2025年11月24日月曜日

梁盤秘抄#39 The Best of Bobby Montez

アルバム名:The Best of Bobby Montez                                         アーティスト:Bobby Montez

ボビー・モンテスは、1950年代後半から、LAで活躍したヴィブラフォン奏者です。西海岸におけるラテン・ジャズのパイオニアの一人とされます。モンテスは、1934年、アリゾナのソノラで音楽一家に生まれます。多くの楽器の演奏を学んだようですが、成人すると、LAで会計士になります。仕事の傍ら、演奏活動も行っていましたが、1958年、デビュー・アルバム「ジャングル・ファンタスティック」を録音します。ヴィブラフォン、ピアノ、ベース、ティンパレス、コンガで編成されるラテン・ジャズ・クインテットでした。これが、その後も変わらぬモンテスのバンド編成となります。何枚かのアルバムをリリースし、LAのクラブでの演奏は1960年代後半まで続けていました。その後、なぜか演奏活動を止めて、造園デザイナーになり、成功を収めています。

ヴィブラフォンは、アメリカのティーガン社が、1921年に開発した比較的新しい楽器です。アルミ製の音板を持つ鉄琴楽器ですが、マリンバと同様、音板の下に共鳴管があります。ヴィブラフォンでは、共鳴管上部にはねがあり、それをモーターで回すことによって共鳴管を開閉し、絶妙なヴィブラートを生み出します。電気は使いますが、音自体は電気的に出されていないので電気楽器ではありません。ヴィブラフォンを世に知らしめたのはライオネル・ハンプトンだとされます。1930年頃から演奏を始め、1936年には、スウィング・ジャズの王様と呼ばれたベニー・グッドマンのバンドに参加しています。ちなみに、1947年、ハンプトンがオールスターズを率いてリリースした「スターダスト」は、不朽の名作として知られます。

1950年代、LAのジャズ・シーンは、ウェスト・コースト・ジャズ全盛でした。NYとは異なり、白人ジャズマンが多く、知的でクールなジャズが演奏されていました。そのなかに、スウェーデン系アメリカ人のヴィブラフォン奏者カル・ジェイダーもいました。デイブ・ブルーベックやジョージ・シアリングのバンドで活躍した後、ラテンに目覚め、1954年、カル・ジェイダー・モダン・マンボ・クインテットを結成します。折からのマンボ・ブームに乗り、バンドは成功を収めます。ボビー・モンテスは、奏法、曲調、バンド編成など、明らかにカル・ジェイダ-の影響を受けています。彼の1stアルバム「ジャングル・ファンタスティック」などはアフリカン・テイストも取り入れていますが、それも含めてカル・ジェイダ-風と言っていいと思います。

ところが、それ以降、ボビー・モンテスのスタイルは大いに変わっていきます。カル・ジェイダ-のジャズは、ラテンといっても、あくまでもクールで知的なウェスト・コースト・スタイルの枠内にありました。当時のインテリにとって、ラテンやアフリカはおしゃれなファッションだったとも言えます。対して、ボビー・モンテスは、よりストレートに、より分かりやすくラテンのエネルギーを表現していきます。アップテンポでノリが良く、明るい曲調は、恐らく当時のクラブで若者たちに大人気だったはずです。しかし、同時に、それは音楽としての幅を狭めるラウンジ化という道でもあります。ボビー・モンテスが音楽を離れ、全く異なる造園デジナーの道へと進んだ理由は、恐らく、ここにあるのだろうと思います。

本アルバムは、ベスト・アルバムで20曲も収録されています。なかでも”My”、”The Parisians”、”Brazilian”などは大好きな曲です。ポップな曲調は、まさにラウンジ・ミュージックといった感じであり、時代を感じさせます。正直なところ、ラテンといっても、キューバやブラジルのミュージシャンが演奏するような曲ではありません。そういう意味で、ボビー・モンテスは、1960年前後、LAに咲いた徒花だったとも言えそうです。ちなみに、昨今、DJたちの間で、ボビー・モンテスのヴァイナルがよくサンプリングされていたようです。確かに、時代を感じさせるラウンジ・ミュージックは、彼らの好むところだと思います。(写真出典:diskunion.net)

