2023年9月3日日曜日

横審稽古総見

横綱審議委員会、いわゆる横審は、1950年、日本相撲協会によって設置された諮問機関です。その年の初場所で3横綱が揃って途中休場し、前年秋には、前田山が不祥事で横綱をクビになっていました。横綱の不祥事や休場は、相撲協会による横綱の粗製濫造によるものとの批判がまき起こり、横審が設置されることになりました。かつては、相撲宗家とされる吉田司家が横綱免許を与えていました。江戸期から続く古い慣習です。現在、横綱昇進は、相撲協会審判部の推薦を受けた理事会が、横審に諮問したうえで決定しています。理事会は、横審の答申を尊重するという規定になっているため、事実上、横審が横綱昇進を決めていると言ってもいいのでしょう。

横審の主な役割は、横綱推薦ということになります。ただ、他にも、横綱の休場、成績、品格、取組内容等によっては、拘束力はないものの、激励・注意・引退勧告等を決議することもあります。横審の定例会議は、本場所の千秋楽翌日に開催されますが、国技館開催の本場所の直前には、関取以上を集めて、稽古総見が行われます。稽古総見は、一般公開もされます。一時期、全ての稽古総見が公開されていましたが、今は年一回、5月の夏場所前に公開されます。ただ、コロナ禍で中断を余儀なくされていました。今年、ようやく再開され、9月の秋場所直前で一般公開されました。稽古総見の一般公開は、入場無料、席は自由ということで大人気です。7時半開場のかなり前から長蛇の列ができます。

私は、6時半くらいから列に並びますが、その時点で、既に千人くらいが並んでいます。開場時点では、それが3千人程度に膨れ上がり、皆、土俵に近いマス席へと殺到します。ここで注意すべき点があります。実戦形式で行われる“申し合い”では、勝った力士が次の相手を指名します。指名してほしい力士たちは、土俵を囲んで手を上げ、次第に土俵の上まであがり、勝った力士に迫っていきます。次の相手が決まったら、他の力士は土俵下で蹲踞して待つのがマナーですが、熱が入ってくると、皆、土俵から降りなくなります。すると観客からは取り組みが見えにくくなるわけです。ただ、横審が陣取る正面だけは、力士も空けます。つまり、土俵への近さではなく、いかに正面の席をとるかがポイントになるわけです。

参加する力士の数が多いので、相撲部屋での稽古と同じとはいきません。稽古は、番付下位の力士たちからはじめ、上位者へと進んでいきます。内容としては、部屋と同じく、申し合いとぶつかり稽古が行われます。白鵬が横綱だった頃には、注目力士を白鵬がかわいがる場面もありました。角界で言う”かわいがり”は、上位者が目をかけている下位者に、あえて厳しい稽古をつけることです。かわいがられる力士は、でかい図体ながらヒイヒイと声をあげ、しごきに耐えて、向かっていきます。部屋では、それがもっと厳しく行われているのでしょう。素人目には、いじめと区別がつきにくい稽古です。稽古の仕上がりを見てもらう総見ですが、いつもどおりの稽古を見てもうことも大事なのかもしれません。

さて、4年振りとなった今年の稽古総見一般公開ですが、朝から猛暑が予想され、開場前の列に並ぶことは断念しました。稽古開始後に入場しても、土俵から離れた席であれば、十分に余裕はあります。結果的には、並ばずに入って、2階席のいいところに陣取ることができました。横綱、3大関はじめ、上位陣は、揃って参加していました。秋場所も熱戦が期待できそうです。今回は、稽古総見にあわせて、八角理事長、元横綱北勝海の還暦土俵入りも行われました。定番の赤い綱をしめ、雲竜型の土俵入りを披露していました。還暦土俵入りは、元横綱の長寿を祝って行われますが、八角親方で12人目とのこと。横綱の人数からすれば少なすぎます。かつては、横綱に限らず、還暦前に亡くなる力士が多く、近年では体調の問題から辞退するケースも多いようです。(写真出典:4travel.jp)

