2023年12月15日金曜日

わらじ

ここ数年、アークテリクスのコンシールLTというトレッキング・シューズがお気に入りで、普段から履きまくってきました。少しくたびれてきたので、新しいものを買おうとしたのですが、随分と人気があるようで、全く在庫がありません。そこで代わりになる靴をと思い、アウトレットで探していると、カンペールが目に入りました。試してみると、一発でビートルという靴が気に入り、購入しました。最大の特徴は、靴底がフラットなことです。まるで裸足で歩いているような感覚です。これは西洋版の草鞋(わらじ)だと思いました。日本の草鞋をイメージしたわけではないと思います。カンペールは、スペイン・マヨルカ島発祥の店です。スペインにはジュート縄を底に使うエスパドリーユがあり、その伝統に根ざしているように思えました。 

近年、運動靴は、クッション性の高い厚底、アーチ・サポートと呼ばれる土踏まず部分を高くした立体的なインソールが主流です。足底のフィット感が高く履き心地が良いこと、足底にかかる衝撃を分散させることで疲れにくいといった効用もあるのでしょう。ただ、特定の運動には適しているのかもしれませんが、果たして普段使いの靴、あるいは散歩用の靴としてはどうなのか、という疑問があります。欧州のゴツゴツとした石畳が多い町では意味があるかもしれませんが、日本のような真っ平らな路面が多い町での必要性はあまり感じません。厚くて立体的なインソールは、材質や製造技術の進化の賜物なのでしょう。一方、人類は、随分と長いこと、平らなインソールの靴を履いてきましたが、それは単に技術の問題だったのでしょうか。

日本の場合、旅をする際、平安時代から底が平らな草鞋を履いてきました。草鞋は、軽い、通気性が良い、ある程度のクッション性がある、コストが安い、使い捨てといった特性があります。ただ、日に40kmも歩くには疲れにくいという条件が必要だったと思われます。創意工夫に優れた日本人が、千年近くも草鞋を履き続けてきたということは、疲れに対しても効果があったからだと思えます。草鞋は、足指が鼻緒を挟むことで鍛えられ、地面を踏ん張る力が増し、土踏まずの形成にも有効だと聞きます。インソールが平面的で柔軟性があることに関しては、素足で地面を掴むに等しいことから、足裏が鍛えられ、土踏まずの形成にも効果があるものと思われます。さらには、体重分散効果も大きいと思われます。

全体重を、足裏全体で受け止めることによって分散させ、疲れにくくする効果があるのではないでしょうか。立体的なインソールは、衝撃には強くとも、体重を分散させる効果は薄いように思われます。加えて姿勢の問題があります。カンペールのビートルを履いて感じたことは、立体的インソールに比べて、体の重心がやや後退することです。実は、後退するのではなく、直立したのだと思います。立体的インソールは、運動時に有効な前傾姿勢を生み出す仕組みでもあるのでしょう。人間の体は、直立を前提に構成されています。ということは、直立した状態に近いほど疲れにくいのではないでしょうか。また、膝への負荷を考えれば、クッション性の高いインソールの方がいいとは思いますが、それは立体性の問題ではありません。

ちなみに、縄文時代の土器には、モカシンのような靴をかたどったものがあるそうです。恐らく北方文化の影響なのでしょう。以降も、狩りや戦いの際、あるいは雪の中では靴が使われています。ただ、普段使いは草履(ぞうり)や下駄、旅の際には草鞋が主流となるわけです。草鞋は、飛鳥から奈良時代の頃、中国から伝来し、平安期には一般化していたようです。草履は、平安期に草鞋を改良して作られたようです。草鞋の足首を縛る紐を取り除き、着脱がしやすくなっています。家で靴を脱ぐ日本の文化に適合させたわけです。草履の一種である雪踏(せった)は、竹皮の草履の底に皮を貼り、踵部分に金属を付けて防水機能を持たせたものです。いずれにしても、草鞋や草履は健康に良く、かつ疲れにくいとは思うのですが、どうにも鼻緒は苦手です。サンダルも鼻緒のあるものはいけません。当面は、カンペールのビートルでがんばろうかと思います。(写真:カンペール”ビートル” 出典:camper.com)

