2023年8月11日金曜日

ホット・ドッグ

ネイサンズ1号店
1990年8月に勃発した湾岸戦争には、54万人の米兵が投入されました。翌91年3月に戦争が終結すると、米国各地の空港に、続々と米兵が帰還します。多くの空港では、帰還兵にホット・ドッグが振る舞われていました。故郷の味、というわけです。ハンバーガー、ホット・ドッグ、アイス・クリームは、アメリカの国民食です。食品名ではありませんが、これにバックヤードBBQを加えれば完璧にアメリカ人の食文化を伝えることができます。1970年代、米国のTVCMで流れた「ベース・ボール、ホット・ドッグ、アップル・パイ、そしてシボレー」 というコピーは有名です。”巨人・大鵬・卵焼き”を思い出させるスタイルですが、アメリカ人の好きなものといったところなのでしょう。

ホット・ドッグは、温めたパンとソーセージに、マスタード、ケチャップ、サワー・クラウト、レリッシュをトッピングするのが、最も一般的だと思われます。シンプルな食べ物だけに、ヴァリエーションも様々あります。チリ・ソースをかけたチリ・ドッグ、溶けたチェダー・チーズをかけたチーズ・ドッグ、あるいはサルサ・ソースをかけるサルサ・ドッグなどです。私の夏の定番朝食の一つは、サルサ・ドッグです。トーストしたパスコの超熟ロールに、茹でたシャウエッセン、レタス、ホット・サルサ・ソース、みじん切りのタマネギ、シュレッドしたチーズをはさみます。これにガスパチョを合わせれば完璧です。手間がかからず、かつ満足感の高い朝食です。

ホット・ドッグは料理なのかという疑問もありますが、立派な食事ではあります。アメリカ人は、パンにはさめば何でも食べますが、ホット・ドッグとハンバーガーが両巨頭といったところです。いずれもドイツ移民由来というところが面白いと思います。ホット・ドッグの発祥は判然としません。ドイツ系移民の屋台で、ソーセージが熱いのでパンにはさんで客に渡したことが始まりとも言われます。少なくとも、19世紀半ばのNYには存在していたようです。ドイツ系移民が各地に分散するとともに、ホット・ドッグも全米に広まっていきます。1867年、ドイツ系移民チャールズ・フェルトマンは、コニー・アイランドでホット・ドッグの屋台を始めます。これがホット・ドッグ屋台の始まりとされます。

屋台のホット・ドッグは大人気となり、フェルトマンはコニー・アイランドに大型レジャー施設を作ります。そこでパン切り職人として働いていたポーランド移民のネイサン・ハンドワーカーは、わずかな元手で、ホット・ドッグ・スタンドを開きます。1916年のことです。これまた大当たりして、ネイサンズは、ホット・ドッグの代名詞となり、コニー・アイランドの象徴となります。こうしてコニー・アイランドは、ホット・ドッグの聖地となったわけです。コニー・アイランドには、ビーチ、ボード・ウォーク、ネイサンズを含む飲食店等とともに、今も現役の遊園地が残っています。歴史的遺産ともなっているカルーセルや観覧車とともに、1927年に運行開始した木製ジェット・コースターのサイクロンもあります。1度乗りましたが、サイクロン最大のスリルは、やたらキシキシ音をたてる木組みの危うさです。

ホット・ドッグがここまでアメリカ人に愛される理由は、立ったまま片手で食べられる手軽さとともに、なんと言っても価格が安いことだと思います。1990年前後、NYの屋台なら、60c~1$といったところでした。最近は3~5$になっているようです。日本なら、価格は立ち食い蕎麦、手軽さはおにぎりといったところです。ちなみに、ネイサンズと言えば、ホット・ドッグの早食い競争が有名です。2001年、日本人が驚異的な記録で優勝したことが世界的ニュースとなり、以来、この大会は、世界で最も有名な早食い競争となり、近年はTV中継まで行われているようです。その歴史は、実に古く、ネイサンズがスタンドを始めた1916年に第1回が開催されています。事の起こりは、誰が最も愛国的かという移民たちの議論に決着を付けるためだったようです。なんとも牧歌的な話に聞こえますが、翌1917年、アメリカは第一次世界大戦に参戦しています。(写真出典:restaurants.nathansfamous.com)

