2025年2月20日木曜日

揚げ物

ひらおの天ぷら
元和2年(1616)、徳川家康は、駿河国田中(現在の藤枝市)で鷹狩を催します。家康が鷹狩を好んだことは、よく知られています。将軍の鷹狩ともなれば、相当に大規模なものだったと思われます。家康は、参加していた京都の豪商・茶屋四郎次郎に、上方で流行っているものを尋ねます。茶屋四郎次郎は、鯛を揚げたものが流行っていると答えます。新しもの好きの家康は、早速に調理を命じて食しますが、あまりの美味しさに何度もおかわりをしたとされます。その夜、腹痛に襲われた家康は、回復することなく、三ヶ月後に亡くなります。家康の死因が鯛の天ぷらだと言われる所以です。よく知られた話ですが、最近の研究によれば、本当の死因は胃がんだったようです。

熱を使う料理の、焼・煮・蒸・揚という基本形のうち、”揚げる”は、意外と歴史が浅いようです。油の確保が前提となるからなのでしょう。6世紀、ペルシャで生まれた肉の甘酢煮「シクバージ」が揚げ物のルーツだとされます。シクバージは、船上の保存食として地中海世界に広まり、10世紀頃には魚のシクバージが作られるようになります。文献上は、13世紀のエジプトに、小麦粉をまぶした魚を揚げして、甘酸っぱいソースをかける料理が魚のシクバージとして残っているようです。16世紀初頭には、スペインやポルトガルで、現代に続くエスカベッシュが登場します。16世紀末、これをポルトガル船が日本に伝え、天麩羅になるわけです。天麩羅の語源も、ポルトガル語のtempêro(調味料)、temporras(金曜日の祭り)等の説があります。

家康が、鯛の天麩羅を食べた頃には、南蛮渡来の新しい料理だったわけです。しかし、これは、あくまでも小麦粉と卵で衣を作った揚げ物の話であり、素揚げや米粉を使った揚げ物、あるいは揚げた唐菓子は、奈良時代に中国から伝わっていたようです。とは言え、当時の中国では、油の確保や高温に耐える鉄鍋といった前提が整っていなかったため、一般的な調理法ではなかったようです。西日本では、練り物の素揚げを天ぷらと呼びますが、その起源となったものは、いわゆるさつま揚げです。鹿児島では、さつま揚げをつけ揚げと呼びます。中国由来の琉球料理”チキアーギ”が江戸期に薩摩藩に入り、”つけ揚げ”になったとされます。ただ、なぜ西日本で練り物の素揚げを天ぷらと呼ぶようになったのかは、よく分かりませんでした。

天ぷらは「たね七分にうで三分」と言われますが、個人的には五分五分ではないかと思っています。私は、衣の厚い天ぷらよりも「てんぷら山の上」や「みかわ」風の薄い衣でからっと揚げたものが好みです。そうなると、一層、腕の違いが大きな要素となってきます。一流の天ぷら職人ともなると、客が箸をつけるタイミングで食材に熱が通るよう見計らって揚げると言われます。小うるさいことで有名なさる天ぷら屋のご亭主は、天ぷらは火の芸術です、とまで言い切っていました。さすがに言い過ぎのようにも思いますが、確かに天ぷらは熱の入れ方に関する職人技の極致だとも言えるのでしょう。そういう意味からも、天ぷらは、寿司がそうであるのと同様、カウンターで揚げたてを食べるべきものだと思います。

カウンター天ぷらは高級料理です。それは新鮮な、あるいは高級なネタゆえのことではありますが、熟練した職人技への対価でもあります。そこに一石を投じたのが博多天ぷらだと思います。カウンターで揚げたての天ぷらを一品づつ出すにも関わらず安価というありがたいスタイルです。博多天ぷらと言えば「ひらお」が最も有名なのでしょう。私も、福岡へ行った際には、行列に並んで食べています。実は、このスタイルは「だるま」が発祥の店とされます。高級料亭の板長だった岡本茂氏が1963年に開業しています。現在では、東京にも「やまや」や「たかお」が進出しています。また、天丼の金子半兵衛も、日本橋で天ぷらめしと称して、博多天ぷらスタイルの店を営業しています。最近は、天ぷらを食べたくなったら、迷わずに博多天ぷらスタイルをチョイスしています。(写真出典:fukuoka-meguri.com)

マクア渓谷