2024年4月30日火曜日

東京ジャーミイ

100ヶ所以上あるという日本のモスクのなかで最大規模を誇るのが、代々木上原の東京ジャーミイです。ジャーミイとは、トルコ語で、金曜の合同礼拝を含む、一日5回の礼拝を行う大型モスクを指します。毎週日曜の午後に開催される見学ツアーに参加してきました。当日は、ウイグル族のジャナーザが、100名程度の参列者によって営まれた後だったらしく、モスクのロビー、集会所は混み合っていました。ジャナーザは、イスラム教における埋葬後の礼拝です。亡くなった方の遺体は宗教弾圧が続く新疆ウイグル自治区にあり、日本に逃げてきている親族、友人が集まってジャナーザを執り行ったようです。ジャナーザが行われたのは1階にある広い集会所です。東京ジャーミイのメインとなる礼拝堂は2階にあり、最大2千人が同時に礼拝できるそうです。

キリスト教や仏教とは異なり、偶像崇拝を固く禁じるイスラム教のモスクには礼拝すべき神仏像はありません。マッカの方角に向かって礼拝するものの、礼拝の対象はあくまでも唯一神アッラーです。従って、モスクは礼拝する場所を提供しているに過ぎず、いつでも、誰にでも等しく門戸が開かれています。ジャナーザがあったので、当日はウイグル族の方々が多かったわけですが、ロビーには実に様々な肌の色の人たちがいました。西アフリカのトーゴから来たという幼い兄弟たちにも合いました。イスラムはアラビア半島発祥の宗教ですが、現在、イスラム教徒の6割以上にあたる約10億人が、アジア・太平洋地域に分布しています。東京ジャーミイに集う人々も、恐らくアジア系の方々が多いのでしょう。

東京ジャーミイの建物は、二代目になります。初代は、1938年に落成しています。1917年にロシア革命が起きると、イスラム教徒の多くが国外に脱出します。日本にも千人程度が渡ってきたとされます。タタール系を中心に礼拝所建設の動きが起こり、日本政府の支援もあって「東京回教礼拝堂」が建てられました。当時の日本政府は、キリスト教国との戦争を想定しており、対イスラム宣撫政策がとられていました。東京回教礼拝堂の落成式には、大アジア主義を唱える玄洋社の頭山満、そして陸海軍の幹部たちが出席していたようです。言うまでもなく、対イスラム宣撫政策は、その後の大東亜共栄圏へとつながっていくわけです。落成から50年も経たない1984年、老朽化の進んだ初代モスクは閉鎖され、取り壊されています。

木造だった初代モスクを建てたのは宮大工だったと言います。もちろん、当時、イスラム建築のプロなどいるはずもなく、寺院だからというので宮大工が施行を任されたようです。日本の寺社仏閣は、屋根で防水する構造を持っています。檜皮も瓦も使わないイスラム建築では、結果的に防水が不十分となり、老朽化が早く進んでしまったようです。東京トルコ人協会は、モスク再建をトルコ政府に働きかけます。政府の呼びかけに応じてトルコ国内では多大な寄附が集まったといいます。それをもとにトルコ政府は、建築資材と多数の職人を送り込み、2000年、現在のモスクを完成させています。現在、東京ジャーミイの管理・運営はトルコ政府宗務庁が行い、モスクの指導者であるイマームも、宗務庁が選出し、派遣しています。

今回の見学ツアーで驚いたことの一つは、ガイドしてくれたトルコ人から聞いたチュルク系言語の話です。例えばチュルク系民族としては西端近くに存在するトルコ人と、トルコからは数千キロも東に離れたウイグル族は、さほど支障なくコミュニケートできると言うのです。ユーラシア大陸に広く分布するチュルク系民族ですが、なかでも中央アジア一帯に分布するチュルク語族同士は、会話に困らないと言います。考えてみれば、当然と言えることなのでしょうが、改めて聞くと、結構、驚きでした。イスラム化した国々では、パキスタンのウルドゥー語のようにアラビア語化している国も多くあります。また、中央アジアには長くロシアに支配されてきた国も多く、完全にロシア語化しているものだと思い込んでいました。しかし、多くの地域でチュルク語は失われていなかったわけです。(写真出典:kajima.co.jp)

