2024年6月13日木曜日

ミニマル・ミュージック

テリー・ライリーのライブを聴いてきました。ミニマル・ミュージックの先駆者も御年88歳になります。ステージは、息子でギタリストのギャンとのデュオでした。テリー・ライリーは、2020年、佐渡島のイベント準備のために来日しますが、コロナのパンデミックが発生したため、日本に滞在することを選択します。以降、山梨県に移住し、日本での音楽活動を展開しています。私がテリー・ライリーを知ったのは50年以上前のことです。実験映画の上映会で「corridor」というタイトルの映画を見ました。カメラが様々な廊下を進むだけの映像がコマ送りで延々と映し出されます。その音楽をテリー・ライリーが担当していました。映像と音楽が完全に一体となり、印象に残る実に不思議な体験をしました。

ミニマル・ミュージックは、1960年代のアメリカで生まれています。テリー・ライリーはじめ、ラ=モンテ・ヤング、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスら、現代音楽の作曲家たちが始めた音楽です。最低限の音で構成する音楽ゆえ、ミニマルと呼ばれます。単音を長く伸ばす、あるいは短いフレーズを反復することが特徴と言えます。それが、バッハ的な音楽とは全く異なる不思議な音楽体験を生み出していきます。ミニマル・ミュージックの代表作とされるテリー・ライリーの「In C」では、35人以上が望ましいとされる演奏者によって、53の短いフレーズが、各々の任意によって繰り返されます。バックでは、ピアノなどによりCの音が8分音符で繰り返され、パルスと呼ばれる基調を形作ります。

一定のフレーズとリズムがベースにありますが、即興音楽そのものと言えます。例えば、西アフリカ音楽の特徴の一つは延々と続くリフであり、その伝統はアメリカ、カリブ海、ブラジルの音楽に引き継がれています。西アフリカ系のリフには、明らかに麻薬的効果があり、ダンスと組み合わせることで、人々を恍惚状態へと導きます。その絶大な効果は、しばしば原始宗教でも活用されています。テリー・ライリーの音楽にも同じことが言えるように思います。インド音楽のマスターでもあるテリー・ライリーの音楽にはエスニックな要素も入ってきます。1960年代、カウンター・カルチャーの時代を迎え、マリファナが広まり、サイケリック・ブームが起きるなか、ミニマル・ミュージックは勢いを増していったと言えるのでしょう。

現代におけるミニマル・ミュージックの代表といえば、映画音楽の世界で大活躍するマイケル・ナイマンなのでしょう。映画音楽の世界では、ピーター・グリーナウェイやパトリス・ルコントの映画で名を成しますが、最もよく知られるのはジェーン・カンピオンの「ピアノ・レッスン」です。ミニマル・ミュージックという言葉を生んだのはナイマンだとされますが、ミニマリズムに共感しアンビエント・ミュージックという言葉を生んだのがロキシー・ミュージックで知られるブライアン・イーノです。ちなみに、ロキシーは好きなバンドの一つでした。ブライアン・フェリーの独特な歌い方がクセになります。なお、日本のミニマル・ミュージックの作曲家としては、アニメ音楽で成功した久石譲がいます。

マイケル・ナイマンは、オール・ナイト・コンサートを開きますが、その生みの親もテリー・ライリーです。アンビエント・ミュージックという言葉も示唆的ですが、ミニマル・ミュージックはリラックスした状態で楽しむ音楽だと思います。今回のライブ会場では150人くらいが丸椅子に座らされぎゅうぎゅう詰めになっていました。商売上やむを得ないのでしょうが、ミニマル・ミュージックの本質とかけ離れた会場の環境はやや残念でした。テリー・ライリーはシンセサイザーを使い、約60分間、ノンストップで演奏していました。アンコールでは、ピアニカにループなどのエフェクトをかけて演奏していました。面白い使い方です。理想的には富士山麓あたりで、オールナイト・コンサートをやってもらいたいところですが、ご年齢からすれば、まあ難しいでしょうね。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月11日火曜日

