2026年1月31日土曜日

「京都人の秘やかな愉しみ」

「日本には2つの人種がいます。日本人と京都人です。」というフレーズで始まるTVシリーズ「京都人の秘やかな愉しみ」にハマりました。2015年からNHK・BSプレミアムで断続的に放送されています。シーズン2まで見ました。ドラマのような、ドキュメンタリーのような不思議な番組です。映像や音楽も含めて、とても丁寧、かつ上質に仕上げられています。私は京都好きではありますが、私が知っていたのは上っ面に留まり、京都人やその生活に関しては無知だったことを知らされました。1本2時間のなかに、ドラマ、寺院や街の紹介、京料理の作り方が織り込まれ、それらを通じて京都人の暮らしや心情が描かれています。決して深掘りしないスケッチ程度の描写が印象的であり、ほどほどの距離感も心地良い番組です。

京都の1年は、二十四節気、さらにそれを5日間に区分した七十二候に基づいて進みます。京都では、日によって食べるものが決まっているとも言われますが、食べるものだけでなく、行うべきことも、それぞれの日によって定められています。例えば、全国的に、節分は、豆まきか恵方巻の日といった認識が一般的だと思います。ところが、京都では旧暦の大晦日として、様々な迎春の行事が行われます。有職故事の塊のような街ですが、千年の都ゆえ、いにしえの日々が保たれてきたとも言えます。また、京都は、そうした生活を支える職人たちの街でもあります。和食文化の中心のような京都ですが、意外にもパン好きな街としても知られます。不思議なことだと思っていましたが、忙しい職人の手軽な朝食や昼食としてパン食が普及してきたのだそうです。

番組は、京都の街と人との関わりがにじみ出るよう構成されています。ドラマは、分かりやすいテーマがさりげなく描かれています。さらりと余韻を残すような演出が腕の良さを感じさせます。その演出スタイルは、他人との距離を上手に保つ京都人らしさに通じるものがあります。時にコミカルであることも、京都らしさの一つです。また、モダンで上質な生活や店も登場しますし、京都の国際性も織り込まれていますが、それらは千年の都が存続してきた理由の一つでもあります。寺院や街の紹介も、ありきたりな観光目線ではなく、京都人の生活という視点から紹介されています。料理のパートも、”手も口もよう動く京女”大原千鶴を通じて京都人が描かれています。時に京都人のインタビューも挿入されていますが、わざとらしさや唐突感のない仕上がりになっています。

人物や店のモデルが明確である点も面白いと思います。NHKという制約はあるものの、本物にこだわったということなのでしょう。シーズン2「Blue 修行中」の料亭萩坂のモデルは「高台寺和久傳」なのでしょう。シーズン1では、大原千鶴の幼少期からの友人として女将本人が登場しています。お茶屋が多い京都で料亭・和久傳は料理自慢の店として知られます。かつて若女将と呼ばれていた女将は、上品な美人ですが、気さくで機転も利くことから大人気でした。初めて和久傳に行った際、若女将が見送りに来なかったので、如何なものかと思いました。その後、皆で祇園町のバーへ繰り出しました。30分ほどすると、若女将が非礼を詫びながらバーに入ってきました。30分ばかり、お酌をして、愛想を振りまいて帰って行きました。その対応の見事さ、そして我々のいるバーが即座に分かるという京都のネットワークの凄さに感心したものです。

作・演出の源孝志は、CMやTVバラエティー制作の後、ドキュメンタリーやドラマを手がけ、芸術祭大賞はじめ数々の賞を獲得している才人です。実に斬新なアプローチで京都と京都人を描いた本作も、ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)賞グランプリを獲得しています。京都出身だろうと思いましたが、実は岡山の人でした。ただ、大学が立命館なので、京都には慣れ親しんでいたわけです。また、音楽を担当しているのは阿部海太郎です。舞台の音楽を多く手がけている人のようですが、そのセンスの良さには感心させられます。シーズン1のエンディング・テーマには、ベンチャーズ作曲、渚ゆう子歌でヒットした「京都慕情」が使われています。武田カオリが歌うスロー・テンポなヴァージョンが、あの「京都慕情」だと気付くまでには多少時間がかかりました。半世紀以上も前のヒット曲が、これほどの名曲だったとは驚きです。(写真出典:nhk-ondemand.jp)

