2025年10月10日金曜日

板額御前

鳥坂城跡
平安末期から戦国時代までには、何人かの女性武将が登場しています。当時の武家にあって、女子も武芸を鍛錬し、戦場に出ることも珍しいことではなかったとも言われます。また、女性城主も、井伊直虎や立花誾千代がよく知られていますが、他にもそこそこ存在していたようです。ただ、江戸幕府が武家の嫡男相続を定めたことから、類が及ぶことを避けるために、女性武将や城主に関する文献の多くが廃棄されたようです。女性武将に関しては、巴御前、板額御前、甲斐姫、大祝鶴姫などが有名ですが、文献上、その実在が確認されているのは板額御前、甲斐姫くらいと聞きます。大三島の大山祇神社で鶴姫が着用したという鎧も見ましたが、その実在については否定的な見解が多いようです。

板額(はんがく)御前は、桓武平氏維茂流で越後国北部を治める城資国の娘として生まれます。母は、後三年の役で滅んだ出羽の清原武衡の娘とされます。板額とは変わった名前ですが、額が固かったからとも、出生した奥山荘飯角からきているとも言われます。幼少の頃から、文武に優れていたようです。板額には二人の兄がいました。長兄の城資永は平清盛の信認厚く、保元の乱でも活躍し、検非違使にも任ぜられています。木曽義仲が挙兵すると追討を命ぜられますが、出陣前日に急死、弟の長茂が軍を引き継ぎます。数万規模の長茂軍でしたが、横田河原の戦いで数千人の義仲軍に敗れます。その後、平家の没落とともに城家も没落していきます。鎌倉幕府に捕らえられた長茂は、梶原景時の後ろ盾を得て奥州合戦に参加、武勲を挙げて鎌倉幕府の御家人になります。

長茂は、梶原景時の変で景時が失墜すると、鎌倉を離れ、京都で倒幕の兵をあげます。しかし、幕府追討の宣旨も得られず、あえなく討たれています。いわゆる建仁の乱ですが、越後では、板額御前が、長茂の嫡男・資盛とともに、鳥坂(とっさか)城に依って反幕府の兵を挙げます。鳥坂城は、現在の胎内市にあった山城です。幕府は、頼朝死後の内紛で上野国に蟄居させられていた佐々木盛綱に追討を命じます。数万に膨れあがった盛綱軍でしたが、千人程度が立て籠もる鳥坂城を攻めあぐねます。難攻不落と言われた山城と弓の名手であった板額に阻まれたとされます。鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」には、板額の弓は百発百中と記載されています。しかし、板額は、背後の山から射られた矢に太ももを射抜かれ、勢いを失った鳥坂城は、1ヶ月の攻防の末に陥落します。

板額は鎌倉に移送され、将軍頼家の前に引き出されます。唐代の陵園妾にも例えられる美形、そして臆することのない堂々たる様に、並み居る御家人たちは驚いたと言います。すると、弓の名手であった甲斐源氏の浅利義遠が妻にしたいと申し出ます。なぜ謀反人を娶るのかと将軍に問われた浅利義遠は、立派な男子を設け、朝廷と幕府のお役に立てる、と申し述べ、許可を得たとされます。浅利義遠は、出羽国にも領地を持っており、秋田にゆかりのある板額を娶ることで、領民の歓心を買おうとしたとも言われます。城家は秋田城介として名を成した名門であり、板額の母は出羽の大豪族清原家の人でした。以降、板額は、浅利義遠の妻として二人の子を設け、甲斐国で生涯を終えています。山梨南部には、板額塚はじめ、わずかながら遺構が残っているようです。

甲斐二十社の一つとされる笛吹市の賀茂春日神社には、板額御前のものとされる弓・薙刀・小刀が伝わっています。浅利義遠の本拠地から多少離れた賀茂春日神社に、なぜ板額の武具が残されているのか不思議な話です。実は、賀茂春日神社の宮司を務める奥山家は、城氏の出身でした。奥山という姓は、いかにも城氏の本拠地・奥山荘にちなんでいそうです。板額は、自分の武具を親戚の宮司に託すことで、女性武将としての一面を封じ、浅利家の妻に、母に徹したということなのでしょう。平家没落の経緯は平家物語を通じてよく知られているわけですが、板額のような地方における平家一門の没落は、さほど広くは知られていないように思います。恐らく、全国には、語られることのなかった平家物語が、数多くあったのだと思います。(写真出典:sirotabi.com)