2023年12月13日水曜日

コーサ・ノストラ

John Gotti
フランシス・フォード・コッポラ監督のゴッドファーザー三部作(1972~74)は、映画史に残る傑作です。NYにおけるマフィア組織コーサ・ノストラの世界を描く一大叙事詩ですが、それは同時に、病める大国アメリカの自画像でもありました。マフィアは、シチリアに起源を持つ組織です。シチリアは、永らく外国支配を受け、イタリア統一後も中央政府との軋轢が絶えませんでした。マフィアは、厳しい状況下、いわば自己防衛的な意味も含めて形成されたと言えます。19世紀になると、マフィアは、移民によってアメリカに持ち込まれました。遅れてきた移民であったイタリア移民、ことに辺境のシチリアからの移民は、肩を寄せ合って生きていく必要がありました。新天地アメリカでも、シチリア人の環境は厳しかったわけです。

各国の歴史のなかで、反社会的組織が存在しなかったことなどないと思われます。農耕を始めて以来、人間は、原始的な集落から国家に至るまで、実に多様な組織を作ってきました。しかし、そもそも個人と組織は対立する概念です。万民の欲求にすべて応えられる国家や自治体など存在するわけがありません。反社会的組織は、そこを補う形で生まれ、育つものなのでしょう。アメリカ社会が繁栄を遂げた20世紀、社会が抱える矛盾も増大し、アメリカン・マフィアも組織を拡大していきます。ゲーテではありませんが、光が強ければ影もまた濃い、というわけです。また、マフィアは、時に国家、あるいは権力とも互いを補完する形で手を結びます。これも各国の歴史の中でしばしば見かけてきた構図です。

コーサ・ノストラの力の源泉は、暴力に基づく庇護のシステムだと思われます。つまり、上納金を払う限り、ビジネスであれ、悪事であれ、組織がそれを邪魔することも、他の暴力組織、時には行政の介入からも守ってくれるという仕組みです。暴力がベースにあるとは言え、原始的な環濠集落のリーダーと農民との関係と同じであり、一定の縄張りの存在が前提となる点では近代国家にも類似します。1960年代、成長のピークを迎えたアメリカでは、様々な矛盾が社会的対立を生んでいきます。コーサ・ノストラも同様に、1960年代後半から衰退を始めます。政府による暴力組織対策が強化されたことが大きかったのでしょう。1970年に制定された威力脅迫及び腐敗組織に関する連邦法、いわゆるRICO法は政府の強力な武器となりました。

もう一つ、組織の衰退を促したのが、麻薬の蔓延だったと考えます。極端に言えば、戦争のたびにアメリカの麻薬常用者は増えていきます。マフィアの一部も、これを商売にしてきました。しかし、60年代後半のカウンター・カルチャーと泥沼化したヴェトナム戦争が、社会に麻薬を蔓延せました。大都市に限らず全米に市場が拡大し、需要に供給が追いつかない状況が生まれます。新たに生まれた市場の空白は、新たな供給者が埋めていきます。市場の拡大と新たな供給システムが、マフィアの存在意義であった縄張りの意味を失わせ、庇護のシステムが崩壊していったのだと思います。私がNYにいた頃、五大ファミリーのうち最大の勢力を誇っていたのがガンビーノ・ファミリーでした。そのボスはジョン・ゴッティであり、NYマフィア衰退の象徴のような人でした。

1985年、ミッド・タウンの人気店スパークス・ステーキ・ハウスの前で、ガンビーノ・ファミリーのドン、ポール・カステラーノが殺害されます。保守的なカステラーノは麻薬取引を禁じていましたが、これに反対するジョン・ゴッティが殺害を指示し、自らボスの座につきます。繁華街で起きた衝撃的な事件に世間の注目が集まり、ジョン・ゴッティのマスコミへの露出は高まります。マフィアは、都市の闇の中に潜んで生きてきました。ところが、おしゃれなジョン・ゴッティはマスコミへの露出を楽しみ、時の人となります。三度訴追され、全て無罪を勝ち取ったジョン・ゴッティは、テフロン加工されているようだとしてテフロン・ドンとも呼ばれ、大衆の人気を集めます。しかし、最終的には、RICO法によって終身刑になっています。麻薬取引とマスコミへの露出は、ジョン・ゴッティを新時代のマフィアに仕立てますが、それがコーサ・ノストラの衰退につながったとも言えます。(写真出典:usatoday.com)

