2024年6月27日木曜日

曽呂利新左衛門

御伽衆(おとぎしゅう)とは、大名等の側に仕え、退屈を紛らわせるために、雑談に付き合う、あるいは種々の話を聞かせる役でした。室町の頃から江戸初期まで続いたようです。戦乱が続き、権謀術数が渦巻く時代にあって、大名たちは気が休まることがなかったはずです。妻子や侍女、側近たちも多くいたわけですが、常に生死をかけた判断が求められる重責に、否が応でも孤独感は増したものと思われます。そんななか、大名個人の思いや話に付き合ってくれる人間は貴重な存在だったのでしょう。豊臣秀吉に至っては、御伽衆を800人抱えていたと言われます。隠居した大名、文化人も多く含まれていたようです。もっとも、秀吉にとって御伽衆は、出自の卑しさをカバーする箔付けの意味合いが大きかったものと思います。

秀吉の御伽衆のなかで良く知られている一人が、後に笑話集「醒睡笑」を著わし、落語の祖とも言われる茶人の安楽庵策伝です。一方、秀吉の御伽衆のなかには、落語家の祖と言われる人物もいます。とんちの利いた話で秀吉を楽しませたという曽呂利新左衛門です。本名は杉本新左衛門。もともとは堺の鞘師だったようです。腕の立つ職人であり、その鞘には刀がソロリと収まったので、曽呂利新左衛門と呼ばれるようになったといいます。とんちが利くと評判をとった新左衛門は、秀吉に召し抱えられます。新左衛門は、猿顔を嘆く秀吉に「猿の方が殿を慕って似せたのです」と言って笑わせたという話が残ります。これだけなら、落語家の祖というよりも幇間(たいこもち)の祖というべきだろうと思います。

曽呂利新左衛門の知恵者ぶりを伝える話も残っています。あるとき、褒美を賜ることになった新左衛門に、秀吉は何が欲しいか尋ねます。新左衛門は「この広間の畳に端の方から一畳目は米一粒、二畳目は二倍の二粒、三畳目はその倍の四粒、次は八粒というように二倍二倍と米を置いていき、広間の百畳分全部をいただけますか」と答えます。秀吉は、その程度のものかと快諾します。ところが、考えてみると、とてつもない米の量になることに気付いた秀吉は、新左衛門に別な褒美に変えるよう懇願します。いわゆる累乗の計算になりますが、EXELで計算すると”1.26765E+30”という答が出ます。これは、1.26765に10の30乗を掛けることを意味します。天文学的どころか、宇宙を超えるほどの数字になります。

まるで数学者を思わせる逸話です。私が好きな逸話は、やはり褒美に何がよいか問われた新左衛門が「毎日、殿の耳のにおいを嗅がせてもらいたい」と答えたというものです。これまた秀吉は快諾します。そして、実際、毎日、においを嗅ぐことになるのですが、その様子を見ていた人たちには、新左衛門が秀吉に何かささやいているようにしか見えません。悪口や告げ口をされては大変と思った大名や側近たちは、新左衛門に付け届けをするようになったというのです。虎の威を借る狐かな、といったところですが、人間の心理をついた、あるいは独裁者の宮廷のありようを冷静に観察したうえでの、実に狡猾な知恵と言えます。一流とされた御伽衆の資質の高さを伝える話だと思います。

単に主君に媚びるだけなら二流の御伽衆、時にはへつらうことなく真実を伝えてこそ一流であり、それが主君の寵愛を受けることにもつながるのでしょう。もちろん、しゃちこばって真実を伝えるのではなく、諧謔をもって伝えるからこそ御伽衆ということになります。それが落語家の本質にも受け継がれているように思えます。講談には「講釈師、見てきたような嘘をつき」という言葉があります。上から目線で、押しつけがましく語りきるのが講談師の芸です。対して、落語家は、あくまでも庶民の目線、感性から離れることはありません。人間や世間を見る冷静な目線をベースに、庶民に対しては愛情を持って、上部構造に対しては批判をこめて諧謔を繰り出します。批判的精神のない落語家など薄っぺらいものです。ところで、新左衛門の猿顔の話は、秀吉が猿顔であると言っているようなものです。これが落語の真髄につながるわけです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月25日火曜日

