2022年7月31日日曜日

駄菓子屋

世界中に駄菓子の類いは存在するのでしょうが、”駄菓子屋”は日本独特の文化だと思われます。海外では、キオスク、タバコ屋、新聞屋等に、駄菓子もおいてありますが、決して子供だけがターゲットの店ではありません。駄菓子自体は、江戸期、砂糖の国内生産の開始されると、ほどなく誕生したようです。茶道などに用いられる上菓子に対して、雑穀類を使った安価な菓子は駄菓子と呼ばれました、また、田畑で働く際のおやつとして田菓子と呼ばれたとも言われます。各地で、様々な駄菓子が作れられ、街道の発達とともに、全国に広まったようです。江戸期、駄菓子の販売は、飴売りなど行商によって行われていたようです。他に、縁日の露店での販売もありました。 

駄菓子屋が誕生した経緯は、はっきりしていません。江戸町内の番所で小使役をしていた人たちが、番所近くの自宅で菓子や玩具を商う風習が生まれ、番太郎小屋と呼ばれていたようです。これが駄菓子屋になったという説もあります。駄菓子屋は、明治後期には広く存在していたようです。その頃、菓子類も扱うようになった雑貨屋に子供たちが集まるようになり、おのずと駄菓子屋へと変化していったとも言われています。いずれにしても、その背景には、明治期の工業化の進展とそれによる都市部への人口流入があるものと思われます。サプライ・サイドでは、菓子製造の工業化によって、安価な菓子類の供給が可能になったわけです。また、店舗への改装コストも安く済みました。

一方、デマンド・サイドでは、学制の整備による尋常小学校の誕生が大きな要因だったのではないかと考えます。つまり多くの子供たちが、毎日通る通学路の誕生です。そして、駄菓子屋が成立する大前提は、学校帰りの子供たちがお金を持っていたことです。いわゆるお小遣いの普及です。駄菓子屋は、繁華街や高級住宅街ではなく、下町の住宅街で生まれたものです。工場労働者が増えたことで、子供の面倒を見る親の時間が失われ、一方では安定した現金収入を得られるようになったことから、子供へお小遣いをあげる習慣が広まったのではないかと思います。しかし、ここまでの背景であれば、日本の独自のものとは思えず、先進国なら同じだったはずです。

駄菓子屋最大の特徴は、駄菓子にあるのではなく、そこに子供たちだけの世界があったことではないかと思います。駄菓子屋が日本独自の文化になり得たのは、子供たちが、子供たちだけで自由に過ごせる時間と環境があったからではないかと思います。欧米では、親が同行せずに、子供だけで店に行き、買い物することなど考えられません。子供の安全に関する認識が大いに違うわけです。NYにいた頃、夕方、子供たちだけを家に残し、ご主人を駅に迎えにいった奥さんが、チャイルド・アビューズ(幼時虐待)で、警察に通報されたという話を聞きました。日本の当たり前が通用しないから気をつけろ、と先輩に言われたものです。欧米社会の特徴でもある個人主義や法治主義が色濃く反映されているとも思います。

日本の場合、稲作文化のなかで強固に培われたコミュニティの結束が影響しているのでしょう。つまり、子供たちは、各家庭で育てられるというよりも、コミュニティ全体で守り、育てるものという認識が、潜在的に共有されていたと思われます。かつて急速に都市化した日本では、農村部のコミュニティ意識が都市部にも持ち込まれていたのでしょう。都市化が進めば、当然、それは失われていきます。1991年には約7万軒あった駄菓子屋が、2016年には1.5万まで減少しているようです。少子化、過疎化、コンビニの誕生、スナック菓子の普及等が、その要因と言われます。加えて、都市化が進み、文化が欧米化されるなか、日本の農村的コミュニティが崩壊したことが、駄菓子屋の減少につながっているものと考えます。(写真出典:ikishuppan.co.jp)

2022年7月30日土曜日

巨済捕虜収容所

巨済島(コジェド)は、朝鮮半島南部に位置します。現在は、巨加大橋で釜山市とつながっています。面積は、種子島よりやや小さい程度ですが、韓国では、済州島に次ぐ大きな島です。古代から、日本と半島をつなぐ海上交通の要衝であり、元の大軍が日本へ出発し、秀吉軍が日本から到着した島でもあります。朝鮮戦争時の1950年9月、劣勢に立った韓国軍を支援すべく、国連軍が仁川上陸作戦を成功させます。韓国南部にまで侵攻していた北朝鮮軍は、挟み撃ちとなり、多くの捕虜が発生します。巨済島には、巨大な捕虜収容所が設置され、最大時、17万6千人が収容されていました。