2025年11月22日土曜日

野宮

少し前になりますが、観世流宗家・観世清和の舞う「野宮(ののみや)」を観ました。スキのない見事な舞台でした。囃子方も見事でしたが、なかでも笛の竹市学は特筆に値すると思いました。月に2回ほど能楽を観ていますが、今年、最も完成度の高い舞台だったように思います。金春禅竹作の野宮は、源氏物語の「賢木」の巻に基づいています。秋の嵯峨野を舞台に、六条御息所の心の揺れが描かれています。今回は、合掌留、火宅留という小書によって、一層深みを増していました。禅竹作品の特徴は、シンプルなストーリーのなかに、人間の心情が精緻に織り込まれていることだと思います。ことに野宮は大曲(おおまがり)とされ、演者には高い技量が求められます。

旅の僧が、野宮の旧跡を訪ねると、榊を持った一人の女が現れ、毎年、この日に野宮を清めに来るのだと語ります。この日は、かつて光源氏が六条御息所を野宮に訪ねてきた日であり、自分は六条御息所の亡霊だと告げて去ります。夜になり、牛車に乗って現れた亡霊は、賀茂祭での車争いのことなどを語りつつ、月の光のもとで序の舞を舞い、妄執からの救済を願います。禅竹の義父・世阿弥の改作とされる「葵の上」では、六条御息所の生霊は修験者の祈祷によって成仏して終わります。しかし、野宮は、もう少し複雑です。序の舞を舞った亡霊は、光源氏が手紙を残した柴垣に近づき、鳥居に身を寄せた後に、妄執の極致を表す破の舞を踊ります。そして、曲調は一転し、亡霊は鳥居に合掌して、「火宅の門をや出でぬらん、火宅…」と謡われて終ります。

つまり、六条御息所の亡霊は、救われたのかどうか、判然としないのです。少なくとも、法力による救済は否定され、野宮という聖域とその背後にある伊勢神宮の神力による救済が暗示されます。ただ、終局の「火宅…」は、妄執からの解脱に懐疑的な含みを残しています。禅竹の重層的な作風の背景には、時代が色濃く反映されているように思えます。世阿弥は、将軍足利義満に庇護されましたが、晩年、足利義教の時代になると弾圧され、佐渡島へ流刑になります。不遇の世阿弥を支えたのが禅竹だとされます。世は室町幕府の衰退と共に乱れ始めていました。理不尽な弾圧に苦しんだ禅竹は、神仏による救済を否定しているわけではないとしても、距離を置いた見方をしていたのかも知れません。禅竹は、応仁の乱が起こって3年目に亡くなっています。

六条御息所は東宮妃でしたが、東宮が逝去した後、光源氏と恋仲になっていました。しかし、光源氏の気持ちが遠のくと嫉妬に狂います。葵祭で光源氏の正室・葵の上と車争いをして敗れた六条御息所は、生霊となって葵の上を祟ります。名曲「葵の上」に描かれるところです。野宮は、伊勢神宮や賀茂神社の斎宮として指名された内親王が、身を清めるために一定期間を過ごした場所です。新たな斎宮が指名される都度、嵯峨野か西院に設置されていたようです。源氏物語では、六条御息所が、斎宮に指名された娘とともに、一時期、野宮に滞在します。そこへ光源氏が訪ねてくるわけですが、既に光源氏の愛を失っていると自覚した六条御息所は、娘と共に伊勢神宮へと旅立ちます。娘の斎宮期間が終わると、彼女は都に戻り、出家して亡くなります。

能楽の大曲とは、演じるために高い技量を要する曲、演じられることが希な秘曲や一子相伝の曲などを指します。能ではない能と言われる「翁」、鐘入りで有名な「道成寺」、秘曲とされる「檜垣」・「姨捨」・「関寺小町」の三老女もの、歌舞伎の連獅子の元である「石橋」、そして「野宮」などが挙げられます。なかでも野宮は、細かな感情表現が身上という難曲であり、舞、謡、囃子のすべてに熟練の技が求められるとされます。もっとも、細やかな感情表現という意味では、「松虫」、「玉鬘」、「定家」、「芭蕉」といった禅竹の他の作品にも共通するように思います。とにかく、観世清和の野宮は、禅竹の気配を感じさせる良い舞台だったと思います。能楽堂の外に出ると、最前までの酷暑が嘘のような秋の気配が漂っていました。(写真出典:the-Noh.com)