2023年8月9日水曜日

エンジェルズ・ラダー

Angel's Ladderとは、雲の切れ間から、太陽の光が放射状に地上に降り注ぐ様子を言います。語源は旧約聖書にあり、雲の切れ間から注ぐ光に沿って、天使が天上と地上を行き来している夢を見たというヤコブの話に基づきます。ヤコブのはしごと呼ばれることもあるようです。また、レンブラント光線とも呼ばれます。確かに、光と影の画家であるレンブラントの絵には多く登場しているように思えます。先輩の一人は、ターナーの絵と言えば家族に通じるとも言っていました。気象学的には、薄明光線と呼ばれるようです。古代日本では何と呼ばれていたのかが気になり、調べてみましたが、よく分かりませんでした。

仏教には御光という言葉があります。一般的には後光と書き、仏や菩薩の体から出る光を指します。”後光が差す”という慣用句でも知られます。後光を彫像や絵画で表現すれば、光背ということになり、仏教に限らず、キリスト教でも用いられる表現手法です。形状としては、放射線状、円形、炎型などがあり、頭部後方が出ているもの、体全体の後ろから出ているものなど多様です。これはこれで興味深い表現ですが、薄明光線とは異なります。また、光芒という言葉もありますが、一義的には、彗星のように尾を引く一筋の光のことであり、やはり薄明光線を指す言葉ではありません。

日本の古代には、ダイレクトに薄明光線を指す言葉は無かったのではないかと思えます。当然のことながら、気象現象としての薄明光線はあったはずです。とすれば、古代の人々は、薄明光線に興味を持たなかったということになります。美しいとは思ったかも知れませんが、それにさしたる意味を見いださなかったという言い方の方が的確かも知れません。旧約聖書の世界と日本の古代では、”天”の捉え方が異なるということではないかと思います。天と地という二元論は、古代日本も含め、世界中どこにでもあります。ただ、天を、人知を越えた霊的存在と捉えるか、より物理的な場所と捉えるか、という違いはあります。

一言で言えば、宗教と神話・信仰、あるいは一神教と多神教の違いということになるのかも知れません。一神教における神は天上に存在しますが、天上とはどこかの上ではなく、霊的、抽象的、概念的な存在です。日本の天孫降臨に言う高天原も天上にあるとされます。ただ、高天原は、より物理的な側面が強く、神々が地上と同じような生活を営んでいます。ギリシャ神話も似ているように思います。つまり、より高次ではあっても、場所の違いと理解されているように思います。というのも、天孫降臨において最も重要なことは、天皇の先祖が天上の神であることであり、天上の天照大神に帰依せよということではありません。従って、高天原はどこかという議論も起こり、自称高天原が全国各地に存在しているわけです。

つまり、古代日本の人々にとって、薄明光線は、特段の意味を持つものではなく、単に太陽と雲との関係の一つに過ぎなかったのでしょう。旧約聖書の世界では、それが天上の神に関わる現象の一つとして認識されたというわけです。実は、虹に関しても同様な状況があります。古代日本には、虹という言葉は存在したようですが、虹を詠んだ和歌は皆無に近いと聞きます。一方、ノアの方舟が登場する旧約聖書創世記において、虹は、神と人間を含む全ての生き物との契約の証とされます。ありのままの花鳥風月を愛で、それらが織りなす妙を”いとをかし”としてきた日本文化ですが、”全ては神が作りたもうた”とする一神教では、全ての事象に意味がなければならないのかも知れません。(写真出典:ja.wikipedia.org)