2023年12月11日月曜日

倭国大乱

古津八幡山遺跡
越後平野は、新潟県の中部から北部に広がる広大な平野です。東端には、新津丘陵があり、その一角に「古津八幡山遺跡」があります。弥生時代後期から古墳時代前期の高地性環濠集落であり、国指定史跡にもなっています。ほぼ最北、少なくとも日本海側では最北の環濠集落です。高地性環濠集落は、弥生時代中期に瀬戸内に登場し、後期には近畿一円、そして古墳時代前期には、北陸・新潟にまで広がります。周囲に水田を持つ平地の環濠集落とは異なり、高地性環濠集落は、敵に対する防御に徹した山城のようなものではないかと推測されています。古津八幡山遺跡も、越後平野を一望できる小山の上に築かれています。高地性環濠集落は、いわゆる「倭国大乱」の痕跡とする説が有力だと聞きます。

この時期の日本の歴史は、中国の史書に頼らざるを得ないわけですが、複数の史書に、倭国大乱、あるいは倭国乱の記載があります。大乱に関する記述内容は、史書によって若干の違いもあり、解釈を巡って諸説があるようです。大乱の発生時期はおよそ2世紀後半とされ、少なくとも8年間に渡って戦われたようです。場所に関して、史書は倭国とするばかりで、倭国のどこかは発掘物によって類推するしかありません。現在は、九州から瀬戸内、そして畿内と推定されているようです。恐らく、当時の倭国の主要部分すべてということなのでしょう。各史書とも、大乱の原因について、倭国は男子を王としてきたが、王位継承を巡る争いが起きたと記述しています。つまり、王統の断絶が原因だったということです。

この点に関しても、大いに議論があるようです。当時、倭国は多くの部族に分かれており、ここで言う倭国王とは、統一国家の王ではなく有力部族の王ではないかと考えられます。有力部族内部での紛争が、他部族も巻き込み、大乱化したと考えることができます。また、2世紀初頭から寒冷化が始まったことも大乱の背景にあるのではないでしょうか。稲作は、食料の大量生産を実現しますが、一方で天候に左右されるというリスクもあります。飢饉は、雑食だった縄文時代には存在せず、稲作に特化した弥生時代以降に発生するわけです。寒冷化に伴う飢饉発生を受け、各部族は、生き延びるために他の部族を襲い、貯蔵米と耕作地を奪うしかなかったのではないかと考えます。

大乱の収束に関する史書の記述は一致しています。呪術を用いる卑弥呼を王とすることで大乱が収束したとされています。大乱のなかで部族間のヒエラルキーが生まれ、結果、部族連合が形成されていったものと考えられます。そして、いずれの部族の王でもない邪馬台国の卑弥呼を王に立てることで、部族間のバランスを保ったということなのでしょう。邪馬台国も卑弥呼も、中国の史書にのみ登場し、日本の記紀等には記載がありません。そこで邪馬台国はどこにあったのか、卑弥呼とは誰なのか、という議論が盛り上がりました。近年では、纒向遺跡を邪馬台国政庁、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説が有力と聞きます。大型建造物跡を含む纒向遺跡は、突如、3世紀頃に現れます。その近くにある巨大な箸墓古墳は、最古の前方後円墳とされます。

中国の史書には、卑弥呼の記述を最後に”倭の五王”の時代までの約1世紀、倭国に関する記述がありません。いわゆる”空白の4世紀”です。その間に、天孫家が部族連合のトップに立ち、ヤマト王権の基盤を固めていったものと想定されています。しかし、纒向遺跡が邪馬台国、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすれば、奈良盆地を基盤とする天孫家は、既に2世紀後半~3世紀前半、倭国大乱を勝ち抜き、部族連合のトップに立っていたという可能性もあります。邪馬台はヤマトとも読めます。倭国大乱がヤマト王権を生み出したということかも知れません。倭国大乱は、日本に農耕が伝わって、約千年後に起きています。戦争と大王の誕生は、農耕が人間にもたらしたものを象徴しています。そこに到達するのに千年とは、人類の歴史からすれば、随分と早いようにも思えます。(写真出典:jalan.net)