「美しき仕事」

監督:クレール・ドゥニ  原題:Beau Travail  1999年フランス

☆☆☆☆+

高く評価された映画のようですが、日本初公開とのこと。今流行りの4Kレストア版での上映です。聞きしに勝る傑作だと思いました。タイトルは、P.C.レンの「ボー・ジェスト」を踏まえて名付けられたものと考えます。ちなみに、ボー・ジェストとは、優雅だけど無意味な仕草・振舞という意味だそうです。フランス外人部隊を舞台にした「ボー・ジェスト」は何度か映画化されています。ただ、本作は、白鯨で知られるハーマン・メルヴィルの「ビリー・バッド」が原作とされています。船員ビリー・バッドは、英国軍船の水兵として強制徴用されます。若くて人気者のビリーは頭角を現わしていきますが、それを妬んだ先任衛生長によってトラブルに巻き込まれていきます。

本作では、ジブチに駐留するフランス外人部隊を舞台に、若くて人望もある新兵と彼を妬む先任曹長という構図に翻案されています。実に古典的なドラマ向きのプロットといえますが、本作に、通常の映画のような説明的展開を期待してはいけません。まるで映像による散文詩のようでもあり、あるいはミニマル映画とでも呼びたくなるような抑えた表現になっています。ところが、曹長のモノローグ中心のごく少ない台詞と自然主義的な演出、独特な画角で構成される美しい映像、映像とリンクした効果的な音楽、それらが通常のドラマ以上にドラマを生み出しています。映画はいかなる表現を可能にするか、という問いがあるとすれば、本作はその見事な回答の一つと言えます。

そのミニマリズム的な演出が、監督の仕掛けの一部であることが明らかになっていきます。ジブチの青い空や海と乾いた空気感、そして兵士たちの鍛えられた若い肉体、これらが観客に強い印象を与えます。そこにジブチの人々の生活描写が頻繁に挿入されます。実は、それこそが監督が巧妙に仕掛けたテーマへのアプローチになっています。この映画の底流として静かに流れる主題とは、搾取と差別の構図である植民地主義への批判であり、暴力装置としての軍隊への批判なのだと考えます。それが一気に爆発するのがラスト・シーンです。「美しき仕事」から除隊させられたにも関わらず、先任曹長は歓喜に満ちたダンスを踊ります。これが、すべての解題となっています。このラストこそ、最も重要なシーンだと考えます。実に独創的な仕掛けだと思います。

そういう意味で、本作は、見事な文明批判の映画だと言えると思います。邦題は「美しき仕事」となっていますが、映画のテーマを考えれば、”Beau Travail”は”良い仕事”と訳されるべきではないかと思います。もちろん、”良い仕事”とは皮肉を込めた言い方であり、ボー・ジェストの意味する無益さも下敷きにされているのだろうと思います。しかし、マーケティング上、”良い仕事”ではアピールに欠ける面があり、この邦題になっているのでしょう。それにしても、このような傑作映画が日本未公開だったことは驚きです。配給ルート上の問題があったものと想定されますが、他にもそういう名作が日本未公開となっているかと思うと、誠に残念な話です。ちなみに、本作は、”Sight & Sound”誌の評論家による”史上最高の映画”ランキングで7位に選ばれているそうです。

フランス外人部隊は、フランス人将校と外国籍の兵士で構成される正規軍です。国際法で禁止される傭兵にはあたりません。ナポレオン戦争の犠牲等によって国民兵の確保が難しくなったフランスが、1831年、アルジェリア征服戦争に際して創設しました。かつてはアルジェリアに、現在はコルシカに本拠地を置き、主に海外の戦場で戦ってきました。まさにフランスの植民地政策の先兵だったわけです。ボー・ジェストや「モロッコ」(1930)といった映画に描かれたことで有名になりました。ジャン・ジュネ、コール・ポーター、モイズ・キスリング、エルンスト・ユンガー等々、多数の著名人が在籍したことでも知られています。デラシネたちのラスト・リゾート的なところが、人々の興味をかき立ててきた存在でもありす。(写真出典:eiga.com)