2026年1月29日木曜日

高麗郡

高麗神社
飯能に親しい先輩がおり、昔から宴会やゴルフで随分とお邪魔しました。西武池袋から特急電車に乗れば40分で飯能です。初代のレッドアロー号、ニュー・レッドアロー、現在のラ・ヴューと3世代の特急電車に乗ってきました。西武池袋線は、平地から秩父山地を目指して武蔵野台地を緩やかに登っていく路線です。武蔵野台地は、概ね関東山地が生み出した扇状地です。飯能は、秩父山地を水源とする入間川が作った扇状地の扇頂部にあたります。標高は100mですが、都心との気温差はマイナス5℃と聞きます。かつて、この一帯は高麗(こま)郡と呼ばれていました。高麗郡は、8世紀に成立して、1896年に入間郡に統合されるまで存続していました。

高麗郡は、716年、関東一円に居住する高句麗からの移民1,799人を集めて設置されました。郡司には、高句麗最後の王となった宝蔵王の子である高麗若光が就いています。高句麗は、紀元前1世紀、弱体化した漢の玄菟郡に、ツングース系の扶余の王族・朱蒙が興したとされます。建国はもっと古いという説もあります。新羅・百済との三国時代には、満州南部から朝鮮半島の大半を領土としています。東アジア激動の時代、隋・唐の圧迫をしのぎ、700年間、大国を維持した高句麗は、まさに強国でした。ただ、強大化した唐は、新羅と連携し、688年、ついに高句麗を滅ぼします。高句麗は、半島に攻め込んだ倭国とも何度か戦い退けていますが、新羅攻略に関しては連携も模索しています。高麗若光の日本渡来は、亡命とも、支援要請ともいわれています。

日本書紀には、666年、高句麗から使節団が来訪したという記述があり、そのなかに玄武若光の名があります。続日本書紀には、703年、従五位下高麗若光に王(こにきし、またはこきし)のカバネを与えたという記録があります。そして、716年の高麗郡の設置となるわけです。飯能の北隣の日高市には高麗神社があり、高麗若光が祀られています。また、神奈川県大磯にある高来神社は、明治中期に改称されるまでは高麗神社であり、高麗若光に由来するとされます。大磯には高麗山があり、近郊の高座郡の旧名・高倉郡も高句麗が由来と聞きます。いずれにしても、高麗若光がこの地にいたということなのでしょう。中国系帰化人の秦氏が開いた秦野市などは別として、高麗若光はじめ、関東には、半島からの渡来人の足跡が多く残っているわけです。

稲作はじめ、渡来人が日本の文明化に果たした役割はとてつもなく大きいと言えます。ヤマト王権時代になると、文化、技術、宗教等の伝道師として敬意をもって迎えられ、多くは官職を得て、氏姓を賜り、畿内に居住します。ただ、663年、倭国が、白村江で唐・新羅に大敗を喫すると状況は大きく変わります。東アジアの混乱を受けて亡命者が急増するわけです。百済、高句麗、新羅の人々は関東へと送られます。畿内に渡来人が増えすぎたとも、武蔵野開拓のためだったとも言われます。ただ、恐らくはより政治的な理由だったのではないかと思います。つまり、唐から半島の亡命者の扱いを問いただされた際、辺境の地に追いやったと説明するためだったのではないでしょうか。確かに当時の武蔵野は辺境だったわけですが、亡命者たちはそれなりに保護もされています。

758年には、新羅からの亡命者を集めて新羅郡が置かれます。その後、改称され、新座(にいくら)郡となり、現在の新座市や志木市につながります。余談ですが、、大泉学園にある「和菓子 大吾」の「爾比久良(にいくら)」は、昭和天皇が訪米した際、手土産として持参した逸品として知られます。卵黄と白餡で作る黄味羽二重時雨餡はホロホロとした食感であり、中には餡子と栗が一個丸々入っています。爾比久良という名称は「当地の古の呼称にちなむ」と店は説明しています。確かに、爾比久良は新倉郡の雅称ですが、それが平安時代に新羅郡が改称されたものだとは、誰もが知らないのではないかと思います。いずれにしても、武蔵野は、朝鮮半島と縁深い土地だということです。(写真出典:komajinja.or.jp)

