2023年7月30日日曜日

「マッド・ハイジ」

監督:ヨハネス・ハートマン/サンドロ・クロプフシュタイン  2022年スイス

☆☆+

低予算で撮られたB級映画のファンは少なからずおり、かつ熱烈なファンが多いように思います。そのファンの代表格がクエンティン・タランティーノであり、B級映画へのオマージュの最高作を撮ったのもタランティーノだと思います。コアなファンが、途切れることなく存在するということは、B級映画が、ある意味、映画の本質を体現しているからだと思われます。B級映画の世界は実に幅広く、かつ熱心なファンたちによって、かなり細かく分類されています。”マッド・ハイジ””は、エクスプロイテーション映画であり、スプラッター映画であり、ハイマットのパロディ映画であり、と様々なラベルがつくようです。一言で言うなら、低俗パロディ映画です。とは言え、決して馬鹿にはできません。

本作は、クラウド・ファンディングで世界中から資金を集め、制作されました。いかにコアなB級映画ファンが多いかという証左です。近年、クラウド・ファンディング映画も増えていますが、多くは社会派、文芸系です。B級映画としては、ナチスとSFを合体させた「アイアン・スカイ」(2012)が思い出されますが、集めた金額は約1億円でした。対して”マッド・ハイジ”は3億円を集めています。よく知られた児童文学とスプラッターという組み合わせ、スイスいじりというパロディ等がウケたということなのでしょう。B級映画は、常識を越えるゴア表現も大事ですが、いかに人目を引くプロットを発想できるかも勝負になります。例えば、月の裏側で反攻を準備しているナチスとか。

チーズ工場の社長が独裁者としてナチス的にスイスを支配します。その工場以外のチーズの生産・流通は禁止されますが、ハイジの恋人で山羊飼いのペーターは、ゴート・チーズを作っていることがバレ、殺害されます。ハイジは復讐を誓います。ハイジのおじいさんも、家を焼かれ、殺されかけます。反政府運動の闘士だったおじいさんは、昔の仲間に声をかけ、再び立ち上がります。ハイジは、スイスを象徴する女神に武術を鍛えられ、刑務所で知り合ったクララ・ゼーゼマンとともに、独裁者を倒します。18禁指定だけにゴア表現満載ですが、スイスの自虐ネタ、お決まりのB級映画へのオマージュも満載です。ただ、盛り込みすぎて、ややテンポを落としている面もあります。

実は、映画の主題歌として日本のアニメ「アルプスの少女ハイジ」の曲を使おうとしていたようです。結果的には使用許可が得られなかったとのことです。どうやら欧州では、この日本のアニメがよく知られているようです。日本での放送は、1974年ですが、何度も再放送され、海外にも輸出され、特に欧州では、定番アニメの一つになったと聞きます。原作は、19世紀後半に出版されたヨハンナ・シュピリの児童文学ですが、スイスですら原作よりもアニメの方が有名なのだそうです。その制作には、総監督として高畑勲、キャラクター・デザインには宮崎駿も名を連ねています。アニメ版へのリスペクトなのかも知れませんが、クララ役には日系の女優が起用されています。

欧州で、スイス人は嫌われていると言えば言い過ぎなのでしょうが、ウザいと思われがちだと聞きます。永世中立国としての立場、金融大国としての姿勢等が、身勝手と言った印象を与えるのでしょう。また、気質として四角四面といった印象も持たれているようです。そのスイスで、国を代表する児童文学を題材に、こんな馬鹿げた映画が作られたことが一番の驚きかも知れません。実際、制作にあたっては、企業や団体から協力を断られ、制作に参加したスタッフも職場を解雇されたりと、なかなかの圧力があったようです。我々も、日本文化を茶化した映像を見れば気分が悪くなりますから、理解できる面もあります。ま、低俗B級映画ですから、全てのスィッチをオフにして、ただ笑い、ただ驚いていればいいのだと思います。それがB級映画の本質でもあります。(写真出典:news.yahoo.co.jp)