2024年4月28日日曜日

「ゴッドランド」

監督:フリーヌル・パルマソン 2022年アイスランド、デンマーク、フランス、スウェーデン

☆☆

19世紀、デンマーク植民地下のアイスランド、言葉の通じない土地での布教と教会建設を命じられた若き神父、観る前から重厚感漂うお膳立てです。そして、アイスランドの厳しくも美しい自然を見事に捉えた映像、重い音楽などとくれば、高評価間違いなしの映画を予感させます。実際に、本作は、高い評価を得ています。ところが、何か決定的なものが欠けているように思いました。例えて言うなら、マグロの入っていない鉄火巻きといった風情です。重い映画であることは間違いないのですが、雰囲気だけが重く、テーマとしての重さが伝わってこないのです。何か、作品のテーマが絞りきれずに、フォーカスを失っているように思えました。

過酷な環境のなかで信仰心が試され、そして揺らいでいくというプロットなのでしょうが、そこに植民地アイスランドと宗主国デンマークとの関係という視点がかぶってきます。自然主義的な演出であれば、随分と違っていたのかもしれませんが、重く押し込んでくる展開にも関わらず、何を押し込まれてるのか判然としませんでした。様々なアイデアを、脚本段階で整理し切れていなかったように思えます。そのことは、終盤の展開によく現れていると思います。テーマが絞り切れていないために、終わり方も中途半端になり、何やら終わるに終われずズルズルしているという印象です。映画は、19世紀の牧師が残した写真にインスパイアされたとしていますが、映像イメージだけが先行してしまったのかも知れません。

深そうなテーマであり、深そうな展開なのに、結果的には表面的な印象に留まってしまったことには、私の予見が関わっているかもしれません。北欧映画と言えば、当然、ルター派の功罪に関する洞察、あるいは神の不在といったテーマだろうと思い込んでいました。マルティン・ルターの宗教改革は原理主義運動ですが、その思想を最も直接的に継承しているのがルター派なのでしょう。北欧の精神風土はルター派の信仰によるところが大きいと思います。聖書の言葉に厳格、厳密に従うルター派のもとでは、時に神の不在という問題が起こり、多くのアル中や自殺者を生む傾向も現れます。宗教的なテーマを持つ北欧映画にとって、ルター派の功罪を問うことは、避けて通れない道なのだと思っています。

無人の島だったアイスランドに人が住み始めたのは10世紀頃だったようです。アイスランドの歴史は、ヴァイキングによる植民に始まります。世界で最初の議会とされるアルシングが始まったのもこの頃とされ、中断はあったものの、現在も形を残しています。13世紀にはノルウェーの植民地となり、同時にキリスト教化されます。14世紀にはデンマークも宗主国となり、16世紀にはルター派への改宗が強要されています。国家としての独立こそ20世紀初頭になったものの、アイスランドは、経済的、政治的、文化的にも成熟を遂げていきます。映画は、まるで大航海時代に辺境の地にキリスト教の布教に出かけたかのような風情を持ちます。厳しい自然は理解できても、どうにも違和感を感じてしまいます。

アイスランドと言えば、火山です。本作にも火山の映像が登場します。ま、アイスランドだから火山も出しておくか、といった感じで、脈絡なく、こけおどし的な登場の仕方をします。牧師の心情変化を象徴したかったのかも知れませんが、そうだとすれば見事に失敗しています。映像に関する技術もセンスも優れた監督だとは思います。それだけに、映像イメージだけが先行してしまったのかも知れません。次回は、それなりの脚本家と組んだ方がいいのではないかと思います。(写真出典:eiga.com)

