2023年10月31日火曜日

寮歌

盛岡一高応援団
小学校、中学校、高校の校歌は、一切、思い出せません。体が記憶しているということもあるので、誰かが歌えば、一緒に歌えるのかも知れません。一方、大学の寮歌「都ぞ弥生」は、今でも歌えます。一番だけなら、歌詞もそらんじています。忘れていない理由は簡単です。在学中はもちろんのこと、卒業後も歌う機会がしばしばあったからです。大学OBが集まる宴会では、例え少人数であっても、会の最後には肩を組んで歌っていました。最も正しい「都ぞ弥生」は、太鼓とともに、「吾等(われら)が三年(みとせ)を契る絢爛のその饗宴(うたげ)は、げに過ぎ易し」で始まる前口上に続き「 明治45年度寮歌、横山芳介君作歌、赤木顕次君作曲、都ぞ弥生、アイン、ツヴァイ、ドライ」と掛け声がかかり、歌い出されます。

都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵 尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の  夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて 星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ

慶応の三田会、早稲田の稲門会はじめ、多くの大学が立派な同窓会組織を持っています。北海道大学にもエルム会という同窓会はありますが、組織的にはあっさりとしたものです。ただ、北大OBは、「都ぞ弥生」を歌うことで、いつでも、どこでも一つになることができます。

寮歌は、1892年、旧制第一高等学校(現東京大学)に始まるとされます。1890年、寮の自治が認められると、毎年、自治寮誕生を記念し、寮歌が作られることになります。その風習は、他の大学にも広がっていきました。明治期には、一高の「嗚呼玉杯に花うけて」など、世間でヒットした寮歌も生まれます。他にもよく知られている学生歌がありますが、早稲田の「都の西北」は校歌、慶応の「若き血潮」は応援歌、「琵琶湖周遊の歌」は三高ボート部の歌です。寮歌としては、一高の「嗚呼玉杯」はじめ、三高(現京都大学)の「紅燃ゆる丘の花」、八高(現名古屋大学)の「伊吹おろし」等があります。旧帝国大学系には校歌が存在せず、寮歌が代替している面もあります。

学生寮の自治化が寮歌誕生の背景にあるわけですが、文化的には「バンカラ」という気風と密接不可分な関係にあると思います。バンカラとは、“ハイカラ”へのアンチテーゼとして、古風な気骨を示すために生まれました。弊衣破帽、つまり貧しい服に破れた帽子と、粗野さ、むさ苦しさを強調した服装や言動を特徴とします。明治末期に、一高から始まったとされます。”ハイカラ”とは、西洋風の服装や生活スタイルを揶揄する言葉として、明治後期に生まれました。ワイシャツの襟に付けたハイ・カラーが語源とされます。当世風の浮ついた流行を批判する気持ちは、今も変わらないと思います。ただ、バンカラには、当時、数も少なかった大学生のエリート意識が、強く反映されているものと思います。

1950年の学制改革によって旧制高校が姿を消すと、寮歌の歴史も終わります。ただ、北大の自治寮である恵迪寮だけは作り続けているようです。バンカラも、すでに死語になって久しいものと思います。私が学生の頃ですら、その背後に感じられるエリート意識も含めて、すでに時代錯誤的でした。ただ、一部、伝統を重んじる応援団などには、その気風が残っているようです。国の近代化のために一身を捧げんとした明治期、軍国主義の反動から左翼闘争に明け暮れた戦後、そして目的を失いモラトリアム世代と呼ばれた昭和後期と、学生の気質は、時代とともに大きく変わってきました。失われた30年間と呼ばれる今の時代の学生気質は、どう表現すべきなのでしょうか。少なくとも、寮歌の世界観とは大いに異なるとは思いますが。(写真出典:mainichi.jp)

