2022年9月30日金曜日

蘭州牛肉麺

一度食べて見たいと思っていた蘭州牛肉麺を、ようやく食べることができました。神保町の「馬子禄(マーズルー)牛肉面」 は、100年以上の歴史を持つという蘭州の名店から許可を得た日本第1号店として、2017年にオープンしています。馬子禄は、蘭州の牛肉麺店としては唯一、政府から認定された老舗ブランド「中華老字号」の称号を持つ店だそうです。神保町店は、通信販売業の会社が経営しています。北京留学中に、蘭州牛肉麺に惚れ込んだ社長が、馬子禄に頼み込んで開いたようです。昼時は、いつも大混雑なので、なかなか入れませんでした。数年前、東陽町に「重慶小麺」という店がオープンし、食べたらとても美味しかったので、なおのこと本場の蘭州牛肉麺が食べたいと思っていました。

店に入ったのは、夕刻6時半ころでしたが、店内は満席状態。見渡すと、インドネシアかマレー系のご家族2組、他は聞こえてくる言葉からして中国系の方々、という感じでした。入り口で、メニューや追加トッピングを選び、麺の種類を決めます。麺は、丸麺、平麺、三画麺の3種類が、さらに太さで細分化され、「毛細(極細)」から「粗蕎麦棱(太い三画麺)」までの9種類あります。麺は、注文が入ってから、伸ばして作られます。その様子は、ガラス越しに見ることができます。この打ち立ての麺が、もっちりして癖になりそうです。スープは、台湾名物の牛肉麺と同じくあっさりしていますが、大きな違いは、よりスパイシーであることです。とりわけ辛いわけではありません。香菜が効いた薬膳といった風情です。

異国情緒たっぷりの蘭州牛肉麺は、食べる海外旅行だな、と思いました。スライスした牛肉、大根、香菜、葉ニンニク、ラー油が乗っていました。薬膳と思ったからかも知れませんが、スッキリとした食後感、そして妙に元気が出たように思えました。水餃子も食べましたが、依然食べたモンゴル餃子同様、ウイキョウの葉が印象的な味でした。蘭州牛肉麺は、中国で、もっともポピュラーな麺料理だと言われます。広い中国では、全国一律で食べられている料理などほとんどなく、火鍋と蘭州牛肉麺くらいだとも聞きます。安価であることに加え、あっさりとクセがないことが全国的人気につながったのでしょう。中国全土では5万店の蘭州牛肉麺店が営業していると聞きます。

蘭州は、中国北西部甘粛省の省都です。甘粛省は、黄河の西、ゴビ砂漠の南に位置し、かつて河西回廊と呼ばれたシルクロードの要衝でした。現在は、中国最大の埋蔵量を誇る石油の生産地でもあります。また、西域とのつながりから、歴史的にイスラム教徒の回族が多いことで知られます。従って、蘭州牛肉麺は、豚ではなく、牛が使われ、かつ清真料理、つまりハラール認証された料理でもあります。それが、店内にマレー系のご家族がいた理由でもあります。ハラールは、イスラム法上、食べることが許されている食材や調理法を指します。都内のハラール認証店は、大分増えたようです。それでもイスラム教徒にとって、なんでも安心して注文できる店はまだ希少なのでしょう。

どうやら、神保町の馬子禄牛肉面の開店が、蘭州牛肉麺ブームを引き起こしたようです。店舗数は不明ですが、ネット上、ランキングが発表されているくらいですから、かなり存在すると思われます。東京は、中国の人たちが多く暮らしていますから、今まで店が無かったことが不思議なくらいなのでしょう。ちなみに、馬子禄牛肉面の”面”という字は、単純な間違いなのだろうと思いました。ところが、現代中国では、”麺”の簡体標記が”面”なのだそうです。少しややこしい気もします。(写真出典:4travel.jp)

2022年9月29日木曜日

年齢差別

NYで保険営業を行っていたおり、提携するアメリカの保険会社が、営業チームとアドミニストレーション・チームをアサインしてくれました。アドミ二・チームには、一人、70歳を超えたジョーというじいさんが含まれていました。ジョーは、一番の下っ端でしたが、経験があり、昔のことなら何でも知っていました。口数少なく、控えめな性格でしたが、誠実で信頼感抜群でした。親の遺産を相続したらしく、郊外の高級マンションに一人で暮らし、仕事には、大事に乗っているジャグァXJで颯爽と登場します。仕事をする必要など、まったくなかったのですが、この仕事が好きだから続けている、と言っていました。ジョーは、定年のない国を象徴しているかのようでした。

