2022年9月7日水曜日

幻兵団

ラストヴォロフ
過日、終戦時に起こった久米島守備隊住民虐殺事件に関するNHKのドキュメンタリーを見ました。久米島に駐留していた30名の日本陸軍通信隊が、島民にスパイ容疑をかけ、20名以上を虐殺した事件です。通信隊は、沖縄本島での敗戦以降、孤立状態にあり、終戦も知らず、住民の離反を恐れ、パニックに陥ったようです。この事件は、永らく知られることがありませんでした。その理由は、島民たちが、戦後、一貫して、口を堅く閉ざしたからでした。虐殺の影には、島民同士による、意図的、あるいは意図せぬスパイ容疑の告発がありました。口を開けば、自分や親族に影響が及ぶ可能性があったわけです。

番組を見ながら、幻兵団を思い出しました。終戦直後、ソヴィエトは、57万人に及ぶ日本兵等をシベリアに連行し、強制労働をさせます。違法極まりないシベリア抑留です。ソヴィエトは、抑留者に赤化教育を行い、共産主義シンパ作り、そして相互監視体制づくりをねらいます。さらに、その中から、日本へ帰国後に、スパイとして活動する要員をピックアップします。それが、いわゆる”幻兵団”です。7万人ともいわれるその実態は、ほとんど分かっていません。ほぼ活動実態が無かったとも、誰もが口を閉ざしたからとも言われます。抑留キャンプで何が起きていたかを語るには、あまりにも微妙な状況が存在したのでしょう。厳しい環境のなかで、食事、待遇、さらには命まで取引材料とされれば、彼らを責めるわけにはいかない面もあると思います。

日本政府は、早い段階で、幻軍団の存在を察知していたようです。米軍と協力して、引揚船到着時に水際作戦を展開します。しかし、ほとんど成果をあげることはできなかったようです。ところが、意外な事件が発生し、実態の一部が浮かび上がります。1954年に起こったラストヴォロフ事件です。当時、ソ連大使館は、公式には認められておらず、元代表部として存在していました。その二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフが、突然、失踪します。ラストヴォロフは、実は内務人民委員部(NKVD)が送り込んだスパイでした。任務は、駐留米軍への浸透でしたが、もともとシベリアで抑留者をスパイ化する仕事をしており、日本人スパイも動かしていたようです。本国で、スターリンが死に、ベリヤが失脚すると、身の危険を感じたラストヴォロフは、知り合いの米国人英語教師を介して、CIAに投降します。英語教師の実態は、CIAのスパイでした。

ラストヴォロフは、アメリカで記者会見を行い、日本におけるソ連のスパイは500名、潜在的スパイは8,000人いるとしました。自身は、36人のスパイを動かしていたと証言したとも言われます。直後、元関東軍参謀の志位正二少佐(日本共産党志位委員長の父)が自首します。志位は、GHQの諜報機関に逮捕され、二重スパイを強要されていましたが、ラストヴォロフの亡命を機に自首します。さらに、外務省の事務官3名が逮捕されます。その一人、日暮信則は、取り調べ中、東京地検の4階から飛び降り自殺しています。日暮は、幻兵団の多くを知る男だったとも言われ、以降、ラストヴォロフ事件に関連する逮捕者は出ていません。実際には、東京地検が把握していた容疑者は相当数に上っていたのではないかと想像できます。ただ、活動実態の濃淡、報酬受取の有無、あるいは政府の責任問題等もからみ、幕引きとなったということなのでしょう。

ラストヴォロフのCIAでの証言のなかに、志位正二少佐と同じく関東軍参謀であった瀬島龍三中佐の名前も、スパイとして上がっていたようです。シベリアに11年間抑留された瀬島龍三は、その後、伊藤忠会長、中曽根康弘の顧問等に登り詰め、昭和を代表する財界人になりました。山崎豊子の「不毛地帯」のモデルとも言われました。関東軍参謀として停戦交渉に臨んだ瀬島は、天皇を守るために、50万将兵をソ連に売った、という密約説があり、広く流布されていました。現在では、この密約説は、否定されているようですが、1979年、東京でアメリカに亡命したKGB中佐スタニスラフ・レフチェンコの証言のなかで、コードネーム「クラスノフ」として名前があがるなど、どうも胡散臭さがつきまとう人でした。実態が無いから幻なのか、実態が見えないから幻なのか、いずれにしても幻兵団は興味深い戦後史だと思います。(写真出典:imagelink.kyodonews.jp)

2022年9月6日火曜日

クール・ハンド・ルーク

一番好きな映画俳優を聞かれたら、迷うことなく、ポール・ニューマンと答えます。自由と独立を尊重する真のアメリカ人というイメージがあります。知的ですが、そればかりではなく、反逆的ですが、反逆のための反逆ではなく、少年のようですが、その本質は真実に対する誠実さだと思います。では、ポール・ニューマンの映画では何が好きかと聞かれたら、これまた、迷うことなく「暴力脱獄(Cool Hand Luke)」と答えます。スチュアート・ローゼンバーグ監督による1967年の大ヒット映画です。権力に抵抗し続ける不屈の囚人ルークを描いた映画です。時代は、ヴェトナム戦争の拡大期にあり、反戦運動が動き始めた頃でした。また、主人公の名前ルークは、”ルカの福音書”から名付けられ、随所にキリストのイメージが埋め込まれていました。

舞台は、1950年代初めのフロリダの刑務所です。足を鎖で繋がれ、道路工事等を行う、いわゆるチェイン・ギャングたちの話です。新入りのルークは、囚人たちのボスとの喧嘩やポーカーにおける大胆不敵さとユーモアのセンスで皆の尊敬を集めます。母親が危篤との知らせに、ルークは脱獄を試みます。捕まっても、捕まってもルークはあきらめません。酷い懲罰を加えられたルークは、看守に媚びへつらうようになり、仲間たちの信頼を失います。しかし、それは作戦でした。隙を見せた看守の目を盗み、ルークは、また脱獄します。ルークは、教会で祈りを捧げているところを看守たちに包囲され、撃たれます。映画は、ルークの死をはっきりさせないまま終わります。

ルークは、キリストの象徴です。ジョージ・ケネディ演じる囚人のボスは、ルークの”使途”そのものです。恐らくルークは死んだのでしょうが、それを単なる死と捉えることはできません。少なくとも、仲間のチェイン・ギャングたちの心の中で、ルークは生き続けていたのですから。この映画を見た時、私は中学生でしたが、自由であることへのこだわり、体制に媚びない不屈の闘志、仲間たちの連帯等、生きる上での大きな教訓を得た映画だと思っています。今でも、多くのシーンを記憶しています。50個のゆで卵を食べる賭け、穴を掘っては埋めさせる懲罰のシーン等も印象的でしたが、実は、最も印象的で、いつまでも忘れられないのは、ルークの不屈さを伝える笑顔であり、それはポール・ニューマンにしかできない笑顔でした。

この映画は、映画史に残る名言も生んでいます。脱獄し捕まったルークを打ち据えた所長が言います。「What we've got here is failure to communicate.・・・」直訳すれば、意疎通が欠けていたようだ、ということになりますが、誤解があるようだ、あるいは話の通じない奴がいるようだ、といった感じでしょうか。一定年齢以上のアメリカ人なら、皆、知っているセリフです。AFI(American Film Institute)が選出した「アメリカ映画の名セリフ・ベスト100」でも11位にランクされています。1950年代に豊かさを謳歌したアメリカは、60年代に入ると、様々な社会的矛盾に直面します。ヴェトナム戦争、人種問題、世代間闘争、家庭の崩壊等々。その全ての根底に”failure to communicate”があったわけです。まさに時代を象徴する言葉だったわけです。

ポール・ニューマンは、マーロン・ブランドやジェームス・ディーンと共に、アクターズ・スタジオに学んでいます。しかし、世に出るのはかなり遅れました。1956年の「傷だらけの栄光」が出世作となりましたが、ジェームス・ディーンの急死を受けて回ってきた役でした。その後、熱いトタン屋根の猫、ハスラー、ハッド、動く標的、暴力脱獄などのヒット作に出演します。最もヒットした作品と言えば、「明日に向かって撃て」(1969)、「スティング」(1973)ということになるのでしょう。ポール・ニューマンは、自動車好きでも知られ、ル・マン24時間レースで2位になったこともあります。また、自ら食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立し、成功させています。彼の似顔絵が描かれたドレッシングやパスタ・ソースは、アメリカの定番商品でもあります。ポール・ニューマンは、その事業で得た利益の全てを、恵まれない子供たちの教育ファンドに寄附したことでも知られます。(写真出典:amazon.co.jp)

2022年9月5日月曜日

御座候

骨折して自宅療養をしていた際、無性に鍋焼きうどんと今川焼が食べたくなりました。鍋焼きうどんは、京都の冨美家から取り寄せ、今川焼は、大好物の「御座候」をよく買ってきてもらいました。 都内には、今川焼の名店も多いのでしょうが、近くの御座候はありがたい存在であり、何よりも美味しいと思います。御座候は、1950年、姫路に開店しています。まだ、戦後の物不足が続いていた時代ですが、お客さまは本物の回転焼を求めていると感じた創業者は、入手困難だった上白糖や北海道産小豆の入手に奔走します。結果、通常の倍という値段の回転焼を販売することになりましたが、これが大ヒットとなります。

ちょうどその頃、朝鮮特需で、国民は忙しくなり、懐具合も多少は上向き、そろそろ甘いものが欲しくなった頃だったわけです。時流に乗った御座候は、順調に事業を拡大し、現在では、関西、東海、首都圏を中心に77店舗を展開しています。御座候は、高級品だったので、回転焼とは呼ばれず、そのまま御座候と呼ばれてきたようです。近年の関西では、回転焼という言葉は廃れつつあり、代って御座候が一般名詞化しているとも聞きます。ちなみに、御座候という風変わりな屋号は、「お客さまにお買い上げいただきありがたく御座候」という気持ちが込められているだそうです。

今川焼は、18世紀後半、江戸の今川橋のたもとで売り始めたことが起源だと聞きます。文献上も、江戸の今川焼が初出さとされています。現在、今川橋は存在していませんが、神田駅の東側に、交差点名として残ります。今川焼は、全国各地で、実に多様な名前で呼ばれています。関東では今川焼ですが、関西は回転焼、全国的な主流は大判焼だと言われています。他にも、おやき、あじまん、太鼓焼、二重焼、あんこ饅頭等、枚挙の暇が無いほど各地各様の名前が存在します。回転焼は、生地を回転しながら焼くことからきているようです。最も一般的な大判焼は、焼き器の名称から広まったようです。

1950年代中期、獅子文六の「大番」という小説が大ヒットします。昭和初期の兜町を舞台に、相場師たちの世界が描かれています。主人公の「ギューちゃん」はじめ、実在する相場師たちがモデルだったこともあり、評判になったようです。映画化も、TVドラマ化もされています。主人公の出身地が愛媛という設定だったので、地元の回転焼き器メーカーである松山丸三が、自社製品を「大番」と命名します。しかし、それでは著作権に抵触する恐れがあることから、「大判」と変えて全国に出荷します。これが、大判焼という名前が、全国に広く定着した理由と言われます。

今川焼は、江戸期に江戸から全国に広がったのではなく、また、全国で同時発生したものでもなく、この松山丸三の回転焼き器「大判」の普及によって全国に広がったということなのでしょう。焼き器の製品名を、そのまま商品名にした店が多かったわけです。大判と言えば、江戸期の金貨である大判・小判を想起させます。ただ、1950年代のことですから、大判・小判は知ってはいても、既に古くさい代物だったはずです。そこで、回転焼き器「大判」を導入した店のなかには、それぞれ工夫を凝らした名前を付ける店も登場し、各地各様の呼び名が生まれたということなのでしょう。(写真出典:shinume.com)

2022年9月4日日曜日

ミスター・ベース

「ブルーノート東京」は、1988年、青山の骨董通りにオープンしました。今の場所には、1998年、10周年を期して移転しています。オープン以来、海外の大物ミュージシャンのライブを売りにしてきました。私は、NYから帰った1992年以降、30年間、足繁く通いました。ここのところ、コロナ・ウィルスの世界的感染によって、海外ミュージシャンの招聘が難しくなり、ブルーノート初登場となる国内ミュージシャンのライブを多数行ってきました。それはそれで良かったようにも思います。ただ、ブルーノートへ行く機会は減りました。この夏から、ようやく来日ミュージシャンのライブが再開されました。久々のブルーノート・ライブで、久々のロン・カーターを聞いてきました。

今回は、ゴールデン・ストラカー・トリオとして、ドナルド・ヴェガのピアノ、ラッセル・マローンのギターというセットでした。一言で言うなら、珠玉のライブでした。85歳になったミスター・ベースは、杖をつきながらステージに上がりました。多少、心配になりましたが、その想像力あふれるプレイ・スタイルは衰えていませんでした。ドラムのないトリオは、知的で室内楽的な心地良さもありますが、十分にスリリングでもあり、何よりロン・カーターのベースをしっかり楽しむことができました。セットリストは、ブルースあり、ボサノヴァあり、バッハ的変奏曲ありと多彩でした。MCも、いつもどおり、簡潔で、落ち着いた、どこか教授っぽいロン・カーター節のままでした。

ロン・カーターは、クラシック奏者を目指して、ロチェスターのイーストマン音楽学校で学びました。ただ、オーケストラへの参加は叶いませんでした。当時のクラシック界では、まだ人種差別の壁が厚かったようです。チコ・ハミルトン・グループを皮切りに、ジャズの世界に入ったロン・カーターは、1963年、26歳で、マイルス・デイビスに見いだされ、彼のクインテットに参加します。23歳のハービー・ハンコック、17歳のアンソニー・ウィリアムスと共に、マイルスの鉄壁のリズム・セクションを構成しました。ハービー・ハンコックによれば、ある日、突然、電話があり、「明日1時に俺の家に来い」とだけ言って切れます。名乗りもせず、家の住所も告げず。でも、その特徴的なしゃがれ声は、誰もが知っている帝王の声でした。恐らく、ロン・カーターも似たような呼び出しがあったのでしょう。

1964年、サックスが、ジョージ・コールマンからウェイン・ショーターに変わると、多くの名盤を生む、いわゆる黄金クインテットの時代を迎えます。ただ、私は、ジョージ・コールマン時代のマイルス・デイビス・クインテットも大好きです。世界中でコンサートを行い、吹きまくった時代です。マイルスとリズム・セクションが引き起こす化学反応がスリリングで、まさにモダン・ジャズの醍醐味を味わえます。リズム・セクションは、単にマイルスのアドリブに反応するだけでなく、互いに刺激しあうというインタープレイの極致を見せます。ロン・カーターは、後に、サイドマンとして多くのセッションに参加しますが、恐らく、この時代の経験が、ミスター・ベースことロン・カーターを形成したのだと思います。

1960年代も末になり、マイルスが、フュージョンへと移行し、いわゆるエレクトリック化すると、ロン・カーターは、クインテットを退団します。以降、様々なバンドに参加する傍ら、バロックやボッサノヴァにも傾倒するなど、多彩な活動を行ってきました。モダン・ジャズを代表するベーシストとして人気は高く、大学での教鞭もとっています。何度も日本公演を行っていますが、2021年には、音楽文化発展に功績があったとして旭日小綬章が贈られています。(写真出典:cdjournal.com)

2022年9月3日土曜日

隠里

鶴富屋敷
新潟市内で、最も好きな店の一つが「秋山郷」です。郷土料理と地酒の店ですが、何よりも、旬のものをおいしく出してくれるところがお気に入りです。色鉛筆作家でもある美人女将と誠実な板さんが仕切る小ぶりな店です。大人気店ゆえ、なかなか予約が取れないので、店を広げたらどうか、と女将さんに言ったことがあります。私の目が届く範囲でやりたい、との答えでした。秋山郷の品質の高さを物語る話です。女将さんが十日町の出身なので、秋山郷と名付けたと聞きました。秋山郷は、新潟県と長野県の県境に位置します。深い山中にあり、陸の孤島とも呼ばれ、平家の落人の隠里として知られます。そのせいか、美人の産地としても有名です。

今でもアクセスが悪く、私も行ったことはありません。秋山郷に関して、忘れられない話があります。昭和の初め、測量のために県職員が秋山郷に入ると、村人が「まだ源氏は栄えているのか?」と聞いたと言うのです。かなり盛った話だとは思いますが、忘れがたい話でもあります。平家の落人伝説が残る土地は、全国に存在し、かなりの数に上ります。平家の末裔のみならず、平家の家臣や協力者の末裔も含まれるのでしょう。また、平家の落人と言えば、壇ノ浦の合戦の落ち武者というイメージがありますが、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦は、全国各地で、前後6年間に渡り戦われています。従って、落ち武者も各地に存在するわけです。また、源氏勢による追討が熾烈だったために、落人たちは、より奥地へ、より遠方へと落ちていったのでしょう。

平家の隠里とされる土地は、青森県から沖縄県まで広く分布しますが、やはり中四国、九州に多いように思えます。平家最後の戦いが、一ノ谷。屋島。そして壇ノ浦へと続いたからなのだと思います。中国地方では、福山の平家谷や尾道の百島、四国では祖谷渓、九州では五家荘、椎葉村、喜界島はじめ奄美列島などが良く知られています。なかでも、大分県の椎葉村は、悲恋の里としても有名です。椎葉村は、宮崎と熊本の県境にあり、山深い地域です。ここに逃れた平家残党に、那須与一の弟である那須大八郎の追討軍が迫ります。しかし、残党に戦意がないことを知った大八郎は、攻撃をせず、村に居座ります。平清盛の孫娘とされる鶴富姫と恋仲となった大八郎ですが、鎌倉から帰還命令が下り、姫と子供を残して、泣く泣く椎葉村を離れます。今も、椎葉村には那須家が存続し、鶴富姫が住んだとされる家が残ります。

椎葉村から熊本へ山中を進むと、五家荘に至ります。平重盛の三男・清経の一党が、緒方と名を変え、隠れ住んだとされる一帯です。ここには菅原道真の子孫も、隠れ住んでいたとされます。五家荘には、平家の官女であった鬼山御前の話が伝わります。屋島の戦いのおり、那須与一が、平家の軍船に乗った官女が掲げた扇を射抜いた話は、あまりにも有名です。その官女こそ玉虫御前、後の鬼山御前であり、清経に同行し五家荘に隠れ住んでいました。那須与一の子・小太郎は、平家追討のために五家荘に入ります。鬼山御前は、他の平家集落に行かせないよう、小太郎を引き留めます。いい仲になった二人は夫婦となり、子を設けました。鬼山御前は、乳の出がよかったと言われ、現在も乳の神様として祀られています。

ちなみに、五家荘の南には五木があります。五木には、五家荘の平家残党を見張るために源氏勢が住んでいました。源氏勢に虐げられた土地の人々が歌ったのが「五木の子守歌」だとされます。いずれにしても、ほど近い平家の隠里に、良く似た話が伝わることは不思議なことです。隠里が、源氏の追討勢に見つかった際、那須与一の血が入っていると言い張ることで、お目こぼしをねらったのではないかと想像します。いわば防御策の一環だったのでしょう。那須大八郎も小太郎も実在は疑われていますが、九州での源氏の追討が激しかったことは間違いないのでしょう。息をひそめて、ひたすら隠れ続けた秋山郷の残党に比べ、常に敵の気配を感じながら過ごさざるを得なかった九州の残党の知恵だったように思えます。(写真出典:pmiyazaki.com)

2022年9月2日金曜日

「NOPE」

監督:ジョーダン・ピール    2022年アメリカ

☆☆☆+

(ネタバレ注意)

コメディアン、脚本家でもあるジョーダン・ピールの長編3作目です。大ヒットした処女作「ゲット・アウト」は、低予算映画ながら、アカデミー作品賞にノミネートされ、脚本賞を獲得した新感覚ホラー・コメディでした。ボディ・ホラーが基本プロットですが、人種差別の現状とリベラルな白人を強烈な形で風刺していました。特にアメリカの白人にとって、かなりキツいコメディだったと思います。コメディアンでもあるジョーダン・ピールらしい映画作りと言えます。コメディは、いつも恐怖と裏表一体の関係にあります。SFホラー・コメディである本作は、「ゲット・アウト」よりも奥の深い映画になっています。今回、ジョーダン・ピールがターゲットにしたのは、アメリカの映像産業であり、大衆文化です。

本作は、映画やTVといった映像産業に関わるメタファーにあふれています。監督の思い入れの強さを感じます。一つひとつが、示唆に富み、強烈な風刺にもなっていますが、タマが多すぎて、観客がテーマにフォーカスしにくい状況を生んでいるように思います。その点を除けば、☆をもう一つ加えたくなるような傑作だと思います。人を食べるUAP(unidentified aerial phenomenon)と証拠映像というメイン・プロットが、既に象徴的です。監督は、スペクタル依存が高まるハリウッドに警鐘を鳴す、と語っているようです。目があった人間を食べるUAPは、映像産業そのもののメタファーです。証拠映像を撮影しなければ、人に信じてもらえない、また、それがあれば大金持ちになれるというプロットが重ねられます。

主人公は、映画撮影用の馬を飼育していますが、十分に調教された馬であっても、思いどおりにはなりません。これも映像産業が持つ社会的リスクのメタファーなのでしょう。TVの元子役だったテーマ・パークのオーナーが登場します。彼は、ヒットTV番組に出演中に受けたひどいトラウマを抱えています。番組の主役だったチンパンジーが暴走して、キャストを襲ったのです。これは、ほぼ実話のようです。チンパンジーは、馬と同じくコントロール不能な映像のリスクを象徴しています。恐らく、TVが持つ同時性が、より大きなリスクを抱えていることを示しているのでしょう。事件の起きたスタジオに、何故か直立する被害者の靴が象徴的です。認識されていないリスクが、いかに恐ろしいものであるかを暗示しています。

UAPは、庵野秀明の新エヴァンゲリオンに登場する”天使”にインスパイアされたものだそうです。天使のようでもあり、海洋生物的でもありますが、興味深いのは、リアルさを追求した昨今のモンスターとは大違いであることです。これもハリウッド批判なのでしょう。とても印象だったのは、音響の素晴らしさです。なかなか全体像を現わさないUAPを音で表現しています。ジョーズの音楽を思い出します。音響が準主役の映画と言ってもいいかも知れません。「ゲット・アウト」にも主演したアカデミー男優ダニエル・カルーヤは、今回も、抑えた演技でいい味を出しています。「ミナリ」でアカデミー賞にもノミネートされた韓国系アメリカ人スティーブン・ユンが、メリハリの効いた良い演技をしています。

主人公の家族は、映画の誕生に関わっていたという設定になっています。1878年に、エドワード・マイブリッジが制作した走る馬のクロノフォトグラフィーで、騎手を務めていたのが先祖だというのです。スティール写真を連続して見せるクロノフォトグラフィーは、フィルム映像の原型とされます。このマイブリッジのクロノフォトグラフィーは有名でも、騎手が黒人だったことは知られていません。つまり、黒人を差別してきたハリウッドというメタファーなのでしょう。あるいは、映画が持つ政治性を意味しているのかも知れません。制作者が意図を持って作った映像を、多くの人が同時に目にするという特性からして、映画は本質的に政治的だと言えます。とすれば、映画のメタファーであるUAPは、政治そのものだとも言えます。(写真出典:sports.yahoo.com)

2022年9月1日木曜日

流言飛語

1923年9月1日に発生した関東大震災から、100年が経とうとしています。マグニチュード7.9の巨大地震は、相模湾北部を震源とし、関東一円に大きな被害をもたらしました。マグニチュード9クラスの地震は、日本の歴史上、東日本大震災を含め、数回、発生していますが、被害規模において、関東大震災の死者10万5000人を超える災害は存在しません。世界的に見ても、10指に入る被害規模です。震源に近い神奈川、そして地盤の弱い東京下町での被害が多く、かつ死者の9割以上が焼死しています。ちょうど昼食の支度時であり、木と紙でできた民家が密集する地域に、おりからの強風が吹き付けるという最悪の条件が重なりました。なかでも、10万人ともいわれる人々が避難していた本所の陸軍被服本廠跡地を襲った火災旋風は、一瞬にして38,000人の命を奪いました。

火災の他に、建物の倒壊、津波、土石流、列車事故でも多くの人命が失われています。そして人災以外の何物でも無い朝鮮人虐殺でも、多くの人命が失われています。正確な犠牲者数は、今でも不明のままです。当時の司法省は、233名の朝鮮人、朝鮮人と間違えられた日本人58名、中国人3名が犠牲となったと報告していますが、実際には、もっと多かったのではないかとも言われています。虐殺の多くは、震災発生直後から広がったとされる流言飛語に基づき、急遽、各地で組成された自警団によって行われています。なかには、自警団が警察を襲撃して、保護されていた朝鮮人を殺したケースもあります。また、朝鮮人か否かを判断するために、語頭の濁音を発音させるなど、いわゆるシボレスも行われ、方言しか話せない日本人が誤って殺されたケースもあります。

流布した流言飛語は、朝鮮人が放火している、集団で暴行を働いている、井戸に毒を入れている、といったものでした。背景には、朝鮮半島や台湾での反日運動、シベリア出兵、あるいは国内における社会主義者の台頭といった社会不安があったと言われます。当時は、ラジオ放送開始前であり、唯一の情報源だった新聞社も震災で機能が停止しました。いわばこの世の終わりを目の当たりにした人々は、不安と思考停止に陥り、砂に水が染みこむように、流言飛語を受け入れていったのでしょう。警察は、流言飛語の発生を察知し、警戒するよう内部に指示します。ただ、これが外部に流出し、信頼すべき筋の情報として、火に油を注ぐことになりました。すべてが、自警団による虐殺というマス・ヒステリアに向かって、転がっていったわけです。

流言飛語が、自警団のなかで虐殺へとつながるプロセスは、容易に想像できます。小耳にはさんだ情報を自慢げに伝える人、権威主義的な風土のなかでの警察情報の重み、理性的な判断を押しつぶす声高で威勢のいい発言、結局、少数派になって非難されたくないという心情が働き、マス・ヒステリアが生み出されていきます。集団が常に持っている潜在的なリスクです。会社生活のなかでも、似たような光景を、幾度ととなく目にしてきました。自警団の数は、4,000を超えていたようですが、全てが朝鮮人を虐殺したわけではありません。虐殺者は、ごく一部であり、軍や警察、そして一般人も、多くの朝鮮人を保護しています。震災後、虐殺者たちは逮捕されますが、情状酌量され、不起訴処分になっています。政府は、虐殺か否かに関わらず、震災で亡くなった朝鮮人に、日本人の10倍以上の弔慰金を支給しています。

東日本大震災直後に訪れた三陸の町で、支援の網からもれた外国人労働者たちが、食料を求めて、略奪を行っているという噂を聞きました。また、別な町では、自暴自棄になった男たちが、手当たり次第にレイプを繰り返しているという噂も聞きました。事実か否かは分かりませんが、関東大震災の朝鮮人虐殺を思い出し、ゾッとしました。恐らく、似たような話は、各地にあったのでしょう。しかし、マスコミは、そうした報道をしていません。事実確認がとれなかったからだとは思いますが、一部事実が確認できたとしても、あえて報道しなかったのかもしれません。流言飛語は昔の話ではありません。むしろ、SNSの時代、その流布は、早く、広く、過激になると思われます。また、マス・ヒステリアの発生は、いつの世でも起こり得る集団の宿命とも言えます。関東大震災の教訓は、いつまでも、しっかりと伝えられるべきだと思います。(写真出典:huffingtonpost.jp)

サンティアゴ・デ・クーバ