月面着陸

中学の頃、剣道部に所属していました。当時、剣道部は、日曜、夏休み、冬休みには朝稽古をしていたものです。中学3年生の夏休み、よく晴れた暑い日だったと記憶しますが、稽古の後、皆で宿直室に集まりました。他の運動部も加わり、広くもない部屋は満杯になります。学校にある唯一のTVが目当てでした。その日早朝、アポロ11号が人類初の月面着陸を成し遂げ、世界中が歓喜に沸いていました。NHKは、早朝から延々と中継映像を流し続けていました。そして、1969年7月21日午前11時56分(米国時間同日午前2時56分)、いよいよその時が来ました。人類が初めて月面に降り立つ瞬間です。ニール・アームストロング船長が月面に降り立つと、信じがたい程の大歓声があがりました。感動のあまり鳥肌が立ったことを覚えています。

アームストロング船長は冷静な声で「これは人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ」と語ります。生涯忘れ得ぬ言葉の一つです。正に人類の進歩そのものでした。月面着陸もさることながら、その瞬間が世界に同時中継されたことも歴史的快挙だったと思います。その瞬間のNHKの視聴率は68%を記録しています。その後、しばらくの間、熱狂がさめることはありませんでした。私も、アポロ11号とNASA管制センターとの交信を収めたレコードを持っていました。月面着陸のブームは、1970年、大阪万博で展示された月の石でピークに達したように思います。半年に渡る会期中に6,422万人が来場した大阪万博は大成功でしたが、「人類の進歩と調和」というテーマに相応しい月の石の効果は大きかったと考えます。

しかし、アポロ11号の大騒ぎを思い起こすと不思議なことがあります。何故月に行くのか、という説明を聞いた記憶がありません。誰も話していなかったように思いますし、誰も疑問に思わなかったのではないかと思います。アポロ計画は、1961年、ジョン・F・ケネディ大統領が両院合同議会で打ち出しています。その際の演説では、月面着陸は宇宙探査史上で最も重要なプロジェクトになる、米国の持つ行動力や技術力のレベルを知ることになる、といったその意義や重要性が説かれていますが、直接的にその目的は語られていません。アポロ計画の背景には、冷戦があり、核兵器開発競争がありました。宇宙開発分野における米ソの競争は、核ミサイル技術の開発競争そのものだったことは衆知の事実でした。

核戦争が現実味を帯びるなか、人工衛星や有人宇宙飛行でソヴィエトに遅れを取ったアメリカが焦る気持ちはよく分かります。月面着陸を目指すことで、様々な技術を一気に向上させ、ソヴィエトを抜き去るという意図も理解できます。また、結果的に、コンピューターはじめ、アポロ計画が民間にもたらした技術革新が数多くあることも承知しています。しかし、ミサイル技術、あるいは宇宙防衛技術を向上させるためだけなら、膨大な予算、要員を投入してまで人を月に送る必要はないように思います。人類の夢の実現、あるいは地球や人類誕生の謎に迫るという科学的探究心も分かります。ただ、天文学的な規模の国家予算を投入することは理解を超えています。よく議会が承認したものだと思います。

予算が議会を通った背景には、核戦争の脅威だけでなく、1950年代アメリカ経済の躍進もあったのでしょう。自信、自惚れと言うことも出来そうです。ただ、アポロ計画を議会が承認し、国民が大歓迎した最大の理由は、フロンティア精神にあったのではないかと思っています。アメリカにおける国家と国民の繁栄は、ひたすら西へ西へと向かっていったことに依ります。いわゆるフロンティアであり、ある意味、アメリカという国の精神そのものだと言えます。しかし、それも太平洋に到達することで一段落し、太平洋、アジアへ向かったものの決して簡単ではありませんでした。とすれば、残るは空ということになります。好景気に沸くアメリカにとって、より大きな旗印が社会的に必要だったのでしょう。ケネディ大統領ではなく、アメリカ国民が月面着陸というフロンティアを選択したのかもしれません。(写真出典:afpbb.com)