1987年、アメリカに赴任して、性差別と年齢差別に関する規制の厳しさに驚きました。性差別に関しては、日本でも、1972年の勤労婦人福祉法、1985年の男女雇用機会均等法が制定されていました。ただ、あくまでも努力義務に過ぎませんでした。1999年には、均等法が大幅に改正され、本格的に雇用に関する女性差別が規制されることになります。セクシャル・ハラスメントという言葉も一般化していきました。ところが、年齢差別に関しては、2007年に至り、ようよう雇用対策法が改正され、求人票に年齢制限を記載することだけが禁止されました。日本企業には、定年制はじめ、様々な年齢差別が存続し、実態として採用時の年齢制限も容認されてきました。

アメリカの年齢差別への対応は、1967年に制定された年齢差別禁止法 (ADEA)に始まります。採用における40歳以上への年齢差別が厳しく規制され、例外はあるものの、定年制も違法とされます。当時、中高年層の失業率が高止まりしていたことから、その対策としてADEAが制定されたようです。EUでは、2000年、年金財政問題等を背景に、一般雇用均等指令等が出され、各国が順次法制化しています。ただし、EU各国では、合理的な理由に基づく年齢制限などには寛容であり、産業界を圧迫しないような工夫もされています。アメリカでも、定年制は禁止ですが、公的年金の受給開始年齢に合わせるなどの対応は認められています。

誰が考えたのか、日本は、上手に年齢差別問題をスルーしてきたと言えます。日本の高度成長を支えた三種の神器と言われるのは、終身雇用、年功序列、企業内組合です。政財官界が一体となり、阿吽の呼吸で、日本株式会社のメイン・エンジンを守ってきたということなのでしょう。では、年齢差別規制を受けた欧米企業は、ダメージを被ったのでしょうか?そうではありません。なぜなら、欧米企業の多くは、終身雇用でも、年功序列でもなかったからです。雇用における年齢要素が少なかったからこそ、中途採用やジョブ型採用、選択定年制の併用など、年齢差別規制との調和が図りやすかったのでしょう。一方、年齢差別を温存した日本はどうなったのでしょうか。この30年間、物価が上がらず、賃金も上がらず、若者が将来に希望を持てない国になりました。

少子高齢化、グローバル化、低成長経済化、デジタル化といった現状からして、日本の伝統的雇用態勢の見直しは必至です。単に、女性の役職登用、定年延長といった対処療法的な対応に留まらず、終身雇用、年功序列といった慣行を捨てるべき時だと思います。一時的に混乱は生じるでしょうが、ここで変わらなければ、30年に渡る異常事態は、40年に及び、ガラパゴス化が進み、ついには日本全体が沈没していくことになりかねません。それは、日本の社会構造に関わる課題だった年齢差別問題を、上手にスルーしてきたことのつけだとも言えます。これは、まさに政治の問題です。対処療法に終始し、何も変えることができなかった政治家の責任は大きいと思います。加えて、それに警鐘を鳴らすこともなかったマスコミの責任、変化を恐れた経済界の責任も否定できません。(写真:米国労務省「高齢者雇用週間」出典:dol.gov)

2022年9月28日水曜日

BS&T

1969年は、世界的に、ジャズ・ファンが増えた年だと聞いたことがあります。私も、その年からジャズにのめり込みました。ジャズ喫茶に通い、マイルス・デイヴィスのレコードを買い、日野皓正のコンサートにでかけました。それまでは、ハード・ロック、ブルース・ロックばかり聴いていました。ジャズ一辺倒になった明確なきっかけがあったわけではなく、ごく自然に聞く音楽が変わっていったように思います。恐らく、ロックにも、ジャズにも、大きな変革のうねりが到来し、その波に乗っていったということなのでしょう。強いて、きっかけとなったものを探すとすれば、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ(BS&T)の登場ということになりそうです。

BS&Tは、1967年に、NYで結成されています。白人ブルース・ロック・バンドのはしりであったブルース・プロジェクトを脱退したアル・クーパーは、様々な音楽を融合させるという自らのアイデアを実現しようとBS&Tを結成します。トランペットには、ランディ・ブレッカーも参加していました。1st.アルバム発表後、アル・クーパーは脱退しますが、BS&Tは、強力なブラス・セクションとドラムを中心に、ロックとジャズが一体となった独自のサウンドを展開していきます。ブラス・ロックの誕生です。1969年に発表した2nd.アルバム「ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ」は、世界中で大ヒットし、グラミーの最優秀アルバムも獲得します。BS&Tは、ハードロック時代の異端児のように思えますが、実は時代の変化を象徴していたのだと思います。