2023年9月2日土曜日

A Change Is Gonna Come

サム・クックは、史上最も影響力のある黒人シンガー・ソングライターとされます。1950年、19歳で、名門ゴスペル・グループのリード・ヴォーカルに迎えられ、26歳でソロ・シンガーとなります。以来、33歳で射殺されるまでにリリースした29枚のシングルは、すべてビルボード・トップ40にランクインし、うち20枚は黒人チャートのトップ10に入っています。当時、最も成功した黒人シンガーですが、白人も含めて皆が知ってるセレブでもあり、TVにも多く出演しました。当時はゲストとしてTVに出演する黒人など皆無で、黒人たちはTVの前に集まり、神のようにサム・クックを崇めたと言われます。サム・クックは多くのシンガーに影響を与え、かつ、彼の曲は多くのシンガーにカバーされています。

私にとってサム・クックは前世代のスターであり、あまり馴染みはありません。ただ、オーティス・レディングが、サム・クックをリスペクトし、多くの曲をカバーしているので、曲自体には慣れ親しんでいます。なかでも死の直後にリリースされた歴史的名曲「A Change Is Gonna Come」は強く印象に残ります。アメリカの厳しい黒人差別の現実、でもいつかは変わるはずと力強く歌い上げます。黒人初のメッセージ・ソングと言われ、バラク・オバマが大統領就任演説で引用したことでも知られます。マーティン・ルーサー・キング牧師の「I have a dream」と対を成す言葉だと思います。米国議会図書館の永久保存盤でもあり、ローリング ストーン誌の「史上最も偉大な曲 500」では第3位に選ばれています。

ある時、サム・クックが所属していたゴスペル・グループは、南部の教会をツアーします。シカゴの黒人街で育ったサム・クックにとって、有色人種の隔離政策が残る南部で受けた衝撃は大きなものだったようです。サム・クックは、その甘いマスク、滑らかな声、抜群の歌唱力で、すでにスターでしたが、ただの”ニガー”として差別されます。このままではいけない、何かしなければならない、という思いが募ります。しかし、ソロ・シンガーとして成功を重ねて行くなかで、何もできず、悶々とした思いを抱えていたようです。そんななか、ボブ・デュランの「Blowin' in the Wind(風に吹かれて)」を聴き、衝撃を受けます。白人のデュランですら、歌で社会を変えようとしているのに、黒人は何もしなくていいのか。

サム・クックは、親密になったカシアス・クレイを通じてマルコムXと知り合います。1964年2月、クレイがソニー・リストンを倒して世界チャンピオンになった夜、クレイ、サム・クック、マルコムX、そしてフットボールのスーパー・スターだったジム・ブラウンの4人だけで勝利を祝います。有名な話ですが、その一夜を脚色した映画「あの夜、マイアミで」(2020)でも話題になりました。翌朝、クレイは、イスラム教入信とモハメド・アリへの改名を発表します。公民権法の制定は間近でしたが、この時点でのサム・クックは、公民権運動を超えて、後のブラック・パワー運動につながる発想を持っていたのかも知れません。FBIは、サム・クックの影響力の大きさに危惧を覚え、監視対象とします。そして、1964年12月、サム・クックはLA郊外のモーテルで、管理人の黒人女性に射殺されます。

差別的なことで知られたLAPDは、ろくな捜査も行わずに事件を処理し、犯人は正当防衛で無罪になりました。しかし、中年女性一人では不可能な程の暴行の痕が残るなど疑わしい点も多く、真相は闇の中です。翌年には、マルコムXも暗殺されます。犯人は、古巣ながら対立することになったネーション・オブ・イスラムのメンバーでした。ただ、後に、当時の潜入捜査官が、警察やFBIの関与を証言しています。そして1968年にはキング牧師も暗殺されます。犯人は、白人の犯罪常習者でしたが、動機を語ることもなく、欧州への逃亡を誰がお膳立てしたかも語ることなく獄中死しています。アメリカは、ヴェトナム反戦運動、学生運動の時代を迎えていました。公民権を獲得した黒人でしたが、差別的状況に大きな変化はなく、過激なブラック・パワー運動が展開されていくことになりました。アメリカの黒人を取り巻く環境は大きく変わりました。ただ、キング牧師の”Dream”も、サム・クックの”Change”も、いまだ道半ばと言わざるを得ません。(写真出典:nishinippon.co.jp)