2023年7月28日金曜日

Tシャツ

クルー・ネックの白いTシャツを着始めたのは高校生の頃でした。当時は、アイビー・ルックにおける定番の下着でした。その後、プリントTシャツが当たり前の時代を迎えますが、私は、それを着ることはありませんでした。というのも、永い間、かつ一年中、下着として着ていたので、アウター・ウェアとして着ることには抵抗感があったわけです。そもそもTシャツは、下着として、19世紀後半のアメリカで生まれています。当時、一般的だった男性の下着と言えば、西部劇などでよく見かける上下一体型のユニオン・スーツでした。それを、鉱山など暑い環境で働く労働者のために、上下を別にしたことでTシャツが誕生します。 

1913年には、アメリカ海軍が下着としてTシャツを採用します。安くて、着心地が良く、洗濯も容易だったことが評価されたようです。兵隊たちは、作業時に、制服を脱いでTシャツ姿で働くようになります。ほどなくTシャツは、全米の労働者たちの間に広がっていきます。1932年には、アメリカン・フットボール選手の下着として、クルー・ネックTシャツが開発され、海軍がこれを採用したことから、以降、クルー(船員)・ネックと呼ばれます。現在のように、Tシャツがアウター・ウェアとして認識されるようになったきっかけは、1951年公開の映画「欲望という名の電車」だと言われます。マーロン・ブランドのTシャツ姿が評判となり、若者たちがこぞって真似をしたからです。

1960年代になると、プリントTシャツの時代が始まります。プリントTシャツ自体は、40年代からあったようです。ただ、旧体制を批判するカウンター・カルチャーの時代にあって、Tシャツは、単なるファッションから、主義主張を表明するコミュニケーション・ツールへと変化を遂げました。その動きが、アウターとしてのTシャツの一般化を決定づけたと思われます。いまやTシャツは、アパレル産業の大きな部分を占め、1着数十万円という超高級ブランド品まで存在します。私も、ここ10年ばかり、Tシャツを着るようになりました。ただ、購入する際には、いまだに着心地以外の判断基準がよく分かりません。

下着だったものが、時代とともに表に出てきてアウター化するという変化は興味深いと思います。その機能性の高さゆえ、ということは理解できますが、もう少し異なる背景もあるように思います。日本でも、着物の標準である小袖は、そもそも下着でした。平安期の貴族の下着として着用されていたものが、平民の日常着となり、鎌倉時代には一般的なアウターへと変化したようです。つまり、下着のアウター化という傾向は、権力構造の変化、あるいは民主化の動きと深く関わっているということなのでしょう。権力を持つ階層がタブーと規定したものが、タブーではなくなっていく構図と言えます。

家族でハワイへ行ったときのことです。カラカウア通りを散歩している時、小学校へ入りたてだった長女は、自分が通うフォックスメドー小学校のTシャツを着ていました。すると、通りを歩いてきた3人組の若者たちが大騒ぎを始めます。ワオ、俺たちもフォックスメドーの卒業生だぜ、フォックスメドー、イェー、スカースデール、イェー、というわけです。アメリカ人が、観光地で、わざわざ地元や母校のTシャツを着ている姿をよく見かけたものです。単なる地元愛だけではなく、プライドやアイデンティティを失わないように着ていたのかも知れません。Tシャツが持つことになった多様な意味合いに驚きました。(写真:「欲望という名の電車」のマーロン・ブランド 出典:rollingstone.com)

2023年7月27日木曜日

南部鉄器

東北の豪族の多くは、前九年の役、後三年の役に従軍した源氏勢、あるいは鎌倉幕府や北条家の御家人たちです。甲斐源氏の南部氏は、北条家の御家人として奥州合戦に従軍し、その功が認められ、奥州北部を拝領します。現在の青森県三戸町に居城を構えた南部氏は、南北朝時代から、急速に勢力を拡大していきます。過日、初めて三戸城跡を見てきました。大きくはありませんが、急峻で独立した台地に建つ城は、落とすことが難しかったと思われます。小田原征伐での活躍が、秀吉に認められた南部氏は、青森県東部から岩手県北部まで所領を拡大し、その中央にあたる不来方(盛岡)へと居城を移します。同じ土地を700年以上治めた領主としては、他に薩摩の島津氏がいますが、世界的にも珍しい存在と聞きます。

