2023年11月15日水曜日

鵯越

“鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし” は、一ノ谷の合戦のおり、源義経が騎乗したまま崖を下り、平家を蹴散らすという平家物語屈指の名場面です。須磨浦から舟で敗走した平家は、屋島でも惨敗、さらに西へと向かい、壇ノ浦で滅亡します。平家物語は、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語です。盲目の琵琶法師によって、節をつけて語られる平曲としても知られます。歴史書ではなく、あくまでも大衆向けの語り物です。大筋では歴史を踏まえているとしても、細部は大いに脚色されていて当然です。逆落としについても、それが事実か否かを含め、種々の議論があります。逆落としが行われた場所については、神戸市西部の鉄拐山(てっかいさん)が、最も有力な候補とされています。

鉄拐山の姿は、写真や映像で何度も見ていますが、言うほど急峻な崖には見えません。一度、実際に見てみたいと思い、今般、初めて須磨浦へ出かけました。本来的には、鉄拐山に登るべきではありますが、レトロなロープウェイとカーレーターを使って鉢伏山に登り、東に鉄拐山を望むことにしました。実際に見てみると、崖は写真よりもかなり厳しいものでした。最大斜度は40度とのこと。30度の斜面でも、上から見れば直角に見えるものです。決して高い山ではありませんが、斜面には砂岩が露出しており、”須磨アルプス”と呼ばれるのも頷けます。人が降りることも危険ですが、馬に乗ったまま一気に下ることなどもってのほかです。逆落としが事実ならば、ギネス・ブックものの大チャレンジだと思います。

”鵯越の逆落とし”は、平家物語によって広まったフレーズと言えます。現在も六甲山地の西に鵯越という地名が存在します。平安期と同じ場所なのかは不明ですが、鉄拐山とは8kmも離れています。平家物語によれば、義経一行は獣しか通わない鵯越という難所を越えて一ノ谷口の裏手の山へ至ったということになります。つまり、“鵯越”と”逆落とし”の場所は異なります。それが、何故かひとまとめにされ一般化したわけです。近年の研究で、当時、国境の石碑がある場所は”ひよ”、谷筋は”とり”とも呼ばれていたことが分かったようです。鉢伏山は摂津と播磨の国境にあり、険しい谷もあり、”ひよ・とり”に合致します。逆落としは、鉢伏山で行われた可能性も浮上しているようです。

1184年、後白河法皇の平家追討の宣旨を受けた源頼朝は、5万6千の兵をもって範頼に大手を、1万の兵を率いる義経を搦手として、福原の平家本陣を攻めます。2月7日、浜沿いに進む大手軍は、夜明けとともに生田口の平家を攻め、激しい攻防戦が行われます。山中を行く搦手の義経は、三草山で平家を破った後、兵を分けて福原の北の夢野口へ向かわせる一方、自身は一ノ谷口を目指します。このあたりから、諸説が入り乱れることになります。平家物語、吾妻鏡、玉葉等で、微妙に違いがあります。鵯越で兵を分けたか否か、夢野口への攻撃を率いたのは安田義定か多田行綱か、逆落としが行われたのは鵯越か鉄拐山か、逆落としを行ったのは70騎だけなのか3千の兵なのか、等々。

それにしても、いまだに研究者や好事家の議論が絶えないということは、いかに源義経の人気が高いかを現わしています。歴史上確認できる義経の動向は、1180年、黄瀬川の陣において兄・頼朝と再会し、1189年、衣川で自害するまでの9年間だけです。享年31歳。奢れる平家を華々しい活躍で滅亡させ、頼朝に謀反を疑われて逃走し非業の死を遂げるという、短いながらも波瀾万丈な生涯が、人々を惹きつけてやまないわけです。九郎判官義経の人気は、鞍馬寺の牛若丸に始まり、大陸へ渡りジンギスカンになったという説まで、実に多くの伝説を生むことになります。それどこか、理屈抜きで弱いものに味方する判官贔屓という日本人の気質まで生みました。平家物語が語る”諸行無常”とは、平家の栄華と没落だけではありません。平家を滅ぼした義経の生涯もまた”春の夜の夢のごとし”だったわけです。(写真:鉢伏山から望む須磨浦)