2024年6月9日日曜日

人間という言葉

鳩摩羅什
「間」という漢字は、なかなか奥深いものがあると思います。なかでも、空間や時間といった時空の広がりを示す使い方と人間という言葉の関係については、昔から気になっていました。人間(じんかん)と読めば、分かる面もありますが、人そのものを指す人間(にんげん)という言葉には、広がりというニュアンスは見い出しにくく、不思議な言葉だと思っていました。人間の持つ精神面の深さを表現しているのか、とも考えましたが、どうもしっくり来ません。そもそも「間」という漢字は門に月と書かれており、門を閉めても、差し込む月の光から、隙間、ひいては間(あいだ)を意味するようになったと聞きます。なんとも風流な話です。時代が進むにつれ、月が日に省略されていったのだそうです。

ただ、語源に関しては異説もあるようです。廟門、つまり墓の門に肉を捧げる儀式から生まれ、隔たりを表したという説です。あの世とこの世を隔てる、ということなのでしょうか。隔たりとは、二つのものが異なること、あるいは異なる度合としての距離、時間、差異の程度等を表します。異なる二つの点やものがあるから、間が生まれると言えます。人間の場合も、厳密に言えば、異なる個体が複数存在すれば人間であり、一つの個体だけならば人なのだろうとも思います。とすれば、人間は、種の総称としての人類と同意と考えられます。ただ、人という言葉も、人類全体を指す場合もあります。そもそも象形文字の人は、形状的には個体で表されますが、当初から種の総体をも指していたのでしょう。

後に、個体と種の総称を区分する必要が生まれ、人間という言葉が誕生したのかも知れないと考えましたが、そうでもないようです。古代中国で人間という言葉が初めて登場するのは、鳩摩羅什が中国語に翻訳した仏典だったようです。鳩摩羅什は、4世紀、亀茲国、現在の新疆ウイグル自治区に生まれた西域僧であり、初めて仏典を中国語に翻訳した人とされます。翻訳された仏典のなかで、鳩摩羅什は、天上界との対比において人の世や世間、あるいは現世を表すサンスクリット語を、人間と翻訳します。6世紀、日本に仏教が伝来した際、人間という言葉も、そのままの意味で入ってきたようです。平安時代の文学においても、同じ意味での使い方がされているようです。

織田信長が愛したという幸若舞「敦盛」では、人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり、と歌われます。下天は、仏教上、天上界の最下位に位置します。ただ、最下位であっても一昼夜が人の世の五十年に相当するとされます。幸若舞で言う人間五十年とは、人の寿命ではなく、人の世の五十年と下天の一昼夜を比較しているわけです。戦国時代までは、本来的な意味で人間という言葉が使われていたことになります。それが変質したのは、江戸期以降ということになります。どこでその変質が起こったのか、調べてみましたが、よく分かりませんでした。想像するに、江戸期、大衆向けの文学や芝居が隆盛していくなかで、人間という言葉の厳密さも失われていったということなのでしょう。

ちなみに、中国では、現在も、人間という言葉は、鳩摩羅什以来の意味を保っているようです。種の総称には人類が使われ、人という言葉はかなり幅広く多様に使われているようです。話をはじめに戻すと、人間を人の世と考えれば、空間・時間と同様、広がりを示す言葉として納得できます。ただ、別な疑問も沸いてきます。鳩摩羅什が仏典を中国語に訳す以前、中国には人の世や現世に相当する言葉は無かったのでしょうか。中国で甲骨文字が登場するのは、鳩摩羅什からさかのぼること約1,600年前のことです。人の世に相当する言葉も存在していたとしか思えません。似たような言葉があったとしても、サンスクリット語のニュアンス、あるいは仏典の理論上、ピッタリではなかったということなのでしょうか。どうも、人間という言葉はいろいろ気になる存在です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月7日金曜日