2024年6月23日日曜日

ZAPPA

1970年代、フランク・ザッパは、すでに伝説的存在でした。ただ、名前は知っていても、音楽はほとんど聞いたことがありませんでした。ヒット・チャートを賑わせるような音楽ではなかったからです。 それでも、たまに聞く機会はあったのですが、面白いとは思っても、自分の好きなタイプではないのでレコードを買うこともありませんでした。先日、2020年に制作されたアレックス・ウィンター監督のドキュメンタリー「ZAPPA」を見ました。よくあるミュージシャンのドキュメンタリーとは大いに異なりました。単なるロック・ミュージシャンとしてのザッパではなく、その希有な存在の全てを描こうとしていたからこそ興味深い映画になったのだと思います。

天才フランク・ザッパは、ジャンルを超越した作曲家にして前衛芸術家でした。自分の音楽を形にするために、身近にあったギターを手に取り、組成しやすかったロック・バンドという形を選んだだけなのでしょう。ザッパは「自分で書いた曲を演奏し、録音し、聞きたいだけだ。それを他人が聞きたいというのであればうれしい」と語っています。自身のバンドであるマザーズ・オブ・インベンションやマザーズのライブでは、常に新曲や新たに編曲された曲が演奏されていたようです。完璧を期すために、メンバーには高い演奏水準が求められ、長時間のリハーサルが行われていたようです。あたかもオーケストラの公演のようです。現に、ザッパは、ギターをタクトに持ち替えて、自作をロンドン・フィルやドイツのアンサンブル・モデルン等と演奏しています。

ザッパにとっては、オーケストラの指揮もバンドのライブとなんら変わらぬ音楽活動だったのでしょう。彼の曲は、今でもオーケストラで演奏されています。ザッパは現代音楽の作曲家として認知されているわけです。ザッパのジャンルを超えた音楽は、レーベルの営利主義と対立し、ロック・ミュージシャンとしては初となる自身のレーベルも設立しています。また、議会が、CDのレーティング導入に動いた際には、検閲であるとして反対の声をあげ、参考人として議会で証言もしています。議会に敵対し仕事を失うことを恐れたミュージシャンたちが口をつぐむなか、ザッパは身を挺して表現の自由を守ったわけです。自らのレーベルを持っていることも強みでした。ザッパは大統領選出馬に意欲を見せたことがありますが、この問題が契機となったものと思われます。

ザッパは、正式な音楽教育を受けていません。音楽活動は、高校時代のR&Bバンドのギター担当に始まっています。ただ、興味深いことに、その頃からエドガー・ヴァレーズやアントン・ヴェーベルンの現代音楽もよく聴いていたようです。また、許可を得て大学で和声の講義を受けたこともあるといいます。高校を卒業すると、大学には席をおいただけで、バンド活動、録音スタジオ経営、作曲等に勤しみ、19歳でオペラの作曲も行っています。1965年、25歳のおり、ヴァーヴ・レコードと契約し、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションとしての活動を開始します。翌年にはデビュー・アルバム「フリーク・アウト」が2枚組でリリースされます。ロックにおける最初のコンセプト・アルバムとして知られます。

映画は、1991年、チェコでのソ連軍撤退を祝うライブの模様から始まります。ザッパは、熱狂的な歓迎を受け、異様な盛り上がりのなかでギター・ソロを披露します。ビロード革命で民主化を成し遂げる以前のチェコでは、ザッパの音楽は禁止されており、反体制の象徴として地下で広がっていました。チェコの人々にとって、ザッパは自由の象徴だったわけです。ある意味、チェコの人々は、ザッパの本質をよく理解していたとも言えます。カウンター・カルチャーというマントを翻しながら荒野を一人歩んできたというイメージがザッパを伝説的存在にしているのでしょう。しかし、マントの下の生身のザッパは、スタートから終始一貫、誰に媚びることもなく、ひたすら頭の中で鳴り響く音楽を形にすることだけに執着し続けた生粋の作曲家だったのでしょう。(写真出典:amazon.co.jp)

