2023年8月24日木曜日

ヘッド・アップ・ディスプレイ

アメリカにいる時、スウェーデンのサーブ900に乗っていました。マーケティング・データによれば、オーナー・ドライバーの学歴が最も高い車とされていました。アメリカ人の仕事仲間に言わせれば、サーヴィー(彼女はサーブ・オーナーをそう呼んでいました)は、高い確率で、眼鏡をかけ、ヒゲをはやし、頭髪が薄い、ということになります。今はなきサーブ・スカニアは、スウェーデンを代表する航空機・軍需品メーカーのサーブとトラック・バス・メーカーのスカニアが統合して誕生したカー・メーカーです。航空機製造の技術を活かした独特の車作りはユニークで、長いボンネットに直立的なフロント・ガラスという外観も実に印象的でした。サーブのオーナー・サービスには、定期的な広報誌の配布もありました。

その広報誌に、ヘッド・アップ・ディスプレイ(HUD)が紹介されていたのは、1988年のことだったと記憶します。戦闘機メーカーらしい先進性に驚きました。HUDは、フロント・ガラスに直接、あるいはその前に装着された光学ガラス等に、スピードや種々のデータを映し出す技術です。第二次大戦中、英国のデ・ハビランド社が、モスキート夜間戦闘機の風防にレーダー映像を映し出したのが始まりとされます。ちなみに、モスキートは木製のボディを持ち、世界最初のスティルス機とも言われます。その後の技術的進化もあり、HUDは、ジェット戦闘機の標準的装備となります。さらに、ヘルメットに組み込まれたヘッド・マウント・ディスプレイも開発されています。

米国でのHUDの車への搭載は、1988年にオールズモービルが実用化し、その後、カトラス・シュープリーム・サルーンに装備されます。オールズモービルは壊れにくい車として人気が高く、我が家のセカンド・カーも、中古で買った大きなカトラス・シュープリーム・セダンでした。決しておしゃれでもなく、先進性を誇るわけでもない車が、初めてHUDを搭載したという点が面白いと思います。一方、日本では、同じ1988年、おしゃれなデート・カーとして人気のあった日産シルビアに採用されています。しかし、HUDは、一般化しませんでした。コストの問題もあったのでしょうが、当初、表示されるのはスピードくらいであり、ユーザー側から必要性そのものが疑問視されたわけです。

しかし、近年、HUDを搭載する車が増えているようです。まだ、10%に満たないものの、標準装備化が進むと言われています。その背景には、車とネットのリンク、いわゆるコネクテッド化の進展による情報量の増加と精緻化があるものと思われます。エンジンの電子制御やABSシステムは1970年代に登場し、90年代後半にはGPS型のカー・ナビゲーションが生まれ、2000年代に入るとネットとのリンクが本格化します。さらに2010年代後半には、運転支援システムが導入され、自動運転化が急速に展開しつつあります。増加した情報量は、従来のメーター類では対応できず、ナビも兼ねたディスプレイに表示されます。運転中のドライバーの視線は、かつてより頻繁に上下するようになり、HUDの有用性が再認識されたのだと思います。

一方で、HUDの危険性を指摘する声もあります。前方視野における遠近の焦点が頻繁に変わることが危険だというわけです。いささか驚きです。ジェット戦闘機のHUDは、無限遠の点に結像するよう設定されています。車の場合でも、焦点は数メートル先にあり、遠方視野とほぼ違和感なく同化しています。つまり、遠近の焦点移動は発生しないよう設定されているわけです。もちろん、慣れの問題はあり、当初は煩わしいと思うドライバーもいるとは思います。新しいHUDでは、簡略化されたナビの投影もされるようです。車の進化には感心させられますが、そうなると、もう一気に自動運転化すればいいのではないかとも思います。ただ、最新のHUDや運転支援システム欲しさに、車を買換えるかと言えば、そこまでではないとも思います。人間の情報処理能力は、まだまだコンピューターに勝っていると確信しているからです。(写真出典:autocar.jp)

