2024年3月13日水曜日

「アーガイル」

監督:マシューヴォーン     2024年イギリス・アメリカ

☆☆+

(ネタバレ注意)

キングスマン・シリーズのファンとしては、楽しみにしていた作品です。ただ、結果は、残念なものでした。マシュー・ヴォーンのアクション・コメディは、やや古典的な英国式ユーモアにあふれ、かつ現代的なテンポの早さとスタイリッシュさを併せ持つ、今どきの映画界にあっては貴重な存在だと思います。マシュー・ヴォーンの魅力に変わりはないと思うのですが、本作に限っては、ありがちな間違いが起こってしまったという印象です。ラーメンのスープに例えるならば、全国から集めた最高の食材を火にかけたものの、火加減が強よすぎ、煮出す時間も長すぎたため、えぐみも出て、全体の味の印象もぼやけてしまったといった感じです。

キングスマンの製作費は1億ドル程度ですが、今回は倍の2億ドル。マシュー・ヴォーンが、自分のお気に入りのアイデアを、好きなだけ詰め込み、好き放題に作った映画だと思います。監督が作りたい映画を作ることは大変結構なことですが、肝心要の観客が置き去りにされているという印象です。メインとなるプロットは、ミステリ作家の作品と現実が交錯するというものです。アクション・コメディのフレームとしては、斬新とまでは言えませんが悪くありません。作家とスパイが同一人物だったという着想は見事です。ある意味、本作の鍵となるアイデアですが、そこで記憶喪失とマインド・コントロールを種明かしに使っていることは、実に安易で誠に残念だったと思います。

また、”どんでん返し”も本作の見せ場だと思いますが、あまりにもクドすぎます。どんでん返しは、楽しい仕掛けですが、ここまでやられると、これはどんでん返しをパロった映画なのかと思ってしまいます。ところが、ストレートに意外性を狙っているような面もあり、パロディだとすれば、実に中途半端なものになっています。主人公役に、プラス・サイズのブライス・ダラス・ハワードを起用した点もどうかと思います。かまとと風おばさん作家とキリッとしたエリート・スパイとの二面性の落差をねらったのでしょう。顔に関してだけは、ねらいどおりだったように思います。ひょっとすると”エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス”でミシェル・ヨーが見せた二面性をねらったのかも知れません。

決定的な違いは、ミシェル・ヨーが、もともとキレのあるカンフーで知られたアクション・スターだという点です。プラス・サイズのおばさんによるアクションという面白さをねらったのでしょうが、それも徹底的に笑いを追求したというよりは、中途半端にカッコいいという結果になっています。要は、マシュー・ヴォーンの英国式ユーモアを活かしたスタイリッシュな作風が、ドタバタ系コメディに徹することを妨げているといった印象です。スタイリッシュさとドタバタの融合をねらったのかも知れませんが、見事に失敗したと言わざるを得ません。恐ろしいことに、本作のエンドロールには、次回作の告知が含まれていました。ミステリ小説と現実の交錯というフレームを継続するということなのでしょう。

本作は興行的にも失敗しています。それでも続編を撮るというのであれば、是非ともマシュー・ヴォーンらしい作品を目指してもらいたいものだと思います。私は、ピンク・パンサー以降のデヴィッド・ニーヴンのファンです。二枚目俳優ながら、英国紳士らしい上品さと英国式ユーモアを併せ持つ希有な俳優でした。対して、ピンク・パンサーでクルーゾー警部役を演じ大ブレークしたピーター・セラーズは、ドタバタを上品に演じられるコメディアンでした。いずれも英国的なコメディを体現したような味のある俳優でした。ファンとしては、マシュー・ヴォーンの映画は、ピーター・セラーズ系ではなく、デヴィッド・ニーヴン系であって欲しいと思います。(写真出典:eiga.com)

2024年3月11日月曜日

国のかたち

アメリカの多くの州では、公立学校の朝礼において、忠誠の誓い(Pledge of Allegiance) が唱和されます。子供たちは、毎朝、右手を胸にあて、アメリカ国旗に向かって「私はアメリカ合衆国の国旗、そして神の下に統一された国家、自由と正義を有する全ての個人を代表する共和国に忠誠を誓います」と唱和します。歴史が浅く、移民の国であり、合衆国でもあるアメリカは、こうでもしなければ、ナショナリズムを形成できないわけです。さらに言えば、常にナショナリズムを意識させなければ、一つの国としてのかたちを保つことも難しいのでしょう。朝の唱和は、漂流を続ける国家・日本でも取り入れた方がいいと思いました。