2024年6月21日金曜日

クマリ

クマリは、ネパールの生きた女神です。密教の女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーの化身であり、ネパール王国の守護神である女神タレージュ、アルナプルナの生まれ変わりとされます。クマリとは、少女、処女を表すサンスクリット語が語源になっているようです。幼女のうちに選ばれ、初潮を迎えるまでクマリとしての役割を果たします。クマリは、ネパール各地に存在します。ロイヤル・クマリと呼ばれる首都カトマンズのクマリは、実家を離れてクマリ・チョークという専用の館に住みます。クマリは、インドラ・ジャートラーの大祭で主役を務め、国王ですらひざまずくとされますが、日常的には、多くの参拝客に、ティカと呼ばれる額に赤い粉をつける祝福を与えています。

クマリは、仏教、ヒンドゥー教、地元信仰が一体となった不思議な生き神です。日本の神仏習合を思わせますが、ネパールでは仏教とヒンドゥー教の共存の象徴としても機能しているようです。その起源は諸説あるものの、マッラ朝(12~17世紀)時代に始まったようです。ある説では、女神タレージュが、毎夜、人間の姿でトライトキヤ・マッラ王を訪れ、国の繁栄について相談に乗っていました。ところが、ある夜、王が女神に性的な誘いをかけると、女神は激怒し、二度と現れなくなります。後悔した王が彼女の帰還を懇願したところ、女神はシャーキャ族の処女の少女の姿で現れることを約束します。シャーキャ族は、ゴータマ・シッダールダ、つまりお釈迦さまの出身一族として知られます。釈迦とはシャーキャのことです。

クマリが選ばれる基準は、32項目にも及ぶようです。健康状態が良く、血を流したことがなく、病気になったこともなく、傷がなく、歯をまだ失っていない等に加え、子牛のような睫毛、獅子のような胸、鹿のような脚といった外観、穏やかで恐れを知らない性格などが続きます。候補者は、さらにいくつかのテストを受けて、クマリに選定されます。クマリは、世話人たち、選ばれた遊び相手に囲まれて暮らします。クマリは女神ゆえ、誰からも命令や指示を受けることはありません。また、全知全能ゆえ教育を受けることもありません。地面に足をつけてはならないともされます。クマリとしての役割を終えると、生涯年金が支給されるようですが、一切の教育を受けていないことから、社会復帰は難しいとも言われます。

近年、ある意味の近代化がなされ、クマリは家庭教師を付けたり、公立学校へ通うことも認められるようになっているようです。とは言え、人権という観点からクマリは問題視もされているようです。同じことが、チベットのダライ・ラマやカルマパにも言えるのでしょう。人ではなく神だ、と言えばそれまでですが、悩ましいところです。日本の天皇にも同様の問題があります。天皇家は神の子孫とされますが、天皇が明確に現人神とされたのは明治以降のことです。敗戦後、人間宣言をした日本の天皇ですが、基本的人権を有しないという問題があります。法的矛盾だとする意見もあります。慣習法であるという考え方もあるのでしょう。慣習法と成文法の関係は難しい問題ですが、通常、公序良俗に反しない慣習法は、成文法と同じ効力を持つとされます。

天皇制と人権について矛盾を感じないのが日本人の特徴だという意見もあります。つまり、日本は革命によって国体が変わった経験がなく、真の意味で近代的な法治国家になりきれていないというわけです。かつて、家の近所に「クマリ」という名の美味しいインド料理屋がありました。特にナンは絶品でした。店名からしてネパール系の経営者なのだろうと思います。いつも気になっていたのは、クマリという店名です。日本にテンノウやアマテラスという名の飲食店があるとは思えません。ネパールの人々は、総じて信仰心が厚いものと思われますが、店名に生き神の名前をつけるあたりの感覚はよく分かりません。しばしば聖と俗が渾然一体となっている印象を受けるインド・ネパールならではの感覚なのかも知れません。(写真出典:en.wikipedia.org)