1968年、ハードロックの立役者だったジミ・ヘンドリックスは「エレクトリック・レディ・ランド」をリリースし、行くところまで行った印象でした。エリック・クラプトンも、クリームを解散しています。そして、1969年8月、50万人とも言われる若者が殺到した「ウッドストック・フェスティバル」が開催されます。60年代の反戦運動、学生運動、ヒッピーといったカウンター・カルチャー最大のイベントとなりました。しかし、ウッドストックは、一つの時代の終わりを告げるイベントでもありました。3日間のコンサートの最後のステージに立ったのはジミヘンでした。大混乱のなか、フェスティバルに間に合わなかったジミヘンは、まばらになった観客を前に、極端にデフォルメしたアメリカ国歌を演奏します。実に象徴的だったと思います。

一方、ジャズ界も大きく揺れていました。1969年、マイルス・デイヴィスは「イン・ア・サイレント・ウェイ」をリリース、いわゆるエレクトリック・ジャズを本格的に開始しています。それは、単なる電子楽器の導入や8ビート、16ビート化ではなく、クロスオーバーというジャズの新しい展開の始まりでした。翌年、マイルスは「ビッチェズ・ブリュー」で、その世界を完成させ、フュージョンの時代を切り開きます。「イン・ア・サイレント・ウェイ」に参加したウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、チック・コリア、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリン 等が、新しいジャズを展開していきます。ジャズとロックの垣根は低くなり、同じステージに立つ機会も増えていきました。マイルスは、ジミヘンを高く評価し、セッションも行っています。

ジミヘンは楽譜が読めませんでした。マイルスが、ピアノで音を短く示すと、ジミヘンは、たちどころに全体を理解して、セッションが始まったという話が伝わります。BS&Tも、同じように、我々に音を示しただけなのかもしれないと思います。我々には、ブルース・ロックを通じて、ジャズの起源でもあるブルースの下地が、既に作られていました。あとは、BS&Tが、ブラスやドラムの持つパワーを示してくれるだけで良かったのでしょう。1969年は、潮目が変わった年であり、BS&Tが肩を押すことで、世界中に新たなジャズ・ファンが生まれた年だったというわけです。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年9月27日火曜日

ハンブルグ・ステーキ

ハンバーグの起源は、タルタル・ステーキだと言われます。13世紀、西進を続けるモンゴル軍は、ウィーンにまで迫ります。モンゴル軍は、食料に窮すると、老いた馬を食べていたようです。ただ、硬くて、筋張り、食べにくかったため、細かく切り刻み、香辛料を混ぜて、生のまま食べたとされます。これがタルタル・ステーキです。タタールは、モンゴル高原西方に展開するテュルク系やツングース系等の遊牧民の総称だったようです。モンゴル支配のもと、欧州遠征にも従軍しています。侵略を受けた欧州では、モンゴル軍をタタール軍と呼んでいたようです。タルタルのステーキとよばれた所以です。

勇猛さと残忍さで知られたモンゴル軍ですから、タルタル・ステーキも、野蛮な食べ物と認識されていたのでしょう。ただ、挽肉料理として欧州には広がったようです。18世紀頃、ハンブルグ、あるいはスカンジナビアで、挽肉にパン粉を入れて丸め、フライパンで焼く料理が誕生します。これはフリカデレと呼ばれ、低所得者層に人気となり、欧州中に広がります。ハンブルグ発祥とされたことから、ハンブルグ風ソーセージと呼ばれることになります。ハンバーグというよりはミートボールだと思いますが、ヨーロッパ北部の国々、特にスカンジナビアでは、今も定番中の定番料理となっています。

1848年、ドイツでは三月革命が起こります。ナポレオンが敗れた後の欧州では、復古的なウィーン体制が敷かれます。これに対して、産業革命が生んだプロレリアートの不満、民族主義の台頭を背景に、各地で革命が起こります。結果的には、反革命の動きによって革命は弾圧され、自由主義者たちは、ドイツを離れ、新天地アメリカを目指します。ドイツ移民たちは、アメリカにフリカデレを伝え、ハンバーグ・ステーキと呼ばれるようになります。タルタル・ステーキは、実に600年をかけ、地球を半周してアメリカに着き、ハンバーグと呼ばれることになったわけです。そして、20世紀に至り、ハンバーグをパンではさんだハンバーガーが登場します。