「マッドマックス:フュリオサ」

監督:ジョージ・ミラー    2024年オーストラリア・アメリカ 

☆☆☆

本作は、大ヒットした前作「マッドマックス怒りのデス・ロード」(2015)に登場したフュリオサ大隊長の前日譚となっています。誘拐された少女が大隊長になるまでの経緯が描かれたスピン・オフであり、原題も「Furiosa: A Mad Max Saga」となっています。監督は、マッドマックスの生みの親でもあるジョージ・ミラーです。マッドマックスが登場したのは1979年、ジョージ・ミラー34歳の長編デビュー作です。ディストピア、スティーム・パンク、モンスター・カー、砂漠といった世界観もさることながら、強烈なカー・アクションと疾走感が、低予算のB級映画ながら世界中を熱狂させました。当時、オーストラリア映画はまだ珍しく、ハリウッドとは異なるテイストもウケたのでしょう。メル・ギブソンの出世作でもあります。

オーストラリアの映画界は、永らく輸入されたアメリカ映画だけで成り立っていたようです。1970年代、オーストラリア政府は、自国映画を増やす政策を取り始めます。政府の後押しもあって、マッドマックスやクロコダイル・ダンディーといった世界的ヒット作が生まれ、多くの監督や俳優が国際的活躍をしていくことになりました。俳優では、メル・ギブソンはじめ、ラッセル・クロウ、ニコール・キッドマン、ケイト・ブランシェット等アカデミー俳優が名を連ねています。しかし、オーストラリアの映画人は、ハリウッドで活躍することが多く、彼らの国際的名声の高まりと反比例して、オーストラリア映画は少なくなったように思います。今やマッドマックスは、貴重なオーストラリア映画かも知れません。

さて、フュリオサですが、残念ながら、イマイチな映画になりました。オーストラリア映画史上最高額となる予算を投入したという映像は見事な出来だと思います。従来のひたすら走って戦う映画からドラマ性を高めた脚本も意欲的だと思います。フュリオサと悪役ディメンタスという対立構図の置き方もうまいと思います。本作で最も印象的なのは、ディメンタス役のクリス・ヘムズワースの演技だと思います。マーベルのマイティ・ソー役で大人気のクリス・ヘムズワースですが、見事な存在感を示し、映画の背骨を形作っています。しかし、全体的に言えば、ジョーゼフ・キャンベルの比較神話論的な世界観を、今さらシリーズに追加するという試みには無理があったように思います。

マッドマックスの直線的で暴力的な世界と神話性が相容れないということではありません。第一作からそういう作り方をしていたとすれば、成立したのかも知れません。ただ、キッチリ出来上がっているマッドマックスの枠組みを活用しながら、新たな世界を接ぎ木し、変質させていくことには無理があるということです。もちろん、ジョージ・ミラーは、その点も十分に心得て、制作してると思われます。マッドマックスらしさが全編に散りばめられ、スムーズな変質が行われているあたりは監督の腕の良さを感じさせます。ただ、結果としては、マッドマックスと別の映画を同時に見せられているような印象を受けました。マッドマックスのイメージが強いからこそスピン・オフが作られ、同時に、それが仇にもなっているわけです。それほど、マッドマックスは20世紀の大発明だったとも言えます。

本作の総製作費は、日本円で350億近いと聞きます。ニューサウスウェールズ州政府からの補助が相当額含まれているようです。一方、現状での興業収入は、半分にも満たない、いわゆる大コケ状態のようです。その理由としては、観客が男性や固定的なファンに限定されているためとされているようです。それも妙な話だと思います。前作「マッドマックス怒りのデス・ロード」は500億近い収入をあげていますが、観客がファミリー層中心だったとは思えないからです。いずれにしても、しばらくシリーズの新作を観ることはできないかもしれません。(写真出典:warnerbros.co.jp)