2023年8月22日火曜日

志怪小説

蒲松齢
”白い目で見る”と言う言葉は、冷たい視線、蔑むような態度を意味しますが、もともとは”青い目で見る”という言葉とセットでした。青眼は、うれしさあふれる視線を意味します。この言葉は、3世紀、中国三国時代の思想家・阮籍に由来します。阮籍は、世俗に背を向け、哲学論議、いわゆる清談をよくした“竹林の七賢”のリーダー格とされます。阮籍は、気に入らない人には白眼を向け、気に入った人には青眼を向けたとされます。政治や俗世を拒む姿勢の現れなのでしょう。いわゆる六朝時代は、戦乱の世であるとともに、宗教の時代とも言われます。竹林の七賢は、哲学、宗教を論じ、その具体例として、巷で語られている伝承や噂話をよく使ったとされます。それが、怪奇小説の先祖と言える”志怪小説” を生むことになります。

志怪小説とは、怪異なことを記すという意味で、民間に伝わる伝承や噂話を集めたものです。怪談の類いは、”本当にあった話”として語られることが多いわけですが、そもそも始まりからそのスタイルを持っていたわけです。また、当時の書籍と言えば、為政者の命で作成された歴史書が主であり、民間の話を書物にしたという点も画期的だったのでしょう。ただ、内容は、採録した話を簡略に記述したものであり、創作された小説とは大いに異なるものでした。”小説”という言葉は、荘子が、つまらない説と定義したことに始まるとされます。とすれば、志怪小説は、小説の元祖なのかも知れません。干宝の「捜神記」等が代表作とされますが、残念ながら原本は失われており、後の編纂本に、一部収録されるのみと言われます。

その後、唐代には、沈既済の「任氏伝」等、いわゆる伝奇小説が登場しています。志怪小説のシンプルな採録スタイルとは異なり、物語性を高め、登場人物の心情も描かれるようになります。エンターテイメント性が高まった背景には、唐の華やかな宮廷文化、あるいは科挙の制度によって民間の知識レベルが上がったことも挙げられています。ところが宋代になると、再び簡潔な採録スタイルに戻ります。宋は官僚の国であり、科挙や儒教が盛んでした。恐らく享楽的な読み物は嫌われ、教訓めいた話が好まれたのでしょう。そうした歴史的経緯も踏まえ、清代前期に登場したのが蒲松齢の「聊斎志異」です。怪異小説の最高峰とも、短編小説の最高傑作とも言われます。

聊斎志異が書かれた時期は、1670~1700年代初めと推定されています。原本には、約500編が収録されていると言われます。いくつかの写本もあったようですが、刻本は、1766年に全16巻として発刊されています。聊斎志異は、作者が没してから半世紀を経て世に出たわけです。六朝時代の志怪小説の復興とも言われるようです。神仙、妖狐といった内容は、確かに伝統的だと言えます。ただ、先立つ明代には「三国志演義」、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」が書かれています。いわゆる中国四大奇書の時代を経て書かれた聊斎志異の文学的成熟度は、先祖である志怪小説とは格段の違いがあるのでしょう。江戸後期には日本にも伝わり、翻訳もされています。また、芥川龍之介、太宰治、佐藤春夫等々も、聊斎志異を翻案した作品を書いています。

聊斎志異の世界は、日本の怪談や欧州の怪奇小説とは大きく異なります。美しく、慎ましやかな女性が多く登場しますが、多くの場合、その本性は神仙、妖狐、あるいは幽霊ということになります。日本や欧州の場合、彼女たちは悪さを行い、主人公は恐れおののきます。聊斎志異に登場する誠実な男たちは、この世のものではない女性と幸せに暮らします。ただ、ちょっとしたことから、彼女たちの本性が明らかになるのですが、主人公たちは、恐れるのではなく、そのことを受け入れ、愛しく思い続けます。この日欧との違いは、恐らく道教がゆえに生まれるのでしょう。中国には、儒教も仏教もありましたが、最も影響力のある思想は、老子に始まる道教だと聞きます。不老長寿を理想として、神仙思想を説く道教の教えが庶民にまで浸透しており、聊斎志異の世界が生み出されているのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年8月20日日曜日