2023年11月13日月曜日

広島の味

がんす
厳島神社での観月能の前に、腹ごしらえをしようと、宮島口の「あなごめし うえの」に入りました。行列店とのことですが、夕刻なのですんなり席につけました。あなご飯は、昨年の観月能の際、宮島の人気店「ふじたや」に行列して食べました。あまりピンと来ませんでした。江戸前の煮あなごは好きですが、あなご飯となると、どうしても鰻丼と比較してしまい、物足りなさを感じます。四国出身の友人は、子供の頃、鰻だとだまされてあなごを食べており、初めて鰻を食べた時には感動したと言っていました。というわけで、あなご飯には食指が動かなかったのですが、宮島一番の老舗だというので”うえの”に入りました。驚きました。美味しかったのです。ふわっとした仕上がり、絶妙な旨味を感じるタレと飯、また食べたいと思いました。 

観月能の幽玄の世界を堪能した後、広島市内に戻り、友人と薬研堀へと繰り出しました。流川・薬研堀界隈は、中国地方最大の歓楽街と言われます。昨年、広島のお好み焼きの魅力を”発見”したこともあり、良さげなお好み焼き店を探し、飛び込みました。結果的には大正解。行列のできる人気店「越田」でした。まずは、ご挨拶代わりに、広島名物がんすを注文。がんすは、すり身にタマネギや唐辛子などを加えてから長方形に成形し、パン粉をつけて揚げたものです。がんすは、昭和初期、呉で揚げかまぼことして誕生したようです。名前は、広島弁の「〇〇でございます」を意味する「〇〇でがんす」をもじって付けられたとされます。何故か、すり身は揚げると甘みが出ます。それにタマネギまで入るのですから、美味いに決まっています。鉄板で焼いてもらったがんすは絶品でした。

続いて、広島へのご挨拶シリーズとして、牡蠣を注文しました。鉄板焼きの牡蠣と言えば、バター醤油が定番ですが、自家製の牡蠣ソースで焼いてくれました。牡蠣の多少の塩味と甘味のあるソースがベストマッチで、まるで新しい料理を食べているようでした。他にも、なじみのない”ゲタ焼き”というメニューがあり、注文しました。ゲタとは、豚の肋骨の骨と骨の間の肉のことで、言わば中落ちというわけです。多少堅さがあり、噛むほどに旨味が出てきました。そして締めは、当然、お好み焼きです。綺麗に焼き上がったお好み焼きは、蒸したキャベツの甘さがたまらない絶品でした。ちなみに、広島焼き、あるいは広島風お好み焼きという言い方がありますが、広島人からすればもってのほか、あくまでも”お好み焼き”なのだそうです。

生地に具材を混ぜ込んで焼く大阪のお好み焼きと違い、クレープ状に焼いた生地でキャベツ、焼きそば、他の具材を挟み込む広島のお好み焼きは、蒸し焼きと言ってもいいのでしょう。大正期に関西で広まった一銭洋食が広島のお好み焼きのルーツとされます。関西では、それが具材を混ぜるお好み焼きへ変わりますが、広島では一銭洋食の挟むスタイルが継承されたわけです。キャベツが主役に躍り出るのは、戦後の混乱期だったようです。要は、安価で入手しやすい食材だったのでしょう。また、食糧不足にあえぐ大衆のために、腹持ちのよい焼きそばが加えられます。ちなみに、”ちゃん”のつくお好み焼き屋が多いのは、多くの戦争未亡人が、屋台でお好み焼きを焼いて食いつないだからだとのこと。戦後の混乱が、広島のお好み焼きを生んだと言えるのでしょう。

広島のお好み焼きに欠かすことのできない食材の一つに”イカ天”があると言います。イカ天とは、薄く伸ばしたスルメイカを衣をつけて揚げたものです。酒のつまみとして、あるいは駄菓子として知られますが、実は広島県発祥、かつその生産もほぼ広島県が独占しているようです。江戸期、良質の塩と交換するために尾道へ集まった各地の物産のなかに、北海道のスルメイカがあり、イカ天が生まれたとのこと。お好み焼きのトッピングとして、あるいは隠し味として使われるようです。味に深みがでることは間違いありません。もんじゃのさきイカに通じるものがります。総じて、広島県はB級グルメに事欠かない土地柄のように思えます。人口の多くが海岸沿いの工業地帯に集中しているからなのかも知れません。(写真出典:hotpepper.jp)

