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相馬の古内裏 |
国芳展は、400点を集めたという大規模展になっています。肉筆を期待していたのですが、大半は錦絵でした。奇想の絵師のなかで、錦絵を中心に活躍した国芳は多少異質だと思います。異端というよりは、大衆受けをねらったキワモノと言うべきでしょう。そもそも浮世絵は、コマーシャリズムそのものであり、大向こう受けをねらうことはその本質とも言えます。歌麿も、北斎も、ある意味、奇想の絵師としての性格を持っています。なかでも、江戸末期に活躍した国芳は、抜きん出た発想力を持つ奇才だったと思います。当時、日本にも入り始めた西洋画から、構図や影の表現といった影響を受けていたことでも知られています。もっとも、西洋画の影響というよりも、つまみ食いといった印象が強いように思います。
18世紀末、日本橋の紺屋に生まれた国芳は、早くから絵の才能が認められ、歌川豊国の弟子となります。手に負えないほどやんちゃな少年だったようで、画業にも身が入っていなかったようです。ただ、美人画で一世を風靡した兄弟子の歌川国貞、後の三代目豊国の羽振りの良さに刺激を受け、技法の習得に努めるようになったといいます。やんちゃであったこととモチベーションのあり方が、国芳の画風に色濃く反映されているように思います。国芳が世に知られることになったのは、30歳前後に描いた水滸伝のシリーズでした。中国四大奇書の一つとされる水滸伝は、18世紀末から日本でブームとなり、曲亭馬琴の翻訳に葛飾北斎が挿絵を描いた読本なども大人気だったようです。抜け目ない国芳が、このブームに目を付けます。
大胆な構図と派手な作画で登場人物を描いた「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」シリーズは、国芳の出世作となり、国芳は”武者絵の国芳”と呼ばれるようになります。人気絵師となった国芳は役者絵や美人画でも大当たりをとっています。19世紀前半、老中・水野忠邦による天保の改革が始まります。農本思想に基づく改革は、綱紀粛正と奢侈禁止を徹底し、芝居小屋の江戸所払い、寄席の閉鎖など風俗取締も行われます。錦絵の世界も厳しい弾圧を受けることになります。国芳は、持ち前の反骨精神から、精一杯、幕府を皮肉った浮世絵を次々と発表します。江戸っ子たちは、国芳の錦絵で大いに溜飲を下げたようですが、一方で国芳は要注意人物としてお上の弾圧を受けることになります。この反骨精神こそ国芳の真骨頂であり、国芳の近代性を象徴しているように思えます。
国芳の代表作として知られる「相馬の古内裏」は、天保の改革後に描かれたものです。大胆な構図に目が奪われがちですが、実は骸骨が正確に描写されており、西洋の人体解剖書に基づいていると言われます。西洋の影響という意味では「近江の国の勇婦於兼」も有名です。構図はイソップ物語の挿絵が元ネタとされ、於兼は錦絵調に描かれ、雲と馬は陰影を付けた西洋画の風情になっています。個人的には、西洋画の遠近法と陰影を用いた「忠臣藏十一段目夜討之圖」に、いつも驚かされます。もはや浮世絵ではなく、蘭画の趣きがあります。国芳という人は、浮世絵の大衆迎合性をとことん突き詰めた絵師であると同時に、浮世絵の限界を深く憂慮していた絵師だったように思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)