の三代目豊国の羽振りの良さに刺激を受け、技法の習得に努めるようになったといいます。やんちゃであったこととモチベーションのあり方が、国芳の画風に色濃く反映されているように思います。国芳が世に知られることになったのは、30歳前後に描いた水滸伝のシリーズでした。中国四大奇書の一つとされる水滸伝は、18世紀末から日本でブームとなり、曲亭馬琴の翻訳に葛飾北斎が挿絵を描いた読本なども大人気だったようです。抜け目ない国芳が、このブームに目を付けます。

大胆な構図と派手な作画で登場人物を描いた「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」シリーズは、国芳の出世作となり、国芳は”武者絵の国芳”と呼ばれるようになります。人気絵師となった国芳は役者絵や美人画でも大当たりをとっています。19世紀前半、老中・水野忠邦による天保の改革が始まります。農本思想に基づく改革は、綱紀粛正と奢侈禁止を徹底し、芝居小屋の江戸所払い、寄席の閉鎖など風俗取締も行われます。錦絵の世界も厳しい弾圧を受けることになります。国芳は、持ち前の反骨精神から、精一杯、幕府を皮肉った浮世絵を次々と発表します。江戸っ子たちは、国芳の錦絵で大いに溜飲を下げたようですが、一方で国芳は要注意人物としてお上の弾圧を受けることになります。この反骨精神こそ国芳の真骨頂であり、国芳の近代性を象徴しているように思えます。

国芳の代表作として知られる「相馬の古内裏」は、天保の改革後に描かれたものです。大胆な構図に目が奪われがちですが、実は骸骨が正確に描写されており、西洋の人体解剖書に基づいていると言われます。西洋の影響という意味では「近江の国の勇婦於兼」も有名です。構図はイソップ物語の挿絵が元ネタとされ、於兼は錦絵調に描かれ、雲と馬は陰影を付けた西洋画の風情になっています。個人的には、西洋画の遠近法と陰影を用いた「忠臣藏十一段目夜討之圖」に、いつも驚かされます。もはや浮世絵ではなく、蘭画の趣きがあります。国芳という人は、浮世絵の大衆迎合性をとことん突き詰めた絵師であると同時に、浮世絵の限界を深く憂慮していた絵師だったように思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年2月6日木曜日

東洋のベニス

土塔
うどんすきで知られる美々卯の本店は淀屋橋にありました。会社の大阪本部が近かったこともあり、随分とお世話になりました。趣のある日本家屋で、いかにもという老舗感が漂っていたものです。現在は、新築されたビルの1階で蕎麦屋として営業しているようです。淀屋橋の旧本店があまりにも有名ですが、実は美々卯発祥の地は堺です。1776年、堺で料亭「耳卯楼」としてスタートしています。大正末期、麺類専門店として淀屋橋に進出、店名も「美々卯」に改めています。数年前に美々卯が東京から撤退して以降、うどんすきを食べる機会がありませんでした。久々に食べたいと思い、友人たちと堺の美々卯を訪れました。会社としては色々あったようですが、伝統の技が生み出す黄金の出汁は健在でした。

その夜は、堺駅前のホテルに泊まったのですが、館内は中国人であふれていました。春節と重なったわけです。しかし、堺を観光するために来たのではなく、大阪のホテルが満杯になり、あふれ出た人たちが泊まっていたのでしょう。そもそも日本人でも、観光を目的に堺を訪れる人は少ないのではないかと思われます。ただ、インバウンド客は着実に増加しており、その大きな目的が刃物の購入だというのです。堺の底力を感じさせる話です。堺の人たちには申し訳ないのですが、堺は歴史的役割を終えた街の一つだと思います。古来、港として栄えた堺は、中世に至ると、国際貿易港として、また鉄砲や刀の産地として栄華を極めます。商人たちによる自治都市であったことも含め、宣教師たちは、堺を”東洋のベニス”と褒めそやしました。 

堺で観るべきものの一番は、やはり仁徳天皇陵(大仙陵古墳)ということになります。世界遺産にも登録された世界最大級の墳墓の一つです。形状は、ヤマト王権の象徴でもある前方後円墳です。実測ベースでの規模は不明な点が多いとも聞きます。三重に巡らされた堀には大量のヘドロが堆積しており、創建時の大きさが特定できていないのだそうです。その巨大さに比して観光客が少ない理由は明白です。全体像を一望することができないからです。周囲を回れば、その大きさに驚かせられますが、一見したところは小高い緑地に過ぎません。堺市役所の21階展望室からの眺望が有名ですが、上からではなく横から見る程度に過ぎません。上から鍵穴のような形状を確認するためには、真横に300m以上のタワーを作る必要があると聞きました。