2023年12月9日土曜日

青島食堂

青島食堂宮内駅前店
久々に新潟へ行ってきました。今回の目的は、従兄弟の絵画の個展を見ることでしたが、時間的には余裕のある旅だったので、まずは長岡で新幹線を降りて信越本線に乗り換え、隣の宮内駅へ向かいました。長岡市内の宮内は、酒・味噌・醤油の醸造所が多い摂田屋という町で知られます。とは言え、駅前には、一切、人の気配のない寂れた町です。ところが、駅の正面にある古びた平屋の前にだけ行列があります。青島食堂です。宮内店は、青島食堂の最も古い店舗であり、かつては本店と通称されていたこともあります。ただ、現在8店舗を展開する青島食堂に本店は存在しません。面白い発想です。スープと麺を一ヵ所で作って各店舗に届けることで、均一の味を目指すという青島食堂の姿勢の現れなのでしょう。

青島食堂は、1961年、宮内駅前に、ごく普通の食堂としてスタートしました。ところが、そのラーメンが大人気となり、50年前にラーメン専門店へと衣替えします。以来、変わらぬ味と人気を保ち、行列が絶えることがありません。新潟四大ラーメンの一つ”長岡生姜醤油ラーメン”というジャンルの発祥の店でもあります。私が、青島ラーメンを初めて食べて感動したのは2004年の暮れでした。当時、既にこのジャンル名は存在していましたが、まだ全国区にはなっていませんでした。しかし、1996年、武蔵・青葉・くじら軒の開店に始まるラーメン・ブームが起きると、徐々に新潟四大ラーメンも知られるようになり、青島食堂にも、全国からラーメン好きが集まるようになります。

青島ラーメンは、とにかくマイルドです。まろやかで優しく、それでいて豚と醤油の旨味をしっかり味わえる青島ラーメンは、毎日でも、毎食でも食べられます。黒い醤油味のスープには、どこにもまったく角というものがありません。生姜醤油ラーメンというジャンル名の由来にもなっている生姜は、スープを炊く際、豚の臭みをとるために、潰して大量に加えているようです。麺は、小麦のふくよかさを十分に感じさせる自家製の中細麺。薄切りにしたウデ肉のチャーシューには旨味が詰まっています。他の具材は、メンマ、ナルト、海苔、ほうれん草、ネギ。創業時から、何一つ変えていないと聞きます。余計なものを入れない、まさに中華そばの王道です。

スープと麺が同じなので、各店舗の味は同じはずですが、作り手の個性が出るのか、皆、多少の違いがあります。私は、8店舗中、7店で食べましたが、宮内の曲新町店が一番のお気に入り、次いで宮内駅前店です。新潟市内にも4店舗ありますが、どうも宮内の店舗とは味が異なり、ややマイルド感が薄れ、すました味のように思えます。10年ほど前、秋葉原のはずれに東京店も出しました。懐かしくて、何度か食べにいきました。確かに青島食堂の味ですが、少し油っぽい印象を受けました。それでも、宮内へ行かずに青島ラーメンが食べられるので、実にありがたい存在です。開店当初から、青島ラーメンの味を知る人たちが集まっていましたが、徐々にその名が知られるようになり、いまや連日の大行列です。

新潟四大ラーメンとは、長岡生姜醤油の他に、”三吉”や”蓬莱軒”などの新潟あっさり醤油、”杭州飯店”や”大むら食堂”などの燕背脂、”こまどり”や“東横”などの新潟濃厚味噌です。新潟あっさり醤油は、飲んだ後の締めに最適です。小針の住宅街のなかにある隠れた名店”味みつ”も棄てがたい味です。新潟市内で、私が最も好きだった店が”石門子”です。毎朝、店主が海で採ってきた貝類を出汁にしたラーメンは絶品でした。残念ながら、店主の体調が悪く、廃業しました。新潟濃厚味噌も熱烈なファンが多いのですが、私はどうもピンときません。燕の背脂ラーメンは、全国的に若者たちの人気を集める背脂系の元祖です。燕のラーメン屋の店内は、慎重に歩かなければならないほど油まみれです。不味いわけではないのですが、どうも人間の食べるもののようには思えません。(写真出典:walkerplus.com)