2024年6月19日水曜日

Shōgun

今年、アメリカで公開され大ヒットしたTVシリーズ「Shōgun」を見ました。ディズニーの子会社が制作し、アメリカではHulu、日本ではディズニー+で配信されました。世界的にヒットし、高い評価も得ました。原作は、ジェームズ・クラヴェルであり、戦国末期の史実をもとに、徳川家康と石田三成、カソリックとプロテスタントという対立構図を描くフィクションです。映像化されるのは、これが二度目となります。1980年に、NBCがTVシリーズとして制作し、日本では映画化されたものが公開されました。リチャード・チェンバレン、三船敏郎、島田陽子らが出演し、ある程度ヒットし、評価も上々でした。しかし、今回の映像化は、前作をはるかにしのぐ大ヒットとなり、一層高い評価を得ています。

映像、演出、演技もさることながら、前作と比べ、より原作や史実に忠実であること、西洋寄りにならない中立性を保っていること等も評価されているようです。原作者の娘が製作総指揮陣に入り、主演の真田広之もプロデューサーを兼ねていることが良い効果を生んでいるのでしょう。とは言え、日本人にとってみれば、史実をつまみ食いしたフィクションは、やはり気にはなります。細部に関して言えば、よくあるエキゾチシズムだけを狙った日本の描写はかなり改善されていますが、やはり違和感を覚える箇所も多々あります。もちろん、世界中の視聴者を考えれば、ごく正確に当時の日本を再現することが良いとも限りません。少なくとも、やたら説明しなければならないシーンが増えることでしょうから。

撮影は、日本で行う予定だったようですが、システム・ネットワークの脆弱さゆえ、カナダに変更されたとのことです。日本にとっては、やや悲しい理由です。ま、CGやAIの時代ですから、どこで撮影しても問題ないのでしょう。撮影場所が日本ではなかったため、今回は著名な日本人俳優の出演は限られています。主演の一人である鞠子役には、ニュージーランド生まれの日本人アンナ・サワイが起用されています。日本での芸能活動を経て、ハリウッドで活躍中の女優とのことです。真田広之、浅野忠信、コスモ・ジャービス、そしてアンナ・サワイの演技が、キャラクター設定を見事に際立たせ、物語を分かりやすく、没入しやすいものにしています。二階堂ふみも、淀君と思しき複雑な役で、さすがの演技を見せています。

世界中には、私も含めて「ゲーム・オブ・スローンズ(GOT)」ロスの人が山ほどいるはずです。柳の下をねらったファンタジーが多く作られましたが、壮大さにおいてGOTを超えるものはありませんでした。本作は、全く異なる切り口からアプローチしたことで、GOTに迫る仕上がりになっていると思います。例えば、欧米人には理解しにくい日本のストイックな組織主義をあえて基調に据えることで、対立と裏切りの構図をより深みのあるものにしています。それが実現できたのは、抑制の効いた全体のトーンと主演陣の演技によるところが大きいと思います。同様に、ほぼ全編を日本語で通すという思い切った判断も、リアリズムを高める効果があったと思います。GOTのために創作された高地ヴァリリア語とドスラク語を思い起こさせます。

大ヒットを受けて、既にシーズン2、3の制作が決定しているとのことです。GOTは、1年に1シーズンというサイクルでした。私は一気見が好きなので、2~3日のために1年待つというしんどい数年間を過ごしました。同じことが起こりそうです。今回想定された時代設定からすれば、シーズン2は関ヶ原の戦い前後、シーズン3は大坂の陣ということになるのでしょう。今回の比ではなく戦いのシーンが増えます。予算も膨大なものになるのでしょう。余談ながら、昨今の円安もあり、インバウンド客の増加は著しいものがあります。想像するに、本作の世界的ヒットを機に、日本の歴史に興味を持つ人が増え、日本の歴史を探訪したいというインバウンド客が増加するのではないかと想像できます。家康、あるいは戦国末期ゆかりの地では、今から受け入れ準備をした方がいいと思います。(写真出典:disneyplus.disney.co.jp/)