2023年9月1日金曜日

白峰

幕末、戊辰戦争に勝利した薩長新政府は、江戸を東京と改称し、事実上の首都とします。いわゆる”東京奠都(てんと)”です。奠都とは都を決めることであり、遷都は都を移すことなのだそうです。ややこしい話ですが、天皇が江戸に移ることに反対する公家や京都の人々をなだめるために、二都制という方便が用いられたわけです。そもそも東京という名称は、”東の京”という便宜的な命名でもあります。明治天皇は、東京へ移るに際し、陵墓を参拝しています。王政復古や奠都の報告を行ったのでしょう。奠都に際して、明治天皇がお参りした先が他にもあります。上京区の別表神社(格上の神社)である白峯神宮です。

奠都直前の1868年、明治天皇は、讃岐・坂出の崇徳天皇社(現白峰宮)に祀られていた崇徳上皇の御霊を京都に移し、白峯神宮を創建します。明治天皇は、白峯神社に親拝した翌日、元号を明治とする詔を発します。明治天皇にとって、崇徳上皇の御霊がいかに重要であったかということの現れです。実は、白峯神宮の創建は、明治天皇の父である孝明天皇の悲願でした。孝明天皇は、幕末の混乱を、崇徳院の怨霊の祟りと恐れたのでした。崇徳上皇が遺恨を残したまま讃岐・坂出で崩御したのは1164年です。それから700年を経て、なお、その祟りが恐れられていたわけです。それもそのはず、崇徳院は、菅原道真、平将門と並び、日本三大怨霊と恐れられてきました。

崇徳院は、鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれ、父親の譲位によって、わずか3歳で践祚します。上皇となった鳥羽天皇は、藤原得子(美福門院)を寵愛し、子を設けます。鳥羽上皇は、その子(近衛天皇)を天皇にするため、崇徳天皇を降ろします。近衛天皇が夭折すると、後継天皇を巡る対立が起きます。崇徳天皇の子が順当な候補ですが、鳥羽上皇は、美福門院の幼い養子を天皇にすべく、その父(後白河天皇)を中継ぎの天皇に立てます。そこへ藤原家の内紛も重なり、鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇派と後白河天皇派の争いは武力衝突へと発展します。1156年に起きた保元の乱です。戦いに勝利した後白河天皇派の武士を率いたのは平清盛、崇徳上皇派は源為義でした。ただ、平氏と源氏は、両派に混在しています。

捕らえられた崇徳上皇は、讃岐へ流されます。天皇・上皇の流刑は、8世紀、孝謙上皇によって淡路島へ流された淳仁天皇が初めとされます。崇徳院の流刑は、実に400年振りに行われたわけです。同行を許されたのは寵妃とそのわずかな女官だけだったといいます。崇徳院は、大乗経の写本に勤しみます。書き上げた写経5部を京の寺に奉納しようとしますが、後白河天皇によって拒絶されます。怒り心頭に発した崇徳院は、写本に自らの血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と書き込んだとされます。怨念のかたまりとなった崇徳院は、流刑から8年後に崩御します。病死とも暗殺とも言われます。髪と爪を伸ばし続けた崇徳院の末期の姿は、まるで夜叉のようだったと伝えられます。

崇徳院の死後10余年、1176年になると、崇徳院に敵対した要人たちが次々と亡くなり、災害が起こり、平家が台頭する過程での様々な騒乱も起こり、崇徳院の祟りが注目されることになりました。祟りがあったとすれば、その最大のものは、平家の早すぎる滅亡だったかも知れません。上田秋成の「雨月物語:白峰」は、西行が崇徳院の怨霊を鎮める様が描かれています。また、能楽「松山天狗」も崇徳院の怨霊を題材にしていますが、天皇家を慮ってか、しばらく上演されることはなかったようです。また、古典落語にも「崇徳院」という演目があります。祟りは一切関係なく、百人一首にも選ばれた崇徳院の短歌「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」をモティーフとする恋煩いの話です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年8月30日水曜日