ファーブルトン

小学生のころ、将来の夢という題の作文を書かされたことがあります。ほとんどの子が、野球選手とか医者とか、将来なりたい職業について書いていたようです。それこそ、まさに教師がイメージしていた内容だったのでしょう。私は、ヤクルトを一升瓶でラッパ飲みしたい、バケツくらい大きいプリンを食べたい、と書き、失笑をかいました。ウケをねらったわけではなく、常々、ヤクルトもプリンも大いに不満の残るサイズだと思っていたので書いたまでです。長じても、その夢は覚えており、定年退職した日に、それを実現したいと思っていました。 ただ、実際には実現していません。理由は単純です。いまだにヤクルトもプリンも好きですが、歳とともに、そこまで大量に飲みたい、食べたいと思わなくなったからです。

プディングは、大雑把に言えば、卵や牛乳等を蒸した料理の総称であり、英国発祥とされます。カスタード・プディングは、その一種のスウィーツということになります。カスタード・プディングは、実に裾野の広いスウィーツです。卵・牛乳・砂糖を基本材料とする点は同じですが、製法の違い、あるいは国の違いによって、ババロア、ブラマンジェ、パンナ・コッタ、クリーム・ブリュレ、フラン、クレマ・カタラーナ等々があります。また、ティラミスやカヌレも仲間だと言えます。スペインの家庭料理ミルク・フライは好物ですが、これも同族なのだと思います。私は、総じてカスタード・プディングが大好きです。間違いなく、人を幸せにする食べ物の一つだと思います。

日本で一般的に販売されているメーカー製のプリンもおいしいとは思います。いわゆるケミカル・プリンですが、熱を加えず、ゼラチン等で固めたものです。とてもなめらかな口当たりになりますが、カスタード・プディングというよりも、ほぼババロアだと思って食べています。ちなみに、グリコのヒット商品「プッチンプリン」は、世界でもっとも売れたプリンとしてギネス世界記録に認定されているようです。さて、そのカスタード・プディング系のなかでのお気に入りと言えば、二つあります。一つは、お袋が作ってくれたプリンです。永いこと食べていたからということなのでしょうが、伝統的な作り方が生む食感が好きでした。今一つは、フランス菓子のファーブルトンです。

ファーブルトンは、ブルターニュ地方で生まれたスウィーツです。”ファー”は牛乳で煮た粥を意味し、”ブルトン”はブルターニュ地方を指します。卵、牛乳、砂糖に小麦粉を混ぜ、プルーンを入れて、オーブンで焼き上げます。しっかりとした質感、プルルとした食感がたまりません。私が、初めてファーブルトンを食べたのは、神戸の「PATISSERIE TOOTH TOOTH」です。洋菓子店としては、1997年に、トアロードと三宮中央通の角、生田神社一の鳥居横に創業しています。神戸と西宮だけに5店舗を展開しています。初めて食べたファーブルトンは、まさに至福の味、即刻、最も好きな食べ物の一つに認定しました。ただ、日持ちしないという難点があり、神戸から帰る日に、老祥記の豚まんとともに買って、新幹線に乗ったものです。

過去形で語るには理由があります。10年ほど前から、トゥース・トゥースの店先からファーブルトンが消えたのです。今でも神戸へ行くとトゥース・トゥースには立ち寄ります。焼き菓子等を買うのですが、その際、店員さんに「ファーブルトンはないんだよね」と、必ず言うことにしています。ファーブルトンを忘れていない客がいることを伝える、私なりの復活要望運動だと思っています。東京でも商っている店はいくつかあります。最近も、神保町で新しい店を見つけました。どれも美味しいのですが、トゥース・トゥースの味とは、多少異なります。トゥース・トゥースの濃厚なファーブルトンは、どこか田舎臭さの残る素朴な代物でした。恐らく、伝統的な作り方を踏襲し、ブルターニュらしさを残したファーブルトンだったのでしょう。(写真出典:prune.jp)

