2025年2月10日月曜日

たこ焼き

たこ焼きは大阪のソウル・フードの一つですが、東日本でも、お祭りや縁日の露店にはありました。しかし、形状は同じでも、似て非なるものでした。中までしっかり火がとおり、ソースの味しかしませんでした。始めて本場物を食べたのは、高校の修学旅行で京都へ行った際のことです。三条橋のたもとあたりに屋台が出ており、ちょうど小腹が空いたのでトライしたわけです。その美味しさにビックリしました。いわゆる外カリ中トロの食感もさることながら、出汁が利いた生地の美味しさに驚きました。今まで食べてきたものは何だったのかと思ったものです。 東京で本物に近いものが食べられるようになったのは、さほど昔のことではありません。しばらくの間、本当のたこ焼きは、関西でしか味わえませんでした。

最近、広島のお好み焼きの美味しさに目覚めましたが、依然、関西風のお好み焼きにはしっくりこないものがあります。不味いというのではなく、何故、食べるのかよく分からないといったところです。ただ、同じ粉もののなかで、たこ焼きだけは別です。大阪に行った際には、梅田の”はなだこ”か”たこ八”に寄ります。ただ、最近、はなだこはインバウンド客で大行列になっており、なかなか食べるのには難儀します。止むなく、新大阪で”くくる”のたこ焼きを食べることになります。乳脂肪やワインを使った新感覚系のたこ焼きは、若者を中心に大人気です。これはこれで美味しいのですが、どうしてもたこ焼きとは思えないところがあります。やはり伝統的な店の味を選びたくなります。

大阪人に、お好み焼きもたこ焼きも、もんじゃ焼きから派生した、と言うと、そんなわけはない、と大騒ぎになります。しかし、残念ながら事実です。江戸に文字焼きという駄菓子があり、鉄板に溶いた小麦粉で文字を書いたことから文字焼きと呼ばれたようです。文字焼きは、いつしか訛って”もんじゃ焼き”と呼ばれるようになります。大正から昭和初期には、生地の上に様々な具材を乗せて焼く、いわゆるのせ焼きに進化し”どんどん焼き”となります。一般的にはどんどん焼きと呼ばれながらも、商う店や露店には”お好み焼き”という暖簾が掛かっていたようです。当時の花街では、座敷に鉄板を設え、客が好きに焼いて食べるスタイルが流行っていたようです。客が好みで焼くことから”お好み焼き”という名前が生まれたという説があります。

どんどん焼きは、関西に伝わり、賽の目に切った具材を乗せる”ちょぼ焼き”や”一銭洋食”として広まります。今も京都の祇園には「壹銭洋食」があります。小麦粉とソースがまだ珍しかった時代であり、”洋食”と呼ばれたようです。そして、すじ肉を入れて丸く焼いた”ラジオ焼き”が登場します。当時、最先端だったラジオにあやかったネーミングでした。1933年、大阪は西成の「会津屋」が、ラジオ焼きに牛肉を入れ肉焼きとして売り出します。1935年、客から、明石ではタコと鶏卵が入っていると聞いた会津屋は、これを研究し“たこ焼き”として売り出すことになりました。濃いめの味付けをし、ソースを付けずに食べるスタイルであり、たこ八等も、これを踏襲しています。現在も会津屋は営業中であり、東京でもお台場に店があります。

新潟に赴任した際、大阪出身の後輩が、安いたこ焼き器を使って、皆にたこ焼きを振る舞ってくれたことがあります。これがとても美味しくて、生地のレシピを尋ねました。ところが、実家のレシピです、と言うばかりで教えてもらえませんでした。大阪では、各家庭にたこ焼き器があると聞きます。生地のレシピも、各家庭によって異なり、門外不出となっているのでしょう。一度、美味いたこ焼きを自分で作ってみようと思い挑戦したことがあります。ネットでレシピを研究し、金に糸目を付けずに食材を買い込み、ホットプレートのたこ焼きプレートで焼いてみました。美味いは美味しいのですが、何か一つ足りない感じが残りました。火力や焼き方の塩梅もあるのでしょうが、おそらく何か秘密の隠し味があるではないか、と思いました。(写真出典:aiduya.com)

マクア渓谷