中国では儒教として、より宗教的な位置づけだと聞きます。また、韓国では、李氏朝鮮が500年に渡る統治の根本思想としたことから、依然として大きな影響力を持っています。1980年代後半、アメリカの有名大学にアジア系の留学生が増え始め、皆、優秀だと話題になりました。ニューズウィーク誌は、中国、日本、韓国、ヴェトナムの留学生が勤勉で優秀なのは儒学の影響だと報じていました。実は、この4ヶ国のなかで、日本だけが科挙の制度を持っていませんでした。科挙の出題が儒学に関する知識で占められていたことから、他の3ヶ国の社会には儒学が浸透していきました。ちなみに、日本が科挙を選択しなかった理由は、ヤマト王権が部族連合であり、ネポティズムが優先されたからなのでしょう。日本は、盲目的に中国文化を追随していたわけではありません。
南宋時代になると、朱熹が登場し、朱子学を唱えます。大きな影響力を持つに至った朱子学は、科挙の出題の中心にもなります。中世日本にも伝わった朱子学は、仏教界を中心に広がりをみせます。朱子学の基本となる思想は、全ての存在は”気”で構成され、その生成変化を担うのが”理”であるというものです。社会秩序を保つために有効であることから、江戸幕府は朱子学を正学と定め、林羅山を重用するとともに、儒学の官立学校である昌平黌(湯島御聖堂)を開設します。明代になると、体制による統治思想化した朱子学を批判する王陽明が、陽明学を創始します。陽明学は、万民が持つ善なる心”良知”に従って行動する”知行合一”を説きます。朱子学に比して、より実践的で、より万民受けし、その平等主義はアナーキズムに通じる面もありました。
日本の陽明学の開祖と言われる中江藤樹は、近江国の農家に生まれ、祖父の養子になることで武士になります。伊予大洲藩に仕官しますが、脱藩して郷里の小川村(現高島市)に戻り、私塾「藤樹書院」を開きます。学問を朱子学から始めた藤樹でしたが、日本にも伝わり始めた陽明学に傾倒していきます。その背景には、藤樹の半生も影響しているのでしょう。また、太平の世になり、武士とは何なのか、という疑問も生まれたはずです。藤樹書院には、多くの弟子が集まったとされますが、藤樹は、村人たちへの教育にも熱心に取り組みます。読み書きもおぼつかない農民たちにとって、儒学は敷居が高かったと思われます。にも関わらず、多くの農民たちが集まったと言います。農民たちへの教育は良知をひたすらに実践する”致良知”であり、知識と行動を一致させる”知行合一”を説く陽明学の真髄だったとも言え、藤樹が近江聖人と呼ばれる由縁でもあります。
近江聖人にまつわる有名な話があります。馬子の又左衛門は、都へ急ぐ飛脚を馬に乗せて隣の宿場まで運びます。家に帰ると馬の鞍から200両入りの財布を見つけます。飛脚が忘れたに違いないと思った又左衛門は宿まで引き返して財布を届けます。飛脚は、大喜びして、金の一部をお礼として渡そうとします。又左衛門は断ります。押し問答の末、200文だけ受け取った又左衛門は、その金で宿の者たちに酒を振る舞います。感激した飛脚は、あなたは一体どのような方ですか、と尋ねると、又左衛門は、私はただの馬子ですが、毎晩、藤樹先生の話を聞きに行きます。先生は、親孝行しなさい、盗んだり人を傷つけてはいけない、困っている人を助けなさい、と説いています。私はそれを思い出しただけです、と答えます。日本の道徳観の背骨は、近江聖人が作ったのかも知れません。(写真出典:adogawa.net)
