2025年10月14日火曜日

「ブラック・バッグ」

監督:スティーブン・ソダーバーグ    2025年アメリカ

☆☆☆

20~30年前、ソダーバーグに勢いがあった頃には、喜んで観に行ったものですが、ここ10年くらいは、ほとんど観ていません。とは言え、ソダーバーグのスパイ・スリラー、主演はケイト・ブランシェットとマイケル・ファスベンダーとくれば、やはり観に行かざるを得ません。さすがの出来映えでした。緊張感、テンポ、スマートな演出、やはり腕の立つ監督であることは間違いありません。しかし、興行的には大コケしています。そこがソダーバーグという監督の本質を端的に現わしているように思います。つまり、上手い映画だと思っても、後には何も残らないのです。結果、上質ではあるものの、単なる暇つぶし映画といった印象になります。

デビッド・コープの脚本は良く出来てると思います。コープは、ジュラシック・パーク、ミッション・インポッシブル、インディ・ジョーンズ、スパイダーマンなどの大ヒットを放ってきた大人気脚本家です。本作では、複雑なプロットが、ほぼ会話だけで展開していきます。会話劇といえば、「探偵スルース」(1972)を思い起こします。監督はジョーゼフ・L・マンキーウィッツ、出演者はほぼサー・ローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインだけ、長尺ながら緊張感が続く傑作でした。本作は、スルースほど徹底した会話劇ではありません。ソダーバーグの巧みなカットや主演の二人によるさすがの演技によって上質な映画に仕上がってはいるものの、中途半端な会話劇であることが、映画的パースペクティブを失わせていると思います。

恐らく、夫婦の絆が主題だったのだろうと想像します。しかし、会話だけで複雑なプロットを展開する必要からか、そのテーマは埋没気味だったと言えます。加えて、主演の二人の使い方にも、多少、難があったように思います。今回、ケイト・ブランシェットは金髪ではありません。いつもなら、金髪で謎めいた表情を見せる彼女の存在感はえげつないほどです。本作の地味な出立は、役柄上必要だったと理解しますが、彼女の魅力や演技を活かしきれていない印象を受けます。マイケル・ファスベンダーは、さすがの存在感を見せていますが、陰影の深さは感じられませんでした。ソダーバーグは、二人の存在感を前提に、あえて抑え気味の演技をさせたのでしょう。ねらいはよく理解できますが、やや不発気味であり、もったいないな、と思いました。

映画の制作技術においては、当代有数の達人と言えるソダーバーグですが、才に走る傾向が強いように思います。ソダーバーグは、その長いキャリアのなかで、2度の休止期間がありました。先進的で、おしゃれで、スマートなソダーバーグの映画は高く評価されてきたわけですが、本人にとっては、それがプレッシャーだったのかもしれません。高い技術力を使って何を表現するかが大事であることは、本人が一番よく知っているものと思います。とは言え、斬新な映画に対する周囲の期待が、彼の背中にのしかかっていたのでしょう。思い起こすのは日本の家電メーカーの衰退です。かつて、世界を征した日本の家電は、高スペックにこだわりすぎて、世界市場を失ったとも言われます。品質が高いものは必ず売れる、というのがものづくり日本を支える神話でした。しかし、顧客が求めているものは、高スペックではなく実用性だったわけです。

デビュー作「セックスと嘘とビデオテープ」(1989)でカンヌのパルムドールを最年少受賞、「トラフィック」(2000)でアカデミー監督賞を獲り、オーシャンズ・シリーズで大ヒットを飛ばし、他にも多くの話題作を送り出してきたソダーバーグは、巨匠と呼ぶべき監督なのでしょう。しかし、まだ62歳。彼が立ち返るべき原点があるとすれば、トラフィックとオーシャンズだと思えてなりません。(写真出典:eiga.com)