2024年6月5日水曜日

女真

ヌルハチ
平安時代後期の1019年、中国東北部の女真族3千人が、朝鮮半島沿いに来航し、九州北部を襲います。刀伊(とい)の入寇です。女真は武士たちに撃退されますが、365名が殺害され、1,289名が拉致されます。拉致された人々のうち数百名は、高麗が解放し、日本へ送り届けています。摂関政治期の平安京にとって、刀伊の入寇は一大国際事案だったようですが、それによって歴史が大きく動いたわけでもなく、教科書等で取り上げられることもありません。ただ、当時の東アジア情勢と日本との関係、あるいは環日本海経済圏の状況がうかがえる事件だと思います。なお、刀伊とは、高麗の言葉で東の蛮族を表す”東夷(トイ)”に日本の漢字を当てた言葉のようです。

女真族は、中国東北部に興ったツングース系民族です。ツングース系は、狩猟生活を送りながら、早くから農耕・牧畜も取り入れていました。3世紀に貊族は高句麗を建てます。7世紀末には靺鞨族が興した渤海が唐の冊封も受けて「海東の盛国」と呼ばれるほど繁栄します。航海術に優れた渤海は、日本とも緊密な外交・交易を行っていました。しかし、10世紀になると、モンゴル系の契丹に滅ぼされます。渤海に服属しながらも独立性の高かった黒水靺鞨族は、モンゴル系から女真と呼ばれるようになります。12世紀、契丹が建てた遼の東部における支配が緩むと、松花江中流域の女真族は金を建国します。刀伊の入寇は、その百年ほど前のことですが、渤海が日本と頻繁に行き来していたことから、手慣れた航海だったのでしょう。

女真族の金は、宋と協力してモンゴル系の遼を駆逐していきます。しかし、宋が幾度も協定違反を犯したため、北宋に攻め込みます。北宋を破った金は、その支配を華北まで広げ、中国の半分を支配する大国になります。しかし、建国からわずか120年で、金はチンギス・ハンが興したモンゴル帝国に打ち負かされます。その原因の一つとされるのが、漢民族の文化に染まった女真族の弱体化だとされます。興味深い話です。元朝を興したモンゴル帝国も、後に同じ理由で明朝に滅ぼされています。いずれにしても、女真族は、その後永らく、モンゴル系の元朝、および漢民族の明朝に隷属することになります。明朝の巧みな操作で内紛を続けていた女真は、17世紀初頭、愛新覚羅氏のヌルハチによって統一され、後金が建国されます。

ヌルハチは、自らの民族を満州族、その支配地を満州国と呼びます。17世紀中期になると、明朝は、李自成の乱によって滅び、南下した満州族が中国全土を制圧し、清朝を建国します。19世紀、列強の侵食をゆるした清朝は、アヘン戦争や日清戦争等で領土を失い、あるいは半植民地化されていきます。1911年、清朝は孫文率いる辛亥革命によって滅びています。考えてみると、大陸から日本本土を直接攻撃してきたのは、刀伊の入寇のツングース、元寇のモンゴルと、アルタイ語族系だけです。漢民族とは、白村江の戦いから日中戦争まで、幾度か戦っていますが、本土を攻められたことはありません。中華思想を持つ漢民族からすれば東の島など取るに足らない存在であり、ツングースやモンゴルにとってみれば日本海は内海だったということなのでしょう。

ちなみに、渤海が平城京へ使節を送ってきたのは、727年のことです。以降、渤海使、遣渤海使が交わされています。今一つピンとこないのは、なぜ渤海が日本との交流を求めたのか、ということです。渤海は、唐や新羅との関係を考慮し、抑止力としての日本を重視したと言われます。白村江で唐・新羅連合軍に大敗した日本は、国防強化に取り組みつつも、遣唐使を送り、微妙な関係とは言え新羅との交流も行っています。どうも抑止力としての実効性は薄いようにしか思えません。ただ、交易は順調に行われていたようです。航海ルートは、大雑把に言えば、朝鮮半島東岸を南下し九州に至るルート、日本海を渡り日本海側の各地へ来航するルートがあったようです。733年に設置された秋田城址にも渤海人が来航していたことが、考古学的に証明されています。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年6月3日月曜日