堺には、重要文化財の土塔もあります。奈良時代初期、堺出身の行基上人によって建立された仏塔です。土をピラミッド型に積み上げて瓦で覆った十三重の塔は、原型に近いストゥーパなのだろうと思います。仏舎利塔に始まるインドのストゥーパは巨大な円錐型でしたが、中国に伝わると楼閣建築化し、それが日本では木造の五重塔になるわけです。五重塔が多く建立された時代にあって、行基は、あえて土のピラミッドを築いたわけです。民衆への布教が禁止されていた時代、行基は救民を掲げ、階層を問わず布教活動を行いました。”知識”と呼ばれる集団を組成し、多くの寺を建立し、土木工事を行いました。作業に従事することが修行そのものだったのでしょう。行基の思想からすれば、東大寺の盧舎那仏も土塔も同じ位置づけだったと思われます。

しかし、堺が最も誇るべきは、かつて国際貿易港として、商人による自治都市として栄えたことなのだろうと思います。かつて堺には復活する大きなチャンスがありましたが、残念ながら逃しています。幕末、列強は大阪開港を幕府に迫ります。幕府は、京都に近すぎる大阪に代わって、堺か神戸を開港しようと考えます。ただ、堺は仁徳天皇陵はじめ天皇の墳墓が多くあるために候補から除外され、結果、神戸が開港されました。古代にあって、大陸や半島から来た人々に倭国の威厳を示した巨大な前方後円墳ですが、近世に至っては、堺が再び国際貿易港になることを邪魔したわけです。なんとも皮肉な話です。なお、現在の堺とヴェネツイアの違いを生んだものは、太平洋戦争における米軍の熾烈な空襲だったことも付け加えておきます。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2025年2月4日火曜日

藤原京

受付時間に遅れて三輪山登拝ができなかった日、余った時間を藤原京跡の見物に当てました。藤原京跡は、近鉄の耳成駅から歩けば20分ほどのところにあります。耳成(みみなし)とは妙な名前ですが、大和三山の一つ耳成山に由来します。耳成山は、標高193mの低山ながら姿の良い山です。耳成とは、耳が無い、つまり余分なところの無い山という意味なのだそうです。藤原京跡からは、北に耳成山、東に天香久山、西に畝傍山と、大和三山を綺麗に見渡せます。南は飛鳥の地となり、遠く甘樫丘を望むことになります。まさにこの日、政府は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を、日本では27件目となる世界遺産として正式推薦することを決めました。三輪山の大物主神が、今日は藤原京に行っておけ、と言っていたのかもしれません。

世界遺産候補とは言え、藤原京跡はただの広い野原です。所々、大型建造物の礎石の上に赤い中途半端な柱が立てられています。ちなみに、その日、藤原京跡にいたのは私一人でした。一方、飛鳥エリアには、飛鳥宮跡、水落集落跡、石舞台、酒船石、飛鳥寺跡、高松塚古墳等々、見所も多く、観光客も押し寄せます。とは言え、藤原京は、条坊制によって構成された日本初の宮都として、歴史上、大きな意味を持ちます。694年、飛鳥浄御原宮から藤原宮への遷宮が行われ、まだ宮都としての造営が続いていた710年、平城京へ遷都されています。藤原京以前、天皇は代替わりする都度に宮廷を移し、宮都という概念は存在しませんでした。それを一変させ、藤原京建造を計画したのは天武天皇でした。その背景には、揺れ動く東アジアの情勢がありました。

7世紀初頭に建国された唐は、西の騎馬民族を制圧し、東では新羅と組んで、高句麗・百済を滅ぼします。百済救済に向かった倭国軍は、白村江の戦いで大敗を喫します。唐軍の日本来襲を恐れた中大兄皇子(天智天皇)は、山城の築城、防人の配置、大津遷宮等を行うとともに、中集権化を進めていきます。天智天皇没後に起きた壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子(天武天皇)は、さらに中央集権化を加速させ、律令国家を誕生させることになります。天皇という称号、日本という国名も定められています。そして、国家としての独立性や威厳を内外に示すためには、国際標準の宮都が是非とも必要だったわけです。藤原京は、部族連合だった倭国が日本という国家に生まれ変わり、ヤマト王権が大和朝廷に変わった場所だと言えます。

天武天皇は、豪族たちを大臣等に任用せず、自らと皇族だけで政治を行いました。いわゆる皇親政治です。こうした中央集権国家を目指す天武天皇の取組は、政治・行政面に留まらず、文化的側面においても徹底されます。仏教を軸としながらも天皇の神格化が進められ、古事記・日本書紀の編纂も開始されています。また国としての独自性という観点から万葉仮名が生まれ、それを用いた和歌が推奨されます。天武天皇自ら詠んだ歌も残されています。この時代の文化は白鳳文化と呼ばれ、飛鳥文化と天平文化をつないでいます。天武天皇は、藤原京の完成を見ることなく亡くなっています。跡を継いだのは天智天皇の皇女である皇后・鸕野讃良皇女であり、持統天皇として即位し、藤原宮への遷宮を行っています。