2025年10月12日日曜日

巴御前

巴御前は、平家物語や源平盛衰記といった軍記物語にしか登場せず、遺物なども発見されていないことから、架空の人物とされています。物語のなかの巴は、源(木曽)義仲に仕える一騎当千の女武者です。木曽四天王と呼ばれた樋口兼光・今井兼平兄弟の妹、あるいは樋口兼光の娘ともされます。兄弟の妹だとすれば、乳母子として、義仲とは幼少期から共に育った仲ということになります。宇治川の戦いで鎌倉勢に敗れ、わずか5騎となった義仲主従は琵琶湖畔の粟津で討たれます。5騎のなかに、巴も残っていましたが、女連れで討ち死にするわけにはいかないと、離脱させられます。

巴御前の最大の謎は、なぜ平家物語は架空の女武者を登場させたのか、ということだと思います。平家物語には、実在・架空取り混ぜて、二十数名の女性が登場します。平家物語は、琵琶法師が語る口承の物語であり、聴衆のなかには多くの女性も含まれていたはずです。基本的には戦記物語ですが、女性の歓心を買う必要もあり、多くの女性の物語も取り入れたものと思われます。巴のモデルになったのは、越後の板額御前ではないかと言われます。板額御前が活躍した建仁の乱は、1201年に起きています。平家物語の成立は不詳ですが、13世紀前半とみられています。板額御前がモデルという説は、大いにあり得ると思います。板額御前は「吾妻鏡」に記載されますが、平家物語には登場しません。巴とダブることを避けたのかもしれません。

平家物語には、わざわざ巴を創作しなくても、実在の板額をヒロインにするという選択肢もあったはずです。平家物語に登場する女性たちは、平家方であろうと源氏方であろうと、おおむね涙を誘う悲劇のヒロインです。板額も平家方の敗軍の将ではありますが、鎌倉幕府の御家人と結婚し、生涯を全うしています。女性聴衆の興味は引けても、涙は誘いにくかったと思います。あるいは、平家物語が生まれた頃、板額は、まだ生きており、脚色することは憚られたのかもしれません。ならば、ということで、当時、弓の名手として評判になっていた板額をモデルに巴を創作したのではないでしょうか。なお、平家物語の巴は、義仲が木曽から同行した二人の便女(びんじょ)の一人とされています。今一人の山吹は、病気のために義仲の最後には同行していません。

便女は、武将の身の回りの世話をする侍女ですが、巴は美しく、かつ強弓精兵の兵(つわもの)とされています。巴を義仲の愛妾とする話もありますが、便女には、そういう性格もあったのでしょう。平家物語には、粟津を去った巴の後日談は述べられていません。討ち死にした、出家した、遊女になったなど諸説あるようですが、源平盛衰記では、捕まって鎌倉に送られ、御家人である和田義盛の妻になったと書かれています。まさに板額御前の半生そのものです。架空の人物とは言え、少し気になる話もあります。粟津にほど近い義仲寺の縁起です。義仲の死後、義仲の墓所近くに庵を組み”われは名も無き女”と称して供養をする女性がおり、その庵が義仲寺になったというのです。現在、義仲寺には、義仲の墓に加え、巴を弔う塚もあります。

もちろん、後付けの縁起ということにはなりますが、なにやら本当にあった話のように思えてきます。能楽「巴」では、義仲と最期を共に出来なかった恨みを残す巴の亡霊がシテとなります。武人がシテとなる能楽は修羅能と呼ばれます。巴は、能楽のなかで唯一女性が主人公の修羅能です。有名な修羅能には、八島、敦盛、実盛など、平家物語を題材とする曲が多くあります。ちなみに、義仲寺には、松尾芭蕉の墓もあります。芭蕉は、大阪で亡くなっていますが、遺言に基づき、義仲寺に埋葬されました。生前、芭蕉は、義仲寺周辺の景色が気に入り、何度も訪れていたといいます。ただ、芭蕉が巴を詠んだ句は一切存在していないようです。(写真:蔀関月「巴御前出陣図」 出典:bunka.nii.ac.jp)