2023年8月18日金曜日

「バービー」

監督:グレタ・ガーウィグ       2023年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

コメディではありますが、ただのおちゃらけ映画でも、子供用映画でもありません。むしろ15歳以下では理解できない映画だと思います。ピンク色とプラスティックにあふれるアウトフィットにも関わらず、実存主義的なテーマを持つ映画だと言えます。構造のみならず、本作は多くの二元論的モティーフを笑いのなかに散りばめ、押しつけがましくない形でテーマを訴求しています。映画は、メガヒットを記録しました。ノスタルジーだけでも、ピンクだけでも、実存論だけでも、このヒットはあり得ません。糖衣錠のようなもので、観客は口の中で甘さを感じながらも、中身が薬であることを知るわけです。その世界観を成立させたのは、周到に構成された脚本、徹底的な色やセットの作り込み、そしてマーゴット・ロビーの巧みな演技だと思います。

フェミニズム映画と理解する人もいるのでしょうが、それは多少違うと思います。確かに、バービーランドは母権社会であり、ケンたちが持ち込んだ家父長制的な世界は、バービーたちの策略によって排除されます。ただ、バービーが予定調和の世界に疑問を持ち、より困難な現実世界へと入っていくストーリーは、フェミニズムも、家父長制をも超え、人間の成長という普遍的なヒューマニズムを象徴していると思います。同時に、それは、少女たちが、差別的環境を克服しながら大人になっていく過程そのものだ、と監督は言いたいのでしょう。映画はキューブリックの「2001年宇宙の旅」のパロディから始まります。原始人の進化を促したモノリスが、ここでは巨大なバービーとなり、少女たちを目覚めさせます。

幼児が主体だった少女向け人形の世界に登場したバービーは画期的だったのでしょう。ある意味、バービーの登場は、女性を育児や家事労働から解放した革新だったわけです。ただ、その革新性も、あくまでも女性的という枠の中にあり、今となっては、ヴェニス・ベーチで好奇の目を集め、若い女性からはファシストと罵られます。そこで流すバービーの涙、またバービーが死を意識した瞬間に始まる肉体的劣化、あるいはラスト・シーンで人間になったバービーが明るく婦人科健診を受けに行くといったモティーフは、直線的なフェミニズムを超えていると思います。さらに家父長制の世界に目覚めたケンたちが取り憑かれる争いというロジックも併せ考えれば、監督のヒューマニズムという目線が見えてきます。

グレタ・ガーウィグは、「フランシス・ハ」(2012)の主演と脚本で注目され、自らの脚本を初監督した「レディ・バード」(2017)は、アカデミー賞の作品賞・監督賞等にノミネートされました。監督2作目の「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」も作品賞にノミネートされています。彼女は、インディペンデント系のマンブルコア映画運動に参加していたことでも知られます。レディ・バードは、夢見がちでプライドが高く、かつナイーブな少女が大人になっていくという自伝的なプロットでした。マンブルコア的な日常的スケッチを積み重ねていく手法が光っていました。バービーでは、作風が変わったようにも見えますが、スケッチを積み重ね、監督の主張を押しつけないスタイルは、グレタ・ガーウィグそのもののように思えます。

バービー人形の発売元であるマーテル社が、制作に参加しているのには驚きました。マーテルの協力なしには成立しない映画ですが、脚本には、マーテルを茶化したり、批判的な部分があります。にも関わらず、ビジネスにはプラスと判断したわけです。マーテルの創業者で、バービーの生みの親として知られるルース・ハンドラーの幻影も登場し、バービーの自立を促します。ちなみに、バービー人形は、1959年に発売されていますが、当初から日本で生産されています。当時の日本の人件費の安さ、着せ替え服を作る繊維産業の存在が背景にありました。日本製品は、安かろう悪かろう、と言われていた時代のことです。ただ、当時としては精巧な人形を米国で生産するにはコストがかかり過ぎたのでしょう。日本製であっても、価格は他の着せ替え人形の1.5倍だったようです。それでも大ヒットし、長く愛されたわけです。(写真出典:oricon.co.jp)