2025年11月20日木曜日

ダーティ・ハリー

かつて、週末の映画館は、オールナイト上映を行っていました。いわゆる“オールナイト”は、1950年代末、博多の映画館から始まったと聞いたことがあります。ほとんど廃れましたが、池袋の新文芸坐といった一部の名画座では、まだ行われているようです。多くは、特集スタイルで、シリーズもの、あるいは特定の監督や俳優の作品などを、3~4本、まとめて上映します。例えば、1970年代に大人気だった仁義なき戦いシリーズなどは何度もオールナイト上映されていました。ダーティ・ハリー特集も定番の一つでした。ハリー・キャラハン刑事がホットドッグを食べながら、マグナム44を撃つシーンは大人気でした。仲間たちと、映画館にホットドッグを持ち込み、ダーティ・ハリーに合わせて食べるなんてこともしていました。

「ダーティ・ハリー」(1971年)は、ドン・シーゲル監督とクリント・イーストウッドが組んで制作されました。ドン・シーゲルは、B級アクション映画専門の監督でした。ちなみに、名匠サム・ペッキンパ-は、彼の弟子の一人でした。また、クリント・イーストウッドもマカロニ・ウェスタンの俳優という程度の知名度しかありませんでした。ところが、ダーティ・ハリーは映画史に残る大ヒットとなり、二人は一躍有名になります。映画はシリーズ化され、5作が撮られています。また、警察官が力を誇示するために過度な暴力を振うことが”ダーティ・ハリー症候群”と呼ばれるなど、社会的な影響力もありました。その後に制作されたアメリカの刑事映画はすべて、なんらかの形でダーティ・ハリーの影響を受けているとも言われます。

アメリカ映画のなかの刑事と言えば、組織の論理に流されない一匹狼で、悪人には厳しいが仲間や街の人たちの信頼は厚く、仕事へのこだわりや没頭ぶりから家庭は崩壊している、といったイメージが浮かびます。こういったステレオ・タイプなイメージは、ハリー・キャラハン刑事に由来するところが大きいのかもしれません。自主独立は、アメリカ建国の精神であり、アメリカ人の好むところです。加えて、被害者の視点からの正義を愚直に押し通すハリーの潔さが、アメリカ保守層の心を捉えたわけです。アメリカ社会は、泥沼化したヴェトナム戦争、若者の間に広がったカウンター・カルチャーによって、伝統的な価値観が揺らいでいた時代です。ダーティ・ハリーは、そうした世相に反撥する保守反動層を代弁する映画でした。

ダーティ・ハリーは名台詞も生み、AFIの名セリフベスト100には2つも選ばれています。1作目からは”You've got to ask yourself one question 'Do I feel lucky?' Well, do ya, punk?”が51位、そして4作目で登場する”Go ahead, make my day.”は、ダーティ・ハリーを象徴するセリフとなり、堂々の第6位となっています。”やってみろよ、俺を楽しませてくれ”という意味ですが、意訳するなら”やれるならやってみろよ”となるのでしょう。ハリーは、ダイナー強盗たちを射殺しますが、一人だけ残った犯人がウェイトレスを人質に取ります。ハリーは、たじろぐことなく、拳銃を犯人に向け、このセリフを吐くわけです。このセリフは広く知られ、特に保守層には大人気となり、ロナルド・レーガン大統領や共和党支持者のイーストウッド自身も政治集会の演説で使っています。

また、日本ではマグナム44として知られるハリーの大型拳銃も有名です。マグナム44はレミントン社の0.44インチの大口径弾薬のことであって、拳銃の名前ではありません。ハリーは、大型のスミス&ウェッソンM29拳銃に、マグナム44弾を装填しています。狩猟用の大型拳銃は、カウボーイを連想させますが、それも計算済みの演出だったと言えます。S&W.M29は、決して需要の高い拳銃ではありませんでしたが、映画のヒットで世界最強の拳銃として知られることになり、定価の3倍以上で取引されたと聞きます。ダーティ・ハリーのセリフ、拳銃、ホットドッグなどは、すべてB級アクション映画の真髄を心得たドン・シーゲルらしいこだわりでした。さらに、ダーティ・ハリーの音楽はラロ・シフリンが担当しています。このB級映画音楽の大家は、スパイ大作戦、燃えよドラゴンはじめ実に多くの映画やTVの音楽を担当しています。(写真出典:eiga.com)