ハンバーガーの始まりに関しては、諸説あってはっきりしません。パンにはさめば、何でも食べるアメリカ人ですから、同時発生的だったのでしょう。ただ、1904年のセントルイス万博の会場で、ハンバーガーが売られていたという記録があります。最初のハンバーガー・チェーン店は、1921年、カンザス州ウィチタで創業した”ホワイト・キャッスル”です。中西部を中心に、現在も営業しています。ホワイト・キャッスルのハンバーガーは、スライダーと呼ばれる、小ぶりで四角いスタイルです。最も成功したハンバーガー・ショップと言えば、もちろん、1940年、カリフォルニアに創業したマクドナルド兄弟の店ということになります。

私が、マックで最も好きなメニューは、ソーセージ・エッグ・マフィンです。ハンバーガーには、さほど興味がありません。ハンバーグは好きです。特に粗挽きのハンバーグが好みです。最も好きだったのは、札幌”もうもう亭”のハンバーグでした。形を保つのも難しいほどの超粗挽き、つなぎなしというハンバーグでした。もうもう亭は、ホクレンの直営店でしたが、大分前に閉じています。 粗挽きハンバーグは、タルタル・ステーキの原型に熱を加えたような印象があります。タルタル・ステーキも好物です。タルタルの魅力は絶妙なスパイスの配合にあると思いますが、最近は、肉質に自信があるせいか、スパイスの効きが弱くなる傾向にあります。(写真出典:leon.jp)

2022年9月26日月曜日

薙刀

薙刀は、女性用の武術といった印象があります。しかし、もともとそうだったわけではありません。合戦を描いた絵巻物において薙刀は主役級であり、あるいは弁慶はじめ僧兵たちも薙刀を携えている印象があります。事実、平安から鎌倉期あたりまで、薙刀は、戦場における主な武器だったようです。相手との距離を確保しつつ、斬る、突く、打つことができるわけですから、馬上戦でも、徒歩戦でも威力を発揮する優れた武器だったと言えます。弱点としては、木製の柄が折れるリスク、あるいは相手が懐に飛び込んだ場合、対応できないということが挙げられます。薙刀が主役の座から陥落するのは、1467年の応仁の乱以降です。応仁の乱がもたらした戦場の変化が大きな要因です。

応仁の乱は、足軽の位置づけを高めました。平安時代から武士の補助役として存在していた足軽は、騎馬武者中心の戦場では出番がありませんでした。ところが、応仁の乱における京都市中での戦いでは、騎馬武者よりも、機動性に優れた足軽による奇襲が有効でした。下剋上という風潮も追い風となり、足軽は、その存在感を高め、戦場は足軽による白兵戦の時代へと突入します。いわば個人戦が集団戦に変わったわけです。徒歩での接近戦となると、薙刀が持つ優位性は失われます。代って主役となったのは、槍と刀でした。まずは槍で突き、叩き、そして接近戦を太刀で戦います。古代ローマ軍も、長い槍と短い剣を持った重装歩兵が、密集隊形を組んで戦いました。槍と刀は、白兵戦の基本だということです。

もちろん、そこで薙刀が消えたわけではなかったようですが、明らかに減っていったわけです。戦国時代後期になると、「薙刀直し」という打刀が登場してきます。薙刀の切っ先を落とし、茎を詰め、刀剣にしたものです。戦いを生き抜いてきた薙刀には、品質に優れたものが多く、「薙刀直しに鈍刀なし」とも言われたそうです。薙刀の刀身の短さから、脇差や短剣が多かったようですが、なかには長刀もあり、名品も少なくないようです。江戸期になると、実戦は無くなり、鍛錬としての武芸が盛んになります。薙刀も、剣術や槍術とともに流派が生まれ、武芸の一角を占めたようです。この頃、武家の女子に薙刀術が推奨されはじめたとされます。