2023年8月17日木曜日

パンジャブの霧

タイガー・ジェット・シンは、ブラッシー、デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャー等と並び、昭和のプロレス界を代表するヒールでした。ターバンを巻き、サーベルを持って登場し、対戦相手ばかりか観客にも襲いかかり、時にはリング外でも襲撃事件を起こすなど暴れ回りました。しかし、そのヒールぶりは日本向けの演出であり、実際には、パンジャブ出身の礼儀正しいインド人であり、本拠地のカナダやアメリカでは、しっかりとしたレスリング・テクニックを持つベビー・フェイス(善玉)として活躍していました。また実業家としても成功を収め、北米におけるインド人社会ではなかなかの著名人だとも聞きます。思えば、日本に、インド人=ターバンというイメージを定着させた一人かも知れません。

ターバンを巻いたインド人は、ほぼシーク教徒であり、ほぼパンジャブ州民であり、その数はインドの人口13億人のなかでは2%にも達しません。パンジャブは、インドの北西、インダス川とその支流に囲まれた肥沃な土地であり、インド・パキスタン両国にまたがっています。4,500年前には、ドラヴィダ族が、ここにインダス文明を築きました。3,500年前には、インド・アーリア人がハイバル峠を越えてパンジャブに侵入します。その後、ガンジス川流域まで侵出したインド・アーリア人は、今に続くヒンドゥー教ベースのインド社会を形成しました。同時に、自分たちを疫病から守る為に講じた策から、カースト制が生まれます。職業・結婚等に関わる差別は、法的に禁止されたものの、今も大きな問題として残ります。

16世紀初頭、神の啓示を受けたグル・ナーナクがシーク教を起し、パンジャブで布教を開始します。形骸化したヒンドゥー教やイスラム教を批判し、日々の生活を真摯に送ることで神との合一を目指します。ヒンドゥーとイスラムを融合させた宗教改革とも言えるのでしょう。そこでは、カーストによる差別、あるいは男女差別も否定されます。シーク教は、比較的裕福な層に広がったことで、よく教育された優秀な人材を生んできたと言われます。また、イスラム教やヒンドゥー教、あるいはイギリスから攻撃されたことで武装し、結果、優秀な軍人を生んできたとも言われます。恐らく職業選択を自由化したことで、適性の高い優秀な人材を輩出する社会を築いたということなのでしょう。

Netflixで、パンジャブでパンジャブ語を使って制作されたミニ・シリーズ「霧」を観ました。殺人事件をモティーフとする刑事ものですが、テーマとしていたのは宗教と土地に囚われたパンジャブの現状だったように思います。カーストは否定されていても、農業国だけに土地の保有が全てであり、大地主が政治や行政を牛耳っています。親の世代は子の世代のためにと信じて、土地の保有、そして因習の保持にこだわり続けます。肥沃な土地で農業生産の高さを誇り、シーク教徒の多いパンジャブは、もっと開かれた州なのだと思っていました。海外へ出て高い評価を得ているシーク教徒も多くいます。ヒンドゥー中心の国内の環境を嫌って海外へ進出していると聞いていました。実は、封建的なパンジャブから逃れるためだったのではないかとさえ思わされます。

インドが、英国から独立したのは1946年ですが、パンジャブが州としての独立したのは1966年になってからでした。インド新政府が掲げた政教分離という建前が災いしました。英国領時代、英国と戦って獲得してきたパンジャブの独立性はインド政府によって否定されます。8割以上の国民がヒンドゥー教徒という国にあって、少数派は過酷な状況に直面します。対立が続くなか、1984年、黄金寺事件が発生します。シーク教の本山であるゴールデン・テンプルに陣取った分離独立派を、インド政府軍が包囲、殲滅します。双方の犠牲者は、数百人とも千人以上とも言われます。以降、シーク教徒とヒンドゥー教徒は、暴力の応酬を繰り返し、ついには首相暗殺、民航機爆破事件まで起きます。今でこそ、かなりの独立性を確保しているようですが、パンジャブは、内外とも、依然、濃い霧の中なのかも知れません。(写真出典:imdb.com)