盛岡藩は、広大な領地を持つものの、土地は山がちであり、表高は10万石、内高20万石と言われます。かつ寒冷な気候は稲作には適しておらず、多くの飢饉と一揆が発生します。特に沿岸部では、夏場に”やませ”という冷たい東風が吹き、大飢饉が頻発しています。国内では、最も遅くまで、粟・稗といった雑穀を主食にしていたとも聞きます。一方、北部は、古来、駿馬の産地として知られ、平安期には一戸から九戸までの牧場体制が整備されています。また、奈良時代に掘削が始まったとされる尾去沢鉱山をはじめ、金・銀・銅・砂鉄等の鉱物資源にも恵まれていました。ちなみに尾去沢は、現在、秋田県内にありますが、もともとは盛岡藩領でした。戊辰戦争の際、新政府側の秋田藩が奥州越列藩同盟側の盛岡藩を破り、入手しています。

その鉱物資源を使って生まれたのが南部鉄器です。安土桃山時代の末期、第2代藩主となった南部重直は茶の湯に造詣が深く、京都から釜師、甲州から鋳物師を呼び寄せ、地元の砂鉄を使った茶釜を作り始めます。実は、岩手県名産の南部鉄器の生産拠点は2カ所あります。南部氏の城下町である盛岡とその近郊、そして旧仙台藩領であった県南の水沢です。水沢の鉄器の歴史は盛岡よりも古く、平安末期、藤原清衡が、近江から鋳物師を招いて製造が始まったようです。豊富な砂鉄、そして北上川がもたらす砂や泥が良質な鉄器を生みました。室町期には、京都から移住した鋳物師たちが産業化したとされます。江戸期には、仙台藩の庇護を受け、幕末には大砲も製造していたようです。

不思議なのは、もともと水沢鋳物と呼ばれていた水沢の鉄器が、今は南部鉄器と呼ばれていることです。幕藩体制の解体を目的とする廃藩置県のおり、盛岡藩北部は青森県に編入され、水沢のある仙台藩北部は岩手県に編入されました。奇しくも、陸奥の2大鉄器である南部鉄器と水沢鋳物が一つの県に存在することになったわけです。両者とも、明治・大正期に隆盛を極めますが、戦時中は製造が制限され、戦後はアルミ製品に押され、苦しい時期が続きます。1974年、南部鉄器と水沢鋳物は、まとめて南部鉄器として経済産業大臣指定の日本の伝統工芸品に選ばれます。どうやら1950年代中期頃から、両者とも南部鉄器と呼ばれるようになっていたようです。

今でも、水沢の人たちは、藩も言葉も異なる盛岡に違和感を持っていると聞きます。とは言え、鉄器冬の時代を乗り切るために、あえてブランドを統一し、共にがんばろうということになったのでしょう。ただ、現在でも、盛岡には南部鉄器協同組合、水沢には水沢鋳物工業協同組合が独立的に存在します。ブランド統一後も、南部鉄器より古い歴史を誇る水沢鋳物は、そのプライドを失っていないわけです。東北新幹線の水沢江刺駅前には、巨大な鉄瓶のモニュメントが設置されています。日本一のサイズを誇ると聞きます。南部鉄器は、いまや伝統工芸品として世界に知られるようになりましたが、かつて大砲まで鋳造した水沢鋳物の伝統を残そうとしているのでしょう。余談ですが、私は、風鈴と言えば、南部鉄器に限ると思っています。余韻が長く澄んだ高い音色は、禅にも通じる奥深さがあると思っています。(写真出典:amazon.co.jp)

2023年7月25日火曜日

「サントメール」

監督: アリス・ディオップ   原題:Saint Omer   2022年フランス

☆☆☆+

2022年のヴェネツィア国際映画祭で、銀獅子賞および新人監督賞を受賞した話題作です。セネガル移民2世のフランス人であるアリス・ディオップ監督は、ドキュメンタリー作家として注目を集めていたようですが、長編ドラマとしては本作が初監督作品となります。実際に起きた若い母親による乳幼児殺害事件の裁判がモティーフになっています。法廷シーンの台詞は、法廷記録をほぼ忠実に再現しているとのこと。監督も、実際に裁判を傍聴したようです。事件は、2013年、フランス北部で起きました。高齢のフランス人彫刻家と同棲するセネガル人留学生が、人知れず出産して育てた1歳半の子供を砂浜に放置し、殺害したという事件です。留学生は、法廷で、なぜこうなったのか分からないと証言します。

