2024年2月14日水曜日

焼蛤

東海道五十三次で唯一の海路が”七里の渡し”です。名古屋の熱田神宮あたりにあった宮宿から桑名宿までの満潮時七里、干潮時十里の船旅です。所要時間は4時間ほどだったようです。もちろん、陸路もあるのですが、随分と遠回りになるため、この海路が選択されたようです。海上交通は天気次第というところもあり、どうしても船待ちが生じます。そのせいか、宮宿と桑名宿は、旅籠の数において東海道随一を誇っていたようです。現在、桑名側の渡船場跡は公園として整備され、往時の面影が再現されています。その近くに、1923年、大正年間に創業した「蛤料理 日の出」があります。蛤と言えば桑名、桑名で蛤と言えば日の出です。

今般、15年振りに日の出に出かけました。木造2階建ての店の風情も、もちろん味も変わっていませんでした。焼蛤はじめ、しゃぶしゃぶ、天麩羅など蛤づくしを堪能しました。蛤はすべて東京で言うところの大蛤のサイズです。桑名の蛤の身は、プリッとして大ぶりなだけでなく、とても柔らかく、また旨味が濃いことも特徴だと思います。加えて、前から不思議に思っていたのですが、日の出で蛤を食べると、何故か酒が進みます。貝類は肝臓にいいと聞きますが、食べた端から効くとも思えません。理由は判然としないものの、今回も沢山に燗酒をいただきました。コースの締めは、蛤雑炊が定番となっていますが、今回は、わがままを言って、中華麺も追加していただきました。これが、また絶品なわけです。

その手は桑名の焼蛤というくらいで、焼蛤は桑名名物です。名物だけに、日の出のこだわりもなかなかです。東京で焼蛤を食べると、貝の蓋がパカリと開いた状態で出てきます。二枚貝を焼けば、当然そうなります。貝の蝶番の部分には靱帯があり、常に貝を開く方向に力が掛けられています。貝が閉じているのは、貝柱の引っ張る力に依ります。火を入れて、貝柱が死ぬと、引っ張る力が失われ、貝は開くことになります。ところが、日の出では、完璧に閉じた状態で焼蛤が出されます。実は、焼く前に、この靱帯を、包丁を使って切断しているのだそうです。これは板前の技としか言いようがありません。貝を閉じたまま焼くので、いい具合の蒸し焼きになって旨味が閉じ込めらます。

国内で流通する蛤の多くは、チョウセンハマグリ、シナハマグリと呼ばれる外来種だと聞きます。桑名の蛤は、在来種である内湾性ハマグリです。外来種は外湾性であり、貝の殻が厚くなります。対して内湾性のハマグリは、海水の流れが穏やかなところで育つので、殻が薄く、身がプリッとして柔らかくなるのだそうです。桑名の蛤は、木曽三川が運ぶ豊富な栄養によって大きく育つとも言われます。ただ、ご多分に漏れず、桑名の蛤も漁獲量が激減しているようです。地元では、資源の保全のために様々な取り組みを行っているとのことです。漁獲量の制限はもとより、一定の大きさ以下の蛤は獲らない、人工干潟を整備する、さらには稚貝の種苗生産と放流も行われ、潮干狩りも禁止されているようです。

ところで、江戸地口の”その手は桑名の焼蛤”は、単なるダジャレの類いだと思っていましたが、どうやらそれなりに由来があるようです。桑名の焼蛤は、江戸末期に大ヒットした十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場します。江戸の職人である弥次さん喜多さんは、上方、讃岐の金比羅宮、安芸の宮島、信州の善光寺までと長旅をしますが、本来の目的はお伊勢参りです。七里の渡しで船を下りた弥次さん喜多さんは、軒を連ねる蛤茶屋の女性の呼び込み攻勢を受けます。今も観光地でしばしば目にする光景です。呼び込みが様々な甘言を弄することも変わらぬ光景だったようです。その甘言にだまされまいとする弥次さん喜多さんが”その手は桑名の焼蛤”と言い放つわけです。(写真出典:tabelog.com)