2024年4月26日金曜日

裏参道

会社のOB会に参加するために札幌へ行ってきました。たまたま地下鉄の西18丁目駅近くのホテルに宿泊したので、朝、円山の裏参道界隈を散歩しました。恐らく40年振りの裏参道だと思います。個性的でおしゃれな店が点在し、町並みや建物もこざっぱりと都会的に変貌を遂げていました。それは、なにも裏参道に限った話ではなく、札幌の街は、ここ数年で新しい商業ビルが多く建ち、随分と都会的になったように思います。個人住宅やマンションも同様です。もともと本州とは異なる外観を持っていた札幌の街ですが、開拓時代を彷彿とさせる風情がどんどん薄れ、何やら北欧化しているようにも思います。それはそれで結構なのですが、いささか寂しい気もします。

裏参道とは、北海道神宮の表参道とされる北一条通りに対して、南一条の通りを指します。いずれも正式地名ではなく、あくまでも通称です。表参道は、北1条西25丁目にある第一鳥居から境内入り口の第二鳥居までを指します。対して、裏参道は、公園口鳥居や第三鳥居に至る南一条の通りの西20~27丁目あたりを指します。もともとは住宅街だったのですが、1972年、札幌オリンピックにあわせて地下鉄が開通すると、円山公園駅周辺の裏参道に若い人たちが店を開き始め、いつしか裏参道として知られていきます。当時は、古い商店や民家を安く借り、手作感のある喫茶店や雑貨店がオープンしていました。ちょうど60年代のカウンター・カルチャーの時代が終わり、サブ・カルチャーの時代が始まった頃のことです。

東京では、若者たちが、カウンター・カルチャーの拠点だった新宿から、パルコに代表されるサブ・カルチャーの街・渋谷へと流れていった時代です。札幌でも学生運動等はありましたが東京ほどではなく、サブ・カルチャー化もささやかにスタートしたといった印象でした。店もわずかに点在するといった程度でした。それでも、徐々に知名度が上がってくると、商業資本が注目するところとなり、ビルやマンションが立ち始めます。若い人たちがやっている風変わりな店、面白そうな店で構成されていた裏参道は、小洒落た街へと変わっていきます。裏参道のサブ・カルチャーは、商業資本に侵略されたとも言えます。裏参道のサブカル文化には、それに抵抗するほどのエネルギーも蓄積されていなかったのでしょう。

例えば、下北沢は、いまだに若者たちのサブカル・エネルギーが街を支配しています。裏参道と下北沢との大きな違いは、文化の発信拠点を持っていたかどうかではないかと思います。つまり、下北沢には、本多劇場はじめ、演劇やライブの拠点が大小様々集まっています。多様な指向を持つ若者たちが流れ込み、常に街のエネルギーが蓄積されていくわけです。裏参道は、そうした拠点を持つ前に、商業資本に乗っ取られたようなものです。当時、まだまだ未熟だった裏参道のサブカル・エネルギーを嘆くべきなのでしょうが、ひょっとすると札幌という街が持つ文化的ポテンシャルの低さを憂えるべきかもしれません。札幌が文化的ではないと言っているのではなく、その多様性に欠ける面が気になるのです。

札幌は人口200万人に迫る大都会ですが、首都圏人口3,000万人を抱える東京と比べるのは酷というものです。ただ、地方の大都市は、いずこも特色ある多様な街区を持っているものです。例えば、札幌よりも人口の少ない福岡や神戸には、複数の繁華街が存在します。札幌では、何十年にも渡り、中心部以外の特色ある元気な街区は誕生していません。歴史の薄さと言えるのかも知れませんが、そうばかりでもないと思います。結果的に、裏参道が小洒落た街になったことは、希有な例と言えます。ただ、それも決して色合いが濃いというほどでもありません。裏参道には、マンションが多く建ち並びますが、裏道には、まだ個人住宅も残っています。その一角には、かつての裏参道を思わせる小さな店も存在していました。彼らの今後の展開に期待したいものです。(写真出典:hokkaido.press)