アプローチは、セミ・ドキュメンタリー的ですが、緊張感は優れたドラマのそれだと思えます。その理由は三つあると思います。一つは、監督自身が反映された傍聴者というサブ・フレームの設定です。セネガル移民2世の大学教授は、妊娠4ヶ月で、母になることへの不安、そして母親への複雑な思いを抱えています。二つ目は、見事なキャスティングと存在感ある演技です。特に、裁かれる留学生を演じたガスラジー・マランダの存在感、そして困惑に正対する姿が印象的でした。また、傍聴する大学教授役のカイジ・カガメが演じる漠然たる不安感が、本作を見事なドラマに仕立てている面があります。他の出演者もほとんど女性ですが、抑え気味の演技が実存感を高めています。

三つ目は、よく練られた脚本です。裁判記録に基づく台詞もさることながら、あえて結論めいた展開を避け、判断を観客個々に委ねるというシナリオは、テーマの訴求に極めて有効だったと思います。特に、法廷映画にも関わらず判決を一切伝えていないことが、本作のテーマを象徴しています。実際の裁判では、精神科医が妄想症との診断を下しながらも、判断能力ありとし、懲役20年と精神病の治療を命じる判決が下されています。法の世界では裁かれて当然としても、果たして、封建的な家庭に育ち、差別的環境のなかで孤独を募らせた被告の母性を裁くことはできるのか、ということなのでしょう。しかも、それは単なる同情や差別批判ではなく、母性の複雑性そのものを問うていると考えます。

弁護人による印象的な最終弁論は、実際の裁判記録とは異なるようですが、本作のテーマに関する解題とも言える内容になっています。やや語りすぎているようにも思えますが、テーマの複雑性からしてやむを得なかったのかも知れません。母性の複雑性を伝えるキマイラの例えは興味深いものがあります。キマイラは、ギリシャ神話に登場します。頭はライオン、胴は山羊で頭部まで備え、尻尾は蛇、そして口から火を吹くという怪物です。中世のキリスト教では、悪魔や淫乱の象徴とされ、また、その複合性ゆえ女性の象徴と捉えることもあったようです。生物学のキメラ、つまり同一個体のなかに遺伝子型の異なる組織が存在する現象の語源でもあります。母と子は、臍帯を通じてキメラを生じるともされます。

事件は、日本なら育児ノイローゼという言葉で括られることになるのでしょう。育児ノイローゼは、ストレスやホルモンの乱れが原因とされます。ただ、本作が語る母性と孤独を思えば、それほど単純なものではなく、より奥深いものがあるように思えます。母子の一体感が存在する一方で、途切れることのない人類のリンクのなかに置かれる不安や孤独感、またそれゆえに生じる自分の母親への複雑な思い等々、単純には言い表せないものがあるのでしょう。その感覚は、男性には理解不能なのかもしれません。ただ、監督のシャープな演出が問いかけるものは深いとは思いました。セリーヌ・シアマ監督が、本作を「ジャンヌ・ディエルマン」に匹敵するとまで評価していますが、分かるような気がします。(写真出典:cinemarche.net)

2023年7月23日日曜日

カリオカの夜

Marcos Valle
ブルー・ノートで、マルコス・ヴァーリのライブを楽しみました。フュージョン・バンドのアジムスを従えての演奏でした。ブラジルのポップス界を代表するマルコス・ヴァーリも80歳。演奏も見た目も若々しく、年齢を感じさせません。シンガー・ソング・ライターですが、ギター、キー・ボードの腕前もなかなかのものです。音楽も幅広く、ボッサ・ノヴァからキャリアを始めましたが、ジャズ、ロック、ソウルの要素も取り入れたポップ・ミュージックを展開します。マルコス・ヴァーリの演奏は、強いリズム、都会的センスを感じさせるメロディ、アレンジが特徴で、とても心地良い上質な音楽と言えます。いわばリオ・デ・ジャネイロの風を感じさせる音楽と言えます。ま、残念ながらリオには行ったことがないのですが・・・。