2024年2月12日月曜日

創業の地

名古屋駅の桜通口を出て、北に少し歩くと、住所は則武新町になります。洋食器のノリタケ発祥の地です。今も本社やノリタケの森と呼ばれる博物館や庭園などがありますが、工場跡地の大半は、ショッピング・モールに変わっています。則武新町の北側は、西区と中村区にまたがる栄生(さこう)という地区になります。もともとは愛知郡中村の栄(さこう)だったようですが、名古屋市に編入される際、既に存在した栄(さかえ)と区別するために栄生と改称しました。1912年、豊田佐吉は、この地に豊田自働織布工場、後の豊田紡織を創業します。現在、その跡地は、トヨタ産業技術記念館として、トヨタの歴史を展示する企業博物館になっています。なお、現在の住所は則武新町となっています。

名古屋に赴任し、トヨタにもお世話になったにも関わらず、私は、産業技術記念館を訪れる機会がありませんでした。名古屋を離れて、15年になるのですが、いまだにそのことが気になっていました。今般、ついに訪れることができました。広大な産業技術記念館は、紡織と自動車の展示から成りますが、自動車エリアには製鋼に関わる展示もされており、まさにグループの歴史博物館になっています。展示は、紡織機そのもの、あるいは自動車の生産設備が中心であり、正直言って、門外漢や興味のない者にとっては、やや退屈なものです。ただ、紡織機や生産設備の巨大な現物やレプリカが展示されている様は、トヨタ・グループの技術へのこだわり、そして財力の大きさを十分以上に感じさせるものでした。

見学を終えて、出口に向かうと、大ホール周辺に、カメラ・クルーを含むマスコミ関係者と思しき人たちが大勢いました。ガードマンに、何事か、と聞くと、今日はトヨタ・グループがホールを貸し切っています、との回答。それ以上は話してくれませんでした。正面玄関にはセンチュリーが停まっていました。玄関を出て歩き始め、ふと振り返ると豊田章男氏らしき人物が車に乗り込むところでした。センチュリーが発車すると、楽屋口の方から黒いレクサスが数台続きました。夜のニュースで知ったのですが、豊田会長が、グループ・ヴィジョンを公表するために記者会見を開いたのでした。ただ、ヴィジョンに関する報道は一切なく、豊田自動織機の不正に関する豊田会長の発言のみが取り上げられていました。

ヴィジョン発表を口実に、不正に関して豊田会長がコメントする場を設ける、というトヨタ側の意図を感じます。日野自動車、ダイハツというグループ企業ながら外様企業の起こした不祥事とは異なり、本家である自動織機の不正は重大事件と言わざるを得ません。ここは社長ではなく、豊田家の人間が、世間、そしてサプライヤーに向けて、直接、語るべきところなのでしょう。記者会見場として産業技術記念館を選んだのも、単なる偶然ではないと思います。豊田佐吉が興した豊田紡織は豊田自動織機を生み出し、そこからトヨタ自動車、さらに愛知製鋼が独立しました。豊田紡績はトヨタ・グループの礎です。その創業の地で、豊田彰男氏が不正について語るということは、とても重い判断であり、重い決意だったのでしょう。

2008年5月、中日新聞は、やたら大きな見出しで「章男氏、副社長へ」と伝えました。副社長就任でこの大きな見出し、しかも苗字なし。トヨタの存在の大きさを感じさられました。その年に発生したリーマン・ショックを受け、章男氏は、急遽、社長に就任します。豊田家の人間がトップに立つことでグループの結束をはかり、リーマン・ショックを乗り切るという意思の現れです。それは見事に功を奏したと思われます。一方では、章男氏のカリスマ性が高まり過ぎて、現場現物主義に基づく活発な議論、あるは大番頭の存在といったトヨタの伝統が薄れていくことにもなったのではないでしょうか。記者会見における章男氏の発言は、その認識、反省を踏まえた、かなり踏み込んだ内容だったと思います。それが出来るのも創業家ならではのことであり、家臣団とも言えるサプライヤーをまとめあげるトヨタのお家芸とも言えます。(写真出典:tcmit.org)