ベーコン・マニア

ここ10~15年、アメリカで起きたベーコン・マニアのブームには、やや異常な印象を受けました。もともとアメリカ人はベーコン好きです。1980~90年代、炭水化物の摂取を抑え、タンパク質と脂肪の摂取を増やすアトキンス・ダイエットがブームになると、にわかにベーコンが注目を集めたことがあるようです。しかし、今回のブームは、実利を伴わず、SNSが巻き起こした馬鹿騒ぎといった風情があります。ダイエットや健康食品ブームの反動でもあるのでしょうが、どこか愛国主義と結びついている印象もあり、気になるところでした。単なるイメージですが、ブームを支えているのは、田舎の白人貧困層のように思えてなりませんでした。その後、トランプ旋風を起こした人たちです。

ベーコン・マニアに言わせると、ベーコンはアメリカ独自の国民食であり、べーコンこそアメリカだ、ということになります。ベーコンは、アメリカの国民食かも知れませんが、アメリカに限った食品ではありません。古代中国に始まったという豚の塩漬けは、冷蔵技術が限られていた時代、世界各国で作られ、食されました。思うに、冷蔵・冷凍技術が進化した今、塩漬けにする必要性はなくなったわけで、ベーコンは絶滅しても不思議はありません。ただ、その独特な風味が人々を魅了し続けているわけです。必要性や合理性に欠ける存在は、時として人々の深い愛情の対象となります。各国に残るベーコンですが、アメリカ人が、アメリカのベーコンをユニークだと主張する理由も、まったくないわけではありません。

例えば、欧州の多くの国では、ベーコンといえば主に豚の背中の肉を使って作ります。そもそもベーコンという言葉もバック(背中)と同じ語源とされます。ところが、アメリカでは、主にサイドバック(豚バラ肉)を使って、細長いベーコンを作ります。アメリカでベーコンと言えば、どこでも、このサイドバック・ベーコン、ほぼ一択です。サイドバック・ベーコンに限って言えば、確かにアメリカ独自の食品と言えるのかも知れません。日本のベーコンも同じくアメリカ式です。ただ、日本の場合、よくスーパーで売られているパックされたベーコンは、加熱処理し、半分に切ったものです。また、カナディアン・ベーコンと呼ばれるものは、主に背中の肉を使った脂身の少ないバック・ベーコンです。

アメリカ人は、カリカリに焼いたベーコンが大好きです。ベーコンはこうでなくちゃ、というわけです。加熱済のベーコンを軽く焼いて食べる日本人には、かなり違和感があります。そもそも、アメリカでサイドバック・ベーコンが主流となったのは、安価であり、移民たちも手に入れやすかったからだと思われます。そのサイドバック・ベーコンは生の状態で販売されてるので、よく火を通す必要があります。脂身の多いサイドバック・ベーコンをよく焼けば、流れ出た脂で、おのずとカリカリになるわけです。つまり、焼き加減の好み以前に、アメリカのベーコンは、カリカリにするしかなかったのだと思います。それが、時とともに、アメリカの味として定着していったわけです。

サイドバック・ベーコンが健康的な食べ物ではないことは容易に理解できます。脂身、塩味、高カロリー、防腐剤等の添加物、と健康に良くないもののかたまりです。ただ、その風味の良さは、棄てがたいものがあり、私もよく食べます。私の場合、朝食時に、ベーコン・エッグとして食べることが多いのですが、量は多くならないように気を使っています。ほとんどの場合、スーパーで買うパックのハーフ・ベーコンを食べていますが、たまにまともなベーコンを食べたくなります。例えば、御殿場ハムのしっかりと燻製されたベーコンなどは、確実に人を幸せにする食べ物の一つだと思っています。アメリカのベーコン・マニアは異常だと申しあげましたが、実は、決して他人だとも思っていません。(写真出典:ei-sta.com)