2025年10月10日金曜日

板額御前

鳥坂城跡
平安末期から戦国時代までには、何人かの女性武将が登場しています。当時の武家にあって、女子も武芸を鍛錬し、戦場に出ることも珍しいことではなかったとも言われます。また、女性城主も、井伊直虎や立花誾千代がよく知られていますが、他にもそこそこ存在していたようです。ただ、江戸幕府が武家の嫡男相続を定めたことから、類が及ぶことを避けるために、女性武将や城主に関する文献の多くが廃棄されたようです。女性武将に関しては、巴御前、板額御前、甲斐姫、大祝鶴姫などが有名ですが、文献上、その実在が確認されているのは板額御前、甲斐姫くらいと聞きます。大三島の大山祇神社で鶴姫が着用したという鎧も見ましたが、その実在については否定的な見解が多いようです。

板額(はんがく)御前は、桓武平氏維茂流で越後国北部を治める城資国の娘として生まれます。母は、後三年の役で滅んだ出羽の清原武衡の娘とされます。板額とは変わった名前ですが、額が固かったからとも、出生した奥山荘飯角からきているとも言われます。幼少の頃から、文武に優れていたようです。板額には二人の兄がいました。長兄の城資永は平清盛の信認厚く、保元の乱でも活躍し、検非違使にも任ぜられています。木曽義仲が挙兵すると追討を命ぜられますが、出陣前日に急死、弟の長茂が軍を引き継ぎます。数万規模の長茂軍でしたが、横田河原の戦いで数千人の義仲軍に敗れます。その後、平家の没落とともに城家も没落していきます。鎌倉幕府に捕らえられた長茂は、梶原景時の後ろ盾を得て奥州合戦に参加、武勲を挙げて鎌倉幕府の御家人になります。

長茂は、梶原景時の変で景時が失墜すると、鎌倉を離れ、京都で倒幕の兵をあげます。しかし、幕府追討の宣旨も得られず、あえなく討たれています。いわゆる建仁の乱ですが、越後では、板額御前が、長茂の嫡男・資盛とともに、鳥坂(とっさか)城に依って反幕府の兵を挙げます。鳥坂城は、現在の胎内市にあった山城です。幕府は、頼朝死後の内紛で上野国に蟄居させられていた佐々木盛綱に追討を命じます。数万に膨れあがった盛綱軍でしたが、千人程度が立て籠もる鳥坂城を攻めあぐねます。難攻不落と言われた山城と弓の名手であった板額に阻まれたとされます。鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」には、板額の弓は百発百中と記載されています。しかし、板額は、背後の山から射られた矢に太ももを射抜かれ、勢いを失った鳥坂城は、1ヶ月の攻防の末に陥落します。

板額は鎌倉に移送され、将軍頼家の前に引き出されます。唐代の陵園妾にも例えられる美形、そして臆することのない堂々たる様に、並み居る御家人たちは驚いたと言います。すると、弓の名手であった甲斐源氏の浅利義遠が妻にしたいと申し出ます。なぜ謀反人を娶るのかと将軍に問われた浅利義遠は、立派な男子を設け、朝廷と幕府のお役に立てる、と申し述べ、許可を得たとされます。浅利義遠は、出羽国にも領地を持っており、秋田にゆかりのある板額を娶ることで、領民の歓心を買おうとしたとも言われます。城家は秋田城介として名を成した名門であり、板額の母は出羽の大豪族清原家の人でした。以降、板額は、浅利義遠の妻として二人の子を設け、甲斐国で生涯を終えています。山梨南部には、板額塚はじめ、わずかながら遺構が残っているようです。

甲斐二十社の一つとされる笛吹市の賀茂春日神社には、板額御前のものとされる弓・薙刀・小刀が伝わっています。浅利義遠の本拠地から多少離れた賀茂春日神社に、なぜ板額の武具が残されているのか不思議な話です。実は、賀茂春日神社の宮司を務める奥山家は、城氏の出身でした。奥山という姓は、いかにも城氏の本拠地・奥山荘にちなんでいそうです。板額は、自分の武具を親戚の宮司に託すことで、女性武将としての一面を封じ、浅利家の妻に、母に徹したということなのでしょう。平家没落の経緯は平家物語を通じてよく知られているわけですが、板額のような地方における平家一門の没落は、さほど広くは知られていないように思います。恐らく、全国には、語られることのなかった平家物語が、数多くあったのだと思います。(写真出典:sirotabi.com)