2024年2月10日土曜日

とんてき

四日市名物となった”とんてき”は、ビフテキの豚肉版といった意味から命名されたのでしょう。ステーキ(steak)は、厚切りの肉を意味します。従って、ポーク・ステーキと呼べばよかったわけですが、あえて”とんてき”としたところが庶民的で実に良いネーミングだったと思います。とんてき発祥の店とされるのは、「まつもとの来来憲」です。まつもととは、四日市西部の地名であり、店の近くには近鉄の伊勢松本駅もあります。基本的には中華料理店ですが、連日、大行列を作る客のお目当ては、何といっても”大とんてき”です。とんてきがメニューに加わったのは、昭和後期だったようです。2005年に至り、とんてきを四日市のご当地グルメにしようという動きがはじまりました。

来来憲の大とんてきは、厚切りにした250gの豚肩ロースを、ウスターソースとにんにくで仕上げたソースで柔らかく焼き上げ、荒く千切りにしたキャベツとともに供されます。とんてきは、グローブの愛称でも知られます。熱の通りやすさ、ソースのからみよさ、食べやすさを考え、肉には切り込みが入っています。その姿が、野球のグローブのように見えるわけです。厚い肉は、しっとり柔らかく焼き上がっています。ソースで水分を保ちながら弱火でじっくり焼いたか、あるいは余熱で中まで熱を加えているものと思われます。ソースは、すぐにウスターソースと分かる味ですが、コクがありながらもあっさりとしています。大とんてきの中毒性の源は、このソースと肉の柔らかさにあるのではないかと思います。

四日市とんてき協会には、現在、20店舗ほどが参加しています。東京からも、浅草橋の「グラシア」、秋葉原の「東京とんてき」が参加しています。グラシアのソースはデミグラっぽい印象、東京とんてきはコンフィした肉を使っており、いずれも来来憲とは似て非なるものになっています。とは言え、来来憲は、食べたくなったらすぐに行ける場所にはありません。平生は、代用品で我慢するしかありません。過日、十数年ぶりに来来憲の行列に並びました。13時過ぎ、行列も多少短くなった頃をねらい、運良く30分ほどで入店できました。現在は、お取り寄せもできるようになっています。一度、試してみようとは思いますが、店で食べる味にはならないだろうと思います。やはり伊勢松本まで出向くべきでしょう。

四日市は、四のつく日に市が立っていたことから命名されたわけですが、古代から畿内と東海・関東、あるいは伊勢を結ぶ交通の要所として栄えてきました。江戸期には天領でした。家康の伊賀越えに功績があったため天領になったとされますが、交通の要所、良港がゆえのことなのでしょう。明治以降、港や鉄道が整備されると、物流・生産の拠点となります。高度成長期になると、国内有数の規模を持つ石油コンビナートが稼働し、東海経済圏の中核の一つとなります。一方、コンビナートは、四日市ぜんそくという公害問題を起こした過去もありますした。いずれにしても、四日市は、工業都市であり、多くの労働者を抱える街だったわけです。とんてきは、安価に、労働者の胃袋を満たし、スタミナをつけるために考案され、定着してきた食べ物だと言えるのでしょう。

豚肉と言えば、近年、とんかつ界では厚切り化が相当進んでいます。そこには二つの流れがあって、一つはSPF豚と呼ばれる無菌育成された豚肉を使うスタイル、もう一つは白いとんかつ系とも呼ばれる低温調理スタイルです。厚切りでも固くならないように熱を入れるには、やはり低温がキー・ポイントになるわけです。低温加熱することで、鶏肉もしっとり柔らかく、エビもプリッと仕上がります。最近は、低温調理器も売られています。ただ、低温調理にはデメリットもあります。一つは時間がかかること、そして、しっかり火が通ったのかどうか、素人では見分けにくいことです。ま、やはり、本物のとんてきを食べたくなったら、来来憲へ行く事ですな。(写真出典:kankomie.or.jp)