歴史的意義の大きい藤原京ですが、短命に終わっています。その理由としては、水はけが悪く疫病が蔓延しやすい土地だったこと、また飛鳥を拠点とする豪族たちの影響を受けやすい場所だったことが挙げられています。加えて、中央集権化が進むと、貴族・役人・僧侶、造営や雑役に従事する人々も急増し、キャパシティの限界も生じたのでしょう。藤原京の推定人口は2~3万人、対して平城京は10万人以上とされています。飛鳥に始まり、王宮・王都は、北へ北へと移っていきます。北進することに意味があったわけではありません。南には吉野山系、東には笠置山地があり、西の生駒山地を越えれば開けた難波がありますが、上町台地だけでは不十分だったのでしょう。要は、他に選択肢がなかったわけです。なお、飛鳥・藤原の宮都の世界遺産登録は、早ければ2027年とされます。藤原京跡の整備も進み、訪れる人も増えることになるのでしょう。(写真出典:nara-np.co.jp)

2025年2月2日日曜日

三輪山

三輪山に登拝しようと出かけたのですが、受付締切の12時を若干超えていたので断られました。神社のホームページ上、登拝は9~15時となっていますが、受付時間に関する記載はありません。神社の入口には受付時間が大きく掲示されていましたが、受付時間に関する苦情が多い証拠だろうと思います。わずかな遅れゆえ、しつこくごねたのですがダメでした。神社の許可が前提の神事ですから、あきらめるしかありませんでした。三輪山登拝は、大神(おおみわ)神社境内の奥にある狭井神社に願い出て、許可を得たものだけに許されます。登拝時には、写真撮影も、見聞きしたことを人に伝えることも禁止されています。そのせいか、ネット上には、受付時間も含め、登拝に関する情報は極めて少ないと言えます。

大神神社は、日本最古の神社と言われます。「古事記」には、大物主大神が、出雲で国造りを行っていた大国主神の前に現れ、私を三輪山に祀れば国造りは完成するであろうと告げます。また「日本書紀」にも同様の話があり、大物主大神とは大国主神の魂の別な面を象徴しているとも告げられます。大物主大神が鎮まる三輪山は、崇神天皇の頃から、国造りの神として祀られてきたとされます。第10代となる崇神天皇は、日本書紀に「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記されることから、ヤマト王権を確立した実在天皇ではないかという説があります。近年、三輪山の麓にある纏向遺跡で、3世紀のものと推定される巨大な構造物の跡が発掘され、崇神天皇時代の遺跡ではないかという見方が広がっています。

また、纏向遺跡の三輪山寄りに箸墓古墳があります。ヤマト王権を象徴する大型前方後円墳のごく初期のものとされます。記紀においては、箸墓古墳は、第7代孝霊天皇の皇女であり大物主大神と結婚した倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓と記されています。魏志倭人伝の記載や時代と重なることから、纏向遺跡こそ邪馬台国であり、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと注目を集めています。魏志倭人伝では、卑弥呼は巫女であり、年下の男性が政治を司っていると記載されています。いわゆる”ヒメヒコ制”ですが、年代的にはヒコに当たるのが崇神天皇だったと推測されます。ちなみに、ヤマトという言葉は、山の麓を意味し、山とは三輪山を指すという説を読んだこともあります。

部族連合の頂点に立つことで、2世紀後半から続いた倭国大乱を終わらせたヤマト王権が、この地を本拠地としていたことはほぼ間違いないと思います。まだ数パーセントとされる纏向遺跡の発掘が進めば、そのことが考古学的に証明されるのだと思います。今般、三輪山登拝に先だって、纏向遺跡と箸墓古墳を見てきました。といっても遺跡は断片的な原っぱであり、古墳は立入禁止で遙拝するしかありません。周辺は、三輪山の裾野、あるいはなだらかな扇状地となっており、水田の潅漑に適した土地のように思えました。三輪山は、標高467mながら、奈良盆地の東に連なる笠置山地のなかでは珍しく独立峰の風情を持っています。清らかで豊富な水を供給することも含め、信仰の対象となったことは容易に想像できます。

実は、日本最古とされる神社は大神神社の他に、淡路島の伊弉諾神宮、天理市の石上神宮、三重県南部の花窟神社があります。伊弉諾神宮は、国生み伝説のなかでイザナミととともに、淡路島から始めて大八洲(日本列島)を生み出したイザナギが鎮まったところとされます。石上神宮は、神武天皇が奈良盆地を平定するに際し、神から授かった布都御魂(ふつのみたま)という聖剣が祀られています。これに大神神社を加えれば、天孫家東進のストーリーが完結します。日向を出た天孫家は、出雲を経て淡路島にたどり着きます。そこから難波を攻めますが、地元豪族に押し戻されます。そこで天孫家は、紀伊半島を南に回り、熊野山地を越えて奈良盆地に入ります。三輪山の麓に拠点を置いた天孫家は、奈良盆地を平定し、さらには部族連合の頂点に立つことで倭国大乱を終息させます。これがヤマト王権誕生のストーリーなのだと思われます。(写真出典:yamatoji.nara-kankou.or.jp)

マクア渓谷