2025年10月8日水曜日

静御前

北斎「白拍子」
巴御前、板額御前、静御前を、日本三大御前というのだそうです。よく知られているというだけに過ぎない選定なのでしょう。いずれも平安末期から鎌倉時代、敗者の側にいた女性たちですが、実在が確実とされているのは板額御前だけです。板額は、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」に記載があること、ゆかりの地に遺構が確認できることから、実在の人物とされます。静御前は、吾妻鏡に記載があることから実在したとも言われますが、妙に詳しく物語風に描かれていることから、やや怪しいとされています。巴御前については、平家物語とその後続本に記載されるのみなので、架空の人物として知られます。もっとも、なぜ巴や静の話を創作する必要があったのかは、興味深いところです。

静御前については、武将でもなく、政治に関わったわけでもないのに、なぜ正史に詳しく語られているのか、実に不思議だと思います。静御前は、白拍子の磯禅師の娘として生まれ、自身も白拍子になります。京丹後の禅師の娘とも言われます。白拍子は、男装して、今様や朗詠を歌いながら舞う遊女です。遊女と言いながら、公家や武家の宴席に招かれることも多く、また平清盛はじめ人気の白拍子を愛妾とする貴人も多かったようです。現代風に言えば、大物芸能人といったところだったのでしょう。源義経に見そめられた静は愛妾となります。兄頼朝に追われる身となった義経主従に同行して都を離れます。しかし、九州へ向かう船は嵐で難破、吉野山へ逃げ込みます。従う者も少なく、険しい山中の逃避行ゆえ、静はそこで都へ返されます。

ところが、同行する雑色から金品を奪われた静は、山中で捕縛されます。都で取り調べを受け、母とともに鎌倉へ移送されます。頼朝は、舞の名手である静に、鶴岡八幡宮で舞うように命じます。その際、静が歌ったとされる唄は、よく知られています。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

いずれも義経を慕う唄だったことから、頼朝は激怒します。それを取りなしたのが北条政子だったとされています。その後、静は義経の子を出産します。男子であったことから、頼朝は由比ヶ浜に埋めさせます。北条政子は、静に金品を与えて、都へ送り返します。その後に関す記述はありません。

静の初出は「平家物語」です。頼朝が送った刺客を、静の機転で、義経が返り討ちにするという段にのみ登場します。その後、「義経記」が登場し、静について、吉野山中や鎌倉でのことを詳しく語ります。吾妻鏡の記載は、この義経記と、ほぼ一致する内容となっています。鎌倉幕府の正史が、大衆向けの話をそのまま載せることは、異常なことのように思えます。吾妻鏡の成立は、1300年頃とされます。北条家による執権政治全盛の頃のことです。義経と静の悲運を通じて、頼朝の冷酷さと北条政子の慈悲深さを対比させ、北条政権の正統性を示したかったのかもしれません。しかし、それだけなら、静の話を持ち出すまでもなく、方法は他にもあったように思います。

恐らく、義経記などを通じて、義経と静の話は広く知られており、鎌倉幕府としても、無視できないほどだったのではないでしょうか。判官贔屓という言葉は、江戸期以前からあったようです。判官とは義経のことであり、弱い立場の人間に同情する、応援する、といった意味です。鎌倉幕府は、いじめた側ということになりますから、これを正史で全否定する手もあったと思います。しかし、それでは火に油を注ぐ結果になりかねません。そこで、罪を頼朝と梶原景時に被せて、北条家に責任はなく、むしろ静には同情的であったとして、世間の評判を高めたかったのではないでしょうか。ちなみに、義経記では、都に戻った静は天龍寺に庵を結んで出家し、その翌年に亡くなったとされています。享年は若干20歳。例によって,各地に墓が存在しています。(写真出典:nikkei.com)