2026年1月27日火曜日

焼味飯

飲茶は、ワゴン・サービス・スタイルがベストだと思います。保温機能付のワゴンに点心を乗せて店内を回り、客に皿を選ばせます。味には関係のない仕組みですが、楽しくてワクワクします。結果、テーブルでオーダーするよりも沢山食べてしまいます。一時期、東京や横浜にもワゴン・サービス店は存在したのですが、ほぼ見かけなくなりました。店にとっては効率が悪い面もあり、相当に大きな店でなければ成立しないスタイルなのでしょう。飲茶という習慣は、唐代から続いているようですが、ワゴン・サービスが、いつ、どこで生まれたのか分かりません。ただ、香港名物として知られているので、香港発祥ではないかと思います。

10年ほど前、飯田橋に「贊記茶餐廳」がオープンしました。茶餐廳は、読んで字のごとく、お茶と軽食の店であり、香港ではごく一般的に存在するスタイルのようです。贊記茶餐廳は、明らかに香港の人たちのためにオープンした店だと思われ、メニューも香港スタイルがそのまま持ち込まれています。 飲茶、麺類、ご飯もの、菓子もあり、香港でのランチの雰囲気が味わえます。特に菠蘿包(ポーローパオ)という菓子パンが人気で、それにバターをはさんだものが定番になっています。この店のメニューにもありますが、香港のランチの定番に焼味飯(シャオウェイファン)があります。叉焼やロースト・ダックなどをご飯と一緒に食べるというシンプルな代物です。もともとは広東発祥らしいのですが、最も香港らしいランチのように思えます。

例えば、横浜中華街を歩けば、店先のガラス越しに叉焼はじめ様々な肉が吊るされているのが見えます。実に中華街らしい光景だと思います。それを骨ごとぶつ切りにしてご飯に乗せたものが焼味飯です。厳密に言えば、ロースト・ダックのように単純なあぶり焼きを焼味と呼び、タレや蜜を塗りながら焼いた叉焼などは焼臘(シャオラー)と呼ばれます。ただ、通常、あまり厳密な区分はされず、香港では概ね全てが焼臘とされているようです。日本で、チャーシューと言えば、ラーメンの具材として一般的です。ラーメン屋の叉焼は、豚肉を煮込んだ、いわゆる煮豚がほとんどです。なかには醤油などに漬け込んだ豚肉をオーブンで焼いた焼豚を使う店もあります。とにかく、日本では煮豚も焼豚もチャーシューと呼ぶわけですが、中華料理の叉焼とは大いに異なります。

焼臘としての叉焼は、甘辛いタレに漬け込んだ豚肉を窯に吊して蒸し焼きにしたものです。甘く深い味わいと表面近くの赤みが特徴です。近年、中国の都市部でも日式拉麺店が増えているようですが、煮豚は日式叉焼と呼ばれているようです。煮豚は、日本で生まれた別ものということなのでしょうが、間違いなく中国料理が起源だと思います。中華料理には、豚肉を煮る東坡肉(トンポーロウ)や醤肉(ジャンロウ)があり、それが日本で、角煮やラーメン屋のチャーシューになったものと思われます。ラーメン屋の煮豚の歴史は判然としませんが、専用の窯がいらない、日持ちが良い、バラ肉は安い、煮汁も活用できるといったメリットがあり、ラーメン屋で広まったようです。ラーメンの世界では、スープや麺と並ぶ主役格と言っていいのでしょう。

最近、浅草橋にある香港料理店の焼味飯にハマっています。この店も、香港人相手の店のようで、日本人客はごくわずかです。提供されている焼味は、広東式叉焼、焼肉(豚肉)、焼鴨、醤油地鶏、蒸し鶏です。ランチには、2種類の肉を選んで乗せるセットがあります。一番人気は、皮付きの状態でじっくりローストした焼肉(豚肉)のようです。しっとりとして実に美味しいのですが、問題は皮です。例えば、北京ダックのようなパリパリとした食感ではなく、バリンバリンの固さです。とても歯がたちません。それが本場香港の焼味ということなのでしょうが、私は皮だけ残してしまいます。ちなみに、その店の名物の一つは、河粉(ホーファン)です。香港名物の幅広な米粉麺です。ヴェトナムのフォーの語源とされています。(写真出典:hongkongnavi.com)