捕虜は、北朝鮮兵士10万人だけではなく、中共義勇兵2万人、北朝鮮軍に強制徴募された韓国人兵士、北朝鮮軍に協力した韓国民間人の計5万人も収容されていました。まるで朝鮮戦争の縮図が、巨大収容所内に出現したようなものです。当然、捕虜のなかで北と南の対立が発生し、主導権争いが繰り広げられます。空前の規模に加え、ジュネーブ協定も想定していない内部対立と、まさに前代未聞の収容所の管理に、国連軍の主体である米軍は大いに苦慮します。看守の数が、圧倒的に不足していたこともあり、国連軍は、収容所の周囲だけを警備し、内部へは、ほとんど立ち入りませんでした。これが、収容所内の南北対立を過激化させる要因ともなりました。

朝鮮戦争では、同じ民族同士の戦いの特徴でもあるスパイ活動や破壊工作が頻発します。収容所にも、北朝鮮軍司令部から、指示が届くだけでなく、反乱指導者や連絡要員も送り込まれます。捕虜の送還に関するスクリーニングが開始されると、対立は頂点に達します。スクリーニングとは、北に帰りたいか否かという意思を捕虜個々人に問うことです。北朝鮮は、スクリーニング無しで全員帰国を主張します。収容所内で反共側に立っていた捕虜にとって、それは死刑宣告のようなものです。朝鮮戦争の休戦協定は、1953年7月、国連軍、北朝鮮軍、中国軍の間で成立しますが、交渉自体は、1951年から開始されています。交渉が難航した理由は、スターリン、毛沢東、そして韓国の李承晩の反対があったためですが、捕虜の扱いも大きな争点でした。

北朝鮮軍に強制的に協力させられた韓国人捕虜たちが、北への送還を希望しないことは当然です。ただ、なかには、北に協力したことで、もう南に残れないという人たちも少なからずいたようです。一方、韓国国内に収容されていた北朝鮮人・中国人捕虜12万人のうち、相当数が、北への送還を望んでおらず、これが交渉を難しくした面があります。北朝鮮と中国は、国連軍によるスクリーニングが恣意的に行われていると非難します。同時に、北朝鮮軍司令部は、巨済島収容所での反乱も指揮していきます。戦時捕虜の任務は、後方攪乱と言われます。巨済島収容所の場合、反乱は、イデオロギーの違いによる捕虜同士の争いという特殊な側面も持っていたわけです。

ネット上で見る限りですが、巨済島収容所に関する書籍や記録が少ないことに驚かされます。これだけ多くの人が収容され、かつ歴史上例を見ない特殊な状況を考えれば、もっと多くの経験談や研究があってもいいように思います。ただ、何が起きていたかということに関しては、北側、反共側の水掛論に終始する可能性もあり、また、暴露合戦は、あまりにも生々しく、多くの人びとに影響を与える懸念もあります。休戦後、韓国には厳しい反共体制が構築され、一方ではスパイ戦も絶えず、とても収容所に関する話などできる状況ではなかったのかもしれません。(写真出典:britannica.com)

2022年7月29日金曜日

アペリティーヴォ

中世の佇まいを残すフィレンツェは、本当にいい街だと思います。ローマへ家族で旅行した際、ローマ・テルミニ駅近くにアパートを借りたので、朝早くの電車でフィレンツェへ出かけ、まる一日、ウフィツイやドゥオモ観光をし、夜の電車で戻りました。前身がイタリア国鉄というトレニタリアの高速鉄道フレッチャロッサを使えば、ローマ・フィレンツェ間は90分弱。チケットは、ネットで日本からも買うことができ、席も予約できます。やはり事前にチケットを購入しておいたウフィツイ美術館もピッティ宮殿も、すんなり入れて、たっぷり楽しむことができました。

昼食には、ビスティッカ・アラ・フィオレンティーナを堪能しましたが、夕食は、初めて、イタリア名物アペリティーヴォを楽しみ、夕食代わりとしました。アペリティーヴォは、食前酒という意味ですが、プラス料金を払うと、つまみ食べ放題になります。飲み物代だけで、つまみは無料という地域もあるようです。つまみの種類は、街や店によって異なるようですが、ピンチョス・スタイルが多いように思います。プラス料金も店によって区々ですが、おおむね数ユーロといったところです。イタリア人は、夕方にアペリティーヴォを楽しみ、夜9~10時頃から、夕食を食べるわけです。種類豊富なつまみのなかにはパスタ等もあり、日本人にとって、アペリティーヴォは夕食として十分以上だと思います。

