2025年2月4日火曜日

藤原京

受付時間に遅れて三輪山登拝ができなかった日、余った時間を藤原京跡の見物に当てました。藤原京跡は、近鉄の耳成駅から歩けば20分ほどのところにあります。耳成(みみなし)とは妙な名前ですが、大和三山の一つ耳成山に由来します。耳成山は、標高193mの低山ながら姿の良い山です。耳成とは、耳が無い、つまり余分なところの無い山という意味なのだそうです。藤原京跡からは、北に耳成山、東に天香久山、西に畝傍山と、大和三山を綺麗に見渡せます。南は飛鳥の地となり、遠く甘樫丘を望むことになります。まさにこの日、政府は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を、日本では27件目となる世界遺産として正式推薦することを決めました。三輪山の大物主神が、今日は藤原京に行っておけ、と言っていたのかもしれません。

世界遺産候補とは言え、藤原京跡はただの広い野原です。所々、大型建造物の礎石の上に赤い中途半端な柱が立てられています。ちなみに、その日、藤原京跡にいたのは私一人でした。一方、飛鳥エリアには、飛鳥宮跡、水落集落跡、石舞台、酒船石、飛鳥寺跡、高松塚古墳等々、見所も多く、観光客も押し寄せます。とは言え、藤原京は、条坊制によって構成された日本初の宮都として、歴史上、大きな意味を持ちます。694年、飛鳥浄御原宮から藤原宮への遷宮が行われ、まだ宮都としての造営が続いていた710年、平城京へ遷都されています。藤原京以前、天皇は代替わりする都度に宮廷を移し、宮都という概念は存在しませんでした。それを一変させ、藤原京建造を計画したのは天武天皇でした。その背景には、揺れ動く東アジアの情勢がありました。

7世紀初頭に建国された唐は、西の騎馬民族を制圧し、東では新羅と組んで、高句麗・百済を滅ぼします。百済救済に向かった倭国軍は、白村江の戦いで大敗を喫します。唐軍の日本来襲を恐れた中大兄皇子(天智天皇)は、山城の築城、防人の配置、大津遷宮等を行うとともに、中集権化を進めていきます。天智天皇没後に起きた壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子(天武天皇)は、さらに中央集権化を加速させ、律令国家を誕生させることになります。天皇という称号、日本という国名も定められています。そして、国家としての独立性や威厳を内外に示すためには、国際標準の宮都が是非とも必要だったわけです。藤原京は、部族連合だった倭国が日本という国家に生まれ変わり、ヤマト王権が大和朝廷に変わった場所だと言えます。

天武天皇は、豪族たちを大臣等に任用せず、自らと皇族だけで政治を行いました。いわゆる皇親政治です。こうした中央集権国家を目指す天武天皇の取組は、政治・行政面に留まらず、文化的側面においても徹底されます。仏教を軸としながらも天皇の神格化が進められ、古事記・日本書紀の編纂も開始されています。また国としての独自性という観点から万葉仮名が生まれ、それを用いた和歌が推奨されます。天武天皇自ら詠んだ歌も残されています。この時代の文化は白鳳文化と呼ばれ、飛鳥文化と天平文化をつないでいます。天武天皇は、藤原京の完成を見ることなく亡くなっています。跡を継いだのは天智天皇の皇女である皇后・鸕野讃良皇女であり、持統天皇として即位し、藤原宮への遷宮を行っています。

歴史的意義の大きい藤原京ですが、短命に終わっています。その理由としては、水はけが悪く疫病が蔓延しやすい土地だったこと、また飛鳥を拠点とする豪族たちの影響を受けやすい場所だったことが挙げられています。加えて、中央集権化が進むと、貴族・役人・僧侶、造営や雑役に従事する人々も急増し、キャパシティの限界も生じたのでしょう。藤原京の推定人口は2~3万人、対して平城京は10万人以上とされています。飛鳥に始まり、王宮・王都は、北へ北へと移っていきます。北進することに意味があったわけではありません。南には吉野山系、東には笠置山地があり、西の生駒山地を越えれば開けた難波がありますが、上町台地だけでは不十分だったのでしょう。要は、他に選択肢がなかったわけです。なお、飛鳥・藤原の宮都の世界遺産登録は、早ければ2027年とされます。藤原京跡の整備も進み、訪れる人も増えることになるのでしょう。(写真出典:nara-np.co.jp)

マクア渓谷