2023年11月11日土曜日

酒船石

酒船石
アニミズムに基づく古代の巨石文化は、世界中にあります。日本も他国と同様に、環状列石、ピラミッド、ケルン、メンヒル等々があります。ただ、日本の場合、石があまり大きくない傾向があります。石の大きさは、集団の規模、権力の集中度等とも関係すると思われます。卑弥呼、ヤマト王権が登場するまで、倭国は規模の小さな部族に分かれていました。それが小ぶりな石の文化につながっているのでしょう。ヤマト王権が確立された飛鳥時代になると、大きな石を運んで加工するという巨石文化が現れます。石舞台は蘇我馬子の墓とされます。猿石、石人象、須弥山石等は、権威を示すためのモニュメントとされ、噴水の機能を持つ石もあります。また、益田岩船、酒船石など、何のために作られたのか不明なものもあります。 

飛鳥の巨石文化のなかで、最も興味深いものは、酒船石だと思います。全長5.5m、幅2.3m、厚さ1mの石の表面には、円形の窪みから3本の溝が放射状に走り、液体が流れるような構造になっています。さらに円形・楕円形の浅い窪み穿かれ、全体としては幾何学的な構図のように見えます。酒船石は、高台の上に置かれています。高台は、見事な石垣を回すなど人工的に造られたもののようです。酒船石という名称は、江戸時代に定着したとされています。酒を造る道具という見立てがされたのでしょう。しかし、そうは見えません。何らかの祭祀を行うための道具立て、薬を造るための仕掛け、あるいは宇宙人が何らかの記録として残したのではないかという説まであります。

30年前、酒船石のある高台の下の窪地から、亀形・小判型の石造物が発見されます。湧水樋から小判型の石の窪みに、そして亀をかたどった石の円形の窪みへと水が流れ落ち、それぞれの窪みに貯められるような仕組みも施されています。しかも周囲は、人目を避けるように掘り下げられ、斜面には観客席のような石段まであります。文献に記載がないことから、その目的や用途は不明ですが、類した工事の記述が、日本書記の斉明天皇期にあると言います。謎の石造物ではありますが、これは間違いなく占いのための道具立てだったと思います。文献がないこと、人目を避けるような高台や窪地にあることが、何よりの証拠です。占いは秘儀であり、むやみに人に見せるものでも、その手順を記録するものでもありません。

とすれば、亀形・小判型石造物に付属する観客席のようなものは何か、ということになります。日本書記には、唐・新羅連合軍に攻められた百済への援軍派遣に際し、斉明天皇自らが、その可否を占ったとあるようです。恐らく酒船石は占術師が使う道具であり、亀形・小判型石造物は、天皇自らが占いを行う場所だったのではないでしょうか。天皇が占う際には、運命を共にする、あるいは心を一つにすべき高官たちを同席させることがあったものと思われます。飛鳥時代の占いとしては、筮竹を用いる易占、亀の甲羅を使う亀卜等が知られていますが、神の言葉を伝える神託も行われていたはずです。卑弥呼はじめ呪術者には女性が多かったようです。亀形・小判型石造物は、女帝である斉明天皇ならではの遺跡のように思えます。

欧州の巨石文化は、石材を使った建築技術の発展、あるいは信仰から宗教の時代へと変わることによって消えていきます。飛鳥の巨石文化は、強大なヤマト王権の確立、渡来人がもたらした文化と技術を背景に誕生したものと思われます。仏教が隆盛しつつあった飛鳥時代の巨石文化は、そもそもアニミズムとの関連が薄く、墓や呪術系の道具立てを除けば、せいぜいが庭石だったわけです。神仏混淆の日本では、自然のなかにある巨石への信仰は続きますが、仏教寺院や仏像は、より加工しやすい木材や青銅で造られていきます。やや極論かもしれませんが、日本の巨石文化は、おおむね飛鳥時代に庭石としてスタートしたことで、世界に類を見ない枯山水の石庭を生んだと言えるような気がします。