アメリカ由来のハッピー・アワーのイタリア版といったところです。酒を割引く代わりに、つまみを無料で、あるいは安く提供するわけです。ハッピー・アワーの語源は、アメリカ海軍にあり、街で広がりを見せたのは1960年代以降と言われます。アペリティーヴォは、ミラノ発祥とも言われますが、時期も含めて、どうもはっきりしません。もともと、世界中の都市部には、仕事終わりに、軽く1~2杯の酒を楽しみ、その後、帰宅するという文化があります。NYでも同じであり、職場の近くの店で、皆、飲んでいます。腰を据えて飲むというよりは、カウンターのあたりで立ち飲みが一般的です。同僚はもとより、近所の会社で働く人たちとも、気軽に交流できます。いい文化だと思いますが、当時の日本人駐在員は、残業が多く、あまり参加していませんでした。

仕事終わりの一杯という文化は、イタリアでも同じです。夕暮れ時のバーは、外にまであふれた客で混み合っています。実にイタリア的な光景です。アメリカのハッピー・アワーで定番の飲み物と言えばビールかウィスキーですが、イタリアでは、ワインが多いように思います。北イタリアに行くと、プロセッコと呼ばれるヴィネト州のスパークリング・ワイン、カンパリ、そしてスプリッツが主流です。スプリッツは、北イタリアを代表するカクテルです。プロセッコに、氷、炭酸水、カンパリかアペロールを加え、オレンジかレモンのスライスを入れます。カンパリを使えば苦味がきいたスプリッツ、アペロールなら色も味もソフトになります。プロセッコの代わりに白ワインを使う場合もありますが、お薦めできません。

いずれにしても、スプリッツは、イタリアの夕暮れ時に、実によくあうカクテルだと思います。それが、イタリア料理好きの日本で、なぜ一般化していないのか不思議です。さるイタリア料理店で聞くと、そもそもプロセッコの生産量が限られ、日本にはあまり入ってこないからだと言っていました。それもそうなのでしょうが、プロセッコは、決して高価なものではありません。日本では、スパーリング・ワインと言えば高価なものなので、高く売れないプロセッコは、輸入業者にとっても、店にとっても好ましい酒ではないのではないでしょうか。いずれにしても、夏場になると、余計にスプリッツが恋しくなります。(写真出典:iiyanitalia.com)

2022年7月28日木曜日

式年遷宮

伊勢神宮の上棟際
神社の式年遷宮は、一定年数毎に、社殿を変えることを指します。古い社殿をリニューアルするのではなく、新たな社殿を建造し、神座を遷します。式年遷宮は伊勢神宮にはじまるとされ、歴史ある他の神社でも行われます。伊勢神宮の式年遷宮は、685年、天武天皇が定め、690年に初めて実施されました。戦国時代の中断もありましたが、2013年の第62回に至るまで、20年毎に行われてきました。ところが、何故、式年遷宮を行うかということについては、何の記録も残っておらず、不明のままだと言われます。 

社殿は古い方が、箔が付くようにも思えます。ただ、確実に老朽化するわけですから、新たな社殿を建造することは理解できます。特に白木作りの伊勢神宮では、それは不可避とも言えるのでしょう。しかし、建屋の老朽化だけが問題なのであれば、他にも選択肢があるように思います。最も理解しやすいのは修繕を重ねる方法ですし、建材に漆を塗る、銅板を貼る等の腐食予防策も考えられます。ところが、あえて新築が選択されているわけです。さらに、式年遷宮は、単に建屋を新築するだけではなく、社殿に収められている御装束、宝物、神具等も、すべて新しく再現されます。式年遷宮の背景には、”常若(とこわか)”という思想があるという説があります。つまり、常に新しい状態こそが、最も清浄であるという考え方です。