マルコス・ヴァーリが、その名を世界に知らしめたのが「サマー・サンバ(原題:Samba de Verão 英題:So Nice)」(1964)のヒットです。1966年に、ジャズ・オルガンのワルター・ワンダレーがレコーディングして、世界的な大ヒットになりました。ボッサ・ノヴァを代表する曲の一つと言ってもいいのでしょう。マルコス・ヴァーリは。1943年、コパカバーナ界隈の裕福な家に生まれています。ボッサ・ノヴァが生まれたその時、その場所で、思春期を迎えていたわけです。まさにボッサの申し子です。その後、ブラジルと米国で、幅広いポップを演奏するものの、その音楽にはブラジルの伝統が息づいています。私は、勝手に、マルコス・ヴァーリの音楽はショーロのモダン・ヴァージョンではないか、と思っています。

ショーロは、19世紀のリオ・デ・ジャネイロで生まれた音楽です。西アフリカと西洋の音楽が融合して生まれ、即興演奏を楽しむ都会的なスタイルから、ブラジルのジャズとも呼ばれます。私は、サンバにハマって20年以上経ちますが、きっかけはショーロの名曲「カリオカの夜(Noites Cariocas)」を耳にしたことでした。カリオカの夜は、ショーロの立役者にしてバンドリンの天才ジャコー・ド・バンドリンの作曲で、1957年に録音されています。バンドリンという楽器は、フラット・バックのマンドリンであり、ショーロでは中心的な楽器です。また、カリオカとは、リオっ子を意味し、”白人の家”という先住民の言葉が語源とされます。ジャコー・ド・バンドリンも、リオで生まれ育ったカリオカです。

ブラジル音楽の特徴としては、重層的なリズム、7thはじめ多様で複雑なコード進行、アンティシペーションなどが挙げられます。ただ、それらを使って表現されているのは”サウダージ”につきるとも言えます。サウダージは、一般的に、郷愁、憧憬、思慕、切なさ等と訳されますが、とても正確な翻訳などできないとも言われます。確かに、十分に共感できるにも関わらず言葉にすることは難しい感情だと思います。例えば、切々と歌い上げるポルトガルのファドは、サウダージの音楽とされますが、ブラジルのサウダージは、多少、ニュアンスが異なり、人の連帯といった温かみも加わっているように思います。カリオカの夜も、典型的にサウダージを感じさせます。言葉ではうまく表現できないからこそ音楽で共感しあうのだ、とも言えそうです。

リオの下町には、サンバのライブを聴かせるサンバ・バーが多く存在すると聞きます。一度出かけて、長逗留し、サンバづけの日々を過ごしてみたいと思っていました。しかし、リオへのフライトはアメリカ経由で24時間以上かかり、かつ、治安も悪く、言葉も通じません。昔、単身で、サンパウロへ一ヶ月間出張したという人の話を聞きました。ポルトガル語は話せたのか、と聞くと、全然話せない、でも英語の語尾にAかOを付ければ雰囲気は出る、と言っていました。ガソリン・スタンドで「ガソリーナ、マンターノ!」と言ったら通じたと自慢していました。決して言葉が通じたわけではありません。スタンドへ車で行って野菜を買う人はいませんからね。”マンターノ”にいたっては英語ですらありません。いずれにしても、リオはあまりにも遠いので、CDや配信でサンバを楽しみ、たまには来日するミュージシャンのライブへでかけて、カリオカたちの夜に思いを馳せたいと思います。(写真出典:en.wikipedia.org)