2025年11月18日火曜日

近江聖人

滋賀県出身の人から中江藤樹の伝記を頂戴したことがあります。多忙な時期であったことから、ページを開くことはありませんでした。興味が湧かなかったということでもあるのでしょう。江戸初期の儒学者・中江藤樹は、日本における陽明学の先駆者です。近江聖人とも呼ばれ、今までも滋賀県民が誇りとしています。陽明学は、明代の王陽明によって開かれた儒学の一派です。長い歴史を持つ儒学ですが、戦後生まれの我々にとって、孔子や論語は知っていても、やや縁遠い存在になっていると言えます。日本に伝わったのは5世紀と言われ、道教の後、仏教の前ということになります。日本では、倫理、政治思想として定着し、大衆的には道徳として広まりました。しかし、仏教ほどの影響力はなかったと言えるのでしょう。 

中国では儒教として、より宗教的な位置づけだと聞きます。また、韓国では、李氏朝鮮が500年に渡る統治の根本思想としたことから、依然として大きな影響力を持っています。1980年代後半、アメリカの有名大学にアジア系の留学生が増え始め、皆、優秀だと話題になりました。ニューズウィーク誌は、中国、日本、韓国、ヴェトナムの留学生が勤勉で優秀なのは儒学の影響だと報じていました。実は、この4ヶ国のなかで、日本だけが科挙の制度を持っていませんでした。科挙の出題が儒学に関する知識で占められていたことから、他の3ヶ国の社会には儒学が浸透していきました。ちなみに、日本が科挙を選択しなかった理由は、ヤマト王権が部族連合であり、ネポティズムが優先されたからなのでしょう。日本は、盲目的に中国文化を追随していたわけではありません。

南宋時代になると、朱熹が登場し、朱子学を唱えます。大きな影響力を持つに至った朱子学は、科挙の出題の中心にもなります。中世日本にも伝わった朱子学は、仏教界を中心に広がりをみせます。朱子学の基本となる思想は、全ての存在は”気”で構成され、その生成変化を担うのが”理”であるというものです。社会秩序を保つために有効であることから、江戸幕府は朱子学を正学と定め、林羅山を重用するとともに、儒学の官立学校である昌平黌(湯島御聖堂)を開設します。明代になると、体制による統治思想化した朱子学を批判する王陽明が、陽明学を創始します。陽明学は、万民が持つ善なる心”良知”に従って行動する”知行合一”を説きます。朱子学に比して、より実践的で、より万民受けし、その平等主義はアナーキズムに通じる面もありました。

日本の陽明学の開祖と言われる中江藤樹は、近江国の農家に生まれ、祖父の養子になることで武士になります。伊予大洲藩に仕官しますが、脱藩して郷里の小川村(現高島市)に戻り、私塾「藤樹書院」を開きます。学問を朱子学から始めた藤樹でしたが、日本にも伝わり始めた陽明学に傾倒していきます。その背景には、藤樹の半生も影響しているのでしょう。また、太平の世になり、武士とは何なのか、という疑問も生まれたはずです。藤樹書院には、多くの弟子が集まったとされますが、藤樹は、村人たちへの教育にも熱心に取り組みます。読み書きもおぼつかない農民たちにとって、儒学は敷居が高かったと思われます。にも関わらず、多くの農民たちが集まったと言います。農民たちへの教育は良知をひたすらに実践する”致良知”であり、知識と行動を一致させる”知行合一”を説く陽明学の真髄だったとも言え、藤樹が近江聖人と呼ばれる由縁でもあります。

近江聖人にまつわる有名な話があります。馬子の又左衛門は、都へ急ぐ飛脚を馬に乗せて隣の宿場まで運びます。家に帰ると馬の鞍から200両入りの財布を見つけます。飛脚が忘れたに違いないと思った又左衛門は宿まで引き返して財布を届けます。飛脚は、大喜びして、金の一部をお礼として渡そうとします。又左衛門は断ります。押し問答の末、200文だけ受け取った又左衛門は、その金で宿の者たちに酒を振る舞います。感激した飛脚は、あなたは一体どのような方ですか、と尋ねると、又左衛門は、私はただの馬子ですが、毎晩、藤樹先生の話を聞きに行きます。先生は、親孝行しなさい、盗んだり人を傷つけてはいけない、困っている人を助けなさい、と説いています。私はそれを思い出しただけです、と答えます。日本の道徳観の背骨は、近江聖人が作ったのかも知れません。(写真出典:adogawa.net)