ただ、今の日本では、その実現は困難だとも思います。いまだ皇国史観や軍国主義へのヒステリックな反撥が強く、ナショナリズムという言葉に過敏に反応する日本では、提案した途端に袋だたきにあうと思います。また、多くの人々の合意を得られるような文章も難しいと思います。それこそ、まさに漂流を続ける日本を象徴しているとも言えます。ごく当たり前の国家として、ごくフラットに、国民が一つになれる拠り所、つまり国のかたちを明確にすることは、至極まっとうなことだと考えます。また、それが内外における国際化の進展にも寄与すると思います。ナショナリズムなくしてインターナショナリズムはあり得ません。国のかたちと言うのであれば、日本国憲法前文があるではないか、との反論もありそうです。

しかし、憲法前文には、主権在民は謳われているものの、他は戦争放棄という極めて特異な判断の言い訳が記されているのみです。世界平和を希求することは大賛成ですし、戦争には大反対です。しかし、戦争放棄とは、目前で家族が殴られていても何もしないことに等しく、あり得ません。いずれにしても、主権在民と戦争放棄だけを国のかたちとは認めがたいところです。国のかたちとは、国体と言うこともできます。国体は、一般的には国柄や国風を指すとされます。外国を意識した際、日本とは何かを定義するために用いられてきたと言えます。江戸末期、水戸学が国体という言葉を大いに広めます。水戸学の言う国体とは、天孫家・万世一系・神国思想等を要素に構成され、尊皇攘夷思想を生みます。明治期になると、天皇を中心とした中央集権国家作りを目指す薩長政権によって、国粋主義的な国体論が徹底されます。

それが、空想的な皇国史観、そして軍国主義へとつながるわけですが、一方で、脱亜入欧政策によって、西洋的な社会科学が導入され、国体論も新しい展開を見せます。例えば、法学者・美濃部達吉は天皇機関説を唱え、歴史学者・津田左右吉は記紀研究に基づき14代までの天皇を神話と断じます。もちろん、両論は、皇国史観に依拠する体制から批判・弾圧されます。しかし、敗戦とともに、軍国主義・皇国史観は、ほぼ完全に否定されます。それらと完全に一体化されてきた国体という言葉もタブー視されることになります。また、憲法は、全国民から尊重されるべきものですが、改正論議は否定されるべきものではありません。にも関わらず、憲法改正もタブー視されることになりました。羮に懲りた日本は、行うべき議論を避け続けたことで、大海を漂う小舟のようになってしまったと思うわけです。

ならば、日本の国のかたち、国体は、いかにあるべきか、ということになりますが、浅学ゆえに私は答を持ち合わせません。ただ、日本の社会・文化を育んできた人と自然との関わり方、人と社会との関わり方の根本が明示されるべきだとは思います。その際、日本がたどってきた歴史は大きな構成要素になります。とすれば、天皇制に言及せざるを得ないとも思います。神国思想を排し、主権在民を明確にし、そのうえで単一王朝が生み出してきた社会と文化を鮮やかに表現できるとすれば、自ずと日本の国のかたちが現れるのではないかと思います。とは言え、決して簡単なことではありません。ちなみに、美濃部達吉は、戦後の憲法改正に際し、主権在民は国体の変更であるとして、枢密院において唯一人、改正に異を唱えたことでも知られます。(写真出典:item.rakuten.co.jp)

2024年3月9日土曜日

「海街奇譚」

監督:チャン・チー   原題:海洋生物   2019年中国

☆☆

(ネタバレ注意)

ここ数年で一番退屈な映画でした。しかも映画館が恐ろしく寒くて、余計に印象が悪くなりました。チャン・チー監督は本作が長編初監督とのこと。それもあってか、意欲作であることは間違いありません。恐らく、これまでに貯めてきた思いやアイデアをぶつけたのでしょう。ただ、力が入りすぎて、空回りしてしまったという印象です。プロットは悪くないと思います。もう少し脚本を整理して、思い入れたっぷりのカットも削ぎ落し、熟達の編集者を用いていれば、そこそこのデビュー作になったのではないかと思います。監督は、名門中の名門である北京電影学院を卒業していますが、その卒業制作映画といった青臭さを感じる映画でした。