伊勢神宮の式年遷宮に関する諸儀式・祭事は、遷宮の9年前から始まります。まずは、建材の伐採に関わる諸儀式から始まります。同時に、御装束を織るための生糸の繰り始め、続いて織り始めの儀式も行われます。その数714種、1576点と言われる神宝類には、漆、鋳金、象眼はじめ、かなり幅広い伝統技術が使われています。その一つひとつが、受け継がれた工法によって、丁寧に、時間をかけて、寸部違わず再現されていきます。奈良・平安時代からの技法が、脈々と受け継がれてきているわけです。”現代の正倉院”と呼ばれる所以でもあります。実は、式年遷宮には、こうした伝統技術の継承というねらいもあったのではないか、という見方もあります。

だとすれば、日本国の礎を築いた天武天皇の慧眼は、まさに驚くべきものだったと言わざるを得ません。壬申の乱を経て、673年に即位した天武天皇は、部族社会とも言えるそれまでの日本を、国家としての体裁を持つ国に変えました。日本、天皇という言葉も、天武天皇時代に生まれています。663年、ヤマト王権は、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗を喫します。日本は、その勢いをかった唐が攻め込んでくることを恐れました。天武天皇は、防衛拠点の整備はじめ軍備増強、中央集権の強化、官制の整備、永続的な都と副都の建設等、政治・軍事体制の強化に努める一方、伊勢神宮の整備、仏教の国家宗教、記紀の編纂等、文化面でも国としての形を整えていきます。伊勢神宮の式年遷宮も、そうした政策の一環だったと考えられます。

極端な言い方をすれば、日本国は、外圧によって成立したということになります。式年遷宮も、唐の脅威がゆえに始まったと言えば、言い過ぎでしょうか。式年遷宮があった翌年は”御陰年”と呼ばれます。御陰年の参拝は、特に御利益があるとされますが、これも常若思想の現われなのでしょう。江戸期に3度発生した爆発的なお伊勢参りブームは”お陰参り”と呼ばれ、この御陰年に起こっています。2014年の御陰年の3月に、家族でお参りしましたが、大混雑でした。いつも混み合う伊勢神宮ですが、今でも、御陰年は、一層混み合うようです。(写真出典:shikoku-np.co.jp)

2022年7月27日水曜日

豆かん

梅むらの豆かん
浅草の「舟和」といえば、なんと言っても芋羊羹ということになります。芋羊羹は、舟和が発祥の店です。1902年、芋問屋だった創業者の小林和助が、当時、高価だった練羊羹を、安価に多くの人に食べてもらおうと、芋を材料に作りあげました。売り物にならない芋の活用というエコな発想もあったようです。 芋羊羹の共同開発者であった石川定吉が船橋の出身者であったことから舟、自分の名前から和をとって、舟和という店名が生まれたと聞きます。実は、翌1903年、舟和はもう一つの大発明をしています。”みつ豆”です。上新粉で練った舟に赤エンドウ豆と蜜を入れた江戸期の駄菓子がヒントになったようです。

みつ豆は、賽の目状の寒天、茹でた赤エンドウマメ、求肥、干し杏子、シロップ漬けのミカン等に黒蜜をかけたものです。舟和は、これを銀の器に盛り付け、銀のスプーンを添えて出しました。大人の甘味を目指したと言われます。当時、流行していたビアホールやミルクホールの向こうを張って”みつ豆ホール”と称した店舗で売り始めたそうです。みつ豆に餡子をのせた“あんみつ”は、1930年に、銀座の「若松」が考案したとされます。その後、様々なヴァリエーションが登場します。アイスクリームをのせたもの、白玉団子を入れたもの、カットしたフルーツをのせたもの、あるいは、それらを組み合わせたものなどがあります。

店による味の違いは、黒蜜と赤エンドウマメで決まります。寒天やその他の食材に大きな味の違いはありません。そこで登場するのが”豆かん”、つまり豆かんてんです。赤エンドウマメ、寒天、黒蜜というシンプルさは、味に自信がなければ出せない代物です。野球で言えば、剛速球といった風情です。1968年、浅草の観音裏に開店した「梅むら」が考案したとされます。豆かんも、甘味処の定番メニューですが、やはり「梅むら」の赤エンドウマメが最上だと思います。厳選した豆は、黒光りする色合い、塩味と甘みのバランス、ほどよい歯ごたえが絶妙な炊き上がりです。「梅むら」最大の問題は、観音裏まで行かないと食べられないことです。