2023年10月30日月曜日

「平原のモーセ」

監督: チャン・ダーレイ   制作総指揮:ディアオ・イーナン  2023年中国

☆☆☆☆ー

本作は、TV用に制作されたミニ・シリーズですが、東京国際映画祭で全6話が一挙上映されました。休憩なしの432分ノン・ストップ上映でした。ただ、長すぎると感じることもなく、ポップ・コーンとコーラだけでがんばりました。中国のミニ・シリーズですから、NetflixやAmazonで配信されることもないと思い、観に行ったわけですが、なんと上映当日から配信が始まりました。中国で本作を配信した会社が、日本でも直接配信を始めたのです。知っていれば、ネットで休憩しながら楽んだのにとがっかりしました。ただ、映画館で一気に観たことで、その世界観を十分に堪能することができました。監督も才能を感じさせますが、なんと言ってもディアオ・イーナンらしい東北ルネサンスの世界が広がっていた作品だと思います。

原作は、やはり東北部出身のシュアン・シュエタオの短編集「平原のモーセ」です。物語は、内モンゴル自治区で起きた警官殺しに関するミステリを軸に展開します。しかし、主題は、1980頃から現代に至るまで政治に翻弄されてきた東北部の大衆の姿なのだろうと思います。ディアオ・イーナンが、ベルリンで金熊賞を受賞した「薄氷の殺人」がそうであったように、ミステリ仕立ては、当局の検閲をかいくぐるための手立てだと思われます。漢民族にとって東北部は、モンゴル族、満州族、朝鮮族、そして日本といった異民族が覇権を争う貧しい辺境の地でした。中華人民共和国が誕生すると、東北部は、豊富な鉱物資源を背景に工業化が進められます。大規模な国営企業と近代的な社宅が林立する都市が生まれ、共産主義の巨大な実験場、あるいはプロパガンダのショーケースになりました。

国営工場では、鉄飯椀という言葉が生まれるほど、安定した雇用が保たれていました。しかし、文化大革命の嵐が過ぎ、改革開放の時代を迎えると、歯車は逆回転を始めます。非効率的な国営工場は、民間企業に駆逐されていき、東北部は深刻で慢性的な不況へと陥ります。共産党の庇護のもと栄えた東北部では、改革開放体制への順応が大幅に遅れます。かつて共産主義の成果ともてはやされた工場、社宅、遊戯施設などは、廃墟化し、放置されます。東北部の大衆は、改革開放に沸く沿岸部とは対象的に、時代の変化に戸惑い、経済的辛酸をなめることになります。国策によって持ち上げられ、国策によってどん底に突き落とされた東北部の大衆は、釈然としないものを抱えつつ時代を生きてきたと言えます。

主知的で、理想主義的な主人公の母親は、家事や育児に興味がありません。母親は、古い中国共産党を象徴しているものと思われます。かつての紅衛兵であり、金の亡者として世間を渡る父親は、改革開放後の中国政府や中国社会の象徴です。主人公は、父にも母にも違和感を覚えながら反抗的に育ちます。成績もよく、控えめな性格の近所の少女は、主人公が唯一心を寄せる存在であり、人間が本来持つ純真さを現わしています。少女の父親は、国営企業を解雇され、殺人犯に間違えられ、もみあう中で誤って警官を殺してしまいます。その際、交通事故にあった少女は片足を失います。少女と父は姿を隠さざるを得ませんでした。純真さの象徴である少女は、時代の荒波にもまれ、日陰の人生を歩むことになります。

自然主義的タッチで描かれる映像には、劇伴音楽もほぼなく、素人役者も多く使われています。内モンゴル自治区の首都であるフフホト市で撮影されたようですが、東北部の厳しい風土、寂れた街の様子がよく伝わります。餃子や焼売が頻繁に登場するのも、東北部を象徴しているのでしょう。きっちりと同じテンポを刻む展開には、監督の才能を感じます。TVのミニ・シリーズにはそぐわないほど映画的な作品ですが、映画にすれば、かなり長時間の映画にせざるを得ず、ミニ・シリーズが選択されたのかも知れません。いずれにしても長い映画でした。空腹を抱えながら映画館を出て、まず向かった先は中華料理屋でした。もちろん、焼売を食べるためです。(写真出典:filmarks.com)

