2025年10月12日日曜日

巴御前

巴御前は、平家物語や源平盛衰記といった軍記物語にしか登場せず、遺物なども発見されていないことから、架空の人物とされています。物語のなかの巴は、源(木曽)義仲に仕える一騎当千の女武者です。木曽四天王と呼ばれた樋口兼光・今井兼平兄弟の妹、あるいは樋口兼光の娘ともされます。兄弟の妹だとすれば、乳母子として、義仲とは幼少期から共に育った仲ということになります。宇治川の戦いで鎌倉勢に敗れ、わずか5騎となった義仲主従は琵琶湖畔の粟津で討たれます。5騎のなかに、巴も残っていましたが、女連れで討ち死にするわけにはいかないと、離脱させられます。

巴御前の最大の謎は、なぜ平家物語は架空の女武者を登場させたのか、ということだと思います。平家物語には、実在・架空取り混ぜて、二十数名の女性が登場します。平家物語は、琵琶法師が語る口承の物語であり、聴衆のなかには多くの女性も含まれていたはずです。基本的には戦記物語ですが、女性の歓心を買う必要もあり、多くの女性の物語も取り入れたものと思われます。巴のモデルになったのは、越後の板額御前ではないかと言われます。板額御前が活躍した建仁の乱は、1201年に起きています。平家物語の成立は不詳ですが、13世紀前半とみられています。板額御前がモデルという説は、大いにあり得ると思います。板額御前は「吾妻鏡」に記載されますが、平家物語には登場しません。巴とダブることを避けたのかもしれません。

平家物語には、わざわざ巴を創作しなくても、実在の板額をヒロインにするという選択肢もあったはずです。平家物語に登場する女性たちは、平家方であろうと源氏方であろうと、おおむね涙を誘う悲劇のヒロインです。板額も平家方の敗軍の将ではありますが、鎌倉幕府の御家人と結婚し、生涯を全うしています。女性聴衆の興味は引けても、涙は誘いにくかったと思います。あるいは、平家物語が生まれた頃、板額は、まだ生きており、脚色することは憚られたのかもしれません。ならば、ということで、当時、弓の名手として評判になっていた板額をモデルに巴を創作したのではないでしょうか。なお、平家物語の巴は、義仲が木曽から同行した二人の便女(びんじょ)の一人とされています。今一人の山吹は、病気のために義仲の最後には同行していません。

便女は、武将の身の回りの世話をする侍女ですが、巴は美しく、かつ強弓精兵の兵(つわもの)とされています。巴を義仲の愛妾とする話もありますが、便女には、そういう性格もあったのでしょう。平家物語には、粟津を去った巴の後日談は述べられていません。討ち死にした、出家した、遊女になったなど諸説あるようですが、源平盛衰記では、捕まって鎌倉に送られ、御家人である和田義盛の妻になったと書かれています。まさに板額御前の半生そのものです。架空の人物とは言え、少し気になる話もあります。粟津にほど近い義仲寺の縁起です。義仲の死後、義仲の墓所近くに庵を組み”われは名も無き女”と称して供養をする女性がおり、その庵が義仲寺になったというのです。現在、義仲寺には、義仲の墓に加え、巴を弔う塚もあります。

もちろん、後付けの縁起ということにはなりますが、なにやら本当にあった話のように思えてきます。能楽「巴」では、義仲と最期を共に出来なかった恨みを残す巴の亡霊がシテとなります。武人がシテとなる能楽は修羅能と呼ばれます。巴は、能楽のなかで唯一女性が主人公の修羅能です。有名な修羅能には、八島、敦盛、実盛など、平家物語を題材とする曲が多くあります。ちなみに、義仲寺には、松尾芭蕉の墓もあります。芭蕉は、大阪で亡くなっていますが、遺言に基づき、義仲寺に埋葬されました。生前、芭蕉は、義仲寺周辺の景色が気に入り、何度も訪れていたといいます。ただ、芭蕉が巴を詠んだ句は一切存在していないようです。(写真:蔀関月「巴御前出陣図」 出典:bunka.nii.ac.jp)