江戸初期、幕府による銃刀所持規制は緩かったようです。ところが、江戸の町人の間で、帯刀が風俗化し、武士との区分けがつきにくくなったため、幕府は、1668年、町人による長刀の帯刀を禁じています。その後も、幾度かに渡り、禁令が出されたようです。いずれにしても、江戸期の身分制度上、苗字帯刀は、武士階級の特権とされました。ただ、女性も町人も護身のための短刀所持は許されていたようです。そして、武家の女子については、いざという時に家を守るために、薙刀の稽古が推奨されました。それに伴い、薙刀も小型化されていったようです。薙刀は、武家の嫁入り道具のひとつにもなっていました。明治になると、女性の薙刀術は、競技武道として広まります。つまり、女性の薙刀は、江戸幕府の身分制度が生んだものだったわけです。

余談になりますが、江戸期、「別式」と呼ばれる女性たちが存在しました。別式とは、各藩に召し抱えられていた武芸に秀でた女性たちのことです。奥と呼ばれる女性用の居住区画の警護、女性が外出する際の護衛を担い、武家の女性たちに薙刀等の稽古をつけてもいたようです。巴御前の昔から、武芸に優れた女性は、常に存在したということなのでしょう。ちなみに、薙刀には「巴型」と「静型」があります。刀身の幅が広く反りの大きい者が「巴型」、逆に幅が細く反りが少ないものが「静型」とされます。巴御前と静御前が愛用した薙刀に由来するものではなく、イメージから付けられた呼称のようです。(写真出典:the-ans.jp)

2022年9月25日日曜日

「デリシュ」

監督:エリック・ベナール       2021年フランス

☆☆☆+

食と革命、フランス人の血であり肉であるこの二つを融合させた大人のおとぎ話です。とてもよくできた脚本であり、絵のように美しい映像であり、よくこなれた演出であり、実に達者な演技だと思います。この映画を見たフランス人たちは、拍手喝采したと思います。ラストシーンで、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が流れなかったことが不思議なくらいです。こういう佳作は、映画界の宝です。大事にしたいものです。ただ、本作を、実話のごとく紹介するパブリシティは、気になります。主人公マンスロンは、フランス革命前の料理人たちを象徴する架空の人物です。

大雑把に言えば、フランス革命以前の料理人とは、宮廷やお屋敷で、貴族のために料理を作る人たちのことでした。革命で貴族が没落すると、職を失った料理人たちが、街にレストランを開き始めたわけです。粗末な食事を提供する旅籠や居酒屋は、昔から存在しました。レストランは、着席して、給仕を受け、メニューから料理を選ぶスタイルです。レストランという言葉は、回復というフランス語に由来します。疲労回復に効果のあるスープ等を指した言葉だったようです。18世紀中葉には、パン屋が、スープや卵料理等、回復効果の高い料理の提供を始めていたようです。フランス最初のレストランは、1782年、貴族のお抱え料理人だったアントワーヌ・ボーヴィリエが、パリに開いた「Grand Taverne de Londres」とされます。

本作では、そのあたりの歴史が、うまく織り込まれていると思います。なお、映画では、主人公たちが、コース料理を発案したことになっています。実際のところ、宮廷風の大皿料理からコース料理への展開は、アントン・カレームの弟子たちが、ロシア料理にヒントを得て発案し、オーギュスト・エスコフィエによって完成されたとされます。ただ、いずれも19世紀になってからのことです。このあたりも、上手に取り込んでいるわけです。映画に登場するレシピや調理法は、専門家の監修のもと、18世紀の実態に近いものが再現されているようです。タイトルにもなっている「デリシュ」は、美味しいという意味ですが、主人公が考案した料理の名前でもあります。これも、映画のために、専門家たちが開発したレシピのようです。

じゃがいもとトリュフを使った創作料理「デリシュ」を、貴族の正餐に出した主人公は、聖職者からこき下ろされ、貴族たちもこれに同調します。これがプロットのキーになっています。当時、教会は、天国に近い、つまり空中高く生育した食物を良しとし、地中から採れた作物を否定していました。まさに貴族と庶民の関係そのものです。「デリシュ」は、旧体制の硬直性を表わす、実にうまい仕掛けだと思います。主人である伯爵は、地中作物を料理に使ったことを怒り、主人公に謝罪を求めます。ただ、彼は、決して謝ることはなく、解雇されます。これも、また革命そのもののメタファーです。他にも、当時は存在しなかった女性料理人、決して庶民と食卓を同じくしなかった貴族等々、本作には、革命モティーフが多く散りばめられています。