2023年10月27日金曜日

一斗二升五合

伝法院通りの地口行灯
「一斗二升五合」は、そのまま読めば”いっと・にしょう・ごんごう”となります。一斗は十升に相当し、五升の倍ですから「ごしょうばい」、二升は「ますます」と読み、五合は一升の半分で「はんじょう」、あわせて「御商売益々繁盛」となります。「春夏冬二升五合」と言えば「商い益々繁盛」となります。もともとは江戸の言葉遊びですが、縁起の良い言葉なので、かつては、額にして掛けてある店も見かけたものでした。江戸庶民の好きな遊びの一つが「地口」です。ダジャレに近い言葉遊びです。慣用句化して、今も残っている地口もあります。慣用句と言えば、格言や警句もありますが、例えば”猫の手も借りたい”とか”目からウロコ”といったカジュアルな表現もあります。

地口は、もっとくだけたもので、語呂合わせや掛詞が多くあります。例えば、私も含めて一定年齢以上の人たちは、三重県桑名と聞けば、自動的に「その手は桑名の焼き蛤」と言ってしまいます。”その手はくわない”と桑名名物の蛤を掛けているわけです。ただ、”その手は食わない”以上の意味はまったくありません。「恐れ入谷の鬼子母神」も同じです。”恐れ入りました”と、江戸三大鬼子母神の一つである入谷の鬼子母神を掛けただけです。江戸の流行りが今に残ったのは、恐らく落語や物売りの口上を通じてのことなのでしょう。落語はともかくとして、縁日などの物売りは絶滅状態だと思います。我々が知っている物売りは、ほぼスクリーンを通して見るフーテンの寅さんだけです。

小気味よい口上で、客を寄せて物を売る商売は”啖呵売”と呼ばれます。よく知られている啖呵売と言えば、門司港発祥のバナナのたたき売り、筑波山のがまの油売りあたりでしょうか。その伝統は今も実演販売に引き継がれているとも言えます。また、アメ横のお菓子屋は、まだ店先で啖呵売をやていますが、さすがに地口は言いません。安いよ、おまけを付けるよ、だけの啖呵売は退屈なものです。そこへ行くと、寅さんの口上は人を惹きつけ、集める力があります。何度も聞いているお馴染みの口上ですが、耳に心地良い五七調の滑稽な地口、渥美清のキレの良い語り口に引き込まれます。思わず「買った!」と声をかけたくなります。それは、もはや芸の域であり、渥美清が長生きしていれば、無形文化財登録もあり得たかも知れません。

寅さんがよく口にする地口と言えば、「田へした(大した)もんだよカエルの小便、見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」あるいは「結構毛だらけ猫灰だらけ、けつのまわりは糞だらけ」などがあります。また、寅さんの売り口上は、数え歌形式になっており「物の始まりが1ならば、国の始まりが大和の国、島の始まりは淡路島。泥棒の始まりが石川の五右衛門なら、博打打ちの始まりが熊坂の長範」で始まります。「四つ、四谷赤坂麹町、ちゃらちゃら流れる御茶ノ水、粋な姉ちゃん立ちしょんべん」、あるいは「七つ、長野の善光寺、信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃあなたのそばがいい」といった具合に、地口を交えながら続きます。そこに、その日売りたい品物に関するアドリブが、随時、入るわけです。

浅草の伝法院通りには、地口と絵を書いた地口行灯が並んでいます。江戸時代、お稲荷さんの初午には地口行灯がよく掛けられたものらしく、今も一部にはその風習が残っているようです。江戸の人たちは、本当に地口好きだったようですが、人付き合いの潤滑油にしていたものと思われます。言葉遊びは、世界中にあるのでしょう。例えば、アメリカのイディオム(慣用句)には、地口っぽいものも多くあります。Okie Dokie(OK)、See you later, alligator(またね)、What’s the deal, banana peel ?(どうしたの)等々、挙げればキリがありません。イディオムを知らないと、アメリカ人同士の会話にはついて行けないこともあります。同様に、日本語を多少話せる外国人であっても「あたりき車力」は通じないと思います。もっとも、地口の多くは、若い人たちにも通じないのでしょうが。(写真出典:intojapanwaraku.com)