2023年8月28日月曜日

地雷原

2014年、カンボジアのプレアヴィヒア寺院の遺跡へ行きました。天空の寺とも呼ばれるプレアヴィヒア寺院は、9世紀にクメール王朝が創建したヒンドゥー寺院です。その後、ヒンドゥー教が衰退すると仏教寺院に変えられています。 2008年には、世界遺産にも登録されました。ただ、2012年頃まで、永らく観光できない状態が続いていました。理由は二つあります。一つは、タイとの領有権を巡る紛争です。1904年に国境協定によってカンボジア領となりましたが、これを不服とするタイは、フランスの占領軍とも戦い、カンボジアとも紛争を繰り返してきました。つまり戦場だったわけです。いま一つの理由は、ポル・ポト派が埋設したべらぼうな数の地雷です。プレアヴィヒアへの道は、広大な地雷原のなかにあったわけです。

膨大な時間と資金を投じて地雷原は撤去され、タイとの紛争も小康状態となったことから観光が再開されました。カンボジアでは、内戦終了後から30年近く地雷除去が進められてきましたが、現在でも600万個が残っていると言われます。世界に残る地雷の数は推定不能とされ、約80カ国に1億個という説もあります。地雷は、人を殺傷するばかりではなく、耕地を奪い、自然を破壊します。1999年には、永年にわたるNGOの働きかけによって対人地雷全面禁止条約が発効しています。NGOは、ノーベル平和賞を受賞しました。現在、アメリカ、ロシア、中国等を除く164カ国が批准しており、地雷の新規埋設は大幅に減少したようです。ただ、無力化されていない無数の残存地雷は、依然として多くの被害者を生み続けています。

地雷汚染が深刻な国としては、イラク、ボスニア・ヘルツェゴビナ、エチオピア、カンボジア、タイが挙げられます。ポル・ポト派が埋めたカンボジア・タイの地雷以外は、全てこの30年以内に埋設されたものです。地雷は、安価で効果的な防衛兵器です。その効果は、進路妨害だけではありません。殺傷力は高くありませんが、負傷者救護に要員が割かれることで敵の戦闘能力は落ちます。埋めるだけではなく、空からばら撒くことも可能で、実に容易に地雷原を作れます。一方で、除去ということになると、数の問題だけでなく、危険を伴う困難な作業が求められます。人手もコストもかかる地雷除去ですが、地雷汚染は貧しい国に多く、NGO頼みの現状にあります。日本でも、複数のNGOが地雷除去にあたっています。

過日、ロシアの地雷に苦しむウクライナから、山梨県の建機製造・販売業「日建」に研修団が訪れました。日建創業者の雨宮清氏は、ビジネスで訪れたカンボジアの地雷被害を目の当たりにし、1995年から建機を応用した自作の地雷除去機の開発に着手します。危険を顧みず、現場で自ら操縦し、改良を重ね、カンボジア、アフガニスタン、ニカラグア等で実績を積み重ねてきました。日建の地雷除去機で驚いたのは、前で地雷を除去しながら、後ろでは土を掘り起こし、農地転用の準備をするという機能です。地雷除去には、他にも、広範囲を爆破する、ロボットを使う、探索に動物や食物を使う等、様々な手法があるようですが、多くは、依然として危険な人力に頼っているようです。

残存地雷の問題は、核兵器、温暖化などと同様、人類の負の遺産です。対人地雷全面禁止条約は、新たな地雷の製造や埋設を禁じましたが、残存地雷の除去に関してはNGOに頼っている現状があります。現在、千を超すNGOが、国連とも連携し、各地で地雷除去に取り組んでいるとのこと。その活躍は称賛に値します。ただ、国連傘下に地雷除去機構でも設立し、より効果的、効率的に除去を進めるべきではないかとも思います。ただし、その大前提は、アメリカ、中国、ロシアの参加ということになります。負の遺産という人類共通の課題解決に向けた国際協調が難航するうちに、人類と地球が滅亡する日は、加速度的に近づいているように思います。そのことは、今年の夏の異常な暑さ、大雨、干ばつのなかで、より一層強く実感させられます。(写真出典:aoav.org.uk)