2025年10月6日月曜日

「エレクトリック・レディ・スタジオ」

エレクトリック・レディ・スタジオ:ジミ・ヘンドリックスのビジョン         監督:ジョン・マクダーモット   2024年アメリカ

☆☆☆+

NYのエレクトリック・レディ・スタジオは、ジミ・ヘンドリクスが多額の私財を投じて作った録音スタジオです。ジミヘンが死んでからも、こだわりの詰まったスタジオでは多くのミュージシャンが録音し、名門スタジオとして知られています。本作では、関係者のインタビューを中心に、名門スタジオ誕生の経緯が語られています。エレクトリック・レディ・スタジオがオープンする前までは、レーベルが所有するスタジオでの録音が主流であり、以降、プライベート・スタジオという流れが出来たとも聞きます。ロックに変革をもたらした天才ギタリストは、録音技術の面でも大きな功績を残したわけです。

この映画は、不思議なスタイルで上映されました。死の2ヶ月前に撮影された「アトランタ・ポップ・フェスティバル1970」との2本立でした。アトランタ・ポップの映像は、かつてアメリカのTV で放送され、その後、映画化されています。ただし、日本ではこれまで未公開でした。なぜ2本立にしたのかは不明ですが、恐らくアトランタ・ポップの単独上映が興行的に厳しそうだったからなのでしょう。今回は10曲ばかりのピックアップ・ヴァージョンですが、全曲を観てみたいと思います。また、スタジオのドキュメンタリーでは、ジミヘンの音作りが子細に語られて興味深いのですが、観ているとフル・ヴァージョンでのジミヘンの演奏が聞きたくなってしまいます。そういう意味では、結果、ベスト・カップリングだったのかもしれません。

天才ジミヘンは、その驚異的なフィンガリングで知られています。加えてエフェクターの多用(といっても、当時はワウ・ファズ・ユニヴァイブくらいですが)、ギター・マイクの多彩な活用(ハーフトーンなどフェンダー・ストラトキャスターの3つのマイクの活用)、アーミングの独創的な使い方、加えて大音量といった電子的加工をもってロック・ギターの世界に変革をもたらしました。それだけに、スタジオでの録音技術にも、相当のこだわりがあったわけです。もちろん、装置類の進化も背景にはあったのでしょうが、ジミヘンは録音技術にも変革をもたらしたと言えます。ちなみに、スタジオの名前に関する話はありませんでしたが、当然、最後のスタジオ録音盤となった傑作「エレクトリック・レディランド」(1968)から付けられたものと思います。

作中、録音技術者のエディ・クレイマーが、録音技師はミュージシャン出身でなければならない、という持論を語っています。頷ける話です。彼がアシスタントたちを、ミュージシャンのなかから採用する経緯も面白かったと思います。エディ・クレイマーは、「フリーダム」・「エンジェル」・「ドリー・ダガー」等の音の構成を解説してくれます。聞いていると、ジミヘンの音楽への興味がより一層深まります。また、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリアンスのドラマーであるミッチ・ミッチェル、ベースのノエル・レディングの演奏は、ジミヘンのギターに隠れがちです。もともとうまい人たちだとは思っていましたが、本作でその凄さがよく分かりました。これからは、二人の演奏にも注目しながらジミヘンを聞きたいと思いました。

音楽好きだという人に会うと、あなたの神様は誰ですか、と聞きます。皆、すぐに名前を挙げます。聞かれて悩む人は見たことがありません。多様な音楽を聴いている人であっても、その人が挙げた名前で、その人の音楽的指向が分かります。私は、マイルス・デイビスとジミ・ヘンドリクスと答えます。では、ジミヘンの曲のなかで、何が一番好きか、と聞かれることもあります。これは答えにくい質問です。衝撃的だったパープル・ヘイズにはじまり、フォクシー・レディ、ファイア、フリーダム等々挙げたらキリがありません。ボブ・デュランのカバー「オール・アロング・ザ・ウォッチタワー」は本家越えの傑作だと思います。しかし、最上の一曲と言われれば「ヴードゥー・チャイルド (スライト・リターン)」ということになります。アトランタ・ポップでも演奏されており、うっとりと聞き惚れてしまいました。(写真出典:eiga.com)