2023年10月25日水曜日

「ヒッチコックの映画術」

監督:マーク・カズンズ  原題:My Name is Alfred Hichcook  2022年イギリス

☆☆☆

サー・アルフレッド・ヒッチコックは、最も重要な映画人の一人です。かつ、自作へのカメオ出演、TVシリーズ「ヒッチコック劇場」によって、最も良く知られた映画監督だと思います。監督としての51年間のキャリアのなかで56本の長編映画を撮っていますが、うち9本はサイレント映画です。そして、作品のほとんどが商業的成功を収め、サスペンス映画というジャンルを確立しました。それに留まらず、映画の文法を確立した人でもありました。商業的な作品性ゆえ、映画評論の世界では、永らく重要視されなかったようです。1951年に創刊されたフランスの映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」に集ったロメール、ゴダール、トリュフォーといった評論家が、ヒッチコックを研究対象とし、絶賛したことから、その評価が高まったとされます。

言うまでもなく、カイエ・デュ・シネマでヒッチコックを絶賛した若手評論家たちは、その後、映画制作に進出し、監督としてヌーベルヴァーグ旋風を巻き起こすことになります。1966年にトリュフォーが出版した研究書「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」は、長時間のインタビューに基づき、ヒッチコックの映画文法を詳細に分析しています。ヒッチコック研究の最高峰とされるだけでなく、”映画の教科書”とも呼ばれています。本作の「ヒッチコックの映画術」というタイトルは、この本を意識したものなのでしょう。内容的にも、ややマニアックな映画ファン向けといった風情があります。研究され尽くした感のあるヒッチコック映画を、文法的ではなく、ヒッチコックの内面的なこだわりという面から分析しています。

映画は、ヒッチコック自身が自作を語るというスタイルになっています。脚本は、ヒッチコックのインタビュー等での発言に忠実に従い、かつナレーションは役者がヒッチコックの声色で行うというこだわりぶりです。ヒッチコック映画の断片が次から次へと映し出されるだけでも、映画ファンは大喜びだと思います。そもそもオールド・ファンは、ヒッチコックの話をすることが大好きなものです。本作は、高い評価を得ているようですが、ヒッチコック映画という素材の良さゆえ、という印象もあります。新たな視点とされる分析には、さほどの驚きはありません。かつ、ヒッチコックの声色でのナレーションは面白いアイデアですが、一人称だけで語られるドキュメンタリーは、平板なものにならざるを得ない面があります。

サスペンス映画の”ハラハラ、ドキドキ”などは当たり前のように思えるでしょうが、実はヒッチコックの発明です。ヒッチコック映画で登場したプロットの多くが、今でもサスペンス作品の枠組みとして使われています。また、ヒッチコックは、観客をハラハラ、ドキドキさせるために、技術的なアイデアを、様々生み出しています。その一つひとつが、基本的な映画の文法となっていきました。ヒッチコックの代表作を挙げるとすればキリがありません。私のお気に入りは、「レベッカ」(1940)と「北北西に進路を取れ」(1959)です。アカデミー作品賞も獲った「レベッカ」は、その流麗なタッチがロマン派の交響曲を思わせます。「北北西に進路を取れ」は、洒脱さも含めてエンターテイメント映画の最高傑作の一つだと思います。

カイエ・デュ・シネマ誌が生み出したとされる概念に”作家主義”があります。画家、作曲家、小説家等と同様に、映画監督もその個性を表現する芸術家だとする考え方です。今では当たり前になっています。トリュフォーによれば、アート系作家ではないヒッチコックやハワード・ホークスは、娯楽性を徹底的に追求することによって映画の本質を極めた作家ということになります。確かに、ヒッチコック映画は、監督の強い個性が表れているとも言えますが、それ以上にエンターテイメント映画としての普遍性を高いレベルで獲得しています。映画監督を目指す人たちは、まずはヒッチコック映画をすべて見るところから修行を始めるべきだと思います。(写真出典:eiga.com)  