2025年11月16日日曜日

フィヨルドから来たもの

ロング・シップ
初めての海外旅行で乗ったのはスカンディナビア航空(SAS)でした。成田からアンカレッジ、コペンハーゲンを経由してマドリッドまで行きました。1979年当時は、ソヴィエト上空を飛ぶことはできませんでした。まァ、現在もロシア上空は飛べなくなりましたが・・・。SASは、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーの3カ国が共同で運航する航空会社です。驚いたのは、CAが、皆、金髪の巨人だったことです。即座にヴァイキングを思い起こしました。中世ヨーロッパの二大脅威と言われるのは、ペストとヴァイキングです。典型的なヴァイキングのイメージと言えば、角の付いた兜と毛皮をまとった金髪・ひげ面の大男たちです。ヴァイキングの子孫であるCAの巨大さから、今さらながらにヴァイキングの恐ろしさを感得しました。 

8~11世紀頃、スカンディナビアから出て、北大西洋、東欧、地中海を席巻したノルマン人は、ヴィーク(フィヨルド)から来た者を意味するヴァイキングと呼ばれました。ブリテン島、アイルランド、フランス、シチリアへ進出し、アイスランド、グリーンランドを経てカナダ東部へも到達しています。また、バルト海から河を遡上して黒海に至り、コンスタンティノープルにまで至っています。ヴァイキングに関しては、素朴な疑問が二つあります。もともと交易の民だった人々が、なぜ、突然、略奪者になったのか。そして、なぜ欧州の国々を破るほど強かったのか、ということです。ヴァイキングの誕生に関しては諸説あるようですが、10~14世紀の中世温暖期に始まり、その後の小氷河期に終わっていることから、気候変動との関わりも大きいとされます。

つまり、海が凍らなかったから、ということです。環境要因ではありますが、原因とは言えません。現在、最も有力とされる説は、フランク王国のシャルルマーニュ(カール大帝)によるザクセン戦争が関係しているというものです。カール大帝は、領土拡大とキリスト教布教を目的にザクセン人と30年に渡る戦いを行います。ザクセン人は、キリスト教を頑なに拒んでいました。ノルマン人も、領土、宗教、通商に関してカール大帝の圧迫を受けており、対抗措置として、キリスト教国の沿岸部への襲撃を始めたというわけです。ヴァイキングの最初の略奪とされているのは、8世紀末、イングランド北部のリンデスファーン修道院への襲撃です。いかにも宗教的な意味合いを感じさせます。もっとも、無防備な施設を狙ったとも言えそうではあります。

一方、ヴァイキングの強さに関しては、概ね定説があるようです。まずは、彼らのロング・シップと呼ばれる喫水が浅く細長い舟の存在です。機動性が高く、海でも川でも高速移動が可能となり、場合によっては陸上を運ぶこともできたようです。これによって、神出鬼没の攻撃を仕掛けることができたわけです。また、一つの舟に同じ村の出身者が乗り込むことで、連携よく助け合える信頼関係があり、かつ恥ずかしい戦いはできないという心理も働いたようです。そして、戦いで死んだ者は、ヴァルハラに召されるという強い信仰が勇猛な戦士を生んでいたとされます。ヴァルハラは、北欧神話の主神オーディンの宮殿であり、戦死者は、戦場での生死を司る女神ヴァルキュリャ(ワルキューレ)によって宮殿に連れて行かれるとされていました。

ヴァイキングの襲撃は、宗教戦争だったと言うこともできると思います。思えば、人間が起こした戦争の多くは宗教に起因しています。しかも、その多くに一神教がからんでいます。他を邪教とする一神教の宗旨からして当然でもあります。かつ、一神教の戦争は、決まって苛烈なものになります。現在進行中のイスラエルによるガザでのジェノサイドも一神教同士の宗教戦争という面があります。人々に平穏をもたらすはずの宗教が、信じがたい程の禍をもたらすことは、実に哲学的で深遠な話だと思います。少なくとも、宗教は、平和に関する最終回答ではないということです。ヴァイキングは、その後、各地で定住化を進め、ノルマン人と呼ばれることになります。同時に、キリスト教化も進みました。ヴァイキングが、どのような経過をたどってキリスト教化したのか、ということも気になるところです。(写真出典:woodworkersinstitute.com)