カレーうどん

世の中には、主役にはならないものの、欠くべからざる名脇役といった風情の食べ物が多くあります。カレーうどんも、その一つかも知れません。蕎麦屋の種物メニューの一つですが、天ぷらのはるか後方に控えます。カレーうどんがメインのメニューになっているとすれば、巣鴨の古奈屋か一部の専門店くらいのものでしょう。頻繁に食べるわけではないのですが、メニューになければ、とても寂しいと思います。脇役と言いながら、天ぷらなど種を乗せただけの単純な代物ではありません。まずは出汁に合うカレーを作らなければなりません。そして、それがめんつゆとうどんと三位一体を成してハーモニーを醸し出すようでなければ、うまいカレーうどんにはなりません。 

カレーうどん発祥の店としては、早稲田の三朝庵、中目黒の朝松庵が知られています。明治末期のことですが、その開発経緯が興味深いと思います。カレーは、明治維新とともに、英国から伝えられた料理です。ご飯との相性が良かったこと、軍隊がメニューとして採用したことから急速に一般化したようです。退役した軍人たちが全国に広め、コロッケ、カツレツとともに、三大洋食と言われるまでになります。舶来レシピを日本風にアレンジして普及した料理は多く、カレーもその一つですが、カレーうどんは多少異なる経緯を持ちます。カレー人気に押されて、客足が減った蕎麦屋が、起死回生をかけて考案したのがカレー南蛮でした。ある意味、プライドを棄て、カレー・ブームに乗っかることにしたわけです。

当初、業界ではゲテモノ扱いされ、なかなか普及しなかったようです。江戸期から外食産業の頂点に立っていた蕎麦屋としては、プライドもあり、舶来物のカレーは仇そのものだったのでしょう。ところが、両店が評判を取ったことから大正期には一般化していきます。カレーのアレンジ料理は数多くありますが、カレー南蛮がその始まりとされています。カレー南蛮が成功した大きな要因は、めんつゆをベースに和風のカレー種を作ったことにあるのでしょう。カレー南蛮という品名も良かったと思います。鴨南蛮で馴染みがあったからです。南蛮とは長ネギのことです。中国から伝わった長ネギは、大阪の難波一帯で栽培され、後に全国に広がったようです。長ネギ発祥の地で名産地の難波が南蛮に変じたとされています。

明治末期、カレーうどんが生まれた頃、めんつゆベースのカレーにあうカレー粉の開発も始まっています。四谷の田中屋は、三朝庵と協力して「地球印軽便カレー粉」を開発します。田中屋のカレー粉は、現在も杉本商店が受け継ぎ、業務用として販売されています。伝統的なカレーうどんの世界に新風を吹き込んだのが、巣鴨の古奈屋だと思います。1980年代のことです。ミルクをたっぷり入れたクリーミーなカレーうどんは衝撃的でした。以降、進化系やご当地系のカレーうどんが、続々と名乗りを挙げていくことになります。2000年代に入り讃岐うどんが大ブームになると、刺激を受けたカレーうどんも一段と活気づき、専門店も登場します。ライバルのカレーを取り込んで成立したカレーうどんは、今やライバル同様立派な日本の味になっています。

いわゆる名古屋メシの一つに名古屋カレーうどんがあります。若鯱家発祥のカレーうどんは、ドロッとしたカレーそのものをうどんにかけたような風情です。チキン・スープで作ったカレーに鰹出汁を加えた、いわばダブル・スープであり、よりカレーに近いと言えます。コシの強い太麺がよく合います。尾張のカレーうどんに対抗するように登場したのが三河の豊橋カレーうどんです。丼の底にご飯を入れ、それを覆うようにととろがかけられています。食べ終わったカレーうどんにご飯を入れる人がたまにいます。豊橋カレーうどんは、デフォルトでそれを提供しているわけです。とろろは、ご飯が浮かないように使っているようです。いずれにしても、味にはほとんど影響がない新作と言えます。(写真出典:housefoods.jp)

