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土塔 |
その夜は、堺駅前のホテルに泊まったのですが、館内は中国人であふれていました。春節と重なったわけです。しかし、堺を観光するために来たのではなく、大阪のホテルが満杯になり、あふれ出た人たちが泊まっていたのでしょう。そもそも日本人でも、観光を目的に堺を訪れる人は少ないのではないかと思われます。ただ、インバウンド客は着実に増加しており、その大きな目的が刃物の購入だというのです。堺の底力を感じさせる話です。堺の人たちには申し訳ないのですが、堺は歴史的役割を終えた街の一つだと思います。古来、港として栄えた堺は、中世に至ると、国際貿易港として、また鉄砲や刀の産地として栄華を極めます。商人たちによる自治都市であったことも含め、宣教師たちは、堺を”東洋のベニス”と褒めそやしました。
堺で観るべきものの一番は、やはり仁徳天皇陵(大仙陵古墳)ということになります。世界遺産にも登録された世界最大級の墳墓の一つです。形状は、ヤマト王権の象徴でもある前方後円墳です。実測ベースでの規模は不明な点が多いとも聞きます。三重に巡らされた堀には大量のヘドロが堆積しており、創建時の大きさが特定できていないのだそうです。その巨大さに比して観光客が少ない理由は明白です。全体像を一望することができないからです。周囲を回れば、その大きさに驚かせられますが、一見したところは小高い緑地に過ぎません。堺市役所の21階展望室からの眺望が有名ですが、上からではなく横から見る程度に過ぎません。上から鍵穴のような形状を確認するためには、真横に300m以上のタワーを作る必要があると聞きました。
堺には、重要文化財の土塔もあります。奈良時代初期、堺出身の行基上人によって建立された仏塔です。土をピラミッド型に積み上げて瓦で覆った十三重の塔は、原型に近いストゥーパなのだろうと思います。仏舎利塔に始まるインドのストゥーパは巨大な円錐型でしたが、中国に伝わると楼閣建築化し、それが日本では木造の五重塔になるわけです。五重塔が多く建立された時代にあって、行基は、あえて土のピラミッドを築いたわけです。民衆への布教が禁止されていた時代、行基は救民を掲げ、階層を問わず布教活動を行いました。”知識”と呼ばれる集団を組成し、多くの寺を建立し、土木工事を行いました。作業に従事することが修行そのものだったのでしょう。行基の思想からすれば、東大寺の盧舎那仏も土塔も同じ位置づけだったと思われます。
しかし、堺が最も誇るべきは、かつて国際貿易港として、商人による自治都市として栄えたことなのだろうと思います。かつて堺には復活する大きなチャンスがありましたが、残念ながら逃しています。幕末、列強は大阪開港を幕府に迫ります。幕府は、京都に近すぎる大阪に代わって、堺か神戸を開港しようと考えます。ただ、堺は仁徳天皇陵はじめ天皇の墳墓が多くあるために候補から除外され、結果、神戸が開港されました。古代にあって、大陸や半島から来た人々に倭国の威厳を示した巨大な前方後円墳ですが、近世に至っては、堺が再び国際貿易港になることを邪魔したわけです。なんとも皮肉な話です。なお、現在の堺とヴェネツイアの違いを生んだものは、太平洋戦争における米軍の熾烈な空襲だったことも付け加えておきます。(写真出典:ja.wikipedia.org)