2025年11月14日金曜日

時の支配

飛鳥水落遺跡
明日香村の飛鳥水落遺跡は、漏刻と呼ばれる水時計の遺跡であり、日本初の時計と言われます。日本書紀によれば、660年に中大兄皇子が作ったとされます。皇帝は空間と時間を支配するという中国の政治思想に倣ったものと考えられています。7世紀の日本は、遣隋使、遣唐使によって、中国から多くを学んでいた頃であり、ヤマト王権もその統治のあり方を模索していた時代なのでしょう。663年には、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗を喫し、以降、日本は急速に国家としての体を成していきます。その中心にいたのは、645年の乙巳の変で中央集権化を目指した中大兄皇子、後の天智天皇でした。 

皇帝が空間を支配するとは領土の支配を意味するのでしょうが、時間の支配に関してはピンとこない面もあります。通常、時間の支配とは、暦、元号の制定、あるいは歴史書の作成を意味するようです。アジアの歴史に最も大きな影響を与えた人物は、秦の始皇帝だと思われます。中国史上初めて天下統一を果たしたわけですが、単に敵対国を次々と征したばかりではありません。あの広大な国で初めて中央集権国家を築いたことこそ大偉業なのだと思います。初めて皇帝という名称を使い、法治国家化、官僚体制の構築、封建制から郡県制への移行、交通網の整備、万里の長城の建築、そして漢字、貨幣、度量衡の統一等を一気に進めました。そして、顓頊暦(せんぎょくれき)と呼ばれる暦法の統一も行っています。すべての改革が中央集権を目指していたわけです。

暦は、狩猟・漁労に適した太陰暦に始まり、農耕の開始とともに太陽暦が主流となります。暦は、地域によって微妙に異なっていました。閏年の調整などにも違いがあったようです。それを統一することは、農民と農業の管理はもとより、祭祀や行政の管理・運営上も極めて重要であったと言えます。さらに時刻の管理は、人を組織的に動かすうえでは欠かすことのできない要素となります。当時の時刻は、水時計や日時計に基づき認識されていました。日時計も、水時計も、古代エジプトで誕生し、各地へ伝播していったとされます。中国へは、紀元前2000年頃、オリエント経由で伝わったという説があります。いずれにしても、始皇帝の時代には存在していたわけで、始皇帝による時の支配の基本アイテムの一つとなっていたはずです。

物理学における時間は、極めて難解な代物だと言えます。いまだに理解しきれません。しかし、人間が編み出した時間という概念ならば容易に理解できます。人間が一人で生きていくならば時刻にさほどの意味はないのでしょうが、農耕とともに人間が組織化、社会化されると不可欠なものになっていきます。人の行動を組織化するためには重要な要素であり、時が人を動かすとも言えます。つまり、時の支配とは人の支配そのものなのでしょう。中国の中央集権体制を知った中大兄皇子は、その統治方法に強く惹かれたはずです。ゆえに乙巳の変で蘇我氏を排除し、大化の改新を通じて、律令国家を目指したわけです。時刻の管理も重要な課題であり、漏刻設備の建造につながったのでしょう。ちなみに、漏刻が告げる時は、太鼓をもって民に伝えられていたようです。

仏教では、三世、つまり過去・現在・未来という区分、あるいは刹那と呼ばれる極々短い時間や劫(こう)と呼ばれるとてつもなく長い時間がよく知られています。しかし、仏教における時間認識の真髄は、連続性を超えたところにあります。それは、例えば道元禅師の「而今」という言葉によく現わされていると思います。直接的には”今この一瞬”という意味ですが、大雑把に言えば、過去の後悔や未来の心配といった煩悩から解脱し、空の境地を目指すということなのでしょう。人間が時間という拘束から解放されることをも意味するわけです。飛鳥水落遺跡は、日本における時の始まり、中央集権化の始まりを象徴しているわけですが、同時に組織と個人という永劫の課題が生まれた場所でもあります。(写真出典:pref.nara.jp)