2024年4月24日水曜日

「フォロウィング」

監督:クリストファー・ノーラン    1999年イギリス

☆☆☆+

希代の才人クリストファー・ノーランの長編デビュー作です。「オッペンハイマー」の大ヒットを機に、公開25周年/HDレストア版として劇場公開されました。16ミリ・フィルム、モノクローム、70分、わずか6千ドルで製作された超低予算映画です。平日は他の仕事をしているスタッフ・キャストが、1年をかけて製作したようです。フィルム代を節約するために、入念なリハーサルを重ね、すべて1、2テイクで撮影されたと言います。処女作には映画監督が後に撮ることになる映画の全てが入っている、と言ったのはフランソワ・トリフォーだったと記憶します。その言葉を思い起こさせるような映画でした。まずは、クリストファー・ノーランの代名詞とも言える非線形プロットが、既に使われていることが目を引きます。 

時系列が入り乱れる非線形プロットは、次作「メメント」においては、まったくの逆時制で進行するという進化を見せ、ノーランを一躍有名にしました。非線形プロットは、観客に対する挑戦であり、映画に緊張感を生み出します。もちろん、彼の発明ではありませんが、巧みに使いこなして傑作を生み出しているという点において、ノーランは映画表現の革新者だと言えます。線形的な時制の取り扱いは、劇映画を構成する基本要素であり、映画文法上の原理原則です。ノーランの非線形プロットは、マイルス・デイビスのモードの発見に近いものがあります。さらに言えば、ノーランの興味は、単なる表現手法としての時制から、時間そのものへと移っていっているようにも思えます。

ただ、本作における非線形プロットは、十分にその効果をあげているようには思えません。緻密に構成された脚本ではありますが、やや単調なカメラ・ワークや演出ゆえに、その効果が十分には観客に届いていないように思えます。斬新な手法ですが、まだ十分にこなれていなかったとも言えますが、低予算ゆえの種々の制約が禍いしたという面もあるのでしょう。そこでの反省が活かされ、傑作メメントにつながったということになります。非線形プロットやテーマとしての時間など、ノーラン映画は難解な面があるものの、見事にエンターテイメントとして成立し、大ヒットしています。それはノーランの才能によるものですが、本作における挑戦があったからこそ、後の成功を生み出していったと言えるのでしょう。

本作におけるノーランの挑戦は、プロットや脚本に限りません。とにかく低コストで長編を撮るために、ありとあらゆる工夫が試されています。それが、後にノーラン映画に多数の技術系アカデミー賞をもたらすことになったものと思われます。ノーランは、テクニカルな面にも造詣が深く、そのこだわりがノーランの強みにもなっています。例えば、フィルム・カメラを使う、CGを極力排除する、セカンド・クルーを使わないといった点です。音楽と音響効果に何ができるのかも知り抜いています。シェパード・トーンの多用などもノーランらしさと言えます。大型予算で大作を撮る監督にも関わらず、ノーランは、ロー・テクを使った手作り映画にこだわり続けています。そのスタンスの原点は、間違いなく本作にあるのでしょう。

クリストファー・ノーランが大ヒットを連発できる理由は、非線形プロットやテクニカルな面もさることながら、映画とは何か、映画に何ができるか、などを十二分に心得ていることにあるのだと思います。予算がないなかで、知恵を絞り、すべて手作りで長編に取り組んだことが、後に報われたということなのでしょう。本作は、映画としての出来以上に、偉大な監督の原点という意味で歴史的価値が高いとも言えます。ちなみに、オッペンハイマーの成功を機に、ノーランは、53歳にしてナイトの称号を与えられています。これからは、サー・クリストファー・ノーランと呼ばれることになります。(写真出典:imdeb.com)