2024年2月8日木曜日

「哀れなるものたち」

監督:ヨルゴス・ランティモス  原題:Poor Things  2023年英国・米国・アイルランド

☆☆☆☆

ランティモス監督と主演のエマ・ストーンが創作したおとぎ話は、映画ならではの技法で語られ、映画が持つパワーを見せつけているように思えます。原作は、スコットランドを代表する作家アラスター・グレイの同名小説です。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得し、アカデミー賞でも主要部門の多くにノミネートされています。ただ、今年のアカデミー賞は、クリスファー・ノーランの”オッペンハイマー”が総取りするだろうと言われています。本作がアカデミー賞の主要部門を獲得することはないと思いますが、各方面で非常に高い評価を得ています。余談ですが、昨年夏、世界的に大ヒットした”オッペンハイマー”が、いまだ日本で上映されていないことは、米国人の原爆観を現わしていて興味深いと思います。

19世紀、天才的で孤独な外科医が、投身自殺した妊婦にその胎児の脳を移植して、生き返らせます。大人の体に乳児の脳を持つモンスターのベラが急速に知識を吸収していく、というのがメイン・プロットです。トリッキーな構成を持つアラスター・グレイの原作の一部だけが使われているようです。グレイは、スコットランドの愛国主義者でもあり、原作におけるベラの成長はスコットランドの歴史の比喩になっているようです。映画は、スコットランドの歴史をフェミニズムに置換えたかのような理解がされているようです。確かに、一見すると、性的なエピソードの扱いからしてフェミニズム映画のように見えます。しかし、監督のねらいは、より普遍性が高く、より深い”個人と社会”というテーマにあるように思います。

社会的にはほぼ動物に近い純粋無垢なベラは、知識を吸収していきますが、それは社会に取り込まれ、制約でがんじがらめにされていく過程でもあります。一方、ベラは本能的に性の喜びを発見します。社会と本能、制約と自由という構図が提示され、ベラは歓喜を求めて逃避行を行います。ただ、自由と歓喜の追求は、複雑で面倒な人間関係を生むことも知ります。さらにベラは社会の最低の悪を知ることになります。差別と貧困です。衝撃を受けたベラは、ブルジョア階級らしく喜捨による解決を図り、自らも娼婦に身をやつすことになります。社会運動も知りました。実に端的に、個人と社会という関係の縮図が提示されていると思います。結局、ベラが選択した人生は、外科医から引き継いだブルジョアジーの世界で外科医として生きることでした。

これは、救いのない結末のように思えます。ベラは、人間の本質を問うような経験をしつつ、社会を変えることも、人間としてのあり方を追求することもありませんでした。突き放したような結論です。しかし、人間なんてこんなものだよ、という監督の悲観論、あるいは現実主義を批判することもできないでしょう。グレイが原作で意図したこととは大いに異なるとしても、ランティモス監督は、この魅力的なモティーフを使って、自らの哲学を見事に表現して見せたと思います。しかも、見事なおとぎ話に仕立てるあたりは、希有な才能を感じさせます。幻想的でシンボリックなセット・デザイン、衣装、そしてタイトル・バックは記憶に残ります。また、ジャースキン・フェンドリックスという人の音楽は、ジャンルを超えた繊細さと面白さがあります。

それらとエマ・ストーンの存在感が一体となり、極めてユニークで、レベルの高い映像になっています。ランティモス監督は、特異なシチュエーションのなかでの人間と人間の関わり、つまり個人と社会の関係を切れ味鋭く描きます。監督は、ギリシャの人です。さすが悲喜劇を生み出した古代ギリシャ人の末裔、と思ってしまいます。前作「女王陛下のお気に入り」は、2019年に見た映画のベストの一つでした。エマ・ストーンとのコンビはこの映画で生まれたようです。”ラ・ラ・ランド”でアカデミー女優となったエマ・ストーンですが、本作ではプロデュースも行っています。アリゾナから出てきた小娘くらいの印象でしたが、ラ・ラ・ランドで化け、本作では、さらに大化けしたように思います。(写真出典:pt.wikipedia.org)