2023年11月9日木曜日

甘樫丘

奈良へは、仕事で何度も行きましたが、観光する時間など全くなく、早起きして東大寺、興福寺あたりにお参りするのが精一杯でした。平城京どまりというわけです。今般、正倉院展を観るついでに、飛鳥まで足を延ばしました。これまで飛鳥へ足が向かなかったのは、建造物が残っておらず、石碑以外には、古墳や巨石ばかりというイメージが強かったからです。例えば古戦場は、その戦闘の詳細を知らなければ、ただの原っぱです。同様に、多少なりとも飛鳥時代を知らなければ、そこへ行く意味はないわけです。近年、歴史的、あるいは考古学的な発見や研究が進んだこともあり、古代史がブームの様相を呈しています。私も、古代史関連の本を何冊か読んだので、いよいよ飛鳥へ行ってみようかと思った次第です。

飛鳥時代は、592年、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位した時から、藤原京、ないしは平城京への遷都までの約1世紀を指します。大雑把に言えば、推古天皇の摂政だった聖徳太子が国としての形を整え、国家鎮護のための仏教が隆盛し、白村江で唐・新羅に大敗し、中大兄皇子が国防強化のために律令体制を導入し、初めての都城である藤原京が造られた時代です。部族国家であった倭国が、中央集権的な日本国へと変貌を遂げた世紀と言えます。豊浦宮から藤原京に至る王宮は、奈良盆地南部に集中しており、現在の明日香村一帯が飛鳥と呼ばれます。実に狭いエリアであり、明日香村北部の甘樫丘に登れば、歴史の舞台をほぼ一望できます。今回の目的の一つが、この甘樫丘に登ることでした。

甘樫丘は、飛鳥川に面した標高148mという小高い丘です。万葉集で歌われた植物を集めた”万葉の植物路”を中心に国営歴史公園として整備されています。7世紀前半に権勢を振った蘇我蝦夷と入鹿の親子が、それぞれ邸宅を構えていたことでも知られます。蘇我氏は、武部宿禰を祖とする有力豪族です。蝦夷の父である蘇我馬子は、半島から伝来した仏教に深く帰依し、仏教を邪神とする物部守屋と対立します。皇位継承を巡って対立を深めた両者は、587年、ついに刃を交えます。丁未(ていび)の乱です。苦戦した馬子が勝利できたのは、陣営に参加していた厩戸皇子、後の聖徳太子が四天王像を彫り、戦勝を祈願したためとされます。馬子は、崇峻天皇を即位させますが、政策全般で溝が深まったため、崇峻を殺害します。

そして、日本初の女帝である推古天皇を擁立し、聖徳太子を摂政とします。蘇我氏が実権を握ったわけですが、入鹿の時代になると、その専横ぶりは度を超し、天皇位を窺うまでになったとされます。645年、入鹿は、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後に藤原鎌足)らによって、皇極天皇の目前で殺害されます。蝦夷も自害しています。この乙巳(いっし)の変を機に大化の改新が始まります。日本書紀は入鹿の大悪人ぶりを多く語りますが、近年の発掘・研究によって、それらが事実ではないことが判明しつつあるようです。藤原氏が、入鹿殺害を正統化するために偽造した、というのが学界の定説になっているようです。さらに、17条の憲法などは馬子の業績であり、それを否定するために、聖徳太子という人物がねつ造されたという説まであります。いわゆる勝者の歴史というわけです。

蝦夷・入鹿の邸宅があった甘樫丘の上からは、東に飛鳥寺を見下ろすことができます。蘇我馬子によって建立された飛鳥寺は、伽藍を備えた日本初の仏教寺院とされます。既に伽藍は失われ、小ぶりな寺院が再建されています。本尊は、日本初の仏像とされる釈迦如来像であり、飛鳥大仏とも呼ばれます。法隆寺金堂の国宝・釈迦三尊像の作者としても知られる渡来人の止利仏師の作とされます。ただ、飛鳥大仏も幾たびか焼失し、首だけが残ったとされます。現在は、修復を重ねた姿で鎮座しています。飛鳥寺の境内を西に出てすぐのところには、入鹿の首塚があります。甘樫丘、入鹿の首塚、飛鳥寺が一直線に並んでいるわけです。わずかな距離のあいだに、蘇我氏の盛衰が凝縮されているとも言えます。(写真:蘇我入鹿の首塚、後方は甘樫丘)