2023年8月7日月曜日

ミッション:インポッシブル・・・

ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE

監督:クリストファー・マッカリー    2023年アメリカ

☆☆☆+

TVシリーズ「スパイ大作戦」を夢中で観ていたのは、もう半世紀も前のことになります。毎回、よくできたプロットを楽しみ、ラロ・シフリンのテーマ曲にワクワクしたものです。また、指示を伝えるテープの「おはよう!フェルプス君」は流行語にもなりました。1996年、それを映画化したのはトム・クルーズでした。プロデューサーとしての処女作品です。以来、シリーズ全7作は、すべて大ヒットし、来年、本作のPAT TOWの公開も決まっています。ただ、ブライアン・デ・パルマが監督した第1作以降の数作は、トム・クルーズの派手なアクションにも関わらず、やや退屈な映画でした。それが、5作目「ローグネイション」から一段とギアが上がり、俄然、面白い映画になりました。

ローグネイション以降の監督は、クリストファー・マッカリーが務めています。つまり、トム・クルーズとマッカリー監督のコンビが、ミッション:インポッシブル・シリーズの完成度を高めたわけです。トム・クルーズは、ノー・スタントでアクション・シーンをこなすことで知られますが、単なる俳優ではなく、アクションの本質をよく心得、かつ多くのアイデアを持っている映画人だと思われます。ただ、いかにアクション・シーンがよく出来ていたとしても、器としての映画がしっかりしていなければ、印象には残りません。トム・クルーズにとって、彼のアイデアを本物の映画に仕立てあげる才能を持ったクリストファー・マッカリーを発見したことは、とてもラッキーなことだったと言えるのでしょう。

マッカリー監督は、脚本家として知られていた人です。脚本家としては、なんといっても1995年の歴史的傑作「ユージュアル・サスペクツ」を挙げなければなりません。アカデミー脚本賞も獲得しています。2000年には監督にも挑戦しますが、結果はイマイチ。ところが、2012年、トム・クルーズがプロデュースする「アウトロー」(2012)を監督し大ヒットさせます。アウトローの原作は、リー・チャイルドの「ジャック・リーチャー・シリーズ」です。原作のリーチャーは身長2m、枯れた風情の大男です。個人的には、クリント・イーストウッドが適役と思っていました。小柄なトム・クルーズで大丈夫か、と心配しましたが、結果として、二人の才能が、身長差をものともせず、新たなリーチャーを作り出していました。

本作の主なアクション・シーンは、アブダビ空港での追かけっこ、ローマでのカー・チェイス、ヴェネチアのパーティでの乱闘、オリエント急行でのマクガフィン争奪戦、といったところです。決して目新しい設定はありません。ところが、想像をはるかに超えるアクションが展開されます。ツボを心得たトム・クルーズの職人ぶりに感心させられました。さらに、クリストファー・マッカリーの脚本が、映画にしっかりとした背骨を通しています。また、お馴染みのキャラクターやキャストも安定感を増しているように思います。なかでも、ヴァネッサ・カービーの存在感が際立ちます。1作目でヴァネッサ・レッドグレーブが演じた武器商人の娘を演じています。この人の個性的な顔立ちは、画面に出るだけで強烈な印象を与え、映画を映画らしくしてくれます。

最近のアクション映画の特徴は、スピード感、過激さ、そして上映時間の長さだと思います。スピードと過激さは、ゲームの影響も大きいわけですが、エスカレートするというベクトルしかありません。長尺になっている理由は、似たようなシチュエーションのなかでアクションの斬新さを競うために、結果、長くなっているということだと思います。いずれにしても、それらを実現させているのは、CG、モーション・ピクチャー等の最新技術です。近年、話題の生成AIは、映像の世界でも存在感を増しているようです。近い将来、映画は、俳優もセットも不要となり、少ないスタッフがパソコンで作ることになるのかもしれません。いや、スタッフすら不要かもしれません。しかし、そこで新鮮な感動や衝撃が生まれるとは到底思えませんが・・・。(写真出典:eiga.com)

