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| 北斎「白拍子」 |
静御前については、武将でもなく、政治に関わったわけでもないのに、なぜ正史に詳しく語られているのか、実に不思議だと思います。静御前は、白拍子の磯禅師の娘として生まれ、自身も白拍子になります。京丹後の禅師の娘とも言われます。白拍子は、男装して、今様や朗詠を歌いながら舞う遊女です。遊女と言いながら、公家や武家の宴席に招かれることも多く、また平清盛はじめ人気の白拍子を愛妾とする貴人も多かったようです。現代風に言えば、大物芸能人といったところだったのでしょう。源義経に見そめられた静は愛妾となります。兄頼朝に追われる身となった義経主従に同行して都を離れます。しかし、九州へ向かう船は嵐で難破、吉野山へ逃げ込みます。従う者も少なく、険しい山中の逃避行ゆえ、静はそこで都へ返されます。
ところが、同行する雑色から金品を奪われた静は、山中で捕縛されます。都で取り調べを受け、母とともに鎌倉へ移送されます。頼朝は、舞の名手である静に、鶴岡八幡宮で舞うように命じます。その際、静が歌ったとされる唄は、よく知られています。
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
いずれも義経を慕う唄だったことから、頼朝は激怒します。それを取りなしたのが北条政子だったとされています。その後、静は義経の子を出産します。男子であったことから、頼朝は由比ヶ浜に埋めさせます。北条政子は、静に金品を与えて、都へ送り返します。その後に関す記述はありません。
静の初出は「平家物語」です。頼朝が送った刺客を、静の機転で、義経が返り討ちにするという段にのみ登場します。その後、「義経記」が登場し、静について、吉野山中や鎌倉でのことを詳しく語ります。吾妻鏡の記載は、この義経記と、ほぼ一致する内容となっています。鎌倉幕府の正史が、大衆向けの話をそのまま載せることは、異常なことのように思えます。吾妻鏡の成立は、1300年頃とされます。北条家による執権政治全盛の頃のことです。義経と静の悲運を通じて、頼朝の冷酷さと北条政子の慈悲深さを対比させ、北条政権の正統性を示したかったのかもしれません。しかし、それだけなら、静の話を持ち出すまでもなく、方法は他にもあったように思います。
恐らく、義経記などを通じて、義経と静の話は広く知られており、鎌倉幕府としても、無視できないほどだったのではないでしょうか。判官贔屓という言葉は、江戸期以前からあったようです。判官とは義経のことであり、弱い立場の人間に同情する、応援する、といった意味です。鎌倉幕府は、いじめた側ということになりますから、これを正史で全否定する手もあったと思います。しかし、それでは火に油を注ぐ結果になりかねません。そこで、罪を頼朝と梶原景時に被せて、北条家に責任はなく、むしろ静には同情的であったとして、世間の評判を高めたかったのではないでしょうか。ちなみに、義経記では、都に戻った静は天龍寺に庵を結んで出家し、その翌年に亡くなったとされています。享年は若干20歳。例によって,各地に墓が存在しています。(写真出典:nikkei.com)