2024年6月17日月曜日

エレクトリック・ギター

最初に買ったジャズのアルバムは、マイルス・デイビスの「フォア&モア」でした。しかし、最初に手に入れたのはタル・ファーロウの「ザ・スウィンギング・ギター」でした。ラジオ番組で音楽にちなんだダジャレの募集があり、一等賞になるとレコード・プレゼントという企画でもらったものです。とりわけタル・ファーロウ・ファンというわけでもなく、初めて買ったスウィング・ジャーナル誌の今月のお薦め盤だっただけのことです。1950年代に活躍した白人ギタリスト・タル・ファーロウは、抜群のテクニックで一世を風靡した人です。オクトパスとあだ名される大きな手から繰り出される単音の早くて音域の広いパッセージが特徴です。

ギター、ピアノ、ベースというトリオ編成もいい味を出しています。ジャズのエッセンスとも言える演奏ですが、やはり白人っぽい淡泊さを感じさせます。スウィングのギターなら、なんと言ってもチャーリー・クリスチャンがベストだと思います。 チャーリー・クリスチャンは、ジャズにエレクトリック・ギターを持ち込んだ最初のギタリストであり、ギターを単なるリズム楽器からソロ楽器に変えた人とされています。スウィンギーなだけでなく、音に豊かな表情とブルーズを感じさせます。登場間もないエレクトリック・ギターだったわけですが、既にその特性をよく心得ていたように思います。1939年、23歳でスウィングの王様ベニー・グッドマンのバンドに参加し、当時としては目新しかった楽器とともにその名を轟かせました。残念なことに、25歳のおり、結核で亡くなっています。

エレクトリック・ギターの試作は、1910年代には始まっていたようです。ビッグ・バンドの流行とともに、ギタリストは大きな音が必要になり、奏者たちが自ら試行錯誤しました。当初は、単純にアコースティック・ギターにマイクを付けて音を拾う方式を試していたようです。今につながる電磁式のピックアップが登場したのは、1931年です。アドルフ・リッケンバッカーとジョージ・ボーチャムが発明しています。商品化された最初のエレクトリック・ギターは、リッケンバッカー・エレクトロA-22、通称「フライパン」であり、当時のハワイアン・ブームを背景に開発されたラップ・スティール・ギター、いわゆる横置きのハワイアン・ギターでした。エレクトリック・ギターは瞬く間に人気となり、ギブソンはじめ多くの製造業者が誕生します。

その後、エレクトリック・ギターは、楽器としても、奏法としても進化していくことになりますが、機器としての最も大きな変化はエフェクターの登場だったと思われます。エフェクターは、1940年代後半には試作されていたようですが、一般化する契機となったのはボー・ディドリーのデビュー曲「ボー・ディドリー」だったとされます。ボー・ディドリーが使ったのはトレモロ効果をかけるフロア・タイプのエフェクターでした。60年代に入るとトランジスタを使ったエフェクターが登場し、なかでも倍音を強調するファズは、ローリング・ストーンズのキース・リチャードが「サティスファクション」で使ったことから大ブームとなります。時は、まさにギター・ブルースの時代を迎えており、各種エフェクターが大流行していきます。

ジミヘン、エリック・クラプトンといったギター・ブルース時代のギタリスト達の源流は、ハウリン・ウルフ・バンドのヒューバート・サムリンだと言われます。南部の黒人に言わせれば、ジミヘンなどサムリンのギターの音量を上げただけということになります。ヒューバート・サムリンは、ロバート・ジョンソン以降続いたブルース・ギターの伝統を、より自由なものへと変化させ、主役の座に据えていきました。ブルースだけでなく、ロック・ギターの源流でもあります。ジャズの世界では、多くの名手が生まれていますが、奏法に大きな変革をもたらしたのはウェス・モンゴメリーだと思います。オクターブ奏法やコード演奏を用いることで、単音・早引きのスタイルをよりモダンで深みのある世界へと変えました。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月15日土曜日