監督が多くの映画を見て研究し、影響も受けていることは明らかです。ただ、消化不良気味との印象も受けました。ビー・ガン監督から受けた影響が大きいようにも思えますが、いたって表面的なものに留まっています。映像の詩人ビー・ガンが織りなす夢と記憶の世界観には及びもつきません。また、ビー・ガンの長回しとは真逆な細かいカット割りは、何の意味もないどころか、映画を殺しているようにも見えます。極端に言えば、発想が、映像ではなく、スティールにあり、スライド・ショーといった印象すらあります。スティール的ながらも、いくつか印象に残る映像もありました。ただ、総じて言えば、俗っぽく、インパクトに欠けると思いました。

一方で、時系列や人間関係におけるミステリアスな構成は、とても面白いと思いました。時間へのこだわりと言えば、クリストファー・ノーランが思い起こされます。本作では、ノーランの「メメント」での逆時系列、「インターステラー」や「TENET」の物理学的な時間のモティーフとは一味違った扱いを見ることができます。モザイク的に散りばめられた断片が、入り組んだ時系列を暗示するという手法がとられています。そこに登場人物の相関も断片的に組み込まれていきます。なかなかに面白いアプローチだと思います。8月5日という日付、そして一人3役を演じる女優が、それらを繋ぐ糸の役割を果たしています。着想は秀逸なのですが、脚本も演出も、それを活かし切れていないところが、誠に残念です。

チャン・チー監督は、英国留学後、北京電影学院に学び、舞台演出やCM撮影に携わっていたようです。スティール的な映像は、CM制作で身についたものなのでしょう。主演のチュー・ホンギャンは、本職が電気技師という変わり種ですが、いい味を出しています。一人3役を演じたシュー・アン・リーの新鮮さは魅力的だと思いました。また、邦題「海街奇譚」は、なかなかの傑作タイトルだと思います。原題「海洋動物」は示唆に富んでいますが、いまひとつ食指が動かないところがあります。それにしても、今回は、この冬一番冷え込んだ日に、寒い映画館で、お寒い映画を見るという悲惨な体験になりました。映画館を出る時には、早くラーメンを食べることだけを考えていました。(写真出典:eiga.com)

2024年3月7日木曜日

皇帝の旗の下に

清朝正黄旗
民主主義を勝ち取ってきた西洋、そしてその影響を受けた日本などからすれば、ロシアや中国のように、現代版の皇帝が支配し、かつ国民の多くがその体制を支持している国は、異常にしか見えないわけです。自由が制限されている全体主義国の国民は不幸であり、彼らがその体制を支持しているということは、だまされているか、強制させられているとしか思えないわけです。しかし、民主主義国から見たロシア・中国の姿は、一面に過ぎないのかも知れません。国民にとっては、現政権こそ自分たちにとって必要な体制だと思わざるを得ない理由があるようにも思えます。

昔、父親から、中国やロシアといった広大な国土と多民族を抱える国を維持するためには、強力な中央集権体制、つまり帝政を選択せざるを得ない、と聞かされました。妙に印象に残りました。納得できる話ではありますが、誰のために国を維持するのか、ということが気になります。もちろん、答えは”国民のために”以外ありえません。特に、為政者たちは、胸を張って、そう言い切るはずです。しかし、ロシアや中国のように、個人の選択と行動の自由を奪っておいて、”国民のために”と言えるのでしょうか。個人的には、国家が国民に最低限保障すべきは自由と安全だと思います。自由と安全が保障できない国家など、果たして存在意義があるのか、はなはだ疑問に思います。

上海の中国人から、中国共産党には多くの問題があることは我々も知っている、ただ、我々がメシを食えて、豊かになってゆく限り、我々は共産党政権を支持する、と聞かされたことがあります。思えば、中国やロシアの民衆には、反乱や戦争といった社会的混乱に頻繁に巻き込まれてきた歴史があります。共産主義政権が誕生した後ですら、しばしば大混乱が起きています。そのような歴史からすれば、強権的な政治体制であれ、束縛の多い社会であれ、社会が安定している状態は極めて価値あることなのでしょう。そのためなら、多少の犠牲や制約を受け入れることも厭わないということなのでしょう。しかも中国やロシアの広い国土のなかには自然環境が厳しい地域もあり、一層、その思いが強いのかも知れません。

多民族国家であることに関しては、防衛上、戦略的深度を確保するために生じた結果という面があります。他国や他民族が侵入しやすい地理上の特性から、中国もロシアも防衛線を外へ広げなければならないという思いが強いのでしょう。ロシア人や漢民族以外の人々が住む地域を管理するために、両国とも見せかけの自治という巧妙な手法をとってきました。実態として、衛星国や自治州にはロシア人や漢民族が入り込んで政治や経済を主導し、民族固有の言語や文化も奪ってきました。人口も少なく、風土の厳しい多くの衛星国や自治州は、中央政府に頼らざるを得ない体制が築かれています。豊かな耕作地や鉱物資源でも無い限り、そして一定の軍事力を確保できない限り、完全な独立は厳しいということなのでしょう。