2023年10月23日月曜日

中世の終わり

ジャック・カロ「戦争の悲惨」
日本の歴史の分水嶺とも言われる応仁の乱ですが、とても分かりにくい面があります。背景、きっかけ、経過などが複雑だったとしても、AとBが戦い、Aが勝ちましたというシンプルな構図であれば分かりやすいものです。応仁の乱では、そこが複雑なわけです。欧州の三十年戦争も、応仁の乱と同様、歴史の分水嶺であり、かつ非常に分かりにくい戦争です。最終にして最大の宗教戦争と言われる三十年戦争は、実態的には13もの戦争を一括りにしています。長期に渡ったこと、プレイヤーが多すぎること、対立構図が重層的であることが、三十年戦争を分かりにくくしています。1648年、包括的にウェストファリア講和条約をもって終結したことから、一括に三十年戦争と呼ばれるのでしょう。

ウェストファリア条約によって、プロテスタントが公認され、神聖ローマ帝国が事実上崩壊し、300近いドイツの領邦国家が承認され、オランダがスペインから独立しました。ウェストファリア条約は、主権国家、国際法、勢力均衡で成り立つ欧州主権国家体制の始まりとされます。主権国家とは、主権・領土・国民の三要素を持つ国家体制とされます。中世までの欧州には国家という概念がありませんでした。土地を所有する領主たちは、有力領主や教皇と主従契約を結び、土地を譲ったうえで借り受け、所有地を守ってもらいました。いわゆる欧州式の封建制度です。封建制度を支えていたのは農奴の存在でした。しかし、貨幣経済の浸透、ペストによる働き手の減少が、農奴の立場を強くし、農奴は減っていきます。

さらに、小氷期による飢饉、民衆の暴動、地図上の発見がもたらした経済の拡大と都市化の進行、オスマン・トルコの脅威等々が封建制を終焉へと導きます。そこに、宗教改革やルネサンスが起き、近世への移行が始まるわけです。なお、近年、ルネサンスを中世の終わりとする説も有力と聞きます。主権国家誕生のきっかけは、15世紀末から半世紀に渡って戦われたイタリア戦争にあるとされます。イタリア戦争は、イタリアでの覇権を巡る神聖ローマ帝国のハプスブルク家とフランスのヴァロア朝の戦いです。当時の戦場における主力は傭兵でしたが、ヴァロア朝は直轄軍を組織し、高度な戦術を展開します。また、火砲の実用化に伴い、戦闘は騎士ではなく歩兵が中心となっていきます。いわゆる軍事革命です。

大砲は、14世紀の中国に生まれ、15世紀には欧州の戦場にも登場します。それを小型化して鉄砲が誕生します。鉄砲を持った歩兵団を抱えるにはコストがかかります。そこで安定的な税収が必要となり、その前提となる領土と国民の線引きと抱え込みが起こります。これが主権国家を生むことになります。主権国家は、絶対王政に始まりますが、その後、革命等によって市民国家が誕生していきます。つまり、火砲が主権国家を生み出したと言ってもいいように思います。応仁の乱でも、軍事革命が起きています。都の市中での小競合いの中から足軽が登場します。その後、戦闘の主体は、騎乗した武士から足軽に変わっていくわけです。応仁の乱に始まる下剋上の時代は、足軽から身を起こし天下を取った秀吉を生みます。秀吉による太閤検地と石高制が、従来の荘園制を終わらせ、日本は近世へと入っていきます。

「封建的」という言葉はよく使われます。上下関係を重視し、個人の自由や権利を軽んじる、あるいは家父長制的、専制的、閉鎖的といった意味で使われます。しかし、欧州の封建制度は、あくまでも契約関係に基づく主従関係であり、日本の場合も、平安末期に関東武士の間で生まれた“御恩と奉公”という双方向的な関係が基本にあります。決して専制的、片務的なものではなかったようです。江戸幕府は、幕藩体制を布き、中央主権化を実現しますが、秩序を維持するために、儒教を活用し、武家諸法度や身分制度等によって社会をコントロールします。封建的という言葉は、この時期の秩序維持のシステムに由来するのだと思います。ただ、それとて、貨幣経済の浸透等によって徐々に崩れて行き、幕末を迎えることになります。貨幣と火砲が中世を終わらせたと言えるのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年10月21日土曜日

