大神神社は、日本最古の神社と言われます。「古事記」には、大物主大神が、出雲で国造りを行っていた大国主神の前に現れ、私を三輪山に祀れば国造りは完成するであろうと告げます。また「日本書紀」にも同様の話があり、大物主大神とは大国主神の魂の別な面を象徴しているとも告げられます。大物主大神が鎮まる三輪山は、崇神天皇の頃から、国造りの神として祀られてきたとされます。第10代となる崇神天皇は、日本書紀に「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記されることから、ヤマト王権を確立した実在天皇ではないかという説があります。近年、三輪山の麓にある纏向遺跡で、3世紀のものと推定される巨大な構造物の跡が発掘され、崇神天皇時代の遺跡ではないかという見方が広がっています。
また、纏向遺跡の三輪山寄りに箸墓古墳があります。ヤマト王権を象徴する大型前方後円墳のごく初期のものとされます。記紀においては、箸墓古墳は、第7代孝霊天皇の皇女であり大物主大神と結婚した倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓と記されています。魏志倭人伝の記載や時代と重なることから、纏向遺跡こそ邪馬台国であり、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと注目を集めています。魏志倭人伝では、卑弥呼は巫女であり、年下の男性が政治を司っていると記載されています。いわゆる”ヒメヒコ制”ですが、年代的にはヒコに当たるのが崇神天皇だったと推測されます。ちなみに、ヤマトという言葉は、山の麓を意味し、山とは三輪山を指すという説を読んだこともあります。
部族連合の頂点に立つことで、2世紀後半から続いた倭国大乱を終わらせたヤマト王権が、この地を本拠地としていたことはほぼ間違いないと思います。まだ数パーセントとされる纏向遺跡の発掘が進めば、そのことが考古学的に証明されるのだと思います。今般、三輪山登拝に先だって、纏向遺跡と箸墓古墳を見てきました。といっても遺跡は断片的な原っぱであり、古墳は立入禁止で遙拝するしかありません。周辺は、三輪山の裾野、あるいはなだらかな扇状地となっており、水田の潅漑に適した土地のように思えました。三輪山は、標高467mながら、奈良盆地の東に連なる笠置山地のなかでは珍しく独立峰の風情を持っています。清らかで豊富な水を供給することも含め、信仰の対象となったことは容易に想像できます。
実は、日本最古とされる神社は大神神社の他に、淡路島の伊弉諾神宮、天理市の石上神宮、三重県南部の花窟神社があります。伊弉諾神宮は、国生み伝説のなかでイザナミととともに、淡路島から始めて大八洲(日本列島)を生み出したイザナギが鎮まったところとされます。石上神宮は、神武天皇が奈良盆地を平定するに際し、神から授かった布都御魂(ふつのみたま)という聖剣が祀られています。これに大神神社を加えれば、天孫家東進のストーリーが完結します。日向を出た天孫家は、出雲を経て淡路島にたどり着きます。そこから難波を攻めますが、地元豪族に押し戻されます。そこで天孫家は、紀伊半島を南に回り、熊野山地を越えて奈良盆地に入ります。三輪山の麓に拠点を置いた天孫家は、奈良盆地を平定し、さらには部族連合の頂点に立つことで倭国大乱を終息させます。これがヤマト王権誕生のストーリーなのだと思われます。(写真出典:yamatoji.nara-kankou.or.jp)