2024年4月22日月曜日

モッコ

那覇で、琉球子守歌の演奏会を聴く機会がありました。沖縄の子守歌は、眠らなければ怖い目にあうぞといった脅し系もありますが、多くは子供の成長や出世を願う歌なのだそうです。対して本土の子守歌と言えば、脅し系もありますが、特徴的には子守をする少女自身の恨み節が多いようです。恨み節だけに曲調もマイナー系が多く、代表曲は「五木の子守歌」ということになるのでしょう。成長を願う唄と恨み節との違いは、子守をする少女たちの境遇の違いだとされます。本土では、貧しい家の少女が、年貢の代わりに働きに出されて子守をしたものだそうです。奴隷労働に近いわけです。一方、琉球では、村落共同体のなかで、少女たちが子守役を担ったとされます。助け合い、ゆいまーるの一環だったわけです。

琉球子守歌の脅し系で、良く知られているのは「大村御殿(うふむらうどぅん)」だと紹介されていました。眠らなければ耳切坊主がやってくる、という内容です。大村御殿は、17世紀の尚王家の皇子であり、北谷の按司となり、首里で王の摂政も長く務めました。ただ、男子に恵まれない家系だったようです。琉球民話の「耳切坊主」は、黒金座主という妖僧を北谷王子が殺す話ですが、この北谷王子が大村御殿であり、黒金座主の祟りで男子が生まれなかったとされるようです。大村御殿を聴きながら思い出したのが、津軽の子守歌です。泣けば、山からモッコくらーね、と唄われます。モッコとは蒙古のことだとされています。鎌倉時代、元寇の恐怖に日本中が怯えたというわけです。

しかし、元軍は、博多で追い返され、東北には来ていないわけです。来ていないからこそ、余計に恐ろしいものの象徴になったのかもしれません。不思議なのは、津軽の子守歌の”山からモッコ”というパートです。なぜ海ではないのか、よく分かりません。もはや蒙古でもなんでもなく、ただひたすら恐ろしいものになっていたということなのでしょうか。ここに、もう一つ面白い説があります。元寇、つまり文永・弘安の役と同じ頃、元は、樺太に幾度か攻め込んでいます。当時、間宮海峡あたりに居住していたギリヤーク族は、モンゴル傘下に入っていました。そこへ北海道のアイヌ族が、しばしば侵攻するので、ギリヤークは元に訴え出ます。元は、アイヌ成敗に乗り出したわけです。

元寇直後の13世紀末から14世紀初頭にかけて、北奥羽では安東氏の乱が起きています。津軽の蝦夷代官職だった安東氏の内紛ですが、そのきっかけになったのは蝦夷の蜂起によって安東氏の当主が殺されたことでした。蝦夷蜂起の遠因は、元によって樺太から追われたアイヌが南下したことにあるとされます。ひょっとすると、これが”山からモッコ”につながったのかもしれません。とは言え、それがアイヌの子守歌に唄われているのであれば理解できますが、さすがに津軽の子守歌では無理があるようにも思えます。ただ、当時の津軽の人々にとっても、南から北から攻め込んでくる蒙古なるものは、実に恐ろしい存在だったとは思います。ちなみに、元軍は、樺太に侵攻したものの、北海道までは来ていません。

ちなみに、岩手県の宮古、あるいは佐渡にもモッコの子守歌があったようです。限定的な分布に過ぎないので、恐らく津軽との交流のなかで伝わったものなでしょう。史上第2位の規模を誇ったモンゴル帝国は、東欧にも大きな爪痕を残しました。特に、1241年、ポーランド西部のワールシュタットでは、モンゴル軍がヨーロッパ連合軍を撃破し、欧州を恐怖のどん底にたたき落としています。1242年、モンゴル軍は、ウィーン近郊に迫りますが、2代目カーンのオゴデイの崩御に伴い軍を引き揚げています。東欧、特に主戦場となったポーランドには、モンゴル侵攻に関わる伝説や風習が多く残っていると聞きます。モンゴル軍の主力がタタール系だったことから、欧州ではモンゴルをタタール、ないしはタルタルと呼びました。野蛮人と同義だったようですが、生肉を使うタルタル・ステーキの語源にもなっています。(写真出典:jp.quora.com)