なかなか浅草まで出向く機会も少なく、豆かんが食べたくなると、舟和のお土産を利用しています。暑い日が続くと、冷やした豆かんは格別美味しく感じます。それは、間違いなく寒天の食感ゆえだと思います。寒天は、17世紀の日本が発祥とされます。諸説ありますが、伏見の宿屋美濃太郎左衛門が、戸外に放置し凍ったトコロテンを見て発見したとされます。寒天という絶妙な命名をしたのは、中国から渡ってきて黄檗山萬福寺を創建した隠元禅師だと言われます。海外でも凝固剤として活用され、戦前は、日本の主要輸出品だったとも聞きます。ほとんどカロリーがないことから、現在は、健康食品にも多く使われるようです。

観音裏は、吉原と浅草寺の間に位置し、かつては色町として賑わったものだそうです。1958年の売春禁止法以来は、寂れる一方の街でした。かつて、梅むらへ行くと、周囲には、他の街とは明らかに異なるムードが漂っていたものです。以前から、おにぎりの宿六、釜飯のむつみ、大学芋の千葉屋等の有名店もありましたが、近年は、おしゃれな店が増え、人気スポットになりつつあるようです。かつてほどの賑わいはないとは言え、東京を代表する歓楽街浅草の底力は、なかなか侮れないものがあるわけです。(写真出典:otonano-shumatsu.com)

2022年7月26日火曜日

フーダニット


推理小説、ないしはミステリ小説の始まりとされるのは、1841年にエドガー・アラン・ポーが発表した「モルグ街の殺人」だとされます。1887年には、アーサー・コナン・ドイルが、「緋色の研究」で、後に最も有名な探偵となるシャーロック・ホームズを登場させます。20世紀に入ると、それまで短編中心だったミステリ界は、長編が主力になっていきます。そのなかで、1920年代以降、ミステリは、本格長編の黄金時代を迎えます。そのブームを牽引したのが、英国のアガサ・クリスティ、ドロシー・L・セイヤーズ等々であり、米国では、S.S.ヴァン・ダイン、エラリー・クイン等でした。

黄金時代を牽引したのは、”フーダニット(Who done it)”と呼ばれる本格謎解きスタイルでした。フーダニットは、まるでパズルのようなプロットや構成が特徴であり、読者も謎解きに挑戦するといった風情が人気を集めます。小説の構成は、表裏一体となった二重構造であり、表側では探偵による捜査が読者に語られ、一方、裏側には、探偵と読者が知らない真実が存在します。表側には、裏側の真実を示唆する伏線が張られます。また、犯人と疑われるような登場人物を多く配置し、探偵によるミス・ディレクションも織り込むなど、読者を真実から遠ざける仕組みも使われます。いずれにしても、最終的には、探偵が関係者を集めて、解き明かした真実を伝えます。いわゆる大団円です。

パズル的なフーダニットでは、閉鎖的なロケーションが望ましく、田園にある貴族の屋敷、保養地の島、列車や船、そして密室等が舞台とされます。また、パズルを小説化するためには、多彩で魅力的な登場人物、大時代的なしつらえ、ペダントリーといったデコレーション等に加え、個性的な探偵が必要となります。S.S.ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンス、エラリー・クインのエラリー・クイン、フリーマン・ウィルス・クロフツのフレンチ警部、アール・デア・ビガーズのチャーリー・チャン、E・S・ガードナーのペリー・メイスン、アガサ・クリスティのミス・マープル等々、枚挙に暇がありません。フーダニットは、名探偵ものとも言えます。

なかでも、シャーロック・ホームズ以降で最も有名な探偵と言えば、アガサ・クリスティのエルキュール・ポアロということになります。ベルギー人の小男、なでつけた黒髪、八の字髭といった、どこかコミカルな風情の名探偵です。ポアロの際だった特徴は、捜査対象者との会話から、その人となり、心理状況、隠された嘘等を明らかにしていく洞察力です。その能力を、ポアロは「灰色の脳細胞」と呼びます。外国人であること、背が低いこと、コミカルな風体であることが、捜査対象者の油断を引き出す面もあります。1920年の「スタイルズ荘の怪事件」に始まり、長編33編、短編50編という驚異的な作品数を誇ります。「オリエント急行の殺人」、「アクロイド殺し」、「ABC殺人事件」、「ナイルに死す」等が有名です。