会して議せず

NYに赴任した当初、アメリカの企業に組織図(オーガニゼーション・チャート)を見せてくれと言うと、皆、結構、戸惑っていました。レポーティング・ライン(指揮命令系統)でいいか、とよく言われたものです。職務権限が明確で、かつ厳密に運営される米系企業の経営判断は、おおむね個人単位で行われます。日本企業にも職務権限はあるものの、組織主義的な運営が中心であり、経営判断の多くは会議で成されていました。デジタル化が進んだ昨今、企業内の会議もかなり変わったのだろうと思いますが、かつての日本企業の会議は「会して議せず、議して決せず、決して行わず」と揶揄されたものです。結果的に、やたら会議が多くなってしまうことも問題視されていました。

アメリカ企業からは、日本企業の判断の遅さがよく指摘されたものです。特に、海外の出先にいると、最終決定は本社というパターンが多く、本社では長々と「会して議せず」が行われるものですから、判断はやたら遅くなります。対して、アメリカ人とのミーティングでは、職務権限に基づいて、その場で判断が成されていきますから、仕事が早いわけです。アメリカ人には判断の遅さを批判されましたが、日本企業は判断後の徹底力に優れる、などと強がりを言っていたものです。とは言え、さすがに耐えきれず、私も途中からは独断専行スタイルが多くなりました。郷に入っては郷に従え、というわけです。事後的であっても、現地の状況を十分に理解していない本社を丸め込む自信もあったからです。

企業も、会議の効率化を図るために、様々な手立てを打ちました。会議時間の制限、運営の定型化、資料の簡素化、ペーパーレス化、事前配布などが代表的な手法です。それなりの効果もあったように思いますが、伝統的な組織主義が存在する以上、抜本的な変化は期待薄でした。そんな状況のなか、「会して議せず」という風習は、なぜ生まれたのか、ということが気になりました。一言で言うなら組織主義ということなのでしょうが、その源は聖徳太子の十七条憲法の第一条「和を以て貴しと為す」だと言われています。原典は紀元前5世紀に成立した儒教の基本経典の一つ「礼記」とされます。十七条憲法は、宮中の官吏向け道徳則であり、上下関係にとらわれず話し合えという意味も込められていたようです。

儒教の影響も否定できないとは言え、官吏を対象とした十七条憲法が、国民に浸透していったとは考えにくい面があります。実は、日本の組織主義の原点は、鎌倉後期に登場した惣村にあるのではないかと思います。荘園制が崩れ、鎌倉幕府の地頭支配が進むと、農民たちは耕作地のなかに住むのではなく、集合して村を形成していきます。惣村は、水利、道路、田畑の境界線、戦乱・盗賊対策などに関して共働することで、結果、一定の自治を確保していきます。その後、農村を取り巻く環境は変わっていきますが、村は存続し、自治の伝統は一定程度引き継がれていったようです。その象徴の一つが寄合です。種々の身分制度はあったものの、住民の合議制を基本とする寄合の伝統は、農村で、そしてその影響を受けた町民の間でも昭和前期まで継続さたようです。

寄合は、随分と時間のかかる代物だったようです。というのも、議長がいて、提案があり、理詰めの議論を行い、決するといったものではなく、まずは車座がいくつか出来て、テーマに関する故事や各自の記憶や思いがダラダラと語られ、然る後に全体で同じことが繰り返され、自然とやってくる潮時までそれが続いたものだそうです。数日かかることもザラにあったようです。何やら、日本企業の会議と同じ匂いがします。ちなみに、欧州では領主制に基づく農奴制が近代に至るまで続き、農民の自治は生まれていません。もちろん、ギルドや都市には自治の歴史もあるわけですが、限定的だったと言えます。日米のビジネスの進め方の違いは、中世の農村における自治のあり方に根ざしていると言えるのではないでしょうか。(写真出典:harashobo.com)

サンティアゴ・デ・クーバ