2023年7月21日金曜日

奈良漬け

いただき物をして、久々に奈良漬けを食べました。とても美味しくて、あらためて奈良漬けの奥深さを感じました。味や食感の良さ、美しい鼈甲色、これに歴史を加えれば、奈良漬けは、まさに漬物界の国宝だと思います。奈良漬けの文献上の初出は、長屋王木簡だとされます。1988年に奈良市で発掘された奈良時代の木簡ですが、進物としての粕漬けの瓜と茄子、という記載があるようです。当時の酒はどぶろくなので、酒粕といっても、搾った粕ではなく、底に溜まった沈殿物だったようです。酒粕は、酒の歴史とともにあるとも言われます。清酒の登場は天平の頃と言われますが、どぶろくの歴史はあまりにも古すぎて判然としないようです。いずれにしても、奈良漬けは、とてつもなく長い歴史を持っているわけです。

奈良漬けは、空気に触れない限りは、何十年も何百年も保つと言います。実際、奈良の老舗には江戸期に漬けた奈良漬けが存在し、色は真っ黒ながら、味はとてもマイルドなものなのだそうです。売ってもくれるそうですが、べらぼうな値段になるのでしょう。なれずしの発祥地とされる中国南部の山村には、数百年ものの川魚のなれずしが存在するようです。やはり空気に触れさせないことが長期保存のポイントだと言います。琵琶湖の鮒ずしも、数十年ものがあると聞きます。奈良漬けは、塩漬けした野菜や果物を漬けますが、魚や肉は聞いたことがありません。恐らく魚や肉は水分を完全に抜くことが難しく、いかに空気を遮断したとしても、漬け換えの際に腐敗菌を防ぎきれないということだと思われます。

ちなみに、奈良漬けについている粕を拭き取り、魚や肉にまぶすと、簡単な粕漬けができます。奈良漬けは、基本的に粕漬けですが、他の粕漬けと異なるのは、複数回の漬け換えを行い、長期間漬け込むという点です。それによって深い味と色が出るわけです。奈良県は、大昔から酒造が盛んな土地柄です。酒粕は十分にあったわけです。奈良漬けという名称は、江戸初期、奈良に住む漢方医が白瓜の粕漬けを「奈良漬け」と称して売り始めたことから広まったようです。奈良漬けと言えば白瓜と思いがちですが、どうもここが原点となっているようです。実際のところ、奈良漬けは、様々な野菜、あるいは果実でも漬けることができます。商品としては、胡瓜、大根、生姜、さらには西瓜、柿等々もあるようです。

米から酒を造れば、粕や沈殿物が出るわけですから、アジア各地にも、古くから粕漬けの類いは存在するのだろうと思っていました。ネットで調べた限り、近代になってから登場した、あるいは日本の粕漬けを模して作られたものはあるようですが、大昔から存在していたものは確認できませんでした。もしあったとしても、実にマイナーな存在だということなのでしょう。いささか不思議な気がします。黄酒(ホアンチュウ)は、米から作る中国の酒です。紹興酒が有名ですが、長期熟成すれば老酒になります。黄酒の酒粕は、調味料の材料として使われることがあるようです。特に紹興酒の酒粕に塩やスパイスを加えて熟成したものは香糟(シャンザオ)と呼ばれ、各種料理や漬物にも使うことがあるようです。

国宝級の奈良漬けがあるにも関わらず、関西の人はよく「奈良にうまいものなし」と言います。大阪の朝のTV番組で、アナウンサーが堂々と言っているのを聞いて、たまげたことがあります。実際には、奈良漬け、柿の葉寿司、日本酒、吉野葛、三輪素麺、茶粥、柿、お城の口取り餅、きみごろも等々の名物があります。滋賀県も同様ですが、美味いものがないのではなく、外食の文化が乏しいのだと思います。奈良も滋賀も節約文化が根付いているのでしょう。事実、両県とも貯蓄性向の高い地域です。余談になりますが、宴席等で、奈良県の名物グルメを聞くと、奈良漬け、柿の葉寿司まではスンナリ出てきます。それから、とたたみかけると、多くの人は、決まって鹿せんべいと答えます。鹿せんべいは、人間の食べ物ではありません。(写真出典:km-plumselect.com)