2023年8月6日日曜日

モッズ

Jane Birkin
昔は、封切落ちの映画を2~3本建てで上映するセカンド映画館があり、中学生の頃には、毎週、通っていました。ただ、いつの頃か、また何故か、セカンド館は、すっかり姿を消しました。その頃、セカンド館でミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望(原題:Blowup)」(1967)を観て、衝撃を受けました。当時観ていた映画と言えば、怪獣、若大将、007系、マカロニ・ウェスタンがほぼ全てでした。こんな映画があるのかと驚き、強く惹かれました。「欲望」はカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得し、アントニオーニはアカデミー監督賞にもノミネートされています。

「欲望」にも出演していたジェーン・バーキンが亡くなりました。時代の象徴として登場し、その後もセレブリティとして名を馳せ続けた希有な人だったと思います。準男爵家に生まれ、17歳で女優となり、18歳で映画音楽の巨匠ジョン・バリーと結婚。21歳のおり「欲望」に出演。翌年、フランス映画に出演した際、セルジュ・ゲンズブールと出会い、事実婚の関係になります。フランスでは、ブリジット・バルドーに始まるフレンチ・ロリータ系の女優としてもてはやされます。1969年には、ゲンズブールとデュエットした「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」をリリース。性交中を思わせる大胆な曲は各国で放送禁止になりますが、大ヒットしました。物議を醸したものの、フランスのエスプリを感じさせるゲンズブールの名曲です。以降、彼女は、歌や映画、そして私生活で話題を振りまき続けました。

エルメスの看板商品である”バーキン”は、彼女が飛行機で隣り合わせたエルメスの会長ジャン=ルイ・デュマにこぼした愚痴から生まれました。東日本大震災の際には、積極的な支援活動を行ったことでも知られます。決して演技や歌がうまいわけではありませんが、独特のムード、オーラを持った人でした。 ジェーン・バーキンの名前を聞くと、いつも1960年代のロンドンを思い起こしてしまいます。名家に生まれながらも、社会の常識や欺瞞に反抗的な姿勢を決して失わず、モッズとして生涯を全うした人だと思えます。モッズは、1950年代末から60年代、ロンドンに起こった若者文化です。ジャズやR&Bを聞き、独特なファッションを身につけ、イタリア製のスクーターに乗り、深夜営業のクラブにたむろしていました。

モッズという言葉は、モダン・ジャズ、あるいはモダニストが由来とされます。同時期、ロックンロールとオートバイを好むロッカーズというグループもあり、両者は対立します。1964年、両者はブライトンビーチで数千人規模の乱闘事件を起こします。それ以降、モッズは収束に向かったと言われます。アントニオーニの「欲望」は、モッズ文化をモティーフとしたミステリー仕立てになっています。ジェーン・バーキンは、まさにうってつけの配役だったわけです。カウンター・カルチャーの時代、世界の大都市には、似たような若者文化が存在していました。モッズは、ロンドンらしく、どこか洗練され、やや屈折し、そして甘えた都市文化だったと言えます。モッズ文化は、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」(1971)にも反映され、後のスキン・ヘッズへとつながっていったとされます。

「欲望」の音楽は、当時、まだマイルス・デイビス・クインテットに参加していたハービー・ハンコックが担当しています。また、ヤードバーズがクラブで演奏するシーンは有名です。リード・ギターはジェフ・ベック、サイド・ギターはジミー・ペイジが弾いています。アンプの調子が悪いことに腹を立てたジェフ・ベックがギターをたたき壊して客に投げ込むと、それまでまったく無表情だった若者たちが、突如、熱狂してギターの残骸にむらがります。混乱のなかでネックを掴んだ主人公は、そのままクラブから走り去ります。アントニオーニは、モッズの本質をニヒリズムと見抜いていたかのようなシーンだったと思います。ちなみに、ジェフ・ベックは、平生、ステージでギターを壊すことなどなく、モッズの象徴でもあったザ・フーのピート・タウンゼントを意識した演出だったようです。(写真出典:vogue.co.jp)