2026年1月25日日曜日

ファスナー

かつての日本では、ファスナーは”チャック”と呼ばれていました。チャックという言葉が、いつ、そしてなぜ消えたのかは判然としません。ファスナー自体は変わることなく存在しているのに、最も一般的だった呼称が消える現象は珍しいことだと思います。チャックは、初の国産ファスナーのブランド名でした。1927年頃、尾道の”チャック・ファスナー社”が、国産ファスナーの製造を始め、巾着をもじった”チャック印”というブランド名で販売しました。これが一般名詞化したわけです。ファスナーの呼称に限らず、私語禁止を意味する”口にチャック”などという言い回しも、ごく普通に使われていたものです。

チャック一辺倒の世界に、”ジッパー”という言葉がにじんできたのは、1960年代末ではないかと思います。その頃、ジーパンと呼ばれていたジーンズが大いに普及したことが背景にあるのでしょう。ジーンズは、敗戦とともに日本に流れ込みますが、1960年代には、エドウィン、キャントン、ボブソン、ビッグジョンといった日本のメーカーが続々と参入し、市場は拡大していきます。アメリカでジーンズのファスナーは”ジッパー”と呼ばれていました。アメリカ文化に憧れる若い世代を中心に、ジッパーという呼び方は日本でも広がっていきました。ジッパーは、かつてタイヤ・メーカーとして知られたBFグッドリッチ社が、1923年にファスナー付のオーバーシューズを発売した際の商品名に由来します。速く閉める際の擬音だったようです。

一般名詞としてのファスナー”fastener”は、締めるものを意味し、他にも様々な道具類が存在します。新発明だったファスナーは、ブランド名で呼ぶしかなかったのでしょう。ファスナーに関する初めてのアイデアは、ミシンを発明したアメリカのエリアス・ハウによって生み出されたようです。ハウのアイデアは、うまく細工された靴の引き紐だったようで、商品化はされていません。1892年、アメリカのホイットコム・L・ジャドソンが、現在のファスナーの原型となる発明で特許を取り、新たな靴の留め具として商品化しています。翌1883年に開催されたシカゴ国際博覧会にも出品されますが、まったく注目されなかったようです。ジャドソンが創設した会社に、1906年、ギデオン・サンドバックが入社し、ファスナーの改良、普及に貢献することになります。

サンドバックの最も大きな貢献は、1917年に特許を取った分離可能なファスナーの開発だったといえるのでしょう。この発明が、ファスナーを靴やポーチから衣服へと展開させることになります。衣類への適用は子供服から始まったようですが、1937年に、紳士服のズボンの前立てに適しているのはボタンかジッパーかという論争が起こり、ジッパーが勝利します。パリのファッション・デザイナーたちが主導したというこの論争を機に、ジッパーは急拡大していったとされます。サンドバックが在籍した会社は、その後「Talon」と名称変更し、圧倒的な世界シェアを獲得するに至ります。ちなみに、現在の世界シェア・トップは、富山のYKK(旧吉田工業)です。一貫生産と株式非上場という強みが安定的な高品質を実現し、マーケットを広げていったとされます。

日本でファスナーという呼称が定着した経緯は判然としません。ただ、海外ではファスナーが一般的だったので、国際化に伴って定着していったのでしょう。その後、ファスナーには、線ファスナーと面ファスナーという区分が生まれます。1955年、スイスのジョルジュ・デ・メストラルが、マジック・テープを発明したからです。マジック・テープの活用も、子供用の靴から始まったようです。靴の締め具には、その後も様々なアイデアが投入されています。例えば、ゴルフシューズのダイアル式のBOA、ソロモンのクイック・シューレース、カンペールのゴム製エラスティック・シューレース等がすぐに思い浮かびます。それぞれ一長一短があり、靴の締め具としては、やはり靴紐が主流であり続けています。個人による足の形状差が大きく、その調整には靴紐が優れているからなのでしょう。(写真出典:lyncs.ykkfastening.com)