2023年12月7日木曜日

環濠集落

吉野ヶ里遺跡
かつて学校で習う縄文人とは、定住せず、狩猟採取の生活を送る原始人といったイメージでした。そこへ朝鮮半島から稲作の技術を持った弥生人が渡来し、縄文人は駆逐されたのだと習いました。しかし、発掘調査が進み、縄文人は集落を作って定住し、どんぐりや栗を栽培していたことが分かってきました。また、縄文人は、弥生人に取って代られたのではなく、 渡来した稲作の技術を習得し、いわば弥生人化したことが新たな定説となっているようです。日本最古の水稲耕作遺跡は、1979年に発見された唐津市の菜畑遺跡です。それまでは、福岡市の板付遺跡が最古とされていました。今般、その板付遺跡を見学してきました。稲作技術が、かなり完成度の高い形で伝わってきたことがよく分かりました。

水田には、水を出し入れする、いわゆる潅漑設備が不可欠です。また、畦(あぜ)を作って田に水を蓄える仕組み、あるいは田毎に高低差をつけ、効率良く水を行き渡らせる仕組みも必要となります。同時に、田を耕す、稲を刈り取るといった道具も必要となります。板付遺跡には、既に、これらが揃っています。中国で完成された水稲技術が、そのまま渡来していたわけです。同時に、縄文時代には無かった環濠集落という村の姿も渡来しています。環濠集落とは、集落を濠で囲み、外敵、害獣の侵入を防ぎ、排水にも活用します。稲作は、人類の食糧事情を飛躍的に改善するとともに余剰生産物を生み出しました。貯蔵米は、水田、労働力、道具類と併せ、所有するという概念を強めます。守るべきものが生じたわけです。

環濠集落は、8千年前に、稲作が始まった長江流域、雑穀栽培を始めた南モンゴルに登場したとされています。日本には、稲作とともに伝わった環濠集落ですが、弥生時代から古墳時代に入っていくと、姿を消していきます。稲作がもたらした余剰生産物は、集落にヒエラルキーを生み出します。生産拡大とともにリーダー層は強大な力を持ち、小規模な集落を超える存在になっていきます。多数の集落を包括したクニの誕生です。すると各集落の環濠が持っていた防衛的側面は意味を失い、環濠集落は消えていくわけです。ただ、欧州や中国では、環濠集落の規模がどんどん拡大し、城と町をまるごと城壁で囲んだ城塞都市が誕生してゆくのに対して、日本では、それが起きていません。

城塞都市が生まれなかった理由はいくつか考えられます。まずは、山が多く、起伏に富んだ国土という特性があげられます。平原とは違い、山、高台、川を活用すれば、城壁で囲うまでもなく同じ効果が得られます。また、火山の多い日本では、加工しにくい石材が多いことも理由になります。加えて、平地が少なく、切り出した石材の運搬も困難になります。日本の石材の多くは、山で切り出し、舟で運ぶ方法がとられていますが、それでは城の石垣がせいぜいで、高い城壁で町を囲むことなど夢のまた夢です。そして地震、洪水、噴火といった天災が多く、石積みが崩れやすいことも影響しているのでしょう。ただ、戦国時代には、城と城下町をまるごと、塀、石垣、濠、土塁等で囲った”総構え”が登場しています。総構えとしては、小田原や江戸がよく知られています。

板付遺跡を訪れ、最も驚いたのは、見学者の少なさです。日本最古の称号は菜畑遺跡に明け渡したものの、日本最古級の水田跡、環濠集落遺跡です。私が訪れたのは平日のお昼頃ですが、その日、二人目の来訪者でした。確かに縄文・弥生系の遺跡への来訪者は少ない傾向があります。藁の小屋と土器・石器、他には原っぱばかりですから。とは言え、もっと多くの見学者を集めるような努力は必要なのではないかと思います。翌日、佐賀県の吉野ヶ里遺跡も見学しました。日本最大級の弥生遺跡であり、いくつかの環濠集落、多くの建造物、水田、植生が再現されています。こちらは、平日にも関わらず、観光バスも数台来ており、結構な数の来訪者がいました。(写真出典:asahi.com)