2023年7月19日水曜日

税関吏の夢

アンリ・ルソー「夢」
アンリ・ルソーの絵をはじめて見たのは小学校高学年の頃だったと思います。それ以降、アンリ・ルソー的なジャングルが、しばしば夢にでてきます。ルソーの絵が持つ不思議なパワーだと思っています。アンリ・ルソーは、19世紀末から20世紀初頭のナイーフ派の画家です。ナイーフ派とは、絵画に関する正式な教育も受けず、画家を職業ともしない素人画家を指します。アンリ・ルソーの職業は税関吏でした。他にも園芸業だったアンドレ・ボーシャン、農民だったグランマ・モーゼス、家政婦だったセルフィーヌ・ルイ、魚屋の妻だったモード・ルイス等々が知られます。身近な画題を独学の素朴なタッチで描くことからナイーフ派と呼ばれますが、流派や運動が存在するわけではありません。 

素人画家という意味では、いつの時代にも、人知れず多く存在していたのでしょうが、一つのジャンルとして認識されるきっかけとなったのは、アンリ・ルソーが”発見”されたことだったようです。1908年、ピカソがモンマルトルの古物屋で、アンリ・ルソーの「女性の肖像」を見つけ、わずか5フラン(200円弱)で購入します。これが、いわゆる”洗濯船”に集う画家や詩人に驚きを与え、ルソーを招いて盛大な夜会まで開かれます。アンリ・ルソー64歳の時のことです。ルソーは、既に税関を辞め、年金暮らしをしながら絵に専念していました。新しい芸術を指向していたボヘミアンたちに”発見”されたルソーですが、その2年後には亡くなっています。ピカソは、ルソーの絵を数点購入し、終生、手元においていたと言われます。

ピカソは、ルソーを発見する前年、アフリカ彫刻に触発された「アビニヨンの娘たち」を発表し、キュビズムの世界へと入っています。また、マティスやブラマンク等はフォービズムを展開していた頃です。つまり、美術界の気鋭たちは、プリミティヴィスムの大きな流れのなかにあり、ルソーも、その文脈のなかで認識されたと言えるのでしょう。プリミティヴィスムは、文明の進化に批判的で、自然であることを重視するという意味において、古代から絶え間なく存在した思想です。ストラヴィンスキー、ポール・ゴーギャン等が象徴とされる近代のプリミティヴィスムでは、反植民地主義、エキゾチシズム、反産業革命、ユートピア論なども含まれる傾向にあります。では、アンリ・ルソーは、プリミティヴィズムの画家だったのでしょうか?

ジャングルやアフリカの動物といった画題からすれば、確かにプリミティヴィスムの作家とも思えます。ただ、ルソーは、ナイーフ派の画家らしく、人物、風景、静物等と身近な画題を多く描いています。ルソーが、他のナイーフ派と大きく異なるのは、夢や幻想の世界へ足を踏み入れたことだと思います。しかも、それは主義主張とは無縁のごくシンプルな夢想の世界だったのでしょう。絵画の基本とは無縁な描き方は、確かにプリミティブとも言えますが、プリミティヴィスムとは異なります。夢想したことを絵に落とし込む執念、対象をごく細密に描きあげる執念。そこには、観るものの目線など一切気にしない自己完結の世界があります。そのスタンスこそ、プリミティヴィスムなど吹き飛ばすほどプリミティブだと言えます。

そもそも絵を描きたいという欲求、あるいは表現したいという衝動自体がプリミティブなものだと思います。そこに、鑑賞者の視線を意識する、伝えたいという欲求が強まるなど、他者への意識が加わると画家が生まれるということなのでしょう。そういう意味で、アンリ・ルソーは、アウトサイダー・アートの嚆矢なのかも知れません。タヒチへ移住したポール・ゴーギャンは、プリミティヴィスムの象徴となりました。ただ、タヒチで複数の少女を妻としたことから、移住の動機は文明批判ではなく、性的欲求だったという批判があります。もしそうだったとすれば、そのこと自体が、最もプリミティブだと思えます。ちなみに、かつて高熱を発した時に、よく見た夢があります。コロンビアのフェルナンド・ボテロが描くぼってりとした人物が、さらに膨張していく夢です。何故ボテロなのかは不明ですが、実に強烈な夢ではあります。(写真出典:amazon.co.jp)

川上