2026年1月23日金曜日

百人町

鉄砲百人隊行列
芸術家が集まり、作品を制作し、生活するアート・コロニーは、世界中に多く見られます。例を挙げればキリがないほどです。日本では、池袋モンパルナス、那覇のニシムイ美術村等が有名です。アート・コロニーは、19世紀のフランスで始まったようです。パリのモンパルナスやモンマルトルが有名ですが、恐らくパリ近郊のバルビゾンあたりがその嚆矢なのではないかと思います。 フォンテヌブローの森に隣接し、生活費も安いことから、ミレーはじめ風景画家たちが多く集まり、いわゆるバルビゾン派が形成されました。アート・コロニーのメリットは、互いに刺激を受ける、生活面も含めて助け合う、といったこともあるのでしょうが、何よりも世間の目を気にせず制作に没頭できる環境が魅力だったのだろうと想像します。

アート・コロニーと言えば、画家や彫刻家が集まっているイメージです。音楽家が集まるLAのローレル・キャニオンなどは希な存在だと思います。同様に、小説家や詩人のコロニーは聞いたことがありません。恐らく、唯一の例外は、戦前の百人町だったのではないかと思います。岡本綺堂、国木田独歩、林芙美子、西條八十等々、また北一輝や大内兵衛なども住んでいたようです。ただ、コロニーが形成されていたのではなく、単に文筆家が多かったというだけのことかもしれません。それでも、かなり希有な存在だったのだろうと思います。百人町は、新宿の北にあり、山手線の新大久保駅、中央線の大久保駅にはさまれた一帯です。昭和初期あたりまでは、武蔵野の入り口としてのどかな田園風景が広がっており、まさに郊外だったようです。

文人の集まる町だったことが影響したのでしょうが、戦前、百人町には、日本人やドイツ人の音楽家も集まり始めます。すると、楽器店や楽器の製造・修理の工房も増えて、百人町は音楽の町、楽器の町としての顔も持つことになります。戦後になると、復員してきた楽器職人たちが集って修理工房が再開され、楽器の町も復興したようです。1950年代半ばになると、歌声喫茶やジャズ喫茶が多く集る町にもなっていたようです。音楽の町という背景に加え、新宿と高田馬場の中間という立地も良かったのでしょう。歌声喫茶は新宿が発祥とされます。ピアノやアコーディオンの伴奏で皆が合唱するという店です。カラオケの前身のようにも言われますが、60年安保闘争や高度成長のひずみを背景に左翼が仕掛けたプロパガンダだったと理解します。

百人町の町名は、百人組の組屋敷があったことに由来します。百人組は、家康が、江戸城の西を守り、あるいは落城の際、将軍が甲州へ落ちるルートを確保するために置きました。伊賀組・甲賀組・根来組・二十五騎組の4隊、各100名で構成される鉄砲隊でした。今も、皇居の大手門を入ると、中之門前に百人番所が当時のまま残っています。百人組各隊が交替で詰めて、将軍警護に当たった番所です。百人隊の組屋敷は、甲賀組が青山、根来組は市ヶ谷、二十五騎組が内藤新宿、そして伊賀組は大久保に置かれました。太平の世になると、百人組は内職としてツツジを育て始め、江戸で人気を博します。明治維新ととも百人組は解散となり、名物だったツツジも日比谷公園に移されます。その後、百人町は宅地化されていきます。なお、今も新宿区の花はツツジです。

百人町ほど激しい変遷をたどってきた町もないのではないかと思います。鉄砲隊の町、ツツジの町、文人の町、音楽の町、浮浪者と労働者の町、そして現在のコリアン・タウン、オール・エイジアン・タウンと目まぐるしく顔を変えてきました。いずれの顔にも、新宿に隣接しているという立地が影響しているように思えます。いわば奥新宿といったところです。ただ、新宿の単なる延長・拡大ヴァージョンではなく、独自の文化や風情を育んできたところが面白いと思います。新宿は欲望の町とも言えますが、実は経済合理性に貫かれた町でもあります。その周縁部として、新宿が失った自由と多様性を持ち得た町なのかもしれません。百人町は、これからも顔を変え続けていくように思います。(写真出典:cleanup.jp)