2023年8月5日土曜日

座る文化

縄文式倉庫
”椅子に座る”という言い回しは、よく使いますが、恐らく正しくないのでしょう。”座る”という言葉は、床や地面に腰を下ろすことを指し、椅子の場合には、”掛ける”あるいは”腰掛ける”が正しいのではないかと思います。”椅子に座る”を、文字通りに解釈すれば、椅子の座面に正座するか胡坐をかくような仕草なのでしょう。無論、目くじらを立てるような話ではありません。もともと座る文化の日本でも、椅子の生活が当たり前になったということの現れです。世界的に見れば、床に座る文化圏と椅子に腰掛ける文化圏は明らかに分かれています。大雑把に言えば、欧州は椅子、アジアは座る文化のように思えます。もともと人間は、座ったり、様々なものに腰掛けたりしていたのでしょうが、椅子そのものが発明されたのは古代エジプトだったようです。

当初、椅子は、権威の象徴として生まれますが、瞬く間に一般化し、かつ世界中に伝播しました。世界に広まった最大の理由は、座るより椅子に腰掛ける方が、体への負担が少なかったからだと思われます。ただ、アジアでは、椅子が普及した後も、座る生活が継続されます。中国は、多少異なり、4世紀に華北を統一した北魏によって椅子がもたらされると、椅子の生活が一般化したようです。では、日本や韓国、あるいはイスラム圏等が、あえて座る文化を選択した理由はなんだったのでしょうか。イスラム教はテントで暮らす遊牧民の宗教であり、かつ礼拝のスタイルから座る文化を説明できるように思います。韓国では、床下暖房のオンドルが必須だったので、座る文化が継続されたと考えられます。

日本の場合には、高温多湿な気候が関係していると思われます。木造の日本家屋では、床が地面から数十センチ高くなっています。床下の風通しを良くして湿度を抜き、快適に暮らすとともに木材の腐食も防ぎます。縄文集落の貯蔵庫も高床式でした(ネズミ除けでもあります)。東南アジアの農村地帯でも、高床式の住居が伝統的です。高床の上で、椅子の生活をすると、より高温な空気のなかで暮らすことになります。むしろ、風を感じられる床、あるいは風で冷やされた床に直接座った方が、より快適に過ごすことができるわけです。日本人が、家で靴を脱いで生活するのは、清潔好きだからと言われます。実は、そうではなくて、単純に湿度対策の結果だったと思われます。

前々から疑問に思っていることの一つが、なぜ日本人はズボンではなく袴を選択したのかということです。埴輪などから類推すれば、日本人は、大昔、ズボンを穿いていたと思われます。ところが、平安末期頃から小袖、いわゆる着物が服装の中心になると、必要に応じて小袖の上に袴を着用する文化が定着します。小袖は、宮廷文化における下着から始まっています。宮廷文化の影響とは言え、実用性を考えれば、上下別れた服装でズボンを穿いた方が効率的です。現に、江戸期の農民や職人は、ポルトガル文化の影響とされる股引きを着用しています。それでも小袖と袴にこだわったのは、やはり湿度対策ではないかと思われます。つまり、風通しの良い小袖を基本とし、必要な場合のみ袴を着用したのではないでしょうか。

たまに温泉宿の和室に泊まると、立ったり、座ったりが厳しくなってきました。もちろん、加齢によるところが大きいわけですが、昔の老人は、今の私よりもスムーズに立ち座っていたのではないかと思われます。健康面から考えれば、座る生活、椅子の生活、それぞれ一長一短あるようです。ただ、少なくとも足腰の筋力維持という観点から見れば、明らかに座る生活の方が効果的です。和式トイレも同じ話です。和式トイレを避けるようになって何十年も経ちます。思えば、かつては、どこへ行くにも歩いていたわけです。明治以降の日本の近代化は、明らかに日本人の足腰を弱めてきたと言えます。(写真出典:info-toyama.com)