2024年2月6日火曜日

師弟

ダウンタウン
孔子の高弟・子路は、 孔門十哲の一人にも数えられます。孔子が、最も怒り、最も愛した弟子とされます。中島敦の「弟子」は、この師弟を描いた短編です。無頼の徒であった子路は、孔子を辱めようと訪れます。学問など無用だ、と言い放つ子路に対し、孔子は、君主に諫臣がいなければ正を失う、馬に鞭が、弓に檠(弓を曲げる道具)が必要なように、人も放恣な性情を改める学問が必要であると説きます。子路は、南山の竹は曲げなくても、斬って使えば犀の革をも通す、と反論します。孔子は、南山の竹に矢羽と矢尻をつければ、犀の革を通す以上の働きをするだろうと諭します。言葉に窮した子路は、しばらく立ちすくんだ後、弟子にして下さい、と頭を下げます。

多くの場合、師匠は、学問、武術、芸術等の専門家であり、弟子の指導育成が専門ではありません。弟子は、師匠の技を習うのではなく盗め、と言われます。弟子は、師匠の身の回りの世話も行うなど、封建的な関係でもあります。現代では、多くが学校や教室といったオープンな育成機関に置換えられました。ただ、芸術、工芸、古典芸能、武術等の分野には、伝統的な師弟関係が残ります。角界の師弟関係は、協会の枠組みのなかで、育成に特化しています。落語界は、伝統的な師弟関係を保っています。落語以外の寄席芸能の世界でも、制度化まではされてないようですが、師弟関係は存在します。そこに大きな変革をもたらしたのが、漫才の吉本総合芸能学院、通称NSC(New Star Creation)だったということになります。

吉本は、大人気となった紳助・竜介の新しさに、漫才界における師弟制度の限界を感じてNSCを設立したと言われます。また、師匠が、経済的理由から弟子をとらなくなったという背景もあったようです。吉本は、NSCを軌道乗せするために、一期生のダウンタウンをスターに仕立てていきます。当人たちの新しい漫才スタイルもあり、ダウンタウンは時代の寵児となります。結果、NSCには多数の応募者が押し寄せ、吉本の中核を成す人材を輩出するに至ります。一方、漫才は学校で習うものか、という素朴な疑問もあります。NSCは、育成組織というよりも、新しい才能の発掘システムのようにも思えます。応募者から授業料を取って、発掘を行うわけですから、悪魔的に賢いビジネス・モデルとも言えそうです。

吉本は、ただひたすらダイヤモンドの原石が露頭する瞬間を待てばいいということになります。あるいは、アドヴァイスは行うにしても、アマチュアが競い合って腕を上げるのを待てばいいわけです。漫才のアマチュア化と言えるかも知れません。苦労人でもあった横山やすしはじめ、厳しい師弟関係のなかで育ったベテラン漫才師たちが、NSCを目の敵にしたというのも理解できる話です。舞台とTVの相乗効果は、吉本の基本戦略です。NSCは、TVに軸足を置き始めた吉本のマーケティング・スタンスに沿っていました。それは漫才のターゲットを、劇場に通う世代から、TVの前の若者にフォーカスしたということでもあります。一方で、吉本は、劇場中心の新喜劇をしぶとく継続し、古いファン層も失いませんでした。実にしたたかなものです。

吉本と朝日放送が主宰するM-1グランプリの昨年のエントリー総数は、8,500組を超えていました。2001年の第1回大会は1,600組でした。NSCが進めた漫才のアマチュア化が拡大している証左でもあります。かつて、若い芸人たちは師匠に食わせてもらいながら、芸道に専念していました。今どきの若手は、吉本に面倒を見てもらうこともなく、ひたすらアルバイトに精を出しているようです。かつて、芸人の色事と言えば、玄人衆が相手か業界内に限られていました。昨今では、一般人が対象となったトラブルが多いようです。これもアマチュア化がもたらした現象なのでしょう。かつては、師匠の元に通い詰め頭を下げ続けて弟子にしてもらったと聞きます。NSCは、基本的には授業料を払えば誰でも入学できます。その道に入る覚悟が違うとも言えます。NSCは、多くの若い人材を犠牲にする構造ではないか、とさえ思います。(写真出典:youtube.com)

