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源頼朝 |
朝廷にも永らく摂関政治の時代がありましたが、鎌倉幕府では執権、室町幕府では管領という将軍補佐職が実権を握り、将軍職は有名無実化していきました。ちなみに、鎌倉幕府の治世は141年、将軍は9代であり、室町幕府は250年、空位期間も目立ちますが将軍は15代を数えます。鎌倉幕府では、頼朝の後、嫡男・頼家が2代目、次男・実朝が3代将軍になります。2代将軍・頼家は、横暴がゆえに有力御家人・北条家と対立し、結果、将軍を降ろされ、謀殺されます。その際、有力御家人であった梶原景時、比企能員も滅ぼされ、北条家が実権を握ります。頼家の弟・実朝が跡を継ぐと、北条家は執権の座に着きます。実朝は、朝廷に接近しすぎて、御家人と不和になります。そして、鶴岡八幡宮参拝のおり、甥でもある頼家の子・公暁に暗殺されます。
幕府の棟梁である鎌倉殿を代行する形となった北条政子は、対立する後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしますが、断られます。結果、政子は、九条家から三寅、後の4代将軍・藤原頼経を迎え、自ら後見となります。幼い三寅に代って将軍代行となった政子は尼将軍と呼ばれました。以降の将軍は、京都から迎えられ、北条家の傀儡となっていきます。北条家が将軍になれば済むことのように思いますが、そうはいきません。桓武平氏の傍流である北条家の格式の低さが主な理由だったとされます。武士の世になったとは言え、天皇を頂点とするヒエラルキーが重かったわけです。8世紀末、初めて征夷大将軍に任命されたのは大伴弟麻呂でした。続いて坂上田村麻呂も征夷大将軍になります。当時は、文字通り蝦夷征討を任としていました。
蝦夷が制圧されると、以降、征夷大将軍の任命は途絶えます。平家を滅ぼした頼朝は、吉例であるとして、約400年ぶりに征夷大将軍に任じられます。その後、征夷大将軍は、戦時の司令官ではなく、武家社会の棟梁として政権を担う地位になります。そうなると、家柄が大きな任命条件となってきます。頼朝と足利尊氏は、清和天皇を祖とする清和源氏のなかでも、八幡太郎義家に始まる河内源氏の嫡流です。家康は、河内源氏から出た新田氏の子孫と称していましたが、証跡は一切ありません。それでも征夷大将軍になれたのは、応仁の乱以降の下剋上という世相、朝廷の権威低下が影響しているのかも知れません。平清盛、織田信長も征夷大将軍になっていません。農民出身の秀吉は最高官位である関白にはなりましたが、征夷大将軍にはなっていません。
天皇家内での後継者争いはあったにしても、天皇家を滅ぼして自ら王位に就こうとした人はいません。日本に簒奪王朝が無かった理由は、為政者に統治の正統性を与える神や天という思想が希薄で、天皇がその役割を担っていたからだと考えます。幕府にも、将軍位を奪取しようとした家臣はいません。将軍家を滅ぼし、正統性の無いまま征夷大将軍を名乗ったとしても、天皇や上皇の追討宣旨が出れば、大きな戦は避けられません。ならば、お飾りの将軍を貴族から迎え、将軍補佐職として実権を握った方が得策ということになります。つまり、武力を背景に成立する武家政権下にあって、家柄重視の硬直的任命がされた征夷大将軍は、早晩、形骸化して当然だったわけです。両幕府の不首尾に学び、かつ家柄が怪しかった家康は、しっかり体制を固めることを怠らなかったということになります。(写真出典:ja.wikipedia.org)