ロシアのウクライナ侵攻は侵略そのものであり、中国によるウイグル族への弾圧はジェノサイドに近く、言語道断と言わざるを得ません。しかし、家の外壁に大きなひび割れができたら、それを直して当然であり、直す権利がある、というのがロシア・中国の主張なのでしょう。民主的国家とはまったく異なる独善的な論理には、ただただ驚かされます。ひび割れを放置すれば、家が壊れかねませんよ、と言われれば、大衆も補修を認めざるを得ないのでしょう。なぜなら、大衆のささやかな望みは社会の安定だからです。現代の皇帝たちは、巧妙に作り上げられた管理体制を背景に、大衆の心理を見事に操っていると言えます。民主主義は手間のかかるものであり、時として混乱も生じますが、個人の生存権や自由が侵されることはありません。中国やロシア等の大衆が、制約の多い見せかけの安定よりも、個人の尊厳を重視する日が来ない限り、全体主義は続くのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年3月5日火曜日

「落下の解剖学」

監督:ジュスティーヌ・トリエ 原題:Anatomy d'une chute 2023年フランス

☆☆☆☆

(ネタバレ注意)

昨年のカンヌ国際映画祭で、パルム・ドールを獲得し、フランスで大ヒットを記録した作品です。独特な緊張感を巧みに編み上げた法廷劇です。作家の転落死を中心に、夫婦間の問題、視覚障害の息子、作家という職業のストレス、フランス人とドイツ人、言葉の問題、横柄な検事といったモティーフが展開されていきます。モチーフの多い映画は、得てして散漫になるものですが、本作はトリエ監督の演出と主演したザンドラ・ヒュラーの存在感によって緊張感あるドラマに仕上がっています。また、舞台となったフランス・アルプスの風景がとても良い効果を生んでいます。さらに、劇伴は一切ありませんが、音楽の使い方もとても上手いと思いました。

プロットの中心となっているのは、古典的とも言える「事故か自殺か殺人か」という疑義です。そして、死んだ作家の妻である主人公が、殺人の容疑者となります。このフレームだけなら驚きもしませんが、ここから、この映画の絶妙な仕掛けが展開されていきます。当然、映画の冒頭で観客は主人公に同情的になるわけですが、そこに、次々と殺人を思わせるモティーフがたたみかけられます。そして、唯一の目撃者が視覚障害のある10歳の息子とい不安定要素も加わります。映画は、事の顛末を客観的に叙述するのではなく、観客に疑問を疑問のままにぶつけていくという挑戦的な構図になっています。観客は、傍観者ではなく、陪審員の立場に置かされているとも言えます。

本作では、法廷劇で多用される再現映像的なフラッシュバックが、ほぼ使われていません。例えば、フラッシュバックを使って見事に観客を欺いた「ユージャル・サスペクツ」(1995)とは異なり、リアルタイムで観客に疑義を提示することにこだわっています。それが、上質な緊張感を生んでいます。また、TVのニュース映像をフルサイズで使うことで、リアリティと同時性を高めています。興味深いと思ったのは、緊張感を生み出す言語の扱い方です。ドイツ人の主人公は、フランス語が得意ではなく、フランス人たちとしばしば英語で話さざるを得ません。一方で、早口で主人公を攻め立てる検事のフランス語との対比が、孤立した異国人というイメージを際立たせ、不安定感を高めるモティーフの一つとなっています。

観客に対して、ストレートかつフラットに疑義を提示していくという本作のスタンスが、齟齬なく脚本、演出、演技で共有され、見事な化学反応を生んでいると言えます。監督のジュスティーヌ・トリエは、2013年の長編デビュー以来、注目の若手監督として、常に高い評価を得てきたようです。また、マクロン政権に対する過激な批判でも知られているようです。脚本は、トリエ監督と、映画監督でもあるアルチュール・アラリが共同執筆し、多くの映画祭で脚本賞を獲得しています。主演のドイツ人女優ザンドラ・ヒュラーは、観客の同情を得ながら、一方では疑念も与えるという難しい演技を見事にこなしています。本作が仕掛ける曖昧さによって、観客は事実と真実の間を揺れ動くことになります。