2025年10月4日土曜日

世界人口

若年出産の母親
半世紀も前のことなりますが、”これまでに死んだ人の数は、今、生きている人の数に等しい”という話を聞きました。どうにも納得できない眉唾話だと思ったのですが、友人のなかには”そうだろうな”と言う奴もいて、混乱しました。恐らく、彼らは、ごくシンプルなファミリー・ツリーのようなものをイメージして、納得していたのではないかと思います。当時、世界の人口は40億人とされていました。2000年前後、人口が60億人を超えると、”これまでに死んだ人の数は、今、生きている人の数より少ない”という新しいヴァージョンの都市伝説が流布されました。過去の統計がないので、あくまでも推計上ではありますが、いずれの説も、科学的には、まったくのデタラメでした。

アメリカのPRB (Population Reference Bureau:人口参考局)が、発表したところによれば、ホモ・サピエンス以降、2022年までに生まれた人間は推定1,170億人となります。世界人口、つまり生きている人が82億人ですから、これまでに死んだ人は1,088億人となります。もちろん、前提の置き方次第ではありますが、おおよそ信頼できる数字なのでしょう。人間は、必ず死にます。100人生まれれば、その100人は確実に死にます。出生数が変わらず、寿命が皆同じだとすれば、人口は安定し、増えることも減ることもありません。世界人口は、産業革命が起こった18世紀から増加を始めたとされます。1800年、10億人を超えたとされる世界人口は、1900年には16億人となり、人口爆発の世紀と呼ばれる20世紀に突入します。

半世紀を経た1950年には25億人になっています。人口を構成する要素は、出生、死亡、移動です。世界人口だけを考える場合、移動は関係ありません。1950年の世界の合計特殊出生率は5.0でした。合計特殊出生率とは、一人の女性が生涯で産む子供の平均数を示します。人口が安定する目安は2.1とされますので、5.0は極めて高い水準と言えます。その後、合計特殊出生率は、先進国を中心に低下を続け、2000年には2.7、2023年には2.2まで落ちています。合計特殊出生率の低下を受けて、世界人口の伸びは鈍化傾向にあります。ただ、世界人口そのものは増加を続け、2022年には82億人に達しています。つまり、20世紀中頃までの人口増加は、出生率の伸びによるところが大きく、以降、人口増加にドライブをかけたのは寿命の伸びだったと推測されます。

死亡率は、通常、千人当たりの死亡者数で表されます。死亡率の構成要素は、経済、医療、疫病、紛争等々と多岐に渡りますが、GDPとの相関も強いことが知られています。先進国が低く、開発途上国が高いわけです。世界的な死亡率は低下傾向にあります。平均寿命の伸びでみれば、1900年は31歳、1950年は48歳、2024年には73歳を超えています。とりわけGDPの低い国々で、食糧事情、医療水準などの改善が進み、死亡率が低下していることが、人口増加を加速させています。大雑把に言えば、出生率が低下しても、死亡率の低下がそれを上回るので、世界人口は、まだまだ増加していくと予測されています。国連は、2080年代に世界人口は103億人となり、ピークを迎えると予測しています。人間の寿命の伸びが限界に達するというわけです。

平均寿命が最高水準の日本ですが、死亡率は世界で10位前後とかなり高位です。高齢者の比率が高いからです。日本をはじめ世界63ヶ国の人口は、既にピークアウトしています。一方、サブ・サハラ一帯では、死亡率の低下と高い出生率によって、2050年代には人口が2倍に達すると予測されています。サブ・サハラでは、少女たちの意図せぬ出産が多いことが問題とされています。いずれにしても、地球と人類は、100億人という人口に耐えられるのか、ということが大問題だと思います。食糧需給、経済環境、気候変動など心配すべき事柄は多々ありますが、重大な問題の一つは地域による人口の偏在だと思います。100億人時代には、偏りがさらに激しくなるわけですから、早急に議論すべき事項だと思います。単に移民受入れに反対するのではなく、国際的な移民の枠組みづくりを議論すべきではないかと思います。(写真出典:ja.wfp.org)