2023年8月3日木曜日

ギネス・ブック

先日、中野区で、盆踊りの世界記録更新を目指して、約3千人が踊ったというニュースがありました。これまでのギネス世界記録は、2017年、大阪の八尾市で2.872人が河内音頭を踊り、達成されたものとのこと。今回の中野区の盆踊りは、閉館した中野サンプラザへの感謝の思いを込めた挑戦なのだそうです。 結果は、残念なことに、世界記録まで7名足りなかったようです。最多人数で盆踊りを踊るギネス世界記録の認定基準は、伝統衣装を着用する、9割以上が間違えることなく5分間踊る、といったことだそうです。いつも納得がいかないと思うのは、日本でのみ行われていることを世界一とすることです。それは日本一と言うべきで、複数の国で行われていることを比較して、はじめて世界一と言えるのでしょう。

さらに言えば、世界に唯一無二の記録を世界一と認定することがあれば、それも問題だと思います。ま、目くじらを立てるほどのことではありませんが・・・。ギネス世界記録への登録申請は、年間6万件を超えるといいます。申請は基本的に無料ですが、有料の優先サービスもあり、料金は7万円とのことです。また、結果はギネス・ブックとして世界中で出版されるわけですから、往復でお金を稼ぐうまい商売です。ギネス世界記録は、公序良俗に反しないことを旨とするポリシーのもと、種々の厳格な基準に基づき、透明度の高い認定がなされているようです。興味深いことに、記録が更新される可能性が存在することも、条件の一つになっています。唯一無二の記録である可能性を排除する要件なのでしょう。

世界一大きなピザといった食品に関する記録挑戦をよく見かけますが、挑戦に際して作られた食品は、すべて消費されることも条件の一つになっています。他にも、不法行為、環境破壊、年齢・性別・人種等の関する人権侵害、健康への悪影響等々も考慮されているようです。また、記録のためだけの無意味な挑戦、あるいは数的な判定の正確性に問題がある場合も対象外とされるようです。マリリン・ボス・サバントのIQ228という世界記録は、かつて認定記録でしたが、後に取り消されています。高いIQの測定が困難であること、最高IQの認定自体に意味がないことを理由に取り消されました。恐らくIQそのものの有用性に対する社会的批判が起こったことが真の理由だったのでしょう。

いずれにしても、このような商売では、権威の維持こそが生命線ですから、ギネスの厳格な運営方針は当然のことだと思います。ただ、そのなかで、やはり気になるのが、比較対象が複数の国に存在するのか、という問題です。申請時点で、記録が一つの国や地域に限定されるもの、あるいは特殊に過ぎるものは却下されるとのことです。ただ、例外も存在するようで、ポリシーが厳密に運用されているとは言い難いようです。日本固有と思われる盆踊りも大いに疑問です。例えば、宗教的背景を持ち、古くから毎年行われてきた群舞、とでもすれば、世界的に存在するかも知れません。ただ、盆踊りに関しては「最多人数で”盆踊り”を踊る」と定義されており、明らかに日本に限った話のように思えます。

もっとも、米国や南米の日系人社会の一部でも盆踊りは踊られていると聞きますので、世界的な競争が可能という理屈が成り立つのかも知れません。とは言え、ギネス記録も含めてランキング好きの日本ということを考えれば、微妙に商売の匂いも感じます。そう言えば、最長の巻き寿司という記録もあり、熊本県の高校が持っているようです。これも同類かと思いました。ただ、熊本の高校が破った前の記録はロシアで樹立されたものだったと聞き、驚きました。ギネスの世界記録というビジネスは、どこか格付会社を思い起こさせます。世界の三大格付会社と言われるスタンダード&プアーズ、ムーディズ、フィッチは、いずれも100年を超す歴史を持ち、金融の世界では絶大な信頼を得ています。人のふんどしで相撲を取ると言えば言い過ぎかもしれませんが、実にうまい商売を考えたものだと感心します。(写真出典:kadokawa.co.jp)