撮影は、フランス東部グルノーブルとその近郊のスキー・リゾートで行われています。室内シーンが多くなりがちな法廷劇にあって、青空に映えるアルプスの白い山々は、映像の広がりと奥行きを生み出しています。映画の冒頭、その美しい景色を背景にに、夫がかけたレゲエ調の明るい音楽が大音量で流れます。実に印象的でした。元の曲は、アメリカのラッパー”50 cent”の”P.I.M.P”ですが、映画で使われているのはドイツの”Bacao Rhythm & Steel Band”がヒットさせたインストゥルメンタル・ヴァージョンです。アルプスの風景と南国のスティール・ドラムの音色という意外な組み合わせが効果的です。”P.I.M.P”(ポン引き)という曲名は、フェミニズム的アイロニーのようにも思えます。だとすれば、我々が見た映画の結末も真実ではないのかも知れません。(写真出典:eiga.com)

2024年3月3日日曜日

龍の髭

韓国の伝統菓子クルタレを初めて食べたのは、30年ほど前、ソウルのインサドン(仁寺洞)でのことした。クルタレは、蜂蜜と麦芽で作った飴を、細く伸ばして糸状にし、木の実などを包んで繭状にまとめたお菓子です。飴を伸ばしては折り畳み、最終的に16,384本の極細糸にします。これが、優しい味と食感を生みます。昔、韓国の人たちと、韓国の美味しい食べ物の話で盛り上がっていた時、クルタレも大好きだと言ったら、突然、座がしらけて、あれは中国のものだと言われました。中国で、クルタレは”龍の髭”と呼ばれています。もともとは新疆のお菓子だったようですが、明代あるいは清代に皇帝の好むところとなり、その後、中国全土に、そして中華圏へと広まったとされます。ただ、日本には届きませんでした。

韓国と中国との関係は、常にさざ波が立っており、しばしば白波も立ちます。基本的には、中国は日米韓の軍事的ネットワークが気にさわり、韓国にとって中国は輸出が最も多い国という構図が存在します。韓国は、先進国中、ドイツと並んでGDPに占める輸出の割合が高い国です。しかも輸出高の3割が、香港を含む中国向けとなっています。中国は、韓国経済の首根っこを抑えているとも言えます。2000年、韓国政府は国内の農家を保護するために、中国産冷凍ニンニクの関税を引き上げます。報復として中国が携帯電話の輸入禁止などを行うと、韓国政府は関税を即刻元に戻します。いわゆる“ニンニク紛争”ですが、その際、韓国には”恐中症”という言葉も生まれたようです。

2016年、朴槿恵政権は、北朝鮮のミサイル強化策に対抗し、アメリカのミサイル防衛システム”THAAD”の配備を決定します。中国はこれに猛反発し、韓国製品の不買運動、ロッテの閉めだし、団体旅行停止など圧力をかけます。翌年誕生した文在寅の左派政権は、中国に頭を下げ続け、屈辱的とも言える譲歩を行います。その結果生み出された蜜月状態は、2022年、尹錫悦の保守政権が誕生すると逆回転を始めます。尹大統領は、一貫して米国との同盟強化を重視し、中国とは距離を取っています。中国は、例によって、大国主義的な圧力をかけますが、尹大統領は動じていないように見えます。経済面を見ると、韓国から中国への輸出は、依然として高い水準にありますが、半導体や中国進出企業への産業内輸出が伸びる一方で、他の品目は減少しているようです。

これは、中国企業が急速に韓国企業をキャッチアップしていることの現れであり、世界市場でも中国が韓国を追い上げているのでしょう。かつて、韓国企業が日本企業を凌駕していった状況に酷似します。中国は半導体自給率を上げる政策も展開しています。ただ、今のところレガシー半導体が中心であり、最先端半導体はまだ韓国・台湾に依存しています。尹政権の強気の対中姿勢の背景には、THAAD以降、国民に広がった中国への嫌悪感、そして最先端半導体を握っている強みがあるのでしょう。中国にとってみれば、韓国・台湾との外交は、先端半導体がゆえに、当面、現状を維持するしかないのだと思います。とは言え、韓国の歴史カードに翻弄される日本とは異なり、髭を引っ張られた龍がいつまでも大人しくしているとも思えません。