2023年8月27日日曜日

テケテケ

サーフ・サウンドの元祖ザ・ベンチャーズは、1960~70年代に世界を席巻しました。特に日本での人気は抜群で、歌謡曲も多くリリースし、今でも日本ツアーを行っています。ベンチャーズは、1960年、メジャー・デビューとなった「ウォーク・ドント・ラン」をいきなりヒットさせます。その後も「10番街の殺人」、「ダイヤモンド・ヘッド」、「パイプライン」等々のヒットを飛ばします。60年代後半、日本で社会現象化したエレキ・ブームやグループ・サウンズ・ブームは、ベンチャーズとビートルズがもたらしたとされます。低音弦をスライド・ダウンしながらピッキングする”トレモロ・グリッサンド奏法”は、ベンチャーズの代名詞ですが、日本では”テケテケ”と称され、エレキ・ブーム全体を指す言葉にもなりました。

小学校高学年の頃、友人の家でベンチャーズを聞き、なんてカッコいい音楽なのだろうとシビれました。私の洋楽事始めです。我々の年代は、皆、似たような経験から洋楽を聴くようになったと思われます。おおむね年長の兄弟がいる友人たちから洋楽が広がっていったものです。ベンチャーズにシビれていると、友人の兄が来て、おまえら、もっとカッコいい曲があるぞ、とビートルズやストーンズを聞かされました。ほどなくラジオの深夜放送を聞くようになると、洋楽の世界はさらに広がり、ジミヘンやR&Bにハマってしまいました。同じ頃、エレキ・ブームが沸騰し、音楽は聞くものから、演奏して楽しむものへと変りました。私までもが、中古のエレキ・ギターを買いました。

当時、エレキの神様と言われたのが寺内タケシでした。10代でエレキ・ギターとアンプを自作した寺内は、米軍キャンプ等で演奏していました。1962年、当時、大人気だったロカビリー・バンドを結成しますが、すぐにエレキ・バンドに転じます。”寺内タケシとブルージーンズ”の誕生です。寺内が牽引したエレキ・ブームのなかからグループ・サウンズが登場したのが、1965年とされます。最初のレコードは、田辺昭知とザ・スパイダースの「フリフリ」でした。翌年には、ビートルズが来日し、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが「青い瞳」をリリースし、急速にブームは盛り上がっていきました。スカウトされたセミ・プロや素人バンドが、次々とメジャー・デビューしていきます。

多くのヒットが生まれ、なかには今も残る名曲もあります。ただ、彼らがレコーディングしたのは、レコード会社がプロの作詞家・作曲家に書かせた曲でした。バンドを始めた時、彼らが目指した音楽があったはずですが、ビジネスに組み込まれると、それらとはかけ離れた音楽をやらされたわけです。タイガースとテンプターズの登場で、ブームは頂点を迎えますが、音楽性の問題からメンバーの脱退や解散が相次ぎ、かつルックスだけのバンドが淘汰されたこともあり、ブームはわずか3~4年で消滅しました。グループ・サウンズとは、エレキ・ブームを背景に、レコード会社が仕掛けた商売に過ぎなかったわけです。しかし、解散したグループのメンバーの多くが、その後、音楽の世界を中心に活躍し、日本のポップスを進化させることにはなりました。

そういう意味では、グループ・サウンズの効用もあったわけです。音楽を目指す若者たちに、自分たちの音楽を追究することの大事さを教えてくれたという面もあります。また、ヨナ抜き音階の演歌中心だった日本の歌謡曲界に、ポップスを定着させた効果は大きかったと思います。1960年代は、世界的にカウンター・カルチャーの時代でした。エレキ・ブームやロング・ヘアーは、旧世代からすれば教育上好ましくない非行であり、厳しく批判されたものです。グループ・サウンズは、レコード会社が作りあげたブームとは言え、若い世代が古い価値観を打破していく効果はあったと思います。明らかに、日本のポップスの多様性はそこから生まれ、発展していったのだと思います。(写真:ザ・スパイダース「フリフリ」出典:amazon.co.jp)