映画のラストには、3年後、バスティーユが陥落した、という字幕が流れます。食を題材としながらも、徹底的に革命モティーフにこだわった脚本が、この映画の成功の要因だと思います。ある意味、勧善懲悪ものと同様のカタルシスを与えてくれます。ちなみに、革命を意味するレボリューションも、回転というフランス語を起源とします。日本は、革命を経験していない希な国だと言われます。明治維新も武家社会における政変と捉えるべきなのでしょう。ただ、明治維新は、市民革命に近い効果を生み出したとも言えます。フランス革命とは異なりますが、明治維新も食に革命をもたらしました。食を通じて革命を語ることは、誠に正しいアプローチだと言えます。(写真出典:filmarks.com)

2022年9月24日土曜日

おしゃべりなラジオ

2000年に、新商品を大々的にプロモートするためのメディア・ミックス計画を練っていたおり、代理店からラジオの活用を提案されました。意外な印象を受けました。TVで育った私たちからすれば、ラジオのリスナーは、さほど多いように思えなかったからです。ところが、地方では、依然、大きな影響力を持つと聞かされました。地方は、完全な車社会です。農作業に、通勤に、一家に一台ではなく、一人一台が必須という世界です。そして、車中では、ラジオがよく聞かれているというわけです。私が、車で聞くとすれば、好きな音楽であり、かつてはカセット・テープからCD、最近はBluetoothでスマホやミュージック・プレイヤーから飛ばします。それが当たり前と思っていました。

日本のラジオに関して、不思議だと思っていることがあります。音楽よりも、しゃべり中心の番組が多いことです。決してラジオに詳しいわけではありませんので、音楽番組も、あるいは音楽専門局も、結構、あるのかも知れません。ただ、音楽だけを流し続ける無数の局があるアメリカと比較すると、日本は、圧倒的にしゃべり中心のラジオ文化だと思えます。なぜ、そうなのか、ネットで調べてみると、諸説あるようですが、どうも定説はないようです。最も肝心なのは、日本のリスナーが、しゃべり中心の番組を求めているのか、ということです。ネットで調べると、2006年に、「放送研究と調査」という専門誌が行ったアンケート調査を見つけました。

リスナーが求めている番組の1位は「音楽中心の番組」の65%、2位は「ニュース・天気予報」の64%。この二つが群を抜いており、次いで「交通情報」の35%、「おしゃべり中心の番組」は32%で4位に過ぎませんでした。リスナーが音楽と情報を求めているにも関わらず、おしゃべり番組が多いということは、放送局側に何らかの事情があるということになります。局側の事情として、まずは楽曲使用料があげられます。JASRAC(日本音楽著作権協会)の規定によれば、基本的な算式は、1曲放送する毎にいくらと金額が決まっているようです。つまり、音楽を流さないことがコストダウンにつながるわけです。ただし、予算総額や効果との関係もあり、これがおしゃべり番組が多い理由の全てではないのでしょう。

もっと大きな要因は、日本の放送・電波規制にあるのではないかと思います。日本には商業ラジオ局が100、いわゆるコミュニティFMが300あるようです。対してアメリカでは、商業ラジオ局が7,000、非商業FM局が4,000以上もあると言われています。アメリカでは、ごく限られた、あるいはマニアックなターゲットに向けた、ごくごく細分化された番組編成が可能なわけです。数が限られる日本のラジオ局は、老若男女、全てのリスナーを想定した番組を流さざるを得ません。音楽に関しては、好みが大いに分かれるところです。日本のラジオ局にとって、音楽は、結構、扱いにくい番組なのでしょう。ということは、当然、スポンサーを探すことも難しく、放送局の営業面でも扱いにくい番組ということになります。

FM放送は、1970年代に本格化しました。FMは、音楽に適した電波であり、音楽番組が増えるものと期待しましたが、結局、おしゃべり中心になっていきました。おしゃべりなFM放送など、意味がないと思いました。そんなわけで、車を運転中にラジオを聞くことは希になり、聞くとしても米軍のFEN(極東放送網)ばかりでした。FENは、1997年からはAFN(アメリカ軍放送網)に代わりましたが、アメリカの匂いがすること、そして音楽中心であることが、お気に入りポイントです。ただ、どうしても音質が悪いので、たまに聞く程度ではあります。日本の放送・電波規制には、様々な議論があります。災害放送という役割が、規制強化につながっている面もあります。また、一方では、厳しい規制が、放送局を守ってきた面も否定できないはずです。ネットの時代、地上波TVも含め、根本から見直す必要がありそうです。(写真出典:pmall.gpoint.co.jp)

家作