日本は韓国の旧宗主国です。中国も120年前までは同じく宗主国でした。李氏朝鮮は、日清戦争後の下関条約で独立が認められています。ソウルの独立門はその際に建立されましたが、多くの韓国人が日本からの独立記念碑だと誤解しているようです。なぜなら、韓国では、李氏朝鮮が清の属国であった史実が無視されているからだと聞きます。歴史の修正は韓国の得意技ですが、隣国に翻弄されてきた国では、自尊心を保つために必要だったのかも知れません。韓国が隣国に付け入る隙を与えてきたのは、党派争いに明け暮れ、国際情勢を見誤り、一致団結して国難に対処できなかったからだと言われます。今、韓国はバランス外交策を採るしかない状況にあると思います。バランス外交のために必要なことは、世論対策としての歴史の修正ではなく、正しい歴史認識とその教育ではないかと思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2024年3月2日土曜日

「ゴジラ-1.0」

監督: 山崎貴      2023年日本

☆☆☆

ゴジラがスクリーンに登場してから70周年を迎えます。加えて、実写作品として30本目という節目も記念して本作は制作されたようです。ゴジラ・シリーズのすべてを見ているわけではありませんが、本作は、庵野秀明が監督した前作「シン・ゴジラ」と並ぶ異色作なのだと思います。1954年、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で生まれたとされるゴジラは、核兵器がもたらす厄災の象徴でした。しかし、本作では、初登場からさかのぼること10年、戦時中の離島にゴジラが出現したという設定になっています。そして人間とゴジラの戦いに加え、特攻隊の生き残りの戦後というドラマがメイン・プロットになっています。

今回のゴジラは、核兵器による地球や人類への影響に加え、戦争の悲惨さをも象徴しているということなのでしょう。ちなみに、山崎貴は大ヒットした「永遠の0」(2013)も監督しています。個人的には、原作を書いた百田尚樹が嫌いなので、読んでも、見てもいません。百田尚樹は、いかにもTV屋あがりの食わせ者だと思っています。安っぽいセンチなストーリーを売るために、特攻を使うなど、もってのほかだと思っていました。また、百田尚樹の底の浅いエセ右翼ぶりにも呆れるものがあります。いずれにしても「永遠の0」は、大ヒットし、多くの映画賞も獲得しました。ただ、一方で、左翼からも右翼からも多くの批判が噴出したことも事実です。山崎監督は、意図とは異なる批判に悔しい思いもしたはずです。

そうした思いも踏まえ、本作の脚本は慎重に書かれたものと思われます。特攻をモティーフとしながらも、特攻で命を落とした若者たちの心情にも、特攻に対する批判にも触れていません。特攻を巡る議論を避けて、反戦とヒューマニズムに特化するスタンスをクリアにしたかったのでしょう。また、同じ趣旨からと思われますが、恐怖心から機体の故障を偽り生き残った特攻隊員という極めて希な設定も気になるところです。特攻の実相や構造からかけ離れた特攻の描き方には、大いに違和感を覚えます。戦時中の若者たちの心情は、裏表なくお国のために命を捧げるということであり、生き残った戦中派は死ねなかったという思いが強かったのだと考えます。センチなヒューマニズムでは、とても語れないほど悲惨な話です。

彼らをそうさせたのは皇国史観であり、軍国主義であり、国粋教育でした。そのことを踏まえずに、特攻をモティーフに使うことは、危険だとも言えます。映画は政治的なものです。多くの人々に影響を与えます。制作サイドが、反戦を意図して一人の若者の苦難を描いたとしても、軍国主義体制への批判を踏まえた脚本・演出になっていなければ、戦争を美化することにもなりかねません。終戦から、来年で80年を迎えます。戦争を知る世代は少なくなっています。そうした現状を考えれば、太平洋戦争に対する理解や認識の薄い若い人たちに対しては、あらゆるメディアを通して、戦争の恐ろしさ、そして全体主義の恐ろしさも伝え続けるべきだと思います。

監督は、なかなかの腕前だと思いますが、ややTV的なベタな演出が気になりました。映画的奥行きにかける傾向があるとも言えます。ただ、テンポの良さは日本映画の水準を超えていると思いました。監督のセンスが、国際的、あるいはハリウッド的だと言うこともできそうです。本作は、アメリカでもヒットし、評価もされています。その理由は、ゴジラのスペクタル・シーンとシリアスなドラマという珍しい組み合わせに加え、日本映画らしからぬテンポの良さが、エンターテイメントとしての質を高めているからだと思います。さらに、ドラマを反戦とヒューマニズムというテーマに特化したことにより、アメリカ人にも分かりやすい国際性を得たのだとも思います。(写真出典:amazon.co.jp)

サンティアゴ・デ・クーバ