2025年11月12日水曜日

ヤシの木にプール

NHKのETV特集で「POP 大滝詠一 幸せな結末」という番組を見ました。大滝詠一は、いわゆるJ-POPという地平線を切り開いた巨人だと言えます。我々の世代にとっては、同時代の音楽や文化を決定づけた人です。大滝詠一以前の大衆音楽は、歌謡曲と洋楽に区分されていました。彼は、そこに日本語のポップ・ミュージックという新たなジャンルを創設します。個人的には、ジャズやR&Bに狂っていたので、彼のレコードを買ったこともなければ、好んで聴いていたわけでもありません。しかし、音楽に限らず、大滝詠一が提供してくれたポップ・カルチャーが、我々の文化や感性を形成してきた面は大きいと思います。彼の楽曲を聴くと、とても幸せな気分になります。 

大滝は、1948年、現在の岩手県・奥州市江刺に生まれます。小学5年の夏、コニー・フランシスの「カラーに口紅」を聴いて衝撃を受け、以降、アメリカン・ポップの世界にのめり込みます。釜石の高校を卒業し東京で就職しますが、すぐに退社して音楽活動に入ります。1970年には、細野晴臣、松本隆、鈴木茂と伝説のバンド「はっぴいえんど」を組んでデビューします。1971年には、名曲「風をあつめて」を含むアルバム「風街ろまん」をリリースしています。しかし、フォーク・ロック調の楽曲は注目されることもなく、知られることもありませんでした。70年代中頃になって、その完成度の高さがじわじわと評価されていきます。私がはっぴいえんどの存在を知ったのは芸術雑誌の「ユリイカ」でした。松本隆の「風をあつめて」の詞が取り上げられていたのです。

はっぴいえんど解散後、大滝はCMソングの制作や若手のプロデュースなどを行います。山下達郎をデビューさせたことは有名です。また、福生にスタジオを作り、自らのプライベート・レーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立します。そして、1981年3月には、作詞に松本隆を迎えて、ソロ・アルバム「A LONG VACATION」をリリ-スします。発売直後は低迷したものの、徐々に売上を伸ばし、結果、オリコン初のミリオンセールス、年間売上第2位を記録しています。それどころか、今も売れ続け、累計で200万枚を超えるロング・セラーとなっています。ジャケットは、青い空、プール・サイド、ヤシの木、白いビーチ・パラソルが描かれた永井博のイラストでした。この大滝詠一、松本隆、永井博のセットが、時代の空気を作ったと言えます。

大滝は、積極的に楽曲提供も行い、松田聖子「風たちぬ」、森進一「冬のリヴィエラ」、小林旭「熱き心に」、薬師丸ひろ子「探偵物語」等は大ヒットします。ヒット曲の多くがCMとタイアップしていることでも知られます。また、吉田美奈子、シリア・ポールが歌い、後にラッツ&スターで大ヒットした「夢で逢えたら」は、日本で最も多くカバーされた曲でもあります。大滝の音楽は、50年代アメリカの豊かさを象徴するポップ音楽がベースであり、ゆえに多幸感をもたらすのだと思います。その多幸感が、高度成長期を経て、豊かになった日本社会にフィットしたと言えるのでしょう。若者には、輸入雑貨、ドライブ、サーフィン、リゾート、海外旅行等々が大人気でした。音楽の世界でも、演歌中心だった歌謡曲の時代が終わり、Jポップの時代が始まります。

海外の文化を我が物にすることは日本の得意技です。大滝が、アメリカン・ポップからJポップを生み出したことは、かつて漢字から仮名文字が編み出されたことに似ています。また、70~80年代、豊かな時代を迎えたと言っても、改革開放後の中国が拝金主義に流れたのとは大違いで、生活の中でささやかな夢を見ていただけのように思います。大滝の音楽や永井博のイラストは、そうした日本の特性をも反映しているように思います。2013年暮れ、大瀧詠一は、突然、動脈瘤で亡くなります。享年65歳。時代が切り替わったことを象徴しているように思います。最後のレコーディングは、竹内まりやとデュエットした「恋のひとこと(Somethin' Stupid)」でした。フランク・シナトラ、ナンシー・シナトラ親子が歌った1967年の大ヒット曲です。大瀧は、何のアレンジも加えず英語で歌っています。カバーというよりもコピーそのものです。それは過ぎた時代への惜別の賦でもあったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

博多の串焼き