いつもの

荒木町の小料理屋
昔は、店の常連客であることを誇示し、自己満足に浸る人たちがいたものです。典型的には「いつもの」というオーダーです。常連客も、「いつもの」オーダーも否定するものではありません。ただ、常連ぶりでマウンティングしたがる人たちの浅薄さにはあきれました。個人的には、よく行く店があっても、そんな常連客にはなりたくないと思います。そもそも自慢げな態度は見苦しいと思います。加えて、常連になると、その店に行かなければならない、というプレッシャーがかかり、塩梅が悪いものです。行く店も、注文する品も、制約なしに、好きに選びたいと思います。店の人と雑談することは嫌いではありませんが、名前で呼ばれるようになったら、しばらくその店には行かないようにしていました。

会議でローマに一週間滞在したおり、"do as the Romans do"というわけで、毎朝、同じカフェへ行き、ローマ式にペイストリーとカフェ・ラテの朝食をとりました。2日間、たまたま同じペイストリーを注文したら、3日目の朝には、おばさんが、だまって同じペイストリーとカフェ・ラテを持ってきました。図らずも「いつもの」になったわけです。短期滞在だったこともありますが、これは店側の配慮なので、許容できるケースです。店にとっては、常連客というリピーターを確保することは、経営を安定させる上で重要です。その際、味はもとよりですが、居心地の良さ、いわゆるホスピタリティ面も大きな要素となります。店主や女将の性格も味のうち、というわけです。それは、何もにぎやかな気さくさばかりを意味しません。

基本的は、客への気配り・気遣いがリピーターを生むのだと思います。贔屓にしてくれる客に、さりげない心配りを見せる店が、一番心地良いと思います。居酒屋であろうが、高級レストランであろうが同じです。俺は常連だと声高に言う客も、常連に気安くしすぎる店も、如何なものかと思います。また、客をよく叱る頑固親父や女将というパターンもあります。私も、30年通っているのに、お愛想の一つもないどころか、いつも不機嫌な親父の店を知っていました。それは、意図的なものではなく、性分の問題であり、いわゆる職人気質なのでしょう。ただ、信じがたいと思ったのは、頑固親父に叱られたことを自慢げに話す客の存在です。「いつもの」オーダーと逆パターンに見えますが、本質的には同じです。

過ぎた常連ぶりは、甘えの構図であり、場合によっては他の客を不愉快にさせることもあります。四谷の荒木町界隈は、小さな店がひしめく街です。常連以外は入りにくい店が並びます。ある小料理屋へ、常連だという人に連れて行かれたことがあります。暖簾をくぐると、割烹着姿の女将が「お帰りなさい」と言って出迎えます。家庭のようにくつろいでもらいたいという思いで、常連だけではなく、フリの客にもそう言うのだそうです。肴の味もよく、分け隔てのない、でしゃばり過ぎない気遣いが心地良い店でした。一流の店とは、こういうものなのでしょう。客と飲食店との関係の基本は、煎じ詰めれば味につきます。味を評価し、味に自信があれば、味以外のことは、味を邪魔しない程よさが大事なのだと思います。

1970年代に大ヒットした倉本聰のTVシリーズ「前略おふくろ様」のワン・シーンだったと思うのですが、老舗料亭”分田上”出身の板前が任された小料理屋の場面が記憶に残っています。開店と同時に、ごま塩頭の老人が入ってきて、酒と肴を注文します。カウンターで静かに飲んでいたその客は、帰りしな、ぼそりと「分田上の味も落ちたもんだね」と言います。常連ならではの一言は、深川風で実にカッコいいと思ったものです。正直なところ、この言葉を言ってみたくなる店もあります。しかし、本当の常連は、そんなことは言わないのだろうとも思います。何も言わずに、ただ去って行くのみだろうと思います。ひょっとすると、ごま塩頭の老人は、「いつもの」と言いたがる類いの客だったのかも知れません。(写真出典:arakicho.com)