2023年8月1日火曜日

グランド・ツアー

 

17世紀の旅行ガイド
国立西洋美術館で「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」展を見てきました。どうも版画系は人を集めにくいところがあるようで、会場は閑散としていました。ゆっくり楽しめたこともあり、なかなか良い展示だったと思います。ゴヤ、ピカソ、ダリといったスペインの画家だけでなく、フランスや英国の画家たちの作品も多く展示されています。あらためて感心したのは、18~19世紀頃の旅行記あるいは旅行ガイドの挿絵の完成度の高さです。17世紀から19世紀初頭に、英国に始まり、欧州・米国にまで広がった”グランド・ツアー”ブームの背景の一つには、明らかに旅行記と精巧なエッチングがあったものと思われます。今見ても、十分以上に旅心をくすぐられます。

グランド・ツアーは、規模感の違いはあるものの、昨今の日本の卒業旅行のようなものです。裕福な貴族の子弟が、学業を終えるにあたり、見聞を広げるために欧州を旅しました。家庭教師等が同行し、数ヶ月から数年をかけて回ったようです。単なる観光旅行ではなく、各地で、歴史、政治、語学等を学ぶとともに、上流社会と交流し、洗練された礼儀作法や社交術を会得することも目的だったようです。多くは、フランスに渡り、アルプスを越え、イタリアを最終目的地としたようです。もともと英国人は旅好きとして知られていたようです。島国であること、あるいは多民族がルーツであることも背景にあったのでしょう。さらに言えば、グランド・ツアー隆盛には植民地獲得競争が大きく影響していると思われます。

大航海時代の幕を開けたのは、ポルトガルとスペインでした。15世紀、レコンキスタで、イスラム勢力を駆逐し、強力な王権を確立した両国は、海洋進出を始めます。ただ、地中海は、オスマン・トルコ、ヴェネチア、ジェノヴァに支配されおり、アフリカへ向かうしかありませんでした。大航海時代の始まりです。両国に遅れて絶対王権を確立した英国、スペインから独立したオランダも後に続きます。西欧列強の船は、瞬く間に世界を巡り、その後に起こったことは植民地獲得競争でした。富は、農場からではなく、海の向こうからもたらされることになったわけです。英国の富裕層も、この大きな変化の波に乗っていきます。跡取息子のグランド・ツァーは、教養のためだけではなかったのでしょう。

グランド・ツアーのガイドブックも多く発刊されており、各地の案内だけでなく、事前に学んでおくべきことや準備すべきこと、あるいは心構えも記載されていたようです。近年で言えば、海外留学ガイドのようなものなのでしょう。ところが、旅の実態は、結構、お寒いものだったようです。家庭内で厳しく育成された若者が、家庭教師付とは言え、大金を持って野に放たれたわけですから、何が起こるかは明らかです。18世紀の英国の詩人ホープによれば、グランド・ツアーに行った若者は「すべてを見、何一つ理解しなかった者」となります。要は、各地で英国人だけで群れてパーティ三昧だったようです。ローマでは、お金を落とす上客ながら、コロッセオがどこにあるか知らないまま帰国する、と馬鹿にされていたようです。

その姿は、後の米国人、日本人、中国人ツーリストに通じるものがあるようにも思えます。ただ、英国のグランド・ツアー・ブームは、まったく無駄だったのかと言えば、そうでもないと思うのです。旅先でひたすら遊びまくった若者たちは、後に大英帝国を築いていくわけです。道楽旅の経験は、英国の世界進出という気風を大いに後押ししたのではないかと思います。フランス革命とナポレオン戦争によって、グランド・ツアーは下火となりますが、19世紀には再び活発化します。蒸気船と蒸気機関車が後押ししたわけです。世界の陸地の1/4を征した英国人たちは、さらに遠くまで足を伸ばすようになりました。(写真出典:lotsearch.net)

「オデュッセイア」