2026年1月21日水曜日

ル・レクチェ

新潟のル・レクチェをもらい、美味しくいただきました。天候不順のため、今年のル・レクチェは見た目が悪いと聞きましたが、その分、例年にも増して上品な甘さが際立ち、とても美味しかったように思います。ル・レクチェは、フランス原産の洋梨です。日本では、1903年、新潟の白根で栽培が開始されています。その上品な甘さと柔らかな食感は絶品ですが、病気に弱い、落下しやい、追熟期間が長いなど、生産に手間がかかることから、栽培面積はごく限られ、8割が新潟県産だと聞きます。日本の洋梨の7割近くがラ・フランスであり、ル・レクチェはバートレットに次いで第3位。生産量は7%に満たないようです。新潟県は「ル レクチエ」という名称で統一しているようですが、個人的にはル・レクチェの方がしっくりきます。 

ナシの原産地は中国の天山山脈の麓あたりとされています。そこから世界に広がり、日本ナシ、洋ナシ、中国ナシに別れていったようです。発掘調査によって、ナシは先史時代から食べられていたことが分かっています。英語の”pear”の語源は、セム語系の”果物”だと言いますから、その歴史の古さをうかがい知ることができます。ちなみに、日本語のナシの語源ははっきりしていないようです。いずれにしても中国由来なのでしょう。また、リンゴも古い歴史を持ちますが、ナシよりは新しい果物のようです。しかし、栽培の歴史はリンゴの方が古く、現在でも世界的なリンゴの生産量はナシの3倍以上になるようです。リンゴがナシに優る点としては、栽培適地が広い、栽培が容易、追熟が不要、長期保存できる、といったあたりなのでしょう。

ナシは、日照時間の長い火山灰土や砂地でよく育ちます。世界的には中国の生産量が多いようです。和梨に関しては、千葉県、茨城県、栃木県、福島県が、不動の上位となっています。土壌や天候も適しているのでしょうが、ナシが日持ちしないことから、大消費地東京に近いことも大きな要因だと思います。かつては、鳥取県が第1位だった時代があります。和梨と言えば二十世紀梨が圧倒的シェアを誇る時代が続きました。鳥取は二十世紀梨の名産地です。二十世紀梨は、1888年、松戸市のゴミ捨て場で、13歳の少年が、偶然、発見した品種です。育てることが難しく、少年が見つけた苗木から果実を得られるまで10年もかかったようです。1904年、鳥取県で栽培が始まると、気候と土壌が適していたことから、一躍、鳥取名物にまでなりました。

洋ナシが日本に伝わったのは明治初期のことでした。明治政府の肝いりで輸入され、三田育種場で苗木が栽培され、各地に配布されたようです。三田育種場は、官営種苗会社であり、後に民間に払い下げられています。現在の港区・三田にあり、日本の近代農業始まりの地とも言われます。ただ、洋ナシは栽培が難しく、しかも収穫直後は固くて不味かったため、生食は普及しせず、栽培も広がらなかったようです。一時期、関西で輸出用に栽培されていたことがあったようですが、主な生産地は、東北、長野へ移っていきます。洋ナシに転機が訪れたのは1970年頃とされます。追熟の技術が広まったためでした。追熟とは、収穫後に果物が甘さや柔らかさを増すことです。動物による種子散布の時期を分散させるという果物の戦略です。

追熟は、デンプンが糖化するプロセスですが、エチレンガスが深く関わっているようです。適温・適湿に保たれた倉庫にエチレンガスを入れて追熟されます。店頭に並ぶル・レクチェは追熟後とは言え、流通に関わるリードタイムが織り込まれ、完熟前の状態となっています。つまり、食べ頃の判断は消費者に委ねられるわけです。他にもバナナやメロンといった追熟果実はありますが、ル・レクチェは完熟の判断が難しく、かつ食べ頃はアッという間に過ぎ去ります。また、注意すべきは、冷蔵庫で保管すると追熟がストップすることです。今回は、あえて完熟前に食べてみました。適度な固さを残す食感は、甘さと良くマッチしていました。完熟など待つ必要はないと思いました。甘味が強いという今年の作柄ゆえのことかもしれませんが、他の追熟果物でも試してみようと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2026年1月19日月曜日

「名もなきジャーナリスト」

邦題:名もなきジャーナリスト:「あの少女」を撮ったのは誰なのか        原題:The Stringer: The Man Who Took the Photo                 監督:バオ・グエン   2025年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