2023年12月5日火曜日

ごまさば

福岡のソウル・フードの一つは「ごまさば」だと聞いていました。何度も福岡へ行っているにも関わらず、これまで食べたことがありませんでした。居酒屋の定番メニューと言われますが、多様な食文化を持ち、食事の選択肢が多い福岡ですから、これまで一般的な居酒屋へ行く機会はありませんでした。また、「ごまさば」とは料理名だと思っていましたが、一方で、「ゴマサバ」という種類の魚も存在し、どっちなんだろうと多少疑問でもありました。鯖にはマサバとゴマサバがあります。ゴマサバは、腹に胡麻状の斑点があるのでゴマサバと呼ばれます。通常、我々が食しているのはマサバであり、ゴマサバの大半は缶詰やさば節等の加工品に回されます。

今般、ついに食べることができた”博多のごまさば”は、マサバを使った料理でした。マサバの刺身を甘めの醤油とみりんで和え、胡麻、ねぎ、海苔等の薬味を加えたものです。今回は居酒屋ではなく、定食屋でごまさば定食を食べました。というのも、酒の肴に最適だとは思いますが、温かいご飯に乗せて、そして最後は出汁茶漬けで食べたいと思ったからです。鯖は、冬場が旬です。脂の乗った魚は、概ね、づけ茶漬けがうまいものです。案の定、ごまさばの出汁茶漬けは、とても美味しく、もっと食べたいと思いました。しかし、鯛であろうが、ブリであろうが、出汁茶漬けは美味しく、かつ、薬味に胡麻を入れることも少なくありません。つまり、一般的的な料理であり、博多のごまさばだけが特別とは思えません。

では、なぜ、博多のごまさばだけが有名で、農水省の「うちの郷土料理」にまで登録されているのでしょうか。そもそも、鯖は”生き腐れ”というほど足が早く、刺身で食べることはありません。鯖による食中毒は、主にヒスタミン中毒です。ヒスタミンは、アミノ酸の一種である”ヒスチジン”が、”ヒスタミン産生菌”という酵素の作用によって変成したものです。ヒスチジンを多く含む魚を常温で放置するとヒスタミンが多く生成されます。ヒスタミンは加熱しても消えることはありません。鯖は、このヒスチジンを多く含み、かつ脂肪分が多いことから劣化が早いとされます。低温保存だけではヒスタミンの発生を防げないことから、塩をふる(塩鯖)、酢じめにする(〆鯖)、あるいは適切に血抜きする必要があります。

もちろん、海からあがったばかりの鯖ならば、刺身でも問題ありません。博多は玄界灘の活きのいい魚が揚がる土地柄ですが、それは博多に限った話ではありません。実は、鯖にはもう一つややこしい問題があります。魚介類に多い寄生虫アニサキスです。日本の食中毒の半数がアニサキス中毒だとされます。アニサキスは、魚の内臓に寄生しますが、魚が死ぬと、内臓から筋肉に移動するとされます。私たちは、この筋肉を刺身として食べているわけです。アニサキスは、加熱したり、冷凍すれば死滅しますが、やっかいなことに塩や酢だけでは死にません。ところが、アニサキスにも種類があり、九州北部で獲れる魚に寄生するアニサキスは、太平洋側のそれとは異なり、魚が死んでも、すぐには筋肉に移動しないようです。

つまり、博多のごまさばが特別である理由は、刺身でも食べられる新鮮な鯖を使うという全国的には極めて珍しい背景があるからだと言えます。福岡に限らず、九州北部の人たちは青魚好きです。おそらくごまさばも、漁師飯として、あるいは浜の家庭料理として食べられてきたのでしょう。ただ、意外なことに博多のごまさばが居酒屋メニューとして有名になったのは、平成になってからだと聞きます。恐らく、冷蔵技術の進化に加え、1990年に長崎自動車道が開通しことが大きかったのでしょう。というのも、福岡で消費される鯖の多くは長崎産だからです。(写真出典:gourmetcaree.jp)