2023年8月14日月曜日

ポロ・シャツ

カジュアル・ウェアの王道だったポロ・シャツは、1980年代以降、Tシャツに押されっぱなしだったようです。ところが、近年、また復活しつつあるとのこと。恐らく、2011年に始まったスーパー・クール・ビズの影響だと思われます。クール・ビズ自体は、2005年、小池百合子環境大臣の提唱によって始まりました。ただ、ビジネス界のとまどいは大きく、すぐには定着しませんでした。その頃、人事部長に就任した私は積極的にクールビズを進め、まずは社長・会長にネクタイを外すようお願いしました。抵抗されましたが、ことは環境問題に対する姿勢の問題である、と強弁し、外してもらいました。金曜は、カジュアル・デーと定め、私は率先してビジネス・カジュアルに徹しました。

当時、京都のさる銀行も、なかなかネクタイを外しませんでした。西陣のネクタイ産業を顧客とする身としては当然とも言えました。さはさりながら、そろそろ外したら如何かと言ったところ、顧客がまだネクタイをしているから外せない、と言われました。それを銀行の顧客に話すと、銀行がネクタイを外さないから、わしらも外せない、と言っていました。役所と銀行がネクタイを外したことで、クールビズは一気に進んだように思います。実に日本的な話だと言えます。2011年の東日本大震災の際には深刻な電力不足が起こり、会社の室温設定を上げるともに、スーパー・クール・ビズが推奨されます。ここで、チノパン、スニーカー、そしてポロ・シャツも、ビジネス・カジュアルとして認められることになりました。

ポロ・シャツは、ポロ競技で着用していたからポロ・シャツと呼ばれるのだろうと思っていました。ところが、あるとき、ポロ・シャツを発明したのはラコステだという記事を読みました。ラコステは、1933年、元プロ・テニス・プレイヤーだったルネ・ラコステによって創業されたフランスのアパレル・ブランドです。ラコステがテニス・ウェアとして開発したのであれば、なぜテニス・シャツと呼ばれないのか疑問です。実際、テニス・シャツと呼ばれていたこともあったようです。調べてみると、ポロ・シャツの起源、由来には、やや複雑な経緯がありました。そもそもポロ・シャツの原型は、19世紀半ば、インドのポロ競技で生まれ、後に英国でも着られるようになったようです。

生地は厚手のオックスフォードで、風ではためくことを避けるために襟はボタンダウンになっていたようです。ちなみに、ボタン・ダウンは、ブルックス・ブルザースによる発明です。その後、生地にはジャージー生地が使われるようになります。ジャージー生地は、17世紀、イギリスのジャージー島で、漁師のシャツとして誕生しました。いわゆる織物ではなく、編物、つまり伸縮性に優れたニットです。ジャージーのポロ・ウェアに着目したのが、ルネ・ラコステでした。グランド・スラムで7度優勝したラコステでしたが、当時の硬いテニス・ウェアを不快に思っており、綿のジャージー生地、平たい襟、後ろの裾が長いシャツを開発します。現在に至るポロ・シャツの誕生です。

ちなみに、ラコステのロゴ・マークであるワニは、ルネ・ラコステのニック・ネームに由来します。食らいついたら放さないというプレイ・スタイルから付いたニック・ネームだそうです。さて、誕生の経緯はともかくとして、ポロ・シャツと呼ばれることになった経緯は判然としません。少なくとも、ポロ・シャツという名称を広めたのはラルフ・ローレンだったとされます。ラルフ・ローレンの「ポロ」というブランドは、1968年に誕生しています。ラルフ・ローレンは、1972年、コットン・メッシュの生地、多彩な色、ポロ選手のロゴをあしらった”ポロ・シャツ”を主力商品として発売します。これが、プレッピー・スタイルの典型的なカジュアル・ウェアとして大ヒットすることになりました。テニス、ゴルフ、カジュアル・ウェアとして一般化していたニット・シャツは、これ以降、ポロ・シャツとして知られるようになったわけです。(写真出典:ralphlauren.co.jp)