2025年10月2日木曜日

「ザ・ザ・コルダのフェニキア計画」

監督:ウェス・アンダーソン 原題:The Phoenician Scheme 2025年アメリカ・ドイツ

 ☆☆☆+

ウェス・アンダーソン・ファンは、彼の映画を観ているだけで幸せなのではないかと思います。その独特な世界観は唯一無二と言えます。本作も、ウェス・アンダーソン・テイストを満喫できます。ただ、ここ数作とは異なり、久しぶりにプロット重視の映画になっています。とは言え、独特な映像と演出、お馴染みのキャストやスタッフが醸すムードには何ら変わりはありません。キャストでは、ヒロインを演じたミア・スリープルトンが新顔であり、ユニークな印象を残しています。今後、ウェス・アンダーソン・ファミリーの常連になりそうです。彼女は、ケイト・ウィンスレットの娘ですが、ウェス・アンダーソンは、そのことをオーディションで彼女を選んだ後に知ったようです。

本作は、レバノン出身のエンジニアだったウェス・アンダーソンの義父に着想を得ているようです。靴箱が象徴的なモティーフとなっていますが、これは、義父が亡くなる前に娘に渡した靴箱に由来しており、箱の中には、彼の人生の思い出の品々が入っていたと言います。誰もが、本人にとっては大事な思い出をコレクトした宝箱を持っているものです。本人にとっては重要でも、他人にはゴミにしか見えない類いの品々です。しかし、これは、もうウェス・アンダーソンの大好物だと言えます。そもそも、ウェス・アンダーソンの映画は、そうした宝箱の品々をコラージュしたような趣きがあります。義父の宝箱の品々は、ウェス・アンダーソンのイメージを膨らませ、モティーフだけでなく、プロットにも大きな影響を与えたものと思われます。

舞台は1950年代の中東にとり、プロットはオリジナルですが、キャラクターの設定には実在した往時のビジネスマンたちを参考にしたようです。そのなかには、コンスタンティノープル出身のアルメニア系イギリス人実業家カルースト・グルベンキアンと息子のヌバールも含まれています。「ミスター5%」というニックネームはイラクの石油を開発したことで知られるカルーストから、そしてザ・ザ・コルダの兄の名前はヌバールから借用しています。ヌバール・グルベンキアンは、長い髭、モノクル、ボタンホールの蘭など特徴的な出立で知られ、英国社交界で鳴らした人だったようです。20世紀、特にロンドンには、海外に出自を持つ個性的で魅力的なビジネスマンが多かったように思います。彼らも、まさにウェス・アンダーソンの大好物だと言えます。

ウェス・アンダーソンの独特な世界は、彼の個性によるものであることは間違いないのですが、多くの人々がその世界観を愛しているわけですから、そこには何か普遍的な要素があるということになります。それをノスタルジーと呼ぶことは簡単ですが、それでは十分な説明にはならないと思います。恐らく、ノスタルジーと非日常性の相乗効果なのではないでしょうか。世の中には、非日常性をねらった映像などあふれています。しかし、それがノスタルジックな衣をまとうと、先鋭的であろうとする角が取れ、ロマンあふれる夢といった風情を醸します。それは、例えばスティーム・パンクやピタゴラ装置と同じく、合理性に抗い、人間性に回帰しようとする意図、あるいは近代科学を人間の手に留めようとする意志のように思えます。しかも、ウェス・アンダーソンは、プラスチックな安物を並べることで、それを肩肘張らない形で映像化します。

また、ウェス・アンダーソン映画の非ドラマ性も大きなポイントだと思われます。そもそも映画は、伝統的、あるいは自然主義的といった手法の違いはあるにしても、観客にドラマを提示し、巻き込み、あるいは押し込むという代物です。ウェス・アンダーソン映画は、イメージを提示するのみです。加えて、テンポを外すことで、観客と距離を取ります。つまり、ドラマを押しつけることなく、全ての判断を観客に委ねているわけです。いわば、観客は暗がりのなかで完全な自由を確保していることになります。これは、何もウェス・アンダーソンに限ったスタイルではありませんが、ノスタルジー、非日常性と相まって独特の味わいを生んでいるのだと思ます。(写真出典:eiga.com)

サンティアゴ・デ・クーバ