2023年12月1日金曜日

大野城跡

大野山(四王寺山)
念願叶って、大野城跡と水城跡を見てきました。大野城は、福岡県の大野城市・太宰府市・宇美町にまたがる日本最古、かつ最大の朝鮮式山城です。665年、太宰府政庁を守るために、前年に築かれた水城に続き、南の基肄城(きいじょう)とともに築城されています。政庁背後に位置する標高410mの大野山、通称四王寺山の地形をそのまま活用した山城です。周囲に巡らされた土塁・石塁の総延長は8.4km、9ヶ所の城門があります。城内には数多くの礎石が発掘されています。低山ながら、谷筋は深く、急峻な崖もあります。広大な城のすべてを回るには、一日がかりだと思います。今回は、2時間弱のトレッキングで、全体の2割くらいを見てきました。西の尾根に築かれた城門跡から見ると、福岡平野が一望でき、その先には博多湾が続きます。

663年、朝鮮半島の白村江で、唐・新羅連合軍に大敗した倭国は、唐の来襲を警戒します。外交努力を展開する一方で、中大兄皇子は、国防体制の整備を図ります。まずは、664年、対馬、壱岐、筑紫などに防人(さきもり)を配置し、烽で素早く情報を伝える仕組みを整備し、水城を築きます。そして、朝鮮式山城を、九州から瀬戸内海にかけて、28カ所、築城します。そのはじまりが、大野城と基肄城でした。その時点まで、倭国には築城の経験がなく、百済から亡命してきた武人や官僚が建設を指揮したとされます。唐が西方での戦いに注力せざるを得なくなり、その間隙をついた新羅が朝鮮半島を統一すると、古代山城の存在意義は薄れ、うち捨てられることになります。わずか数十年の命だったわけです。

774年に至ると、城内に、四天王を祀る四王寺が建立されます。以降、大野山は、四王寺山と呼ばれる信仰の山へと変わります。当時の仏教は国家鎮護のための宗教であり、兵に代って仏に国防を委ねたとも言えます。また、18世紀末、大火、天然痘、豪雨に襲われた博多の商人たちは、観音様にすがるべく、四王寺山中に三十三体の石仏を安置します。西国三十三ヶ所霊場にちなんだもので、各石仏の基礎には、西国三十三ヵ所霊場の土が埋められていると聞きます。大正期頃までは、多くの人々が三十三石仏巡りをしていたようです。実は、三十三石仏の起源については異説が存在します。1584年、大野山の南裾では、岩屋城を巡る壮絶な攻城戦が戦われます。その犠牲者を慰霊するために石仏が安置されたという説です。

16世紀末、肥前の龍造寺を破った島津勢は、勢いに乗って北上し、九州統一を目指します。最後に残る障害は、秀吉が北部九州の守護に任じた大友宗麟でした。島津の勢いに恐れをなした宗麟の臣下たちは、次々と島津勢に加わります。一人残った高橋紹運は、子息たちを後背の城に置き、自らは、763名の兵とともに最前線の岩屋城に立てこもります。押し寄せる島津勢は5万に膨れあがっていました。ただ、寄せ集めの軍となった島津勢の士気は低く、攻城戦は半月に及びます。島津勢が総攻撃をかけると、ついに紹運は切腹、岩屋城は全滅します。ただ、島津側も3千人の犠牲者を出し、立て直しのために、進軍を止めざるを得ませんでした。そして、20万の兵を率いた秀吉が小倉へ上陸し、さすがの島津も降伏しています。

大野城跡へ出かけるに際して、福岡市出身の知人たちに聞いてみたところ、当然、大野城は知っていても、誰一人として大野城跡を見た人はいませんでした。驚きです。大野城跡は、現在、四王寺県民の森として福岡県が管理しています。博多駅前から車で30分も行くと山中に入ります。管理センターで地図をもらったのですが、これが実に分かりにくくて困りました。すると、しっかりと山歩きの出立を整えた中年女性が助けてくれました。彼女は、持参していた分かりやすい地図に基づき、2時間のトレッキング・コースを提案してくれました。それがなければ、人影のない山中で迷っていたかもしれません。感謝です。日本最古の城にして、日本国成立にも深く関わる遺跡です。福岡県、あるいは国が、もっと予算を投入し、もっと見学しやすくしてもらいたいものだと思いました。(写真出典:furusato-tax.jp)

サンティアゴ・デ・クーバ