2023年11月7日火曜日

芦雪


伊藤若冲ブームのきっかけを作ったのは、美術史家の辻惟雄とされます。美術手帖誌に連載後、1970年に出版された「奇想の系譜」が、それまでキワモノ的扱いだった江戸中期の6人の画家たちを、アヴァンギャルドという視点から再評価することになりました。6人の画家とは、岩佐又兵衛、狩野山雪、曽我蕭白、伊藤若冲、長沢芦雪、歌川国芳です。2006年、国立博物館の「プライス・コレクション展」で注目を集めた若冲がブームを先行する格好となりましたが、他の画家たちの絵も若冲と併せて展示されるようになります。そして、2019年、辻惟雄のベストセラーのコンセプトを具現化したような「奇想の系譜展」が東京都美術館で開催されます。ようやくこれで三役揃い踏みといった感じになりました。

「奇想の系譜展」には、6人以外に鈴木其一と白隠慧鶴も加えられていました。何とも凄みのある展覧会で、若冲など大人しく見える程でした。なかでも、蕭白と芦雪のパワーには驚きました。今般、大阪中之島美術館で「生誕270年 長沢芦雪―奇想の旅、天才絵師の全貌―」展が開催されました。待望された回顧展だと言えます。大阪の市立美術館は古代美術、東洋美術、江戸期までの作品を収蔵・展示するのに対して、昨年オープンした大阪中之島美術館は近現代美術を専門とします。そこで江戸中期に活躍した芦雪展を開くことは、なかなか面白いと思いました。実際には、注目度の高い回顧展なので新しい美術館で、という意図だったのかも知れませんが、芦雪の前衛性がそうさせたと思いたくなります。

長沢芦雪は、円山応挙の高弟でした。応挙は、日本画の世界に写実性を取り込み、装飾性と融合させて新たな世界を切り開いたとされます。国宝「雪松図屏風」はもとより、幽霊の絵でもよく知られます。ちなみに、足のない幽霊は、応挙の考案とされます。対して、弟子の芦雪の大胆で、奇想天外な構図は、師匠の画風とは大違いです。三度破門されたという話もうなずけます。ただ、芦雪の緻密な筆の運びは、師匠ゆずりとも言えそうです。芦雪の有名な魚の落款は、応挙の言葉に由来すると言います。氷に閉じ込められていた魚が氷が溶けると自由に泳ぐように、自分は伝統絵画から独立し自由に絵を描けるようになった、という話です。少なくとも、応挙の革新性は、芦雪にも引き継がれていたわけです。

奇想の系譜と呼ばれる画家たちが、皆、18世紀に活躍したという点も興味深いと思います。17世紀末から上方を中心に花開いた元禄文化は、経済力を増した庶民の時代の到来を告げています。奇想の画家たちが活躍する18世紀後半からは、文化・文政時代を頂点とする庶民文化の全盛期を迎えます。従来の大名お抱えの狩野派などと異なり、庶民が見ることを前提とした作画が始まった時代とも言えるのではないでしょうか。芦雪の絵は、人々を驚かせ、楽しませることによって、高揚感、幸福感、さらには精神的自由を醸成していたように思えます。それは装飾性や精神性を重視してきた日本の絵画を民主化し、絵画が持つ本来的なパワーを引き出すことにつながったとも言えそうです。

19世紀後半の欧州画壇は、ジャポネズリーからジャポニスムの時代を迎えます。日本の絵画の陰影を無視した輪郭線による平面的表現、あるいは欧州の常識にはまったく存在しなかった大胆な構図などが、その後の欧州の絵画に大きな影響を与えます。浮世絵の大胆な構図は、木版ならではとも言えますが、芦雪が切り開いた新しい絵画の影響を受けて発展したのではないでしょうか。岩佐又兵衛は、浮世絵の祖とも言われますが、それは大胆な顔の描き方によるところが大きいと思います。しかし、芦雪の大胆な構図もまた浮世絵の祖なのではないかと思います。やや極論ではありますが、芦雪は、浮世絵を通じて、欧州絵画に影響を与えたとも言えそうです。余談ですが、芦雪は、46歳のとき、大阪で死んでいます。怨恨、嫉妬による毒殺、あるいは貧困の末の自殺だったという説もあり、真相は不明のままです。(写真出典:nakka-art.jp)