2023年8月12日土曜日

フェニックス

日本三大花火大会と言えば、8月末に大曲で開催される「全国花火競技大会」、11月初めの「土浦全国花火競技大会」 、そして8月初めの「長岡まつり大花火大会」となります。大曲と土浦の花火大会は、100年を超える歴史を誇り、全国の煙火師が内閣総理大臣賞を競います。対して長岡の花火は競技会ではなく、戦後の1947年、長岡空襲の慰霊と復興を願って始められました。もっとも、その起源とされる花火は、1879年に八幡神社の祭りで打ち上げられていたようです。中越地方は、もともと煙火業の盛んな土地柄です。2004年10月、その中越地方を地震が襲います。中越地震です。2005年の長岡花火では、地震復興を願って「フェニックス」が打ち上げられ、以降、正三尺玉とともに、長岡花火の象徴となりました。

フェニックスは、全長2kmに渡り、同じ花火が、同時に打ち上げられる超ワイド・スターマインです。復興の象徴として、翼を広げた不死鳥の姿がイメージされています。会場には、平山綾香の「Jupiter」が流れ、約5分間、打ち上げが続きます。大曲でも土浦でもワイド・スターマインが名物となっているようですが、その長さは500~600mと聞きますから、いかにフェニックスが桁違いかが分かります。打ち上げコストも桁違いです。一般的なスターマインが約200万円前後と聞きますが、フェニックスは2,600万円以上。毎年、全国から集めた寄付をメインに賄っているようです。ちなみに、隅田川の花火大会は5~6号玉が中心で、1玉15,000円程度。それが尺玉(10号)になると5~6万円はかかると聞きます。

正三尺玉はじめ、尺玉以上を中心に打ち上げることで有名だった長岡花火は、フェニックスの登場で、一段と名を上げたと言えます。正三尺玉は、直径が90cm、重さは300kgに及びます。一晩に2発打ち上げられますが、大きすぎて失敗することもあるようです。その打ち上げ音はすざまじく、腹の底に響きます。花火は音を楽しむという好事家たちは、花火がよく見える場所を捨て、正三尺玉の打ち上げ場所付近に陣取るようです。正三尺玉の上を行くのが、中越の片貝村の正四尺玉です。120cm、400kg超えの大玉は、球形に開くことは難しく、下側に尾を引くような姿になります。ちなみに、ギネス記録は、2020年、コロラドのスキー場で打ち上げられた157cm、1,270kgの超大玉だそうです。

高齢になった今でも、花火と聞けば、ワクワクします。ただ、実際に、花火大会の会場へ行く事はもうありません。さすがに、あの雑踏は耐えがたいものがあります。有料の観覧席を確保する手はありますが、うんざりするのは花火が終わった後の大混雑です。長岡花火は100万人を集めます。平成の大合併以前、長岡市の人口は20万人を下回っていました。観覧席はまだしも、ホテルなど絶対に確保できません。観光客は、例えば新潟市などに宿を取るしかありません。花火が終わるとJR長岡駅に向かって大行進が始まります。信濃川から駅までは1.5km程度ですが、1時間くらいかけてゆっくり進むことになります。混乱は見られないものの、やはりうんざりします。新幹線も増便されますが、新潟市まではぎゅうぎゅう詰めです。

長岡空襲は、1945年8月1日夜、125機にも及ぶB29爆撃機によって行われました。焼夷弾による絨毯爆撃は、市の8割を焼き尽くし、約1,500人の市民が亡くなっています。地方都市だった長岡が空襲されたのは、山本五十六の故郷だったから、という話があります。ただ、実際には、金属加工業が多く、兵器関連工場が多かったからなのでしょう。一方、新潟県最大の人口を抱え、鉄道網の要衝、大陸への海運拠点でもある新潟市は空襲されていません。なぜなら新潟市は原爆の投下候補地の一つとなっており、原爆の威力を正確に把握するため、事前の空襲は行われなかったようです。7月20日朝、1機のB29が長岡郊外に飛来し、1発の爆弾を投下しています。これは新潟市への原爆投下の訓練だったようです。ちなみに、7月末時点における原爆投下候補地は、広島、長崎、小倉、新潟でした。(写真出典:mainichi.jp)

博多の串焼き