2024年4月20日土曜日

「アギーレ/神の怒り」

名作映画の配信サービスであるザ・シネマ・メンバーズが、ヴェルナー・ヘルツォークの作品を数本連続して配信することになりました。まずは、代表作の一つである「アギーレ/神の怒り」(1972)を観ました。主人公は、16世紀に実在したスペインの征服者ロペ・デ・アギーレです。アギーレは、伝説の黄金郷エル・ドラードを初めて探索したゴンサロ・ピサロの副官の一人でした。アマゾンの密林のなかで進退窮まったピサロは、分遣隊を組織し、アギーレはその副隊長に任命されます。分遣隊は筏で川を下りますが、厳しい自然と敵対的なインディオに阻まれ、崩壊していきます。分遣隊長は、本隊への合流を決めますが、アギーレは反乱を起こし、あくまでもエル・ドラード探索を続けようとします。

ヘルツォークは、インカやマヤを滅ぼしたスペインの征服者たちに、近世の本質である強欲を見ているのでしょう。アギーレは、強欲の象徴です。緑濃い密林のなかで狂っていくアギーレは、自然、あるいは神のしっぺ返しを受ける人間の強欲そのものです。アギーレは、自らを神の怒りだとします。神の怒りとは一体何なのでしょう。アギーレは、神の使徒なのでしょうか、神の怒りをかった者なのでしょうか。あるいは過酷な自然に立ち向かうことで、神と同じ次元、あるいは神を越えた存在だと言うのでしょうか。いずれにしても、強欲は傲慢を生み出していきます。一人生き残り、猿の群れに囲まれたアギーレは、実の娘と結婚しアメリカ大陸に王統を築くことを夢想しながら果てていきます。

本作の主演は、怪優クラウス・キンスキーとアマゾンの自然だと言えます。ヘルツォークのリアルに自然を捉えるカメラ、自然主義的な演出、少ない台詞は、湿度の高いギリシャ悲劇を見ているかのようです。オープニング・シーンは、啓示的とも言える強烈な印象を与えます。険しい崖の道を荷物を抱えた無数の兵士やインディオが、まるで蟻のように降りていきます。それは地獄へ続く道のようにも見え、ダンテの神曲を思い起こさせます。そして、か弱く愚かな人間を見る神の目線のようにも思えます。一瞬にして、哲学的、神学的な世界を提示するパワフルな映像だと思います。映画が生み出す幻想の力を見事に示した歴史的映像だと思いました。ヘルツォークという監督の深く厳しい精神性が端的に伝わります。

ロペ・デ・アギーレは実在の人ですが、映画のストーリーは史実とは異なるようです。狂人と呼ばれた実際のアギーレは、スペイン王室、総督に敵対し、逃走と抵抗を続けた人でした。ペドロ・デ・ウルスアのエル・ドラード探索遠征隊に実の娘を連れて参加し、ウルスア等を殺害して遠征隊を乗っ取ったことは事実だったようです。遠征は失敗に終わりますが、その後、アギーレは、ベネズエラのマルガリータ島を占拠し、さらにパナマ占領を目論みます。ただ、総督軍に包囲され、娘を殺害し、自らも射殺されています。スペインによる南米征服は、組織的に遂行された印象がありますが、現地の征服者たちは、熱狂と混乱と恐怖のなかにあったのだと思います。アギーレは、征服者たちのカオスの象徴だったのでしょう。

エル・ドラードの伝説は、スペインを中心に、16世紀の欧州に熱狂を巻き起こしています。多くの南米探検の動機はエル・ドラードだったとされます。アギーレ隊も含め、実在を疑わざるを得ない結果が続きますが、取り憑かれたような探検は18世紀まで行われたようです。19世紀初頭、ドイツのアレクサンダー・フォン・フンボルトが、アンデスとアマゾン流域を詳細に調査し、エル・ドラード伝説を完全に否定しています。南米は、近世の欧州が解き放った強欲の実験場だったと言えます。そこではありとあらゆる非道が行われます。近世欧州の強欲は、今も南米諸国に政治的・経済的不安定をもたらし続けています。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年4月18日木曜日