2023年11月5日日曜日

Tokyo Film 2023

2023年の東京国際映画祭が、10/23~11/1、開催されました。毎年、チケットを確保することが難しく、去年は5本しか見られませんでした。今年は、システム改定もあって、比較的スムーズに9本のチケットをゲットできました。ただ、期間中、3泊4日の広島・関西旅行が入っていたこともあり、狙っていたのに見られなかった映画が2本ありました。誠に残念。うち1本が、今年、急逝したチベットのペマ・ツェテン監督「雪豹」であり、グランプリを獲得しています。


「耳をかたむけて」 ☆☆☆  監督:リュウ・ジャイン 2023年中国

スランプに陥った脚本家が、アルバイトの弔文書きを通じて知り合った女性との交流を通じて、自信を回復するといったプロットです。短編小説的な味わいのある佳作だと思います。

「平原のモーセ」(別掲) ☆☆☆☆ー  監督: チャン・ダーレイ 2023年中国 

「犯罪者たち」 ☆☆☆☆  監督:監督:ロドリゴ・モレノ 2023年アルゼンチン等

とても新しい映画の作り方だと思います。散文詩的でもありますが、実に自由な展開が、のびやかなエッセイを読んでいるような心地良さを感じさせます。銀行から金を奪った後の関係者の心理を描くというプロットではありますが、主題は、現代人にとっての自由、あるいは社会と個人という古典的テーマの現代的解釈のように思えました。

「ロングショット」☆☆☆+  監督:ガオ・ポン 2023年中国

チャイニーズ・ノワールの新しい展開だと思います。東北部の社会問題を背景としつつも、これほど銃弾が飛び交う中国映画は、戦争映画以外では初めてなのではないかと思います。主人公の影の部分の描き方も含めて、新しい中国エンターテイメント映画です。政府の検閲を通せたのは、時代とその法的背景を限定したからなのでしょう。

「ミュージック」☆☆☆☆ー  監督:アンゲラ・シャーネレク 2023年独・仏等

ギリシャ三大悲劇の一つ「オイデュプス王」をベース・プロットとしています。映画は、乾いた空気感のなかで静かなテンポで展開されますが、時折入る鋭い映像が印象的でした。ピエル・パオロ・パゾリーニのウルトラ・モダン・バージョンといった印象を受けました。峻厳さすら感じさせる映画文法は見事だと思います。

「ダンテ」☆☆+  監督:プピ・アヴァティ 2022年イタリア

ダンテ再評価の立役者として知られるボッカッチョがダンテの娘である修道女を訪ねて旅をするという興味深いプロットです。ただ、ダンテに関する解説的な展開も含めて、全体がTV番組風となっています。もう少し焦点を絞って、しっかりドラマを作った方が良かったと思います。イタリア人は、どうしてもダンテを解説したくなるのでしょう。

「野獣のゴスペル」☆☆  監督:シェロン・ダヨック 2023年フィリピン

タイトルからしてブリランテ・ドーサばりの映画を期待したのですが、社会派的ながら青春物的色合いも濃く、中途半端な印象を受けました。主演する俳優の甘いマスクが気になりました。キャスティングの段階で既にブレブレの映画だったと思います。

「アンゼルム」☆☆☆+  監督:ヴィム・ヴェンダース 2023年ドイツ

現代アート作家のアンゼルム・キーファーに関するドキュメンタリー映画です。白黒の端正な映像は、ヴェンダースの熟練の技を感じさせます。実にスタイリッシュな映画ですが、キーファーの制作意欲の根源にまで切り込んだという印象は薄く、また彫刻的でもあるキーファーの作品を考えれば、3D上映の意図は理解しますが、効果があったかどうかは疑問です。

「Somebody Comes into the Light」☆☆☆+ 監督:ヴィム・ヴェンダース 2023年ドイツ

ヴェンダースの「PERFECT DAYS」出演を機に実現した田中泯のダンス映像です。田中泯のダンス、三宅純の音楽、ヴェンダースの映像が、見事にマッチした躍動感あふれる映像でした。白黒で映し出される田中泯のダンスの迫力もさることながら、欧州を中心に活躍するジャズ出身の作曲家・三宅純の音楽が魅力的な作品でした。