2024年2月4日日曜日

リトル・ガール・ブルー

Janis Joplin
1960年代を象徴する音楽イベントと言えば、1969年のウッドストック ・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)ということになります。NY州キャッツキルに、40万人を超える若者が集まり、30組以上が出演しました。カウンター・カルチャー時代の頂点ともいえるイベントであり、記録映画も大ヒットしました。ただ、もう一つ忘れてはならないイベントは、ウッドストックに先立つ1967年、カリフォルニア州で開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルです。その後、世界中に広がったロック・フェスの原点と言われる音楽イベントです。モンタレーでは、1958年からジャズ・フェスティバルが開催されていました。それにヒントを得て開催されたと言われています。

モンタレー・ポップ・フェスティバルは、ママス&パパスのジョン・フィリップスが中心となって開催されました。ママス&パパスは、多くのヒットを飛ばし、LAの音楽界ではリーダー的存在だったのでしょう。フェスは、サンフランシスコを中心に盛り上がっていたヒッピー文化を背景に、ロック、ブルース、フォーク、R&B、民族音楽等々、実に多様なジャンルのミュージシャンが出演しています。3日間で、30組超が出演し、20万人の観客を集めました。その記録映像は、映画「モンタレー・ポップ」として公開されました。また、フェスのプロモーションのために、ジョン・フィリップスが作詞作曲し、スコット・マッケンジーが歌った「花のサンフランシスコ」も大ヒットしました。私もレコードを買いました。歌詞をカタカナで書き取り、懸命に覚えたものです。

モンタレー・ポップへの出演をきっかけに、全米にその名を轟かせることになったミュージシャンが3人います。R&Bの世界では既に有名だったオーティス・レディング、前年からロンドンで活動を始め、注目を集めていたたジミ・ヘンドリックス、そしてヒッピーのメッカ、サンフランシスコから呼ばれたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのジャニス・ジョプリンです。この3人は、一発で観客を総立ちにさせるとともに、全米を、そして世界を熱狂させることになります。実は、ホールディング・カンパニーは映像契約にサインしていなかったため、撮影されておらず、音源だけが残りました。関係者全員の説得とジャニスの思いもあって、急遽、契約にサインしたホールディング・カンパニーは、翌日、もう一度ステージに立っています。

テキサスの田舎町に生まれ育ったジャニスは、変人として疎外された少女だったようです。20歳になったジャニスは、テキサス大をドロップ・アウトし、サンフランシスコで音楽と麻薬漬けの日々を始めます。1966年、ホールディング・カンパニーに参加すると、そのしゃがれたダイナマイト・ボイス、黒人ばりのリズム感、歌唱力、シャウトが注目を集めます。自身が抱える孤独を絞り出すように歌うジャニスの歌はブルースがベースになっています。ジャニスの出世作ともなった「ボール&チェイン」もビッグ・ママ・ソートンの曲です。「クライ・ベイビー」、「ムーブ・オーバー」、「サマータイム」、「ミー&ボビー・マギー」等もジャニスらしさ満開ですが、恐らく最も彼女の内面をストレートに表現した曲が「リトル・ガール・ブルー」なのだと思います。2015年にリリースされた彼女のドキュメンタリー映画のタイトルにもなっています。

「リトル・ガール・ブルー」は、1935年、ロジャース&ハートがミュージカルのために書いた曲で、ニーナ・シモンのデビュー曲でもあります。大人になりきれない孤独な少女を歌っています。ステージの上では大観衆を熱狂させたジャニスですが、孤独な少女であることに変わりはなかったのでしょう。モンタレーからわずか3年後の1970年、27歳になったジャニスは一人モーテルで死にます。ヘロインのオーバードーズでした。2週間前、ジミ・ヘンドリックスも27歳で死んでいます。ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、カート・コバーンと併せ27クラブとしても知られます。さらに、オーティス・レディングもフェスから半年後、飛行機事故で26歳の生涯を閉じています。モンタレー・ポップ・フェスティバルが世に送り出した3人が、3人とも同じ年に若くして命を落としたことは、どこか因縁めいた、そして、なんとも切ない話です。(写真出典:genius.com)