2024年6月1日土曜日

風林火山

NYでよく一緒に仕事をしたアメリカ人が、30年ほど前、初めて来日しました。サムライに興味があるというので、泉岳寺に連れて行くと、”47 Ronin”の話は聞いた記憶があるが、事実だったとは知らなかった、と興奮していました。また、ちょうど春先のことだったので、甲府の信玄公祭りへ案内しました。信玄公祭りは、武田二十四将の出陣を再現した武者行列であり、出陣する武者の数は1,600人を超え、世界最大級とされています。そのアメリカ人は、出陣を命じる信玄公の掛け声を真似するなど大興奮でした。戦国の世にあって、最強の呼び声が高かった武田信玄の軍勢は、今も高い人気を誇っています。

武田信玄の代名詞とも言える”風林火山”は、旗指物に書かれていたという「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」を略したものです。孫子の兵法の一節であり、疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、と戦場における軍団の臨機応変な動きを表わすとされます。最強軍団に相応しい旗印のように思えます。しかし、その戦国最強軍団を率いる信玄が、なぜ天下をとれなかったのか、という話は人気があります。物理的には、天下をとる前に死んだ、ということになります。1572年、信玄は兵を西に向けます。いわゆる西上作戦です。まずは、甲斐の南に位置する三河の徳川を攻略し、勢力を急拡大する風雲児織田信長との戦いへと駒を進めます。

恵那の岩村城まで進出しますが、信玄の体況が悪化し、一旦、兵を甲斐へ戻します。しかし、信玄は、その途上で53歳の生涯を閉じています。信玄は、4次に渡る上杉謙信との川中島の戦いも含め、生涯の多くを信濃攻略に費やしています。西上作戦の目的に関しては諸説あるものの、上洛を目指していたとすれば、信濃にこだわり過ぎて、タイミングを失した感があります。武田家は、甲斐源氏の宗家として古い歴史を持ちます。源頼朝の御家人、室町幕府の守護大名として甲斐国を治めてきました。甲斐の守護という家職が、信玄を天下取りという発想から遠ざけていた面があるのでしょう。武田軍の強さは、信濃攻略という悲願や謙信という強力なライバルの存在によるところが大きいと思いますが、それはあくまでも戦術レベルに留まる話です。

一方、信長は、斉藤氏から稲葉山城(後の岐阜城)を攻め取る前年の1566年には「天下布武」を掲げています。天下布武とは、全国制覇ではなく室町幕府再興だったとも、武力ではなく為政者の徳をもって天下を治めるという意味だったも言われます。いずれにしても信長の目線は天下にあったわけです。信長の強さは、天下布武に向けた合目的な判断や人材登用にあります。信玄と信長の違いは、その目標感にあったと言ってもいいのでしょう。高い目標には、組織を強化し、勢いをつけるという傾向があります。逆も真なりです。信玄の後を継いだ勝頼は長篠の戦いで信長に敗れ、その後を継いだ信勝は天目山の戦いで信長に滅ぼされ、9カ国を支配した武田家は滅亡します。組織が共有すべき目標の重要性を物語る歴史のように思えます。

「風林火山」は類い希なる軍人としての信玄をよく表し、「天下布武」は希代の政治家としての信長を象徴しています。戦術家と戦略家の違いとも言えます。実は、孫子の原典における風林火山には「難知如陰 動如雷霆 掠郷分衆 廓地分利 懸權而動」という言葉が続きます。要するに、戦略論ではなく、あくまでも戦術的な用兵論だと言えます。余談になりますが、甲州には、信玄にちなむ名産品や名所が数多く残ります。信玄が戦傷を癒やしたという温泉、信玄が糧食としたというほうとう、凍み豆腐、信玄餅、他には信玄袋という巾着の進化版もよく知られています。一方の信長に関しては、ゆかりの名産品等あまり知られていません。甲州に根を張っていた信玄と、領土を広げて京へ上った信長の違いと言えば、それまでですが、なかなか面白い現象だと思います。(写真出典:clubt.com)

サンティアゴ・デ・クーバ