(写真出典:2023.tiff-jp.net)

2023年11月2日木曜日

女踊

三宅坂の国立劇場が、建替えのために、10月いっぱいをもって閉場しました。国立劇場は、1966年のオープン以来57年間、歌舞伎・文楽・日舞・邦楽・雅楽・琉球芸能等、伝統芸能の拠点として機能してきました。同敷地内には国立演芸場、伝統芸能情報館もありますが、これらすべてを同地に新たに建設される複合ビルに取り込み、2029年には再オープンする予定とされています。正倉院の校倉造りを模した特徴的な外観は、伝統芸能の総本山として相応しいものがあり、数々の建築賞も獲得しているようです。敷地は、もともと明石藩の江戸屋敷跡であり、明治以降は陸軍が使用していました。戦後は米軍に接収され、空軍の住宅として利用されていたようです。返還後、同地に、国立劇場と最高裁が建てられました。

ここ数年は、国立劇場で、浄瑠璃と琉球芸能を楽しんできました。私にとって最後の国立劇場は、組踊と琉球舞踊の公演とになりました。国立劇場、国立劇場おきなわ等々で、幾度も琉球芸能は観てきましたが、今回が最も感銘を受けた公演になりました。組踊「女物狂」は、人間国宝の宮城能鳳が指導、地謡には同じく人間国宝の西江喜春(唄と三線)と比嘉聰(太鼓)が並ぶという豪華版でした。演じる立方よりも、地謡の方に目がいきがちでした。それよりも感動したのは、同じく人間国宝の宮城幸子が舞う女踊「諸屯(しゅどぅん)」でした。本土の七・五調と異なり、八・八・八・六調の歌で踊られる女踊は、琉球舞踊の最高峰と言われます。なかでも玉城朝薫作の諸屯は最高傑作とされています。

尚王家の血をひく玉城朝薫は、18世紀初頭、中国の冊封使を接待する踊奉行に就任します。朝薫が接待のために創作したのが組踊でした。今も朝薫五番と呼ばれる二童敵討や女物狂は、組踊の主要演題であり、組踊は朝薫に始まり朝薫に終わると言われます。女踊も多く創作しており、諸屯と並び称される伊野波節(ぬふぁぶし)、今回も上演された「稲づまん」など古典女七踊とされる女踊は、すべて朝薫の作です。なかでも諸屯は、最も高い演技力と経験値が求められる難しい演目とされます。人間国宝クラスでなければ、踊れないとも言われるようです。諸屯は、実にゆったりとした曲調を持ちます。たゆたゆとした曲調こそ、琉球古典舞踊の本質だと思います。

諸屯は、満たされぬ恋を思う成熟した女性の情念を描いているとされます。曲は、それぞれ八・八・八・六調の仲間節・諸屯節・しょんがね節の三節で構成されます。諸屯とはどういう意味なのか気になりました。実は、諸屯節には原曲があり、加計呂麻島の「諸鈍長浜節」とされているようです。現在も諸鈍という地名が存在し、デイゴ並木で知られる長い浜があります。15~16世紀頃から存在する遊び歌だった諸鈍長浜節の一節が諸屯節と一致しているとのこと。また、首里から加計呂麻島に派遣されていた金武王子が、帰任後、恋仲だった奄美の女性を思って詠んだ歌が元歌という説もあるようです。いずれにしても、背景には、尚王朝による奄美進出があるわけです。

花笠を使う伊野波節とは異なり、諸屯は身一つで踊られます。踊りに大きな振り付けなど一切無く、ごくわずかな動きや手さばき、そして目の表情だけで踊りきります。特に印象的なのは、諸屯が、後ろ姿、それもほとんど動きのない後ろ姿で多くを語る舞だということです。YouTubeで、他の踊り手が舞う諸屯を観たことがありますが、宮城幸子の諸屯は、さらに動きがありません。それでいて、より深い情感を伝えてきます。琉球舞踊の真髄は、できるだけ手数を省くこと、と聞きます。中国の弓の名人が弓矢を使わずに鳥を射落としたという”不射の射”に通じるものがあります。名人芸の極致とは、そういうものなのでしょう。名残の国立劇場、最後の最後で、すごいものを観てしまったな、と思いました。(写真出典:okinawatimes.co.jp)

川上