「戦争の恐怖」
1965年にヴェトナムで撮影された沢田教一の「安全への逃避」はピューリッツァー賞を受賞しました。UPI所属の戦場カメラマンだった沢田教一は高校の先輩です。私が高校に入学した1970年に、カンボジアで取材中に射殺されています。高校の食堂には、大きく引き延ばされた「安全への逃避」が掲げられていました。ヴェトナム戦争時には、何点かの報道写真がピューリッツァー賞を受賞しています。AP所属のヴェトナム人カメラマンであるニック・ウトが1972年に撮った「戦争の恐怖 (通称:ナパーム弾の少女)」も、ピューリッツァー賞を獲得した有名な写真です。「戦争の恐怖」は、アメリカ世論に大きな影響を与えた写真としても知られています。当時17歳だったニック・ウトは、この写真で多くの賞と名誉を獲得し、APに50年以上所属した後、引退しています。

しかし、50年後になって、当時APサイゴン支局で写真編集を行っていたカール・ロビンソンが、「戦争の恐怖」はウトの写真ではないと告発します。その日、支局には、ウト以外に、フリーのカメラマン2人が写真を持ち込みます。うち一人の写真には、全裸の少女が写っていたため、ロビンソンはボツにします。ところが、支局で絶大な力を持っていたピューリッツァー賞受賞写真家ホルスト・ファースが、その写真を本局に送信しろ、撮影者はウトにしろ、と命じます。名も無きヴェトナム人カメラマンは、20ドルだけを受け取って帰ります。ロビンソンは、50年間、撮影者を偽ったことを苦しみ続けます。老齢になったロビンソンは、真実を語り始め、それは報道写真家たちの間で徐々に知られるようになっていきます。

10年前に、この話を聞きつけた写真家ゲイリー・ナイトが興味を持ち、真実を探った記録が本作です。結果、「戦争の恐怖」を撮った写真家グエン・タン・ンゲが見つけ出されます。写真を盗まれたンゲも、50年間、悩み続けてきました。しかし、告発するにも証拠がなく、当時、現場を目撃したヴェトナム人もアメリカ軍の仕事をしていたので、アメリカそのものとも言えるAPを告発することはできませんでした。しかも、米軍の軍属だったンゲも目撃者も、戦後は軍の計らいでアメリカ市民権を得て豊かな生活を送っていました。ロビンソンも証拠がないことは同じでした。撮影者をウトにしろと命じたファースにも事情がありました。ウトの兄で写真家だったミーは、ファースの指示で赴いた戦場で死んでいます。ファースは、ミーの家族を助けるために17歳だったウトをAPに雇い入れ、写真のクレジットも彼にしたわけです。

渦中のニック・ウトはインタビューを拒否しています。しかし、ウトも自らの意志で悪意をもって写真を盗んだわけではありません。17歳のウトは、絶対的権威であったファースから押しつけられた善意を拒否出来なかったものと想像できます。恐らくウトも50年間悩んできたのでしょう。当時のサイゴンの混乱した状況もあります。また、その写真がピューリッツァー賞を受賞し、歴史を変えることになろうとは、誰もが予想していなかったと思います。つまり、悪意が存在しないままに不幸な事情が重なり、希有な盗作事案が成立したわけです。そして、それが関係者たちを半世紀に渡って苦しめてきたわけです。しかし、事は真実に関わることであり、著作権を守ることは写真家たちの生命線でもあります。真実は明らかにされ、誤りは正されるべきです。

ゲイリー・ナイトは、証言に基づくだけでなく、残された写真や映像を科学的に分析し、ウトが撮影者であり得ないことを証明しています。告発を受けてAPは、撮影者はウトではなく、ンゲである可能性が高いと結論づけます。ただ、決定的証拠に欠けることから著作権はそのままにしています。世界報道写真財団は、「戦争の恐怖」の著作権を一時停止にしました。この事件の背景に横たわっている問題の一つは、アジア人蔑視だと思います。そもそもヴェトナムの近代を巡る構図がアジア蔑視ではありますが、ファースの善意も温情主義的ですし、もし写真を持ち込んだのがヴェトナム人ではなく白人だったとすれば、この事件は起きていなかったと思います。当時、類した状況はいくらでもあったものと想像できます。本作が、名も無きヴェトナム人写真家たちに捧げられていることは意義深いと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

博多の串焼き