2024年2月2日金曜日

蒲焼

30年前、一人で上海へ行った際、豫園商城にある「上海老飯店」で食事しました。創業1875年という堂々たる店構えの老舗です。中華料理は、多数で囲むことが前提になっています。それは重々承知していたのですが、有名店の味を試したく出かけました。上海料理の定番の一つは紅焼(ホンシャオ)です。とろみのある醤油ベースの甘いタレが特徴の煮込料理です。老飯店へ行った目的の一つは鰻の紅焼でした。輪切りにして紅焼にした鰻が一尾まるごと出てきました。見た目に驚きましたが、野趣あふれる鰻の風味と上品な紅焼の甘さが相まって、なかなかの逸品でした。ただ、紅焼と蒲焼、いずれが好きかと聞かれたら、慣れ親しんだ蒲焼と答えることになります。

大昔、蒲焼は、紅焼と同様に、輪切りにした鰻を串に指して焼いていたようです。その様子が、蒲の穂に似ていたことから蒲焼(がまやき)と呼ばれ、それがなまってカバヤキになったとされます。鰻は、縄文期から食べられていたようです。輪切りの蒲焼という時代が長く続き、江戸期に入ってから、腹を裂いて串を刺して焼く、という現在につながる蒲焼が上方で生まれます。それが江戸に伝わると、背開きにして蒸して焼く、という江戸前の蒲焼になります。背開きにしたのは、武士の町であった江戸では、切腹をイメージさせる腹開きが嫌われたからだとされます。東西の蒲焼は、背開きと腹開き、蒸すか直焼きかだけではなく、タレにも違いがあります。

関西のタレは、砂糖を多く使い、とろみがある甘いタレが主流です。脂と臭みが多めに残る直焼きには、ちょうどいいと思います。関東は、比較的サラッとしています。江戸末期創業の「駒形前川」は大好きな店ですが、砂糖を一切使っていません。色は黒いがさっぱりとして、素材の味を活かす、まさに深川の味だと思います。鰻のタレは、継ぎ足し、継ぎ足しで鰻の旨味が濃縮されていると言われます。鰻屋が火事になると、ご亭主は、店の命であるタレの入った壺を抱えて逃げるとまで言われます。タレは、濃口醤油、みりん、砂糖に酒を加えれば、簡単に作れます。ただ、家で作っても、鰻屋の味にはなりません。鰻屋の継ぎ足しのタレは旨味が凝縮されおりコクが違うわけです。

店の歴史が古いほど蒲焼が美味いのであれば、食べログの上位は老舗が独占しているはずです。そうはなっていません。老舗は、人々に評価されたからこそ時代を超えて生き残ってきましたが、仕入れ、焼き方、タレの味等で、それらを超える店も登場するわけです。現存する日本最古の鰻屋は、室町時代創業という大津の「うなぎ料亭山重」とされます。江戸期創業の鰻屋は、全国に40軒以上あると聞いたことがあります。関東に多いようですが、東京都内に限ってみれば9店舗あります。元禄年間創業という田端の「源氏」が都内最古で、池之端の「伊豆栄」が続きます。いずれも300年を超える歴史を誇ります。ただ、江戸期創業で、食べログのベスト10に入っている店は「明神下神田川」だけです。

蒲焼と言えば鰻ですが、なにも鰻に限った話ではありません。細長い魚であれば、穴子、鱧、太刀魚、サンマでも蒲焼になります。ただ、鰻以外で、蒲焼が主な調理法となっている魚はありません。穴子は煮穴子、鱧は湯引き、太刀魚は塩焼きか煮付け、サンマも塩焼きが代表的な食べ方だと思います。やはり、蒲焼は鰻のために考案された料理と言ってもいいのでしょう。ただ、なかなかに難しい調理でもあり、「串打ち三年割き八年焼き一生」とまで言われます。焼き方で感動させられた店があります。高知空港そばの「かいだ屋」です。外はカリカリではなく、サクサクに近く、中は超フワフワでした。長蛇の行列、かつオーダーしてからも相当時間がかかりますが、十分以上に並ぶ価値があります。(写真出典:komagata-maekawa.com)

サンティアゴ・デ・クーバ