2023年8月26日土曜日

夏祭

祇園祭
春祭は、農耕の始まりを祝い、神仏に今年の豊作を願うという意味があり、秋祭は、農作物の実りを祝い、神仏に感謝を捧げるという趣旨なのでしょう。夏祭だけは、農耕のサイクルと無関係に思えます。恐らく、多くの夏祭は、盂蘭盆会との関係で行われてきたものなのでしょう。祭とまでは言わないにしても、盆踊りは、全国各地で行われます。盆踊りや精霊流しに由来する祭も多くあります。ただ、お盆とは無関係な夏祭も多くあり、それらは都市部に集中しているように思えます。例えば、祇園祭系の山車とお囃子、あるいは三社祭系の御神輿などです。これらの祭は、疫病退散を神仏に願ったことを起源とする場合が多いようです。疫病除けなら、夏場に多く、都市部に多い理由も頷けます。

思えば、人類の歴史は、疫病との戦いの歴史でもあります。一定の土地に、そこで生まれ育った人たちだけで暮らす場合、疫病に対する集団免疫が獲得されます。パンデミックが起こることはありませんが、文明の進化も遅くなります。ただ、戦争や交易によって、人の交流が起こると、文明の進化とともにパンデミックも発生することになります。しかも、それは人口が密集し、衛生環境も食糧事情も劣悪だった都市部で大きな被害を生むことになります。農耕によって文明が誕生し、文明の進化によって疫病との戦いが生まれたと言えます。あるいは、自然の一部であった人間が、自然をコントロールしようとした瞬間、自然に逆襲されたと言えるかも知れません。

日本最古のパンデミックの記録は、3世紀末から4世紀前半と推定される崇神天皇の時代に起きています。中国や朝鮮半島との交流が活発化した頃と重なります。天然痘か麻疹だったのでしょうが特定できません。民の半数以上が死んだと記録されます。次のパンデミックの記録は、735~737年に起こった天然痘の大流行です。九州で海外から持ち込まれた菌によって流行が起き、平城京には、朝廷が新羅に送った使節団が持ち込んだとされます。その後、全国に蔓延し、人口の25~35%が死んだと推定されています。聖武天皇は、仏教に深く帰依し、東大寺に盧舎那仏(大仏)を建立します。その後も、数十年毎に、天然痘、麻疹、赤痢、マラリア等々の流行が発生しています。

9世紀中葉には、インフルエンザによるパンデミックが、複数年にわたり発生します。民衆は、怨霊の祟りを鎮めるために御霊会(ごりょうえ)を開き、読経とともに、歌舞音曲、相撲なども行ったようです。863年には、朝廷内でもインフルエンザが猛威を振るったため、初めて朝廷主催の御霊会が開催されます。864~866年には、富士山の貞観大噴火が起こり、869年には激烈な貞観地震と大津波が発生します。前後して、火山の噴火や地震が続いたことから、厄災を払うとされる牛頭天王を祀った御霊会が神泉苑で大々的に行われ、祇園社、現在の八坂神社から神輿も繰り出します。これが祇園祭の始まりとされます。明治時代までは、祇園御霊会と呼ばれていたようです。祇園祭こそ、神社系の夏祭の大本だということになります。

天然痘のパンデミックは、その後も、世代が変わる毎に発生を続けます。WHO が天然痘根絶宣言を出したのは1980年のことでした。人類が、初めて、かつ唯一根絶できたウィルスと言われます。エドワード・ジェンナーが、1796年に発見した人類初のワクチン”種痘”が功を奏しました。それに先立つ1792年、秋月藩の藩医だった緒方春朔が人痘法の接種に成功していますし、さらに言えば、4,000年前のインドでも人痘法は行われていたようです。ただ、ジェンナーの牛痘法は、より安全性が高く、瞬く間に世界中に広まったようです。日本でも、1810年には初めての接種が行われていますが、普及したのは40年後だったようです。効果があると言われても、牛の疱瘡を体内に入れることなど、相当の抵抗があって当然です。人類にとっては、種痘も文明の進化の一つですが、一方、ウィルスも進化を続け、そのスピードは人類のそれをわずかに上回っているように思えます。(写真出典:yasaka-jinja.or.jp)

博多の串焼き