門中

門中墓
「門中(もんちゅう)」 は、沖縄における父系の血縁集団を指します。日本全域にも親戚、縁戚、一族といった普遍的概念はありますが、沖縄の場合、父系に限定されること、厳密な組織関係を保っている点など、大いにユニークな面があります。過日、糸満市に住む友人に町を案内してもらいました。実に興味深いツアーになりましたが、一番驚いたのが「門中墓」です。門中の一員が亡くなると門中墓に葬られます。数百人から数千人の遺骨が門中墓に安置され、墓の外見は王家の墓かと思うほど大きなものになります。友人が所属する門中は800人とのことでしたが、糸満で最も大きいとされる幸地腹門中は3.000人と言われ、その門中墓は観光地にもなっているようです。

ただ、友人の所属する門中では、遺骨を2週間だけ門中墓に安置し、その後、各家族の墓に埋葬するのだそうです。家族の墓といっても、ミニ門中墓のようなもので、大きな墓に複数家族が埋葬されています。なぜこのような風習が生まれ、なぜ今も生き残っているのか、気になりました。門中の起源は、17世紀後半、琉球王朝が、士族に対して家系図の作成・提示を命じたことにあるようです。家譜編纂は、士族支配・管理の手法として理解できますが、その後、庶民の間にも広がっていき門中の発生につながったようです。その背景には、仏教の影響による先祖崇拝の浸透があったとされます。先祖崇拝は、しばしば王朝による社会管理の手法にも使われてきました。門中の普及には琉球王朝の意図も働いていたのかもしれません。

ただ、それ以上に門中成立に大きな影響を与えたのは「ゆいまーる」の存在だったのでしょう。農業は多くの労力を必要とします。古くから行われてきた農村における共同作業体制の沖縄版がゆいまーるです。その伝統に、家譜編纂が組織的な形式を与えたものと思われます。琉球における稲作は12世紀頃に始まったようですが、稲作に適しない土壌や地形なども多くあり、早くから共同作業が必要不可欠だったのでしょう。ゆいまーるは、今も沖縄の精神風土にしっかり残っています。門中もさることながら、今も盛んな沖縄独特の互助制度「模合」も、その一例なのでしょう。糸満の友人も、複数の模合に参加していると聞きました。もっとも、現代の模合は、定期的な飲み会の仕組みのようにも思えます。

沖縄県立図書館で開催されていたブラジル移民の写真展を観てきました。ブラジルへ移民した沖縄県民たちが、ゆいまーる精神に基づき開拓にあたっていたことを知りました。沖縄の海外移民は、明治期のハワイ移民に始まります。定住率の悪さから幾度か中断されながらも継続され、戦後は基地に農地を奪われた農民の南米への移民が行われています。沖縄県の海外移民総数は、広島県に次ぐ第2位です。沖縄にルーツを持つ移民は、現在、世界各地に40万人いるとされています。なかでもブラジルが最も多いようです。およそ移民たちは辛酸をなめることになったわけですが、沖縄県出身者たちは、一致団結して共同開拓にあたり、成功を収めていきます。まさにゆいまーる、あるいは門中の力だったと言えるのでしょう。

1990年から5年に一度開催されている世界ウチナンチュ大会には、世界中から数千人の移民とその末裔たちが集まります。これもゆいまーる精神と門中の賜物なのでしょう。さらに言えば、敗戦後、困窮した沖縄県民を助けるために、世界各地の移民たちが食糧支援などを行っています。厳しい環境のなかで培われたゆいまーるの精神は、今もしっかり生きているわけです。ただ、門中や門中墓には、逆風も吹き始めているようです。負担感もあるのでしょうが、厳密に運用される父系という縛りが、現代風の家族感と相容れなくなってきたためだと聞きます。沖縄に限らず、世界中で家族の形は大きく変わりつつあります。沖縄の伝統に根ざした門中と言えども、さすがに難しいところに来ているのでしょう。(写真出典:mikuni-ohaka.com)

川上