本質がパズルであるフーダニットは、斬新なプロットの発想にも限界があり、様式的になりがちな面もあり、マンネリ化します。フーダニットの”Who”は、“How”に、そして”Why”へと展開し、それが、そのままミステリの進化につながります。また、黄金時代には、大衆的な読物雑誌から、ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー等が登場し、ハードボイルドが生まれています。探偵は、書斎ではなくストリートに身を置き、より社会的、より心情的なテーマに取り組みます。チャンドラーのフィリップ・マーロウは、ハードボイルドの代名詞でもあります。ポアロの後継者よりも、フィリップ・マーロウの後継者の方が数は多いと思います。ハードボイルドの読者は、疲弊した社会、募る孤独感にリアリティや共感を覚え、人と人との絆にかすかな希望を託すセンチメンタリズムに惹かれるわけです。(写真:アルバート・フィニー演じるポアロ 出典:amazon.co.jp)

2022年7月25日月曜日

行列の文化

学生の頃、1年間に渡るインド放浪の旅から帰ってきた先輩に聞いた話です。映画好きなインド人は、夕方になると映画館の前にたくさん集まる。切符売り場がオープンすると、皆、そこを目がけて殺到する。インド人は、行列が作れない民族だ、と言うのです。30年前、北京で地下鉄に乗ろうとした時のことです。切符の自販機などはなくて、ネズミの穴のようなところへお金を出すと、係の人が切符を出してくれる方式でした。私が、お金を出そうとしていると、バスが着いたようで、大勢の人が切符売り場に殺到し、お金を握った無数の手がネズミの穴目がけて出されました。私は、もみくちゃになり、結局、切符が買えたのは、騒ぎが収まってからでした。

東日本大震災のおり、一切暴動も起きず、支援物資や水を手にいれるために、粛々と行列を作る日本人が、世界中から注目されました。日本に来た外国の人たち、特にアジア各国の人たちは、日本人が、そこここで整然と行列を作っている光景に驚くようです。先進国と発展途上国の民度の違いだという説もありますが、どうも日本だけが極端な行列の文化を持っているようです。他国では、行列ができたとしても、割り込む人が後を絶たないとも聞きます。 儒教の影響や道徳観の違いとも言われますが、どうもピンときません。外国人が、良く言うのは教育の問題です。日本では、幼稚園の頃から、行列の文化がたたき込まれるが、他国には、そのような教育は存在しないというわけです。

そこで気になるのが、江戸時代以前の行列事情です。江戸時代の行列と言えば、まずは参勤交代の大名行列ということになります。大名がその威信を示し、競い合うという面もあったのでしょうし、対内的には身分の上下を明らかにする意味もあったのでしょう。また、祭礼における行列も珍しくありません。これも大名行列と同様の意味合いだったのでしょう。ただ、一方で、庶民が、何かを手に入れるために行列するというイメージは、まったくありません。例えば、浮世絵や落語のなかで、庶民が行列する姿は、見たことも、聞いたこともありません。人が少なかったとも言えますが、100万都市江戸は人であふれていたはずです。江戸期に、行列の文化がなかったとすれば、やはり教育に起因するという説が有力になります。

1872年、明治5年に“学制”が公布され、日本の国民教育がスタートします。その3年後、小学校の数は、既に2万4千を超えていたようです。その早い普及の背景には、寺子屋の存在があったのでしょう。1886年には、義務教育制が布かれています。明治政府による教育体制は、富国強兵の一環として整備されたものです。軍服調の学生服など象徴的です。”体育”という教科名は、戦後、GHQの指示で定められたものです。明治期には”体術”、”体操”と呼ばれ、良き兵士を育てる礎とされました。そして、戦時下にあっては、よりストレートに”体錬”と呼ばれることになり、教練・体操・武道を教育内容としました。いずれにしても、戦前までの体育教育は、軍隊式だったと言うことができます。恐らく日本の行列の文化は、そこで形成されたのではないかと思います。

コロナ禍のなか、世界中で、PCR検査、ワクチン接種を受けるために、長蛇の行列を作っている姿が見られました。ただ、世界中が行列文化を持つようになったわけではないのでしょう。当局によって統制、強制された行列です。コロナに関しては、官に頼らざるを得ない状況があります。行列には、官との関係という側面があるように思えました。つまり、行列とは、社会統制の浸透度の現われであり、官に対する従順さが、行列の文化の根底にあるようにも思えます。日本の行列文化は、明治以降の軍国主義の産物というだけでなく、長きに渡った江戸時代、日本人に染みこんだ”お上”には逆らえないという精神風土が、深く関係しているのかも知れません。(写真出典:shinbashi.keizai.biz)

川上