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応神天皇陵 |
例えば、天皇の外戚として、天孫家をしのぐ権勢を振った藤原家ですら、天皇になろうとはしていません。神を否定すること、あるいは新たな神になることは、あまりにもハードルが高かったのでしょう。むしろ、天皇を神として祭り上げ、実権を握る方が合理的だったと言えます。日本は神国であるという思想は、天孫家の万世一系と表裏を成しています。天皇を中心とする中央集権化を図った明治期、万世一系は侵さざる神聖なものとして、より徹底されます。いわゆる皇国史観です。1924年、「神代史の研究」で、歴史学の立場から天孫家の神話を創作とした津田左右吉は、皇室の尊厳を冒したとして有罪判決を受けています。敗戦とともに皇国史観は否定され、より科学的な津田史観が主流となりました。
戦後は、皇国史観への反動、そして左翼思想の流行に基づき、万世一系を否定する学説が相次ぐことになります。最も典型だったのが、1952年に発表された水野祐の三王朝交替説だとされます。大雑把に言えば、崇神王朝、応神王朝、継体王朝と血統が交替しているとする説です。第10代崇神天皇は、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)という名前に加えて、初めての戸口調査や課役、四道将軍の派遣等の実績があることから、実在可能性のある初の天皇とされます。第15代応神天皇は、八幡神、八幡大菩薩としても知られますが、近年の考古学的成果も含め、実在可能性が高いとされています。両者は、三輪を拠点とし名前に”イリ”が付く崇神系、河内を拠点とし名前に”ワケ”が付く応神系と分かりやすい違いがあります。
さらに荒唐無稽な応神の生誕譚等も含め、王朝交替があったのではないかと推定されたわけです。文献や物証があるわけでもなく、やや無理のある説だと思います。第26代継体天皇に関しては、崇神、応神とは大きく異なる状況があります。武烈天皇が継嗣無く崩御し、応神天皇から5代目の子孫に当たる継体天皇が、近江、あるいは越前から連れてこられ、武烈の姉と結婚し即位したとされます。それが、王朝交替説では、地方豪族による王位簒奪だったということになるわけです。確かに血統は薄いかも知れませんが、王位簒奪となれば、大きな争いの痕跡が残るものと思われます。また、万世一系を守るために、記紀の記述が創作されたとしても、どこか矛盾が生じる、あるいは何らかの示唆が読み取れるものではないでしょうか。
三王朝交替説は、現在、ほぼ否定されており、実在天皇に関する議論はあるものの、天皇家の血縁は継続されてきたとされます。例えば、歴史に関する偽書の記述内容は、エビデンスがないがために、肯定も否定も難しいと言われます。王朝交替説も完全否定することは難しいのでしょうが、いかにもこじつけのような違和感が漂います。皇国史観を全否定するために、その根本である万世一系を崩壊させることが目的だったとしか思えません。学者としての姿勢を疑いたくもなりますが、考古学的な発見や科学的分析も不十分だった時代でもあり、ある程度は理解せざるを得ないのかも知れません。ただ、それまでタブーとされてきた天皇研究の可能性を大いに広げたという点に関しては、王朝交替説の貢献は大きかったものと考えます。(写真出典:at-s.com)