2023年10月19日木曜日

Jeremiah the Innocent

テキサス州の州都であるオースティンと言えば、音楽・映画・IT系の祭典であるサウス・バイ・サウスウェスト(SXSW)が開催される街として知られます。また、オースティンは「世界のライブ・ミュージックの都」と自称するだけあって、ライブハウスが300店近くあるとも聞きます。土地柄、カントリーやブルースの店が多いと思われますが、実に多様な音楽が演奏されているようです。ギター・ブルースのスティーヴィー・レイ・ヴォーンの本拠地でもあり、彼はライブで「from Austin, Texas」と紹介されていました。他にも多くのミュージシャンがオースティンから生まれているのでしょうが、伝説的人物の一人が、ローファイ・シンガー・ソング・ライター、アウトサイダー・アーティストのダニエル・ジョンストンです。 

ダニエル・ジョンストンは、ビートルズと並び賞されるほど才能豊かなソング・ライターですが、精神的、身体的な病に苦しみ、生涯を、ほぼアンダーグラウンドのアーティストとして過ごしました。高校生の頃から、ウェスト・バージニア州のニュー・カンバーランドにあった自宅地下室で、自作の歌を安っぽいサンヨーのラジカセに録音していました。その後、オースティンに移り、地元の新聞社に自作テープを持ち込みます。それが始まりでした。多少、知られる存在となった彼は、オースティンに訪れたMTVの取材に押しかけ、取り上げてもらいます。1985年のことです。ただ、地元の有名人になったのも束の間、双極性障害が悪化して、入院を余儀なくされます。以降、10年弱、入退院を繰り返し、その後も薬を飲み続けることになります。

私が、ダニエル・ジョンストンを知ったのは、ドキュメンタリー映画「悪魔とダニエル・ジョンストン」(2005)でした。冒頭で流れる「Story of an Artist」にやられました。家族にも、周囲にも理解してもらえない孤独と苦悩がストレートに歌われ、それでいて例えようのない優しさに包まれた奇跡の歌だと思います。社会的コミュニケーションに障害がある一方で、特定分野で高い集中力を発揮するアスペルガー症候群の人たちは、高い確率で総合失調症や双極性障害といった二次障害を起こしやすいと聞きます。恐らくダニエル・ジョンストンもそうだったのでしょう。アスペルガー症候群と芸術家は深い関係があります。音楽と絵画に優れた才能を開花させたダニエル・ジョンストンは、ベートーベンやモーツァルト、ゴッホやアンディ・ウォホール等々の才能と苦悩を引き継いでいたわけです。

カセット・テープのみだったダニエル・ジョンストンの音楽は、友人が版権確保のために設立した会社でレコード化されます。メジャーに注目された彼は、1995年、アトランティックで1枚だけアルバムをリリースします。評価されたものの、売上は振わず、再びアンダーグラウンドの世界へと戻ります。あまりにも純粋で素朴な彼の歌は、時代とかけ離れ過ぎていました。ニルヴァーナのカート・コバーンは、ダニエル・ジョンストンに魅せられ、代表作であるカエルの「Jeremiah the Innocent」のTシャツを好んで着ていました。それが、ダニエル・ジョンストンの名を世界に知らしめることになります。双極性障害を患うカート・コバーンは、同じ苦しみを持つダニエル・ジョンストンに自分を重ねていたのでしょう。コバーンは、超メジャーになった自分に苦しみ、持病を悪化させ自殺しています。

人と違うというダニエル・ジョンストンの孤独と苦悩は、音楽と絵画によって救われた面もあるのでしょう。献身的に彼を支え続けた家族の存在も大きかったと思います。もう一つ、彼を完全な破滅から救っていたのが、ローリーの存在だったのでしょう。ローリーは、学生時代に彼があこがれた女性です。結ばれることはありませんでしたが、ダニエル・ジョンストンは、生涯、ローリーを思い続け、多くの曲が彼女を歌っているとされます。ダンテのベアトリーチェそのものです。「悪魔とダニエル・ジョンストン」のDVDには特典映像として、映画の公開を機に、彼とローリーが20数年ぶりに再会する様子が収められています。言葉を発することもなく、ひたすらローリーを抱きしめるダニエル・ジョンストンに涙が止まりませんでした。ダニエル・ジョンストンは、2019年、心臓発作を起こし亡くなっています。58歳でした。(写真出典:en.